第七話  幻を映すもの(7)                   back |  top | home




 修学旅行を終えたT高2年生たちは、その日の夕方、全員無事にT市に戻ってきた。
 遅れて合流してからというもの統馬と詩乃は、うんざりするほど根掘り葉掘り、教師たちに事情を聞かれたのだが、鷹泉孝子が警察関係者になりすまして電話をかけてきたおかげで、なんとか事なきを得た。架空の婦女誘拐組織事件をでっちあげて、教師たちを納得させてくれたのだ。
 T高で解散式を終えたあと、生徒たちはそれぞれ帰路についた。
「夜叉八将をまたひとり倒したし、とにもかくにも、思うた以上の大成果じゃ」
 草薙はリュックの紐にぶら下がって、ひとりはしゃいでいる。
「ユニヴァーサルスタジオも楽しかったのう。もっとも統馬はどのアトラクションでも寝てたから、何も見とらんじゃろうが」
 と言いながら、ちらちらとふたりを見る。統馬は夜叉から戻ったあとの極度の疲労に何度もあくびをしながら歩いている一方、詩乃は家が近づくにつれ、だんだんと表情が沈んでくる。
(無理もないのう。楽しい旅行が終わり、今から待ち受けている地獄を前にしては)
 草薙は吐息をついた。
 詩乃の家の門の前で、別れを告げようとする統馬に、詩乃はおずおずと申し出た。
「あの、統馬くん……。うちで晩御飯食べていかない?」
「え?」
「どうせ今からアパートで何日も寝てしまうんでしょ。その前に栄養のつくもの、食べておいたほうがいいと思う。あまりご馳走ではないけど、何か作るから……」
 その顔に浮かんだ切羽詰った表情に、統馬は二の句が継げずにいる。
『統馬。詩乃どのの言うとおりにしてやりなさい』
 草薙の念話も、沈鬱な響きだ。
『詩乃どのは今、ひとりになりたくない深い事情があるのじゃ』
「……わかった」
 彼は怒ったような声で答えると、玄関の階段を駆け上がった。
 鍵を開けると、家の中はしんと静まり返っている。もう何日も人ひとりいないような澱んだ空気。
「あ、先にお風呂を沸かすね」
 詩乃は旅行カバンをソファの上に置くと、ばたばたと走り回る。
「洗濯物も全部出しておいて。今すぐ洗濯して乾燥機にかけたら、帰るまでに乾くから」
「……どういうことだ。説明しろ、草薙」
 詩乃の姿が台所の奥に消えたとき、統馬は険しい顔で、カバンに張りついている草薙に詰問した。
「いったい、弓月は何におびえているんだ」
「孤独、じゃよ」
 草薙は尻尾をしおれさせて、答えた。
「修学旅行に出発する前、詩乃どののご両親が正式に離婚することが決まった」
「……んだと?」
「今、離婚調停で争っているところなのじゃ。詩乃どのの行き先についてもまったく決まっておらぬ。ふたりとも、詩乃どのを引き取ることをためらっているらしくてな」
「……」
「想像できるか、統馬。実の両親に見捨てられる娘の気持ちが。毘灑迦の妖術に惑わされる友だちの姿を見て、詩乃どのはうらやましいと言ったのじゃぞ。たとえそれが、あやかしの術と言えども、母親の胸にやすらぐ姿に憧れておったのじゃ。それでも、詩乃どのは決して妖術などに惑わされることはなかった。しかし、旅行が終わり、すべての張り詰めていたものが解けて、……詩乃どのは今、絶望に打ちひしがれる一歩手前なのじゃよ」


 くたくたに疲れているはずなのに、詩乃は楽しげに鼻歌を歌いながら、夕食の準備をした。
 それは、崩れ落ちそうになる自分へのせいいっぱいの強がり。それとも、今から統馬とふたりきりで過ごす時間がほんとうにうれしいのかもしれなかった。まるで本当の家族のように食事をし、語り合えるとき。たとえそれが、現実の前にある、仮初めの幻にしか過ぎなくても。
 浴室から、湯を浴びたばかりの統馬が出てきた。髪からしずくをたらしながら、居心地悪そうに袖をたぐっている。
「弓月。この服は……?」
「あ、ごめん。それ、お父さんのトレーナーなの。矢上くんの着てたTシャツ、汚れてたからついでに洗っちゃった。乾くまで、それを着ていてくれる?」
 そして突然、思い出し笑いをする。
「矢上くんって、……下着、トランクスなんだね。もしかして、六尺かなあって想像してたんだけど」
「あのなあ」
 統馬は真っ赤になっている。「今の日本では、六尺を手に入れるほうが難しいんだっ」
 やがて食卓の上には、短時間で作ったとは思えない、精進揚げや野菜の煮物、味噌汁などのおかずが並んだ。
 ふたりは向かい合って椅子に座る。
「いただきます」
 喉のつまりそうな、気まずい沈黙。
「矢上くん、もっと食べて。いっぱいあるよ……?」
「……いや」
「食欲、ないの? きっと疲れてるんだね」
「……」
 大人びた微笑を浮かべながら、詩乃は姉が弟に対するような調子で、あれこれと気づかう。
「ああっ。もう」
 ぼそぼそとしか答えない統馬を見かねて、草薙が口をはさんだ。
「おぬしは、せっかく食事をよばれておるというのに、もっと和やかな会話はできんのか」
「……ものを食うときは、しゃべらぬものだろう」
「がーっ。それは何百年前のしきたりじゃ。現代日本の食卓は、和気藹々の語らいで成り立っておるのじゃ。たとえば……。
『これ、おいしい』
『まあ、うれしいわ』
『何が入ってるんだ?』
『気づいた? 隠し味に山芋を擂って、入れてるのよ』
『詩乃も疲れているだろうに、こんなにご馳走を作らせてすまなかった』
『そんな……。統馬くんが喜んでくれるんだったら、いくらでも』 
……きゃははっ」
 新婚夫婦想定会話集を披露しながら、白い尻尾をぱたぱたさせて、食卓の隅でひとりで悶絶している草薙。
「ナギちゃんてば」
 詩乃はくすくすと笑った。
「矢上くんが生まれた時代は、食事のときに話してはいけなかったんだものね。しかたないよ。……そのかわり、私がしゃべるね。それならいい、統馬くん?」
「ああ」
「――あのね。私、お姉さんがいたの。事故で死んじゃったけど」
 そして、なんでもないような素振りで、ぱくぱくと茶碗のご飯を食べる。
「その記憶を、毘灑迦の金剛鈴の力で思い出したの。捕えられていたとき、映画を見るみたいに思い出してた。ほとんど忘れていた景色まで。……不思議だね」
 その笑顔が痛々しく、統馬は思わず視線を落とす。
「T市って私たちが小さい頃、まだいっぱい田んぼや畑があったんだよ。
その日は台風が通り過ぎて、ずっと降り続いていた雨もようやく止んで、学校に行った帰りだったの。
私は、小学校に上がったばかりの1年生で、お姉ちゃんは4年生。とっても頭がよくて明るくって、クラスの委員長をやってるしっかりした姉だったの。それに比べて、私は落ち着きがなくって、教室でもしょっちゅう席を立って、宿題もやっていかなくて、いつも先生に怒られてたなあ。
その日、新しいピンクの長靴をはいてるのがうれしくて、私はわざと水たまりの中に踏み込んでいた。用水路は水かさが増してて、そこから道端の雑草の茂みにまで、水があふれ出ていたんだね。
『あぶないよ』
後ろにいるお姉ちゃんがあわてたような声をかけてくれたけど、私はかまわずにどんどん水たまりをバシャバシャ歩いていたの。水たまりにはきれいな青空が映ってた。
いつのまにか声がしなくなって、振り向いたら、もうお姉ちゃんはいなかった」
 カタリと、詩乃は箸を置いた。
「姉の名前を呼んで、来た道を走って戻って、そしてそのとき、音を立てて流れる用水路の水面に一瞬だけ、お姉ちゃんがランドセルにつけていた水色のフェルトの人形が浮かんで見えた。一瞬だけ。ほんとは見間違いかもしれない。
私は恐ろしくなって、わあわあ泣きながら走って、出会った大人の人にしがみついて……」
 しばらく押し黙る。
「それから後のことは、よく覚えていないの。お葬式があった。親戚のおじさんが怒ったみたいな大声をあげてた。私はお父さんやお母さんが泣いてるのを遠くからながめてた。
あのとき、用水路に近づきすぎた私を引き戻そうと、お姉ちゃんは走った拍子に、雑草の茂みを踏み抜いてしまったのかもしれないの。雨で柔らかくなった地面が崩れたんだろうって。誰かがこそこそ話してるのを聞いた。
お葬式が終わっても、家の中は昼間から真っ暗だった。お父さんもお母さんもカーテンを開けずに、ずっとぼんやり座ってた。両親は姉のことをとても可愛がっていたから、頭が良くて自慢の娘だったから、抜け殻みたいになっちゃってた。
子どもって、親より先に死んだらダメだね。お父さんとお母さん、ほんとに辛そうだったの。どんなことがあっても、生きなきゃいけないね……」
 統馬はそれを聞いて、はっとした。
 T高校の屋上から飛び降りた高崎ミツルの家に行った帰りに、詩乃は同じことを言った。
『子どもは、親より先に死んじゃいけないんだよ。絶対に、絶対に子どもは親を悲しませちゃいけないんだよ』
 感極まったようにつぶやきながら、夜空を見上げていた詩乃の横顔。
 あれは、姉のことを思い出していたのか。
「ひとりでいると、あの水色のフェルトの人形のことが何度も目の前に出てくるの。
本当はお姉ちゃん、ピンクが一番好きな色だったの。だけど、私もピンクが好きだから、買いに行ったお店でだだをこねたの。ほんとはお姉ちゃんもピンクが欲しかったと思う。でも、私は譲らなかった。そしたら、お姉ちゃんは水色でいいよって。
なんで、あのときピンクを譲ってあげなかったんだろう。そうすれば、お姉ちゃんは死なずにすんだんじゃないかって。ごめんね、ごめんね。お姉ちゃんが死んだのは詩乃のせいだねって、ずっとずっと目に見えないお姉ちゃんに話しかけた。
それから、私は決心したの。
ピンクが欲しくても、水色で我慢する。一生、一番好きなものは我慢して二番目に好きなものを選ぶんだって。私はお姉ちゃんの代わりになる。頭がよくって、クラスの友だちからも先生からも好かれて、お父さんお母さんを安心させて、笑わせてあげられる、そんな人間になるんだって、決心したの。
でも、ダメだった。えへへ……」
 照れ隠しに、ふざけた笑い声をあげると、詩乃はあわてて立ち上がった。
「あ、乾燥機が止まったみたい。シャツ、持って来るね」
 ふかふかに洗い上がった服が詩乃の手から渡される。統馬は小さく礼を言うと、彼女に背中を向けて、着ていた借り物のトレーナーを脱いだ。
「あ、消えてる……」
 左の脇腹にあったはずの毘灑迦の種字。それはすっかり消えて、皮膚の下に透けるようにかすかに残っているのは、両肩の二文字だけだった。
「あとふたりだね。夜叉の将をふたり倒せば、矢上くんは人間に戻れる」
 その日を、いっしょに迎えることができるだろうか。私が生きているうちに、そんな日が来るのだろうか。
 そう考えると、寂しさに耐え切れなくなって、詩乃は思わず統馬の背中に手を伸ばした。
 両手の指をいっぱいに広げて両肩の種字をつかむように触れ、頬を寄せ、そしておずおずと口づける。
「統馬……くん」
 彼は微動だにしない。されるがままになっている。
 抱いてほしい。自分が誰かのものであることを証明する、くっきりと消えないような印を身体に刻んでほしい。けれど、統馬の苦悩を知っている詩乃にとって、それは到底口にすることができない願いだった。
 そのとき、がちゃんと玄関の開く音と怒鳴り声がした。
「どうして、おまえはいつも、そうなんだッ!」
「あなたこそ……」
 乱暴にリビングのドアが開け放たれると、詩乃の両親ははっと息をとめた。娘が上半身裸の男に寄り添っている。その思いもかけぬ光景に面食らったようだった。
「誰だ、おまえは」
 父親が叫んだ。「こそこそと、……ふたりで何をしてる!」
 詩乃はあわてて、弁解した。
「違うの。矢上くんは同じクラスで、修学旅行の同じ班だったの。一人暮らしで洗濯機もないから、うちで服を洗って……」
 統馬は素早くシャツを着ると、軽く黙礼する。
「真面目な子だと思っていたら、だまされたな。……母親と同じだ!」
「なんですの、それは」
 吐き捨てるように言い合う両親に、詩乃の胸はずきんと痛んだ。
「詩乃ちゃん、今からお話があるの」
 母親の冷ややかな声。
「わかっているでしょう? とても大事なお話なの」
 おまえは邪魔だという、あからさまな気配を察し、統馬は床に置いていたバッグと天叢雲の袋を引っつかんだ。
「お留守中に失礼しました。ご馳走になりました」
 怒りを抑えた低い声で両親に丁寧に挨拶すると、そのままドアに向かおうとする。
 ずきん、ずきん。詩乃の胸の痛みはますますひどくなってくる。瞼も熱くなって、けいれんを起こしそうだ。
「待って、矢上くん!」
 思わず、詩乃は叫んだ。
「お願い、ここにいて」
 統馬は振り返ると、一瞬ためらうような表情を見せたが、何も言わずにバッグをその場においた。
「お父さん、お母さん。彼にも……いっしょに話を聞いてほしいの」
「でも、詩乃ちゃん」
「わかってる。離婚調停に行って来たんでしょ。もう何も隠すことなんかない。それで、どちらがこの家に住むことになったの?」
 言いよどんだあと、父親が答えた。
「わたしのほうだ。母さんがここを出て、S市に移る」
「そう。で、私は、……どっちなの?」
 娘の鋭い詰問に、両親はしばし、たじろいだ。
「それを、今から話し合おうとしてるんだ」
「あなたの意志にまかせたほうがいいって、双方の弁護士も言ってるの」
「弁護士が……。ふうん、弁護士さんが言ってくれたんだね。お父さんとお母さんは何も言ってくれないのに」
「え……」
「意志にまかせるって、とっても便利なことばだよね。自分のところに来いなんて、真っ赤なウソでも言わなくてすむもんね!」
「詩乃どの」
 怒りの色一色になった詩乃に、ポケットに入っている草薙は心配そうに小声で呼びかける。
「だいじょうぶ、ナギちゃん、だいじょうぶだよ……」
 詩乃は大きく息を継ぐと、冷笑を浮かべて両親に対した。
「でも、もう私は決めてたの。どちらへも行かない。ひとりで暮らす」
「どういうことだ?」
「ずっと前から、内緒で少しずつお金を貯めてたの。もらった生活費を節約して。もうずいぶん貯まったよ。卒業までワンルームを借りる敷金や家賃にはなる。
……私はもう、お父さんのところにもお母さんのところにも、住まない。うれしいでしょ。ねえ、うれしい? こんなにしっかり者の娘で」
「詩乃ちゃん」
 両親は、初めて聞く詩乃のとげとげしい口調に、絶句している。
「こんなことになるんなら、うんと困らせてやればよかった。わがままばっかり言って、いつも心配させてやればよかった。そのほうが家族がバラバラになるのを止められたかもしれない。大人になった今ならそう思うよ。でも、あの頃はまだ小さくて、そんなこと思いもしなかった。
私、ずっと努力してきたんだよ。頭悪いのに一所懸命勉強して、いい成績を取って、お手伝いもいっぱいして、お父さんとお母さんを喜ばそうとしてきたよ。でも、ダメだった……。私じゃお姉ちゃんの代わりになれなかった」
 詩乃の体の奥底から、長い年月、堪え続けてきた涙が洪水のようにあふれだす。
「お父さんもお母さんも、お姉ちゃんが死んで、悲しみ過ぎて、家の中から目をそむけていた気持ち、わかるよ。仕事や不倫に逃げたくなった気持ち、よくわかるよ。
でも、私はまだ生きていたの。お姉ちゃんは死んだかもしれないけど、私はひとりぼっちで、まだ生きていたの!
私を見てほしかった。ずっとずっと、……私だけを見ていてほしかった!」
「弓月!」
 拳を握りしめて震えながら叫ぶ詩乃のもとに、統馬が駆け寄る。
「私を見て、私を見て、私を見てぇ!」
「弓月」
 彼女の両腕をつかむと、乱暴に揺さぶった。
「こんな奴らのために泣くな。こいつらには親である資格なんか、ない! 捨てろ。おまえから捨ててやれ!」
「……矢上くん」
「おまえは、俺が見てやる。一生、俺が見ていてやる」
 声を上げて泣く彼女を、統馬は力いっぱい抱きしめた。




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