(7) 「行きましょう、彩音」 高く澄んだ声で、彼女は言った。「絶対に離れない。そばにいる」 ああ、なんてすごい魔法のことばなんだろう――『そばにいる』。 「琴音さん。結婚しよう」 「却下」 ベッドでの会話は、いつもたいてい、こんな具合に終わる。 「なんでだよ。俺もう合法的に結婚できる年だし」 「問題はそこじゃないの。彩音が30になったとき私が40だってことなの」 てきぱきと服を着始めた彼女の答えも、判で押したように決まっている。 「なにそれ。そういうシュミレーション、必要?」 「もちろん必要よ。あなたは40の中年女を抱きたいと思う?」 「そのときは、俺だってオジンじゃん。さすがに30になったら、一日三回はヤれねえし」 「は……あはは」 琴音さんは笑い出し、最後に大きなため息をふうとついた。 「それに私、もうこりごりなの」 消え入るような声で付け加える。 「結婚って大変。いつのまにか自分たちの問題じゃなくなって、誰のための結婚なのかわからなくなる。あんな思いをするくらいなら、ずっとこのままでいい」 「けど――」 結局俺も、そこで口をつぐんでしまった。 琴音さんの気持はわからないでもない。式直前に自分のほうから一方的に破談にした形になった彼女は、今でも実家と絶縁状態だ。 そのうえ今度は十歳年下のニートと結婚すると報告しようものなら、どんな罵声を浴びせられるか想像がつく。結婚ということばに拒否反応を示してしまうのも無理からぬことだ。 たかが『婚姻届』という紙切れ一枚、昔の俺なら固執したりしなかった。けれど、署名しない絵は自分のものと呼べないことを、絵描きのはしくれとして痛いほど学んだ。 自分の人生にも琴音さんの人生にも、きちんと銘を入れたい。これは、彼女をさんざん苦しめて泣かせた男としての、けじめだ。 だから、いやがる琴音さんをその気にさせるために、いろいろと工夫もした。えっちの後の蕩けるような余韻の中でプロポーズしたら、つい「イエス」と言っちまうんじゃないか、とか。 この頃はさすがに、数年がかりの長期戦を覚悟し始めてる。 あれ以来、俺は光をテーマにした連作を描いている。相変わらずの毎日だけど、光のモチーフを捜すために、生活はすっかり昼型になった。 駅前のフラワーショップにも通うようになった。店長に花のことをいろいろ教えてもらうためだ。 こないだは、小さなサイズの花の絵を一枚描いて、ハルカちゃん母娘にプレゼントした。前にあげたのは風雨にさらされていたし、署名もなかったから、どうしても新品の絵で感謝の気持を伝えたかった。 俺たちは、ときどき公園で待ち合わせして、いっしょに過ごしたりする。 ハルカちゃんは遊具や他の子どもにはほとんど興味を示さず、木の葉を拾ったり、ただじっと地面を見たり。母親は言葉のない娘に話しかけながら、辛抱強くそばで見守る。 俺はベンチに座り、スケッチの鉛筆を走らせる。 いつか、この光景も絵にしたいと思っている。俺が永遠に失ってしまった、母と子の穏やかな暮らしを。 昼下がりの九十九里浜の空は、明るいホリゾン・ブルー一色で塗りつぶせる。 俺は父親が入っている療養所に、月に一度は行くことにしていた。別に会いたいわけじゃないけど、これさえしなくなったら俺は完全に血のつながりを絶たれた人間になってしまう。 ここを訪れた後は、いつも精神的にどん底に落ち込むのが常だった。今は大丈夫。隣に最強の味方がいるから。 ミッション系の療養所は、広い敷地の中に病棟とグループホームが併設されている。父親は少し前から病棟を出て、ホームのほうで暮らし始めた。このごろは世話役の助けを受けながら、掃除や料理まで分担しているらしい。 芝生の上に揺り椅子を持ち出して日向ぼっこしている父に、俺はゆっくりと近づいた。 いつかまっすぐ俺を見て笑いかけてくれるのではないかと期待して来るのだが、視線が合うことはあまりない。自分の罪から逃げ続けている奴が、母親似の俺を息子と認める日など来るのだろうか。 俺は手に持っていた布袋から、一枚のキャンバスを取り出した。 海と空と、光の環をくぐり抜けて群れ飛ぶ海鳥たち。 「ここから見える海岸を思い出しながら描いた。どう思う?」 無駄だとわかっていながら、問いかけた。 俺にとって父親は、画家としていまだに超えられない壁だ。このまま超えられずに終わってしまうわけにはいかないんだ。 『駄作だ』 ひとこと罵倒してくれたら、俺はたぶん死ぬまで絵をやめない。久世俊之の鼻を明かすまで描き続けてやるのに。 じわりと涙がにじんできて、あわてて空を見るふりをした。少し離れたところに琴音さんが心配そうに立っている。 ふたたび視線を落として、驚いた。父親が俺の絵を見つめている、じっと何秒間も。俺の知る限り、こんなことは初めてだ。 しかも、それは画家の持つ目だった。キャンバスの奥まで探り究めるような目だった。 やがて飽きたのか、ぷいとそっぽを向く。 「やっぱ、気に入らないのか」 俺の声は、情けないくらい震えていた。 「いいよ。次に持ってくる絵で、絶対にあんたをうならせてやる」 陽射しが夏から秋に色褪せる季節、琴音さんは俺に付き合うために、遅い夏休みをとってくれた。 民宿を二泊予約し、小旅行に出かける。行き先は俺の故郷、栃木県。 相変わらず、人間よりもイノシシの数のほうが多いような田舎だ。陽炎の立つ真っ直ぐな道を歩いていても、誰にも会わない。 「すごい自然だね」 「誉めるところは、そこしかないな」 一軒の古い屋敷が見えてきた。瓦が崩れかけた門をくぐると、庭は鬱蒼と茂った雑草に覆われていた。そういえば、おととし母親の命日に来たきりだった。 離れはぴったりと雨戸が締め切ったままになっている。 見覚えのある灯籠に手をかけて、呼吸を整えた。ここまで来て、俺は何を怖気づいてるんだ? ぬるんだ風が吹いてきて、さわさわと雑草を揺らした。 「だめだよ」 ついに降参の息を吐く。「やっぱりだめだ」 琴音さんは何も言わずに、俺の肩を抱いた。 と思ったら、とんと背中を押した。びっくりして振り向くと、唇をキッと引き結んだ顔があった。 「行きましょう、彩音」 高く澄んだ声で、彼女は言った。「絶対に離れない。そばにいる」 ああ、なんてすごい魔法のことばなんだろう――『そばにいる』。 俺は覚悟を決めてうなずき、玄関を入った。 婆さまは数年前から寝たきりになって、弟の娘だかという人の世話になっている。 このクソ暑いのに、分厚い布団の下から俺を見て、あの粘っこい目でギロリと睨んだ。昔俺と初めて会ったときの、同じ目だ。 俺は一生かかっても、この婆さまと仲良くなれそうもない。 暗い廊下を渡り、離れに向かった。 父親のアトリエに立ち入る者は、もう誰もいない。 ひどいカビの匂い。古い家のあちこちの隙間から漏れ入る光で、かろうじて部屋の様子がわかる程度だ。 雑然と積み上げた本とスケッチブック。かちこちに干からびた絵の具瓶。キャンバスやトルソーが、白い埃の堆積の下で、昭和紀の化石になりかかっている。 「雨戸開ける?」 「ううん」 首を振った。「この部屋のものを動かすことは、婆さまが絶対に許さない。あれでも、息子を溺愛してるんだ。離れを取り壊そうという話もあったんだけど、すごい剣幕で、とうとう誰にも触らせなかった」 「親って、すごいね」 感慨をこめて呟いた琴音さんは、絶縁中の自分の親のことを思い出していたのかもしれない。いったい俺たちはいくつになれば、親の人生と自分の人生を切り離して生きられるのかな。 机の上の鉛筆を指先で転がすと、埃の下にくっきりと茶色の木目が現われた。 「彩音、ここ」 琴音さんが、屋根裏への階段に手をかけて、上を見上げている。「行ってみる?」 「うん」 心もとない足取りで、狭い階段を彼女の後について登った。 昔は屋根までが高かったのに、今は、膝を少し曲げなければ立てない。 子どものころ、俺はほとんどの時間をここで過ごし、本を読み、美術全集の模写に耽っていた。 「こんなに明るかったんだ……」 屋根板の隙間から日光が射し込み、埃を透かしてたゆたっている。俺の覚えている限り、ここは暗かったはずだ。本当はこれだけの光に包まれていたなんて。 俺の記憶の中から、闇がまたひとつ消えた。 「琴音さん」 愛する人の手を取り、ぎゅっと握った。「こっち、来て」 階段を降り、アトリエの奥の襖をがらりと開けた。 六畳ほどの和室。 琴音さんが物問いたげに、俺を見た。 「ここ、母親が殺されたところ」 一本調子の声で、答えた。 当時の惨劇を思わせるものは、もう何もない。血を吸った畳は全部取り替えられた。箪笥は運び出され、壁も厚く塗られた。 それなのになお、ここに漂っているのは憎悪の残滓と死の臭気だ。 「琴音さん、お願い。そこに立って」 指差した畳の上で、父親は馬乗りになって母親に包丁を振り下ろしていた。 自分がめちゃくちゃなことを言っているのは、わかっている。人が無惨に殺された現場に誰が立ちたいと思うだろう。 だが、琴音さんはすべてを承知の上で、言うとおりにしてくれた。 部屋の中央の畳をストッキングを履いた足できゅっと踏みしめると、まっすぐに俺を見つめた。俺も瞬きもせずに、見つめ返した。 頭の中で、過去と現在がオーバーラップしてぐるぐる回っている。 「彩音」 「ん」 「あなたを愛している」 「ん」 モノクロの亡霊が、ノイズの向こうに消えていく。 汗まみれの拳をゆっくりとほどいたら、俺の前で琴音さんだけが微笑んでいた。 その日は民宿に泊まり、夜が明けるのを待ちかねて外に出た。 地面を覆っていた淡いもやが次第に晴れ、朝日が木の梢をくすぐり始める。 都会では五年もすれば、あたりの風景は変わってしまうのに、ここには、俺が子どものころ駆け回っていた野山がそっくり残っていた。 せせらぎに誘われて谷を下り、川の畔に腰をおろした。 持参のスケッチブックを広げる。 水面では光が破片となって砕け、生き物のように絶えず飛び跳ねていた。俺は何枚ものスケッチをすごい勢いで描き散らかした。 ここには描きたかった風景がある。足しげく通うことになったら、琴音さんは何て言うかな。この静けさと気だるさは、都会育ちには居心地悪いかもしれない。 民宿代を浮かせるために、あのぼろ家に泊めてもらうか。婆さまに明日、饅頭でも持って頼みに行こう。 琴音さんが水と戯れている後姿を見ているうちに、ひとつの構図が頭に浮かんできた。 指先から雫をこぼし、地上を潤している天使。背中に生えた光の翼が空へと溶けこんでいく。 秋になると、ニューヨークの美術館から、俺がトリエンナーレの参加者四十人のひとりに選ばれたことを知らせる招待状が届いた。 年が押し迫ったころ、スズキ美術の若林が飛び込んできた。 トリエンナーレ特選の内定通知を手に握りしめ、感極まって大声で泣き始めた。若造りは服装だけかと思っていたら、ハートまで熱いヤツだ。 彼が帰ったあと、琴音さんはお盆を胸に抱きかかえて、しみじみとつぶやいた。 「彩音、あなたには、人に愛される才能があるのね」 「ほんとかよ」 「だって、たくさんの人があなたのために懸命に動いてくれて、泣いたり笑ったりしてくれるんだもの。それってすごいことだと思う」 「どうでもいい。俺は琴音さんさえ愛してくれたら、それで」 彼女のたっぷりしたセーターの裾からもぐりこもうとして、お盆で頭をはたかれた。 しかたなくキャンバスに向き直る。 受賞を記念して国内で個展を開こうと、若林が俄然、張り切り出したのだ。 「俺の前科じゃ、会場を借りることも不可能だと思うけどなあ」 「若林さんなら、きっと不可能を可能にしてくれるわよ」 もし個展を開くとしたら、今まで描きためただけでは足りないそうだ。大小取り混ぜて、最低二十枚は必要らしい。 そのときは、今制作中のこの『光の天使』をメインにしようと思っている。琴音さんがモデルの絵を、会場で一番目立つ最高の場所に飾りたい。 これが完成する日、俺はもう一度プロポーズする。断るだろうけど、今度は断らせない。 そして個展の初日には、琴音さんの両親を招待する。もちろん、担任の青木も、ハルカちゃん母娘も、フラワーショップの店長さんも。 父親を呼ぶとしたら、会場まで介護の付き添いを頼めるだろうか。 「それより、琴音さん。授賞式のときは、ニューヨークついてきてくれるよな?」 「冗談言わないで。四月の年度初めに一週間も休めると思う?」 「俺、アメリカなんか行けねえよ。ひとりで飛行機に乗ったことすらないのに」 「英語とフランス語をしゃべれたら、世界中どこでも行けます」 非情に言い捨てると、琴音さんはさっさと壁の穴からあちら側に戻っていった。 「ずっとそばにいるって約束したくせに。嘘つき!」 俺たちは相変わらず、穴でつながった隣同士に住んでいる。 マンションの管理会社とはすったもんだあったものの、補強工事をするという条件で、穴はこのまま残してもらえることになった。 絵の道具を置く広いスペースの必要な俺は、アトリエとしてこちらの部屋を使っている。琴音さんが「ごはんよ」と呼んだら、のそのそと壁の向こうへ行く毎日。多少の不便は感じるものの、この距離感がけっこう気に入っている。 相手のすべてを所有するのが愛情だと思っていた。相手を縛りつけ、依存し、離れようとすれば嫉妬に狂う。だけど、両親の不幸な結婚が教えてくれたように、結局それは愛ではない。 お互いが自分の足で立っていること。歩いていけること。 そばにいるって、そういうことだと思う。 絵筆を動かしているうちに、俺はすべてを忘れた。丹念に色を塗り重ねるにつれて、またひとつ世界が生まれ、キャンバスの揺籃で育まれる。 かすかな足音。すぐそばで、琴音さんの気配がする。 光が、柔らかく俺を包んでいる。 第三章 了 NEXT | TOP | HOME Copyright (c) 2002-2009 BUTAPENN. |