第八話  うつつに惑うもの(3)                   back |  top | home




 今まで絶えず先頭を切っていた統馬が今度はいつまでも、進もうとしなかった。
 凍りついたように、入り口の門のところで立ちすくんでいる。しかたなく、龍二が村落の中に入った。門の一部を薄く剥ぎ取り、掌で確かめる。ようやく、諦めたように地面に落とす。
「本物だよ、合板じゃない。ちくしょう」
 吐き捨てるように言った。
「おい、どこかの第三セクターがこっそり、昔の矢上郷を模したテーマパークを作ってたなんてオチじゃないだろうな!」
 誰も笑わなかった。
「もしかして、また幻なのかな?」
 詩乃が震える声で問いかける。
「毘灑迦は死んだけど、ほかの誰かが金剛鈴を操って、幻の矢上郷を見せているということはないの?」
「けど、あのときの幻は、まわりの人間には見えなかったんだぞ」
 龍二は力なく反論した。
「金剛鈴が術をかけられるのは一度にひとりだけ。けど、これは違う。俺たち全員が同じものを見てる。あそこの軒先にぶらさがっている干し柿は幾つ見える? 5つだろ? 漂ってくる旨そうな匂いは? 人の話し声は? これも全部幻なのか?」
「いや。紛うことなく、これは昔の矢上郷、上屋敷じゃ」
 詩乃の掌の上で、草薙が身体を丸めた。
「草薙、わかるのか?」
「ああ、感ずる。統馬も肌でそのことは感じているはずじゃ。これは現実。幻ではない。その証拠にさっきからずっと避除(へきじょ)結界真言を唱えているが、効き目がない」
「早く村の外に引き返したほうが、よくない?」
 詩乃は恐怖に泣きそうになるのをこらえて、言った。
 これ以上進むと、とりかえしのつかないことになる。直感といえるものが、詩乃にそう告げていた。
 次にとる行動を思いあぐねて、なおも一行がその場にぐずぐずしていると、
「統馬さま!」
 向こうから村の若者がひとり、大きな柴の束を抱えてこちらに小走りに近づいてきた。
「今から山に行きなさるのか。さっきお館さまが探しておられるご様子でしたよ」
 驚きのあまり、皆ことばも出ない。
「あっちのほうにまだ、いなさるかもしれねえ。行ってみてください」
 村人はそう言って、何もいぶかしいことはないとばかりに、笑顔のまま去っていく。
「おい、おまえ!」
 龍二があわてて呼びとめたが、彼に立ち止まる気配はなかった。
「ちぇっ。俺の声が聞こえてないのか?」
 統馬はじっと、うなだれている。
「……父上が、生きている?」
 そうつぶやいたきり、止める間もなく、村の奥に向かって足早に歩き出した。
「矢上くん、引き返して!」
 詩乃は泣き声で叫んだ。
「だって、……おかしいよ、こんなの。四百年前の村があるなんて、こんなことが普通にあるわけ、ないじゃない」
「わかっていても、統馬は自分が止められないのじゃろう」
 沈鬱な面持ちで、草薙が答える。
「滅び去ったはずの村が、こうして形をとどめている。当時そのままの姿で村人が生きて、笑っておる。そして、死んだはずの父親が向こうで待っているという。それを聞いてしまっては、自分を制することができる者はおらんじゃろうて」
「追いかけよう」
 震える詩乃の肩に手を置くと、龍二がぽつりと言った。
 彼らが走っていくと、一軒の家の軒先で、統馬が立っているのが見えた。家の中の誰かとことばを交わしている気配だ。
「ははは、統馬さまったら、信野さまの前では話し方が別人みたいだよーっ」
 若い女性の声が響いてくる。
「信野?」
 詩乃はそれを聞いて、全身の力が抜けていくようだった。まるで魅入られたように、統馬の背後から厨房らしき土間を覗き込む。
 小袖姿のふたりの女性が立っていた。
 ひとりは、健康そうに日焼けした快活な笑顔の少女。
 そしてその横にいるのは、色白で背筋のすらりと伸びた、伏目がちに微笑む少女。
「あの人が、信野さん……」
 がくがくと膝が鳴るのを感じ、詩乃はとっさに龍二の腕を支えにした。
 ようやく統馬がその場から立ち去ろうとするのを見て、龍二が怒鳴った。
「統馬……おい、統馬!」
 彼は歩を止めると、大儀そうに振り返った。
「あ、ああ……」
「あれは、本当にあんたが昔生きていた時代の人間たちか?」
「そうだ……」
「何を、暢気そうにしゃべってた!」
「今のは、俺ではない」
「なんだと?」
「話していたのは俺ではない。昔の俺だ。俺はここに来てからずっと、四百年前のおのれの体に入り込んでいるらしい」
 信じられないという風に、詩乃も龍二も彼を見返すだけ。
「だから今の俺には、おまえたちが見えない。草薙も、龍二も、弓月も、声や気配は感じるが、姿は見えていない……」
「それで、村人は誰も、怪訝に思わぬのじゃな」
 草薙が得心したとばかりに、うなずく。
「統馬が現代の服装をしていることも、わたしたちがそばにいることも、この時代の人間にはまるで見えていないのじゃ」
「そうだとしたら、……これはタイムスリップだ」
 龍二がうめく。
「タイムスリップ?」
「この一帯だけが局地的に、四百年前に時を戻してしまったんだ。丘を登っているときにぐらりとあたりの景色が揺れたような気がした。たぶん、そのときに時空をまたいで来ちまったんだろう。
この時代に生きていた統馬は、うまく同調して、自分の体に入り込めた。だが、過去に物理的に存在していないはずの俺たちは、霊体としてしか、ここでは活動できない。だから見えないんだ」
「矢萩くんは、ここは正真正銘、四百年前の矢上郷だっていうの?」
「ああ。そうだと思う。そうだとしたら、あの殺人事件の説明がつく。
あの人たちも、偶然にここに来てしまった。景色の違いに気づいて、あわてて引き返そうとしたそのときに、間違って時空の裂け目に突っ込んでしまった。そして……体の一部をもぎとられたんだ」
「それじゃあ、私たちも元の世界には無事に戻れないの?」
「うかつに戻るべきではないと思う。来たときと同じ条件が、もう一度作り出せればいいんだが……」
 心配げに相談する仲間の話を聞いているのかいないのか、統馬はぎゅっと唇を結んでいたが、おもむろに何かを目指して歩き始めた。
「おい、どこへ行く?」
 答えはない。
 村の裏戸をくぐったところ、大きな柏の木の下に岩があり、そこに初老の男が腰掛けて微笑んでいた。
「統馬。たまには修行に付き合わせてくれぬか」
「誠之介。統馬の父じゃ……」
 草薙が感極まったように、つぶやいた。


 父の背中を見ながら山道を登っているあいだ、統馬はまだ幻を見ているような心地だった。借り物の身体は宙を浮くようで、いまだに自分の意志で動かしている気がしない。
 四百年前のできごとが、もう一度目の前で再現されている。そんな不条理はありえないと思い直しても、見知ったものに触れるたびに、理性はふきとんでしまう。四百年の歳月がまるでなかったかのように、自然にこの世界に馴染んでいる。
 けやき。信野。そして父。誰もが自分の記憶に残っている姿と、寸分たがわなかった。
 それでは、誠太郎もいるのか。この世界に存在し、もうすぐ矢上郷を滅ぼそうと目論んでいるのか。
 あと一ヶ月で、あの祝言の日、地獄の業火に包まれた夜が来てしまうのか。
「なつかしいな、わしも若い頃は毎日この山で修行をしておった」
 はっと顔を上げる。父は立ち止まり、のろのろと従ってくる息子が追いつくのを待っていた。
「修行だけは、一生おろそかにするでないぞ。慢心すれば、罠にかかる」
 統馬はその顔を仰いで、こみあげる熱い思いに翻弄された。
 なぜ、この父をいっときは恨んだりしたのだろう。兄だけが可愛がられていると思い込んで。
 今ならわかる。父がどんなに、いつも彼を慈しんで見つめてくれていたか。失った今だからこそ、ようやくわかる。
「矢上の歴史の中で何人もがそうして脱落してきた。一度だけ、統馬の名を持つ者までが夜叉になったことがあると聞く」
「矢上の総領が夜叉に……本当ですか?」
「夜叉追いの一生とは、夜叉の邪念を身に受け続けること。己を強く持たねば、いとも簡単に心を喰われて憑かれてしまう」
 今思えば、かつて矢上当主の名を戴いて夜叉になった者とは、誰あろう夜叉八将の長・宝賢のことだった。
 こんなにはっきりと忠告を聞いていたはずなのに、自分はこの後、夜叉に堕ちてしまった。誠太郎と信野に対する憎しみに魂を焦がしていた統馬はいともたやすく、宝賢の手によって欺かれ、毘沙門天のもとにいざなわれて、人間であることを捨ててしまったのだ。
 誠之介はふたたび立ち止まり、あたりの景色を見晴らすと、もう一度息子に頭をめぐらし、慈愛をこめた目で見た。
「心せよ、統馬。その名を継ぐということは、たとえお前ひとりになっても夜叉と戦うということぞ。
よいな。お前だけは生き残り、その血を次の世に伝えて夜叉を祓い続けるのだ」
 胸が、えぐれそうだった。
 俺は総領のつとめを捨てた。憎悪に駆られ、矢上の血を伝えつつ夜叉を祓うというつとめを永久に放棄してしまったのだ。
 狂った激情が、とめどなく体内を駆け巡る。
 もう二度と、取り戻せないのか。過ちは償うことができないのか。
 この過去の体は、過ちを正すためには動くことはないのか。
「統馬」
 驚いて、父は目を見張った。
「泣いておるのか?」
「父上……」
 ぐいと稽古着の袖で涙を拭く。
「なぜ、兄上ではなく、俺を選んだのですか。俺には統馬の名を継ぐにふさわしいだけの器量はなかったのに」
 押し殺した声を、統馬は次第に上ずらせた。
「だから、すべては間違った方向に行ってしまったのです。
今からでも遅くない。考え直してください。そして、兄上に総領の座を譲るとおっしゃってください!」
「……やはり、そのことであったか」
 誠之介は道端の木々の下生えの上に、がっくりと坐りこみ胡坐を掻いた。
「おまえに、そのような思いをさせておったのだな。……すまぬ。このことは誠太郎のためにも決して言わぬと心定めておったのだ」
 父が息子に、深々と頭を下げる。
「父上……」
「誠太郎はな、もはや霊力がない」
「え?」
「一族の中に、まれに現れるそうじゃ。小さい頃は天賦の才と言われるほどの霊力を示す。しかし、成長するにつれ力をなくし、成人の頃にはまったく普通の人間と同じになってしまう。……誠太郎もそうじゃった」
 統馬は自分の耳が信じられなかった。そんなことは一度も聞いたことがない。
 父はうなだれ、何度も生唾を飲み込んだ。
「血のにじむような鍛錬と修行によって誠太郎はひた隠しておった。誰も気づかなかったのじゃ。
偶然にもそれと知ったとき、わしは悩んだ。矢上家の当主になるということは、霊力の強い血筋を遺すこと。誠太郎には霊力がない。だが、それを公に示し、弟であるそなたに当主の座を譲るのでは、あまりに不憫じゃ。
しかし、やがて誠太郎のほうから申し出てくれた。翔次郎に統馬の名を継がせてやってくれ。その代わり、これはご神体の選びということにしておいてくれと……」
「……」
「さまざまな噂があったのは、わしも知っておる。おまえがその噂に苦しむだろうこともな。しかし、誠太郎との約束ゆえに、真実を明かすことはしなかった。まさかおまえが、それほどまでに辛い気持ちを抱えているとは、思わなんだ……」
 はらはらと、日に焼けた父の精悍な顔に涙が伝い落ちる。
 その顔をじっと見つめる統馬の目にも、呼応してまた新たな涙があふれる。
「……んだ」
「なに?」
「霊力がなんだ。そんなもののために、俺たちは憎しみ合わせられていたのか」
「……統馬」
「総領には霊力がなければならぬとか、霊力の強い血を遺さねばならぬとか、そんなしきたり、後世の者の生き方を縛って、歪めているだけじゃないか。霊力なんて、なくていい! そんなもののために滅びてしまうより、総領のもとに一族が束ねられ、力を合わせることこそ、もっとも大切なことだったんじゃないのか」
 言い捨てると、統馬はきびすを返して、山道を下り始めた。
「翔次郎のやつ」
 誠之介は呆気にとられて、その後ろ姿を見送る。
「いつのまに、親に向かってあんな偉そうなことを言えるようになりおった」
 荒々しく道の朽葉を踏みながら、統馬は叫んだ。
「草薙! どこだ!」
「ここにおる」
 真後ろに付き従う龍二と詩乃の間から、草薙が叫び返す。
「教えろ、草薙。歴史とは変えられるものなのか」
「なんと……」
「俺が以前と違った行動をすることで、誤った歴史は正されるのか?」
「待て、統馬。落ち着くんじゃ。すべてのことに、あまりにも不可思議な力が働いておる。冷静になれ!」
「変えてやる……。俺は、歴史を変えてやる」
 呪文のようにつぶやく彼の耳には、もはや草薙のことばは届いていなかった。


 

                   
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