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CLOSE TO YOU
3rd chapter


              (1)

人が生きて動いている気配。
死んだものに囲まれて暮らしてた俺にとって、
それはなんと心地よい音だろう。



彩音さいおん、起きてる?」
 カーテンがめくれて、壁に開いた穴から琴音ことねさんが顔を出す。
「うん」
 俺は壁に上半身を預け、足をだらんと投げ出したいつもの恰好で、煙草をふかしていた。
「また吸ってる!」
「ちゃんと一日二本の約束守ってるし」
 だから、このところ俺の一日は、三時間周期でめぐってくる。
「徹夜したのね。そんなので今日、学校行けるの?」
「行けない。琴音さんと一秒だって離れられない」
 うるんだ上目づかいの俺に、彼女は口の動きだけで「バーカ」と返した。
「私も会社。すぐに朝ごはんの支度するから、さっさとシャワー浴びて服着て」
 琴音さんの顔が仕切りの向こうに消えると、台所の水音が聞こえてきた。
 炊飯器の蓋が、パカッと開く音。ざくざくとネギを刻む音。
 鍋の味噌汁をお玉でかきまぜる音。何かを炒める音。湯気にだって音がある。
 俺は壁にもたれながら、そんな音をじっと聞いている。
 部屋の中央の画架イーゼルにかかっているのは、真っ白なキャンバス。


 とうとう俺は、ゆうべも一晩じゅう、絵筆を握れなかった。
 描こうと努力はするのだ。そして実際、けっこういい気分で描けることもある。
 だが次の日になると、俺は描きかけの絵を、古いパレットナイフでびりびりに引き裂いてしまう。朝の光というのは、どうして人間を悲観的にするんだろう。いや、真実が人を悲観的にするのかもしれない。
 真実とは、俺の絵は駄作以外の何物でもないということ。
 父親が描いていた真っ黒な絵なら、何枚でも描ける。でも描く気は絶対にない。
 あの暗闇に戻るくらいなら、もう一生絵なんか描けなくていい。
 琴音さんの鼻歌が聞こえ始めた。朝ごはんがもうすぐできる合図だ。そろそろ支度しなきゃマズいな。
 それでも俺は動かない。背中から伝わってくる音が心地よすぎるから。
 人が生きて動いている気配。死んだものに囲まれて暮らしていた俺にとって、それはなんと心地よい音だろう。


 味噌汁と海苔とめざしとご飯。これは人間の食べるものと分類する。
「あっ。また納豆残した」
「こっちは、人間の食べ物じゃないと分類した」
「好き嫌いしてると、大きくなれないわよ」
「こんなに、こーんなに伸びてるのに?」
 俺は椅子から立ち上がって、皿を洗っている琴音さんを見降ろした。
 彼女のむくれた顔が、二十センチ下にある。俺は屈みこんで耳にささやいた。
「今からヤりたい」
「冗談じゃない。会社に遅れちゃう」
 彼女の悲鳴もおかまいなしに、後ろから胸を抱きしめ、耳たぶをきゅっと噛み、それからうなじにキスする。弱点の徹底攻撃。
 三十分後。
 彼女はスーツを着て、完璧に化粧を整え、8時14分の電車に間に合うように悠々と出て行った。女ってすげえ。
 ふらふらしながら制服の上着を羽織ると、俺も駅へと急いだ。
 なんとか遅刻ギリギリの電車に乗り込み、思わず大きな吐息をつく。
「まいったなあ。一円も金入れないのに、メシ食わしてもらって、朝からヤって、これじゃ俺、完全にヒモじゃん」
 じとっとする視線に気づいて車内を見渡すと、乗客が一斉に俺から顔をそむけた。どうやら全部聞こえていたらしい。
 正門に着いたときは本鈴が鳴り終わるところだった。三階の一番奥が芸術コースだ。
 廊下には誰もいない。今さら急ぐ必要もないのでゆっくり歩いていると、教室の中から好奇の視線を感じた。
 去年までは一学年下だった同級生たち。俺のことを遠巻きにして話しかけてもこない。
 無理もないか。光穂にキスした上級生をめちゃめちゃに殴って補導されてから、みんな俺のことを、いつ暴れだすかわからない狂犬ぐらいに思っている。
 別に楽しい高校生活を期待してるわけじゃない。俺が休まずに登校しているのは、琴音さんのためだ。毎朝俺を起こして、必死に世話を焼いてくれる彼女を悲しませたくないだけだ。
 朝のホームルームが終わったらしく、廊下に出てきた担任の青木と俺は、ドアの前でぶつかりそうになった。
 こいつはうるさい奴だが、さほど嫌いじゃない。俺が不登校のとき、毎週マンションまで訪ねてきたっけ。
「サンカク(遅刻)じゃない。マル(出席)だ」
 俺が念を押すと、青木はめんどくさそうに出席簿を開いて、ちびた鉛筆で書き直した。
「なあ。俺、今年は卒業できる?」
「この調子で行けば、ぎりぎりだな」
 担任はしかめ面で、閉じた黒表紙をぽんぽんと叩いた。俺の出席日数はかろうじてセーフ。筆記テストの点数と言ったら、自慢じゃないが、ひとけたを超えたことはない。
「それより、久世。進路はどうするんだ」
「どうするって」
「美大には行かないのか。一次の出願は来週だぞ」
「なんで、そんなとこにまで行く必要があるんだ」
 俺はうんざりして、顔をそむけた。「俺、たぶん大学の教授より、ずっと絵うまいし」
「そりゃそうだろうが」
 教師は、口の中でもごもご言った。「じゃあ、進路は就職にしとくぞ」
「先生」
 俺は、真顔で訊ねた。「どうすれば、一番手っ取り早く金稼げる?」
「は?」


 就職か。
 学校からの帰り道の駅前通り、店の扉に張ってある求人の紙を眺めて歩いた。
(仕事をさがして働くか。このままじゃ、まさにヒモだもんなあ)
 貯めた金も底を尽き、もうすぐ家賃も払えなくなる。このままだと、琴音さんの部屋にころがりこんで、食わせてもらうしか手はない。
 今までずっと、父親の贋作を描いて生計を立ててきた。絵は描きあがったそばから、すぐに運ばれていった。
 俺は絵の行き先なんて、別にどうでもよかった。奴らは毎月金を入れてくれ、キャンバスも絵の具も全部、用意してくれる。何も考えずに絵を描ける。関心があるのはそれだけだった。
 自分では模倣ではなく自分の絵を描いているつもりだったけど、それでもできた絵は全部、久世俊之の絵だと専門家からも認定され、法外な値段で売られた。
 「久世彩音」の名では二束三文の値打ちしかない絵が、父親の名がついただけで、数百万円で売れていく。この世の中の仕組みなんて、そんなものだ。
 俺は琴音さんの勧めにしたがって、警察に行き、全部を話した。
 絵を売りさばいていたブローカーたちは逮捕されたが、俺自身は複雑な家庭環境や、暴力で脅されていたことも斟酌されて、書類送検だけで不起訴になった。
 あの頃は、本当にいろんなことがあった。嵐の中で毎日、どうしていいかわからない子どもみたいに呆然と突っ立っていた俺を、琴音さんが身を挺して守ってくれた。
 「贋作画家」というレッテルを貼られてしまった俺の絵は、二度と売れないだろう。
 でも、それでいい。俺の中の何かが、もう金のために描くのはいやだと叫んだのだ。誰のためにでもなく自分のために、好きなものを描きたいと。
 なのに、あれから何ヶ月経っても、何も描けない。
 風景画も試した。生物も抽象も。でも、どれもダメだった。
 自分が何を描きたいのか、さっぱりわからない。
 家に帰り、ひとりで悶々と膝をかかえているうちに、夕闇が濃くなり始めた。
(腹減ったなあ)
 どんなに深い悩みに耽っているときでも、俺の食欲と性欲はとどまることを知らない。我ながらたいしたもんだと思う。
「ただいま」
 琴音さんが俺の部屋との仕切りを上げて、顔をのぞかせた。
「遅くなってごめん。今日は寒いから、お鍋にしようか」
「うう、鍋ってことばを聞いただけで、胃が激しく抗議してるよ」
「わかった、わかった。なるべく早くね」
 彼女は笑いながら、部屋に戻ろうとした。
 そのとき偶然に、カーテンの布がはらりと髪にかかった。目を伏せて微笑む横顔が一瞬、ヴェールを被った聖母マリアの彫像とだぶった。
 俺の頭の中で、超新星が爆発した。今まで腹でとぐろを巻いていた空腹感もふっとばす勢いで。
「琴音さん。待って」
「え?」
「なんで気づかなかったんだろう。俺、琴音さんが描きたい」
「ち、ちょっと、何。いきなり」
「いいから、服脱いで。ここに座って」
 俺はサテンの白い布を引っぱり出し、くしゃくしゃにして床に置いた。
「待って。先に夕食の……」
「今すぐだ!」
 破壊的なほど熱い衝動がマグマのように駆け上がる。そのときの俺の剣幕は、きっと常軌を逸していただろう。
 気圧された彼女は、黙って服を脱ぎ捨てた。
 乱暴に琴音さんの腕を握り、座らせてポーズをつけた。床に広がる白い布の端を取って、頭に被せた。
 聖なる喜びなのか下劣な欲情なのか判別できないもので、みぞおちをたぎらせながら、俺はスタンドのライトの角度を調節した。
「窓のほうを向いて。顎は上げて、視線は1メートル離れた床――もう少し向こう」
 矢継ぎ早に指示を出しながら、ひたすら木炭を動かし始める。
 十分も経たないうちに絵筆に持ち替えた。
 部屋の中は暖房も入っていなかった。琴音さんは寒さに耐えながら、俺の命じたポーズを取り続けている。
 野獣が獲物を噛みちぎる獰猛さで、俺は何時間もキャンバスに挑みかかっていた。
 暖色のライトにさらされた彼女の肌は、なめらかな光を放っている。あたかも、身体の内側から放たれる光のよう。
 肩から乳房の丸みを帯びた線。ゆるく結ばれた唇。長い睫毛が、瞬きのたびに震える。その縁取りの下で半開きの黒い瞳がうっとりと、どこかを見つめている。
 今、何を考えているんだろう。
 俺は、琴音さんのことを何も知らない。どんな少女時代を送ってきたのか。家族はどんな人たちか。今どんな仕事をしているのか。昔の男とどんなセックスをしたのか。
 すべてを知りたい。目の前の美しい女神の心も体も、奥底まで、隅々まで。
 この人を俺だけのものにしたい。キャンバスの檻の中に、誰にも触れられない世界に、永遠に閉じ込めたい。
 絵筆が俺の手からすべり落ちた。
「彩音?」
 彼女は強張った体を動かして俺を見た。
「描けない……」
 いったい何の意味があるんだ、こんなことをしたって。所詮、ひとりの人間をキャンバスに閉じ込めることなんて、できやしないのに。
 俺は、こんなことをしたいんじゃない。生きている琴音さんに俺のすべてを満たしてほしい。どんな巧く描いても、絵の中の彼女は、俺に微笑まない。抱きしめてくれない。
「こんなもの!」
 俺は子どものようにわめきながら、今描いていたキャンバスにパレットごと絵の具をぶちまけた。
「彩音!」
 琴音さんは驚いて駆け寄り、俺は彼女の腕に崩れこんだ。


 そのとき、ようやく気づいた。
 俺が今まで絵に求めていた魂の充足は、とっくに消えていたことに。
 たったひとつ、俺の持っている才能。この世に存在する価値。
 なのに、生身の女性を愛したときから、もう俺に絵を描く力はなくなっていたんだ。






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