第八話  うつつに惑うもの(5)                   back |  top | home




 統馬は、稽古着の片袖を脱ぐと、井戸の水で手ぬぐいを絞って汗を拭いた。
 もう夕刻になる。
 あれからふたたび裏山に登って日課どおり木刀を振るい、帰ってきたところだった。
「統馬さま」
 薄闇の向こうから、けやきが桶を抱えて走ってくる。
「今頃、水汲みか」
「うん」
「俺が汲んでやる。そのほうが早い」
 統馬は釣瓶を落とすと、井戸縄をぐいぐいと引き上げた。
 その横顔をじっと見ていたけやきは、つぶやいた。
「今日の統馬さま、なんだか嬉しそう」
「そうか?」
「うん、嬉しそうな顔をしてらっしゃる」
 汲み上げた水をざっと桶に空けると、言った。
「兄上とゆっくり話ができたからかな。もう久しく、そんなことはなかった」
「そうだったんだ」
「長いあいだ鬱々としていた気分が、すっかり晴れたような気がする」
「統馬さま、当主になられてからずっと恐い顔をしておられたから、みんな心配してたんだよ」
「心配?」
 統馬は苦笑した。
「あんな当主らしくない当主はいないと、さんざん陰口を言っていたくせに」
「ううん。絶対にそんなことないよ」
 けやきは強くかぶりを振った。
「昔の遊び仲間の連中が何人か、戯れにそういう馬鹿を言ったけど、それは寂しかったから。いつもいっしょに遊んでた翔次郎さまが、偉い統馬さまになっちゃったから、うかつに近寄れなくなって」
「……」
「ほんとうは、みんな統馬さまのことが好きなんです。統馬さまは、下々のことまで考えてくれる当主さまにきっとおなりになるって、年寄りも若衆も、村中みんな言っているよ」
「ああ、俺は」
 彼は桶を縁いっぱいに水で満たしながら、小さくつぶやいた。
「なぜ、悩む必要のないことで、今まで悩んでいたんだろうな」
「あ……」
 けやきが突然、叫んだ。
 振り向くと、信野が走り去っていくところが見えた。
「信野さま、こっちへ来ようとしてたのに行っちゃった」
 けやきは青ざめた顔で訴えた。
「ねえ、追いかけてさしあげて。もしかすると、統馬さまが私といたこと、誤解なさってるかもしれない」
「……別に、いい」
「よくない! だって、とっても哀しそうなお顔だったんですよ。好きな殿方が別の女といるところを見て、哀しくないはずがありません」
「信野は俺のことを、好いてなどおらん」
「何言ってるの! 信野さまが統馬さまのことをお好きでおられること、誰が見たってわかることじゃありませんか!
少なくとも、わたしには、ようくわかります。だって……」
 けやきは息を飲み込むようにして、しばし口をつぐむと、もう一度怒鳴った。
「早く、行っておあげなさいまし。そうしないと、大方さま、大声で呼ぶからね」


 しばらく、母屋の中を捜し歩いていたが、とうとう大広間の奥の襖の前で手を合わせている彼女を見つけた。それは矢上家代々のご神体である天叢雲が祀ってある場所だった。
「信野」
 薄桃色の唇が当惑したように開いたが、そのまま彼女は顔を伏せてしまった。
「何を祈っていた」
「ご神体さまがわたくしをお守りくださいますように、と祈っておりました」
 統馬はあれこれと迷っていたが、ついに意を決して、彼女の傍らに座した。
「信野」
「はい」
 彼女は感情を抑えた目で、統馬をじっと見返す。
「今度の祝言は、おまえが望んでいたことではないのだろう。おまえがずっと兄上のことを見ていたのを、俺は知っている」
 そしてためらった挙句、一気に言い放った。
「だが、俺はおまえのことを、子どもの頃から好いていた」
「え?」
「おまえの気持ちがどうであれ、俺はおまえと添うことを望んでいる。もし、おまえさえよければ、俺はおまえのことを生涯、大切にしたい。だが、もしおまえが望まなければ、この祝言はなかったことにする。
どちらでもいい。信野が決めてくれ」
 信野の大きな目から、ぽろりと涙が零れ落ちた。
「統馬……さま」
「返事は今でなくていい」
「いえ、……いいえ!」
 彼女は何度もいやいやをするように、首を振った。
「わたくしも、わたくしのほうこそ……ずっと統馬さまのことを……お慕いしておりました」
 その瞬間、統馬の背中に風が吹きつけた。
 思わず振り返ってあたりを見渡すほどに、その風は強く、唐突で、そしてうつろな音がした。


 詩乃、龍二、そして草薙は草むらの上に叩きつけられて、少しの間立ち上がれなかった。
「戻ってきたのか。現代に……」
 ようやく身を起こしたとき、そこには矢上郷の上屋敷村はどこにもなく、一面の枯れかけた草の上に飄々と風が吹くばかりだった。
 龍二が腕時計を見て、信じられないようにつぶやいた。
「さっきからほとんど時間が経ってないぞ。あれは本当のことだったのか」
「ああ」
 草薙はしょんぼりと項垂れたままだ。
「矢上くんは、どこなの」
 詩乃がふいにあたりを見回す。「統馬くんは?」
「統馬はおらん。戻ってきたのは、わたしたちだけじゃ」
「どうして……」
「歴史が変わったのじゃ」
 草薙がのろのろと答えた。
「統馬が兄と和解し、信野と互いの気持ちを交わしたとき、矢上郷が滅びるという未来が変わった。そして、それとは異なる未来に生きる我らは、あの世界からはじきとばされたのじゃ」
「俺たちの住む世界とは、次元が違ってしまったわけか……。パラレルワールドってやつだ」
「じゃあ、矢上くんは……」
「あの世界で、今までのことをすべて忘れて生きることになろう」
「そんな話ってあるか!」
 龍二は、拳を地面に叩きつけた。
「すべてを忘れて生きるだって? この世界の夜叉八将を全部倒すことが、あいつの使命だったんじゃないのか。自分のことばかり考えやがって! なんだと思ってるんだ、俺たちを! 詩乃ちゃんの気持ちを!」
「彼奴を責めないでやってくれ」
 草薙が力なく弁護する。
「統馬はずっと長いあいだ苦しんできたんじゃ。父や母を、村を、一族を守れなかったことを、矢上の総領としてずっと悔いてきた。過去の過ちを償うことができて、有頂天になってしまった気持ち、どうかわかってやってほしい」
「それにしたって、あいつは……、詩乃ちゃんの目の前で別の女と……」
「矢萩くん、もういいよ」
 詩乃は微笑みながら、立ち上がった。
「あれでよかったんだよ。だって、あんな子どもみたいに嬉しそうな統馬くん、はじめて見た。今までの悲しいこと、全部忘れられたんだね」
「いいのか、詩乃ちゃんは、それで……」
「統馬くんが幸せになれるのなら、それでいい」
 服についていた枯れ草を払いながら、晴れ上がった空をふと見上げる。
「だって私たち、ほんとうは会っていなかったの。統馬くんは、うちの高校に転校してこなかった。私は統馬くんに夜叉を祓ってもらったりしなかった。
燃える校舎の中で夜叉と戦ったこともなかったし、学園祭で学校中を走り回ったこともなかった。修学旅行で、捕まっている私を助けに来てくれたことも……」
 とうとう堪えきれなくなって、詩乃はふたたび地面に伏し、すすり泣いた。
「でも、でも……。私にとっては、統馬くんと会ったことは嘘じゃない。私、忘れたりしない。絶対に、忘れたりしない……!」
「くっそう」
 どう慰めていいかわからず、ぎりぎりと歯を噛んでいる龍二に、
「龍二よ」
 草薙は、決意を秘めた声で話しかけた。
「わたしをもう一度、さっきの空間に向かって放り投げてほしい」
「え、なんだって?」
「統馬を連れ戻しに行って来る。わたしの霊力を糸のように伸ばしておる。その糸を伝って、無理矢理に時空のはざまをこじ開けてでも、先ほどのところに戻ってみせる。人間なら身体がちぎれてしまおうが、鋼でできているわたしならば、可能じゃ」
「統馬を、連れ戻せるのか」
「やってみないとわからぬ。あの世界は、幻ではなく、間違いなくひとつの現(うつつ)の世界。しかし、御仏以外の誰かの手によって創られた世界じゃ。統馬がそのことを自ら悟り、元の世界に戻ろうと心定めれば、戒めは解けよう。
しかし、彼奴自身があの世界で生きることを望めば、……わたしにできることは、ない」
「……」
「いずれにせよ、わたしは必ずここに戻ってくる。それまで、詩乃どのにはおまえがついていてくれ」
「わかったよ。行ってこい」
 龍二は草薙を拾い上げると、その指図に従って、ぽんと草むらの上に放り投げた。
 たちまち空間は歪み、白狐の姿は見えなくなった。
「詩乃ちゃん」
 龍二は、なお泣きじゃくっている詩乃に近づくと、その腕を取り、そっと立たせた。
「草薙が帰るまで、いったん車のところに戻っていよう」


 まるで丈の長い草をかきわけて、あてのない道を歩いているみたい。
 統馬がいなくなってしまった。その空虚さに、詩乃の心は形をなくしたようだ。
 それなのに、身体の奥だけがしんしんと痛む。
 決して、見たくなかった。統馬が信野と見つめ合い、笑みを交わしているところなんて。
 こんな気持ちを抱えて、これからどうやって生きていけばいいんだろう。


 何を今さら傷ついているの。一番大切なものはあきらめて、二番目で我慢する。そう決めたのは自分だったはず。
 悲しみに打ちひしがれそうなら、その悲しみと一緒に、すべてを忘れてしまえばいい。
 罪の呵責に苦しむ統馬が、何もなかったことにしてしまったように。
 すべては心のままに。
 おのれの望むとおりに、現実は形を変える。


「詩乃ちゃん、何してるんだ」
 詩乃は意識を取り戻した。
 一本道をとぼとぼと歩いている自分を、先に進む青年が笑いながら振り返っている。
「日が暮れちまうぞ。早く歩かないと」
「え?」
「うちのおふくろ、東京から女の子が来るっていうんで、朝からはりきってご馳走作ってるんだぜ」
「あ……」
 なおも呆然としている詩乃に、いぶかしげな表情を浮かべて、彼は数歩戻ってきた。
「まさか、俺のうちに来るの、急にイヤになったって言うんじゃないよな?」
「あ、あなたの家に……?」
 詩乃は混乱して、あたりを見回した。夕暮れの茜に染まる木々や、まっすぐ伸びる埃だらけの田舎道。見覚えはない。
「ここは、どこ?」
「だいじょうぶかよ、詩乃ちゃん」
 彼は顔色を変えて、詩乃の両肩を軽く揺さぶった。
「俺は矢萩龍二。あんたは弓月詩乃。俺たち半年前に東京で知り合って、付き合い始めたんだぜ」
「私たち、付き合ってた……」
「今度の週末を利用して、俺の田舎に遊びに来てくれたんだろ? おおい、忘れちまったのか。頭でも打ったんじゃないだろうな?」
 地面が崩れていきそうだ。何もわからない。覚えていない。
 誰かのことを心から好きだった。ずっとその人のことを考えていた。それが目の前の彼なの?
「ごめん、気分が悪い……」
「もうすぐ車を停めてあるところに着くから、しっかりしてくれよ」
 ふらふらと寄りかかる詩乃を抱きとめながら、龍二は弱り果て、助けを求めるように目を上げた。
 道の向こうから、子どものように小柄なひとりの老人が歩いてくる。白く長いあごひげ。背は曲がり、杖をついているが、首からは紐につないだ小さな光る円鏡をぶら下げ、目には、その輝きにも負けぬ鋭い眼光が宿っていた。
 老人は、ふたりに近づくと話しかけた。
「お連れは、具合が悪いようじゃな」
「ああ、弱ったよ」
「その向こうに、今は誰も使ってない納屋がある。そこでしばらく休ませてあげてはどうじゃ」
 曲がって皺だらけの指が示した先に、さっきまでは確かになかったはずの古ぼけた木の小屋が建っている。
「ああ、それは助かる。そうしよう」
 龍二はうっすらと笑みながら、うなだれている詩乃を強く抱きしめた。
 


                     
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