第九話  死を紡ぐもの(3)                   back |  top | home




 全身を黄金のオーラに包まれ、指先や髪の毛からキラキラと光の屑をこぼしながら、詩乃は目を閉じたまま言った。
「オン・マカシリ・エイ・ソワカ」
 その唇から紡がれる真言の霊力は、天叢雲の刀身を伝わり、半遮羅の手の甲から全身に吸い込まれていく。命の波動が石と化した彼の全身を駆け巡り、暖かい奔流となって、死にかけていた細胞のすみずみまでも蘇らせた。
 半遮羅は瞼を押し開くと、目の前の光の少女を不思議そうに見る。
 そして、そのすぐ後ろ、虚空の中に現れた虹色の光源を見上げた。そこにかすかに揺らめく人影は、常人に見えるものではない。薄絹の唐衣をつけた、まばゆいばかりの美貌の天女。
『半遮羅。そなたには、辛く苦しい思いをさせてしまいましたね。わたくしたちのせいで』
「吉祥天……」
『詩乃を支えていてください。たった今、その身体から悪しき夜叉の刻印をすべて拭い去り、浄化しました。まもなく意識を取り戻すでしょう』
 周囲を取り囲んでいた諸魔どもも、暁とともにかき消すようにいなくなった。行く手を阻んでいた透明な壁が突然消えたことに気づいた久下は、つんのめるようにして納屋の中に入ってきた。草薙を拾い上げ、まぶしげに目を細めて、空を見上げる。
「吉祥天さま」
 つぶやいて、床に膝を折った。「……とうとうまた、お会いできました」
『慈恵。そなたにも礼を言います。極楽浄土に行くこともならず、何代にもわたって転生させ、戦いの中にその身を置かせてしまって』
「いいえ……いいえ! わたしの望んだことですから」
「吉祥天女。毘沙門天のご妻女が、夜叉八将の戦いの陰におわしたとは……」
 久下のかたわらで、草薙も深々とひれ伏した。
『草薙。わたくしは、なんとしてでも夫を止めたかったのです』
 天女は、さびしげに微笑んだ。
『四天王の一とまで言われた毘沙門天が、天に叛き、途方もない憎しみに心囚われてしまいました。
民衆を守る軍神として夫が見てきたのは、親兄弟同胞で果てしなく争い合い、自らの手で貧困と憎しみを生み出し続ける愚かな人間の姿でした。人の世の有様に深く憤った毘沙門天が、そのために心定めたこと、それは、地上に絶えず戦と混乱を起こし、未来永劫人々を苦しめ続けること。
夫は他の四天王に捕らえられ、あとはそなたたちもよく知っているとおり――、牢獄の中で己の力を八つに分け、夜叉八将に与えました。
その中のひとり、半遮羅が自らの過ちを悟り、天界を出奔するとき、私は頼みました。いつか時来たらば、夜叉の将たちの業をくじき、夫をその終わりのない憤怒から救ってくれるようにと』
「だが俺のしたことは、ふたたび神仏を恨み、仏法に背くことだった……」
 おのれを責めてつぶやく半遮羅に、秀眉の天女は微笑んで、首を振った。
『いいえ、そなたは毘沙門天と同じ灼熱の憎しみの中にいながら、みずから悟ってくれました』


【結局、己(おれ)の怒りの正体とは、人の世を滅ぼしてやまないほどの憤りの正体とは、何もできぬ自分への怒りだったのだ――】


『それは、夫が須彌山の牢獄の中で、千年間巡らしている思いと呼応したことばだったのでしょう。わたくしは毘沙門天の妻として、彼がおかした過ちを少しでも償い、それゆえに苦しむ民を幾ばくかでも救いたいと、御仏の前に念じてきました。
それなのに、詩乃のことは本当にすまないと思っています。わたくしの力の及ぶかぎり守ろうと思っていたのに、こんな目にあわせてしまって』
 草薙は、そのとき気づいて、あっと叫んだ。
「それでは、吉祥天さま。詩乃どのが知るはずのない真言の奥義を唱え、霊力を日々増していたのは、あなたさまのご加護があったればこそ」
『わたくしは、ずっとこの子を見てきたのですよ』
 そのとき半遮羅の腕の中で、詩乃はうっすらと目を開いた。
「あ……、あなたは」
 夢から半分覚めたばかりの子どものような、無邪気な声を上げる。
「ときどき、私のそばにいてくれた人。……あの台風の次の日、水溜りに写っていた人ですね」
『そうですよ。詩乃。わたくしは、あのとき初めてそなたに会いました。
川に落ちようとしている姉上のことを助けたかったのですが、人の生き死には天の定め。わたくしごときに、その定めが変えられるはずもありません』
「そうだったんですか」
『姉上はわたくしの懐から、すでに次の世へ旅立って行かれました。
そのときに、伝えてほしいと。「意地悪ばっかりしてごめんね。本当は、いちばんピンクが似合うのは詩乃ちゃんだったよ」と――』
「おねえちゃん……」
 詩乃の目にあふれる涙に、朝露のような煌めきが宿る。
『詩乃、そなたがそれから辿った人生を、わたくしはずっと見てきたのです。ご両親の不和に泣いていたときも、友だちのいない孤独にうめいていたときも、わたくしはそばにいました。どんなに耐えがたい不幸と見えることも、御仏によって備えられた道であること、今のそなたならわかるはずです』
「はい」
『そなたの口に、先ほど新たな言葉を授けました。これをもって半遮羅を、……統馬をこれからも助けてやってください』
 詩乃はもう一度瞳をすっと閉じると、はっきりした声で、吉祥天に帰依する真言を唱えた。
『それでよい。ですが』
 吉祥天は、今度は夜叉の将に眼差しを注いだ。
『半遮羅には、まだすることがあります。そなたにとって一番辛いこと。しかし、どうしても成し遂げなければならぬことなのです』


 俺は今まで、何をしてきたのだろう。
 臼井と通じ、敵の軍勢を矢上郷に引き入れた俺は、結局裏切り者と疎まれた挙句、刺客に斬られた。
 恨みだけを糧に、長い時間をかけておのれの魂を夜叉に変貌させたとき、弟はすでに俺より先に天界で毘沙門天の将にのしあがっていた。
 それまで何の努力もせず、すべてを俺に押しつけて生きてきたくせに、なぜ、俺はあいつに負ける。なぜ、人々は俺よりも、あいつに笑顔を向ける。
 俺はあいつの無為と奔放さが心底うらやましかった。
 いったい、俺は弟に何が劣っていた。憎悪か、憎悪ならここにたっぷりある。執着か、怨念か。それもある。
 俺は、一番優れた者でいなければならなかったはずなのに。俺の存在はいつも、劣った他人の上にあったはずなのに。
 なぜ、俺は霊力を失った。なぜ、父は俺の前で泣いた。なぜ、信野は俺でなくて、あいつを見ていた。
 なぜ、俺はこんなところで滅びなければならないのだ。


 圧しつぶされるような暗黒の中で、誰かが誠太郎の手を握った。
「兄上」
 喉の奥から搾り出す、震えた声。
「たったふたりの兄弟なのに、俺たちは幼い頃から互いの心を打ち明け合ったことがなかったな。
できるならば、むつまじく笑い合って毎日を送りたかった。それなのに、俺たちはどこで間違ってしまったのだろう。いったいどうすれば正しい道を選べたのだろう」
 「赦す」と言いたい。だが、簡単に言えるはずもない。おそらく、恨み凝り固まった長年の宿敵にかけることのできる、せいいっぱいの和解のことば。
「さっき、魔鏡の作り出した偽りの世界で、兄上も龍二の身体の中から見ていたはずだ。あんなふうに毎日を送れて、……俺は本心から幸せだったよ」
 それを聞いたとき誠太郎の胸に、こみあげるものがあった。
 やめろ。おためごかしを言うな。今頃になって俺の憎しみを消すな。俺を恨んで、罵倒しろ。
 おまえを憎むのでなければ、俺がこんな姿になってまで生きてきた理由はなんだったんだ。
「いつかもし、次の世で会うことがあれば、今度こそ兄上と……」
「馬鹿を言う……な。誰が……、おまえ……など……」
 それが、永年憎み合ってきた兄弟の交わした、最期のことばだった。
 天叢雲によって誠太郎の霊は粉々に砕かれ、異なる世界に吸い込まれていった。


 半遮羅は、調伏された誠太郎がこの世に遺した想いをすべて身に引き受けた。
 あまりにも孤独な日々。あまりにも憎悪に満ちた生涯。互いへの疎ましさも、炎のごとき妬みも。そして、魂が下界から離れる最後の一瞬に抱いた、呪われた人生への悔い。
 背負いきれない。だが、それをあえて背負うことが、御仏が彼に課した永劫の罰なのだろう。
 調伏とは、赦すこと。敵を赦すことは、自分を赦すこと。
 真言の結語を唱え、ふらふらと立ち上がる。いつのまにか人間の姿に戻っていた。彼が自分のなすべきことをなし終えた瞬間、詩乃が吉祥天から授かった真言が、新しい、より強力な封印の役目を果たしたのだ。
 目を開いたとき、久下が龍二の身体に屈みこんでいた。そのぼろきれのような上着の内ポケットから、割れて粉々になった一枚の鏡がころがり出た。
「生きています。だが、ひどい怪我だ。早く病院に運んで、手当てしないと」
「……頼む」
 そう言って詩乃の方を振り返ると、彼女は草薙と抱き合い、泣き笑っている。普通の女性なら笑うこともできないほど悲惨な目に会ったと言うのに。
 安堵して大きな吐息をつくと、統馬は小屋の残骸の中から外に出た。
 早朝の冷気がこころよい。空は、羽衣の裾さながらの透きとおった光に彩られている。その輝きの照り映える中に、一団となって立つ者たちがいた。
『統馬よ――』
「父上」
 驚愕して走り寄ろうとするが、すぐに彼らがこの世の存在ではないことを気づく。
『おまえに会えるのを、ずっとここで、みなで待っておったのじゃ。統馬、よくやってくれたな』
『永いあいだ、悲しい思いをさせましたね。誠太郎とおまえのことを、親である私たちが思いやってやれず……』
 誠之介も冴も、目に涙をいっぱいためて、微笑んでいる。
「父上、母上、俺は……」
 統馬は地面にがっくりと膝をついた。
「すまない。俺は矢上の総領の務めを、とうとう果たせなかった」
『統馬、後ろを振り向くな。おのれを責めるな。自分を責めても何も生まれはせぬ。しかし、おまえが顔を上げている限りいつか、おのずと道は拓ける。
矢上郷が滅びたことは、誰かの落ち度ではない。我ら一族の運命。御仏の許された人の定めなのじゃ』
 両親や村人たちの霊は、真珠さながらの光の海に浮かんで、安らいでいた。
『だが、おまえはまだ生きておる。今一度、やり直すことができる。統馬よ。あきらめてはならぬ』
「……はい」
『統馬さま、がんばれ』
「けやき」
『わたしたち、遊び仲間みんなで統馬さまのこと見張ってるからね。怠けたら、化けて出るからね』
「ああ、……わかったよ」
『統馬さま』
 ひとり真っ白な着物を着て、一同から少し離れたところに立つ少女の姿。
「信野――。おまえも皆といっしょに?」
『いいえ、わたくしは自らの命を絶って大きな罪を犯しましたゆえ。浄土とは別のところに行かねばなりませぬ』
 彼女は伏していた目を上げて、さびしげに微笑んだ。
 痛みに突かれた統馬は、塵の上に両手を置いた。
「すまぬ、信野。おまえが罰せられることはなにもないのに。兄弟の争いの中に、何も知らぬおまえを巻き込んでしまった。俺たちはふたりして、おまえの心をもてあそんだ」
『いいえ、あれはすべて、わたくしのあさはかさが起こしたこと。統馬さまと誠太郎さまの間で迷いながら、二心を隠していた外道の女なのです。あなたさまを裏切った、恨まれて当然の者なのに、もったいないお言葉をかけてくださって、かたじけのうございます。今、私の積年の想いは報われました』
 行く手を見晴るかすような彼女のまなざしは、すべての惑いから解き放たれた清らかさに満ちていた。
『でもわたくし、これからは誠太郎さまにお従いして参りたいと願っています。先の見えぬ暗闇の中での、あさましき道行きではございますが、誠太郎さまとともに力を合わせて、おかした過ちを償えればと……。そして、いつか皆さまのあとを追いかけることができればと存じます』
「そうか」
『では、おいとまいたします』
「信野。……俺は……」
 彼女はわかっているというように、首を振って続きを言わせなかった。
『統馬さま。詩乃さまを大切になさってください』
 銀の葉裏がひるがえるようにキラキラと、懐かしく愛しい者たちは少しずつその姿を消していった。
『統馬。これからの矢上家を――頼むぞ』
 彼らの霊が完全に消えてしまったあと、統馬は長いあいだ瞑目して座していたが、やがて立ち上がった。
 壊れた屋根から、明るい日差しが小屋の中にまでふり注ぎ、茣蓙の上に座す詩乃を照らし出している。着ているものを破られた無残な姿でありながら、その可憐さは神々しいまでだった。
「矢上くん」
 彼を見上げて屈託なく笑うその顔を見たとたん、統馬は迷いも虚勢も、すべてをかなぐり捨てた。
 彼女の膝の上にいた白狐を、抗議の声もろとも後ろに放り投げると、両腕で彼女を抱きしめた。
「詩乃」
「と……統馬くん」
「もうおまえを離さない。誰にも渡さない」
 ますますきつく背中を抱き、肩に顎を埋める。
「たとえ今生で結ばれなくても、来世まで追いかけていく。いいな、詩乃」
「うん」
「俺は執念深いぞ。覚悟しておけ」
「……うん」
 ふたりはいつしか夢中で唇を重ねていた。はじめから一つのものが、今ようやく出会ったというように。
       


                   
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