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Episode 15
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§1 過去から手紙が来た。 9月も終わろうとする秋晴れの土曜日のこと、ディーターの運転する車で、葺石家の一週間分の食糧を買い込んで戻ってきた私は、実家の古めかしい門のサビた赤い郵便受けから、郵便の束を取り出した。 その中に一通、目を引く茶封筒。 市役所か税務署から送られてくるようなその封筒は、住所欄だけ透明フィルムになっていて、その宛名は、子どもの拙い字でこう書いてあった。 「ふき石 円香 さま」 不思議に思って開封すると、中にもう一通の白い封筒が入っていた。その宛名が透けて見えていたわけだ。 差出人は……。裏返すと、 「ふき石 円香より」 私は、10歳の私から手紙を受け取ったのだ。 とりあえず買ってきた物を家に運び込み、冷蔵庫に入れるのももどかしく、居間の和机の前にぺたりと座り、茶封筒を念入りに眺めまわした。 表に、ある財団の名前が印刷されている。 中には、白い封筒といっしょに1枚の紙切れ。 「二十歳の自分に送る手紙」、とあった。 それによると、その財団の目的は、小学校4年生の子供たちから20歳になった自分への手紙を募集し、それを10年間保管してから、成人の日(昔は毎年1月15日だった)に発送するというものだという。 実際には成人の日までまだ3ヶ月あるし、私とて20歳になっていない。 フライングの理由は、震災以後、住所が変わった子どもたちが多く、期限までに届ける困難さのゆえだろう。 10年前の1992年、4年生の私は、小学校を通じて手紙を送ったらしいのだ。 自分がそんな応募をしたことなど、全く記憶にない。完全に忘れている。 傍らからいぶかしげに覗きこんできたディーターに、そのことを説明した。 ともかく、開けてみたら。 彼の勧めに従って、私は白い封筒を開けてみることにした。 なんとなく、こそばゆい。少しこわい気もする。 中から出てきたのは、財団が配布したらしい1枚の便箋。 「20さいの円香へ。 やっほー。元気ですか。わたしも元気だよ。 「こりのよんき」に行くのをわすれるなよーっ。 10さいの円香より」 私はしばらく言葉がでなかった。 何回も読み返した挙句、ディーターに便箋を渡した。 「えーと……」 困った顔をして、彼は私を見た。 「これ、何かの暗号かな?」 私はぶるぶると懸命に首を横に振った。「ぜんっぜん、思い出せない」 「『こりのよんき』って、日本語?」 「とてもそうは聞こえへん」 何度読んでも、私には「こりのよんき」の心当たりがない。 10年後の自分に忘れるなというぐらいだから、きっと大切なことに違いないのだ。 なのに忘れてしまっている。 小学校4年生といえば、幼稚園じゃあるまいし、そんな突飛なことを考えていたわけでもないだろうに。 第一、自分の苗字くらい、漢字で書け。4年生の私。 これじゃ、今小学生の国語の教科書を使って読み書きの練習をしている、外国人の旦那にだって負けてる。 「師範と藤江さんに聞いてみようよ。そのこと覚えてるかもしれない」 「あっ。ま、待ってよ」 ディーターは便箋をひらひらさせて、かまわず廊下をとっとと行ってしまう。 明らかにおもしろがっていると見た。 祖父の部屋でお茶を飲んでいたわが血族は、彼に輪をかけて性悪に、このことを笑いのネタにしてしまった。 「なんや、自分で書いたことを忘れてしもたんか。ええかげんやな」 「そんなこと言うたかて、忘れたもんは、忘れたんや。おじいちゃん、何か心当たりあらへん?」 「行くって言うとるんやから、どこかの場所の名前やろ。遊園地とか」 「そんな名前の遊園地、どこにあんの」 「それにしても、なんや、このきちゃない字。男の子の殴り書きみたいな、ひっどい字やなあ」 「円香は、小さい頃から男の子とよく間違われとったからなあ」 「えっ。うそうそ! このときはまだ、髪伸ばしとったで。髪切ったんは、お父さんがドイツに行ってから。それまでは、おしとやかやったんや」 「そうかなあ。小学校の頃のあんたがスカートはいてるん、わたし見たことないわ。いっつも近所のガキどもと、そこらじゅう走り回っとったやない」 「そうそう。庭の池に入って鯉つかみどりして熱出したり、神社の木に登って転げ落ちて、柔道接骨院のお世話になったりしとったな」 ガーン。そ、そんなこと、はるか彼方の記憶の海の底に沈んでいた。 私は今まで、父の渡欧をきっかけに、自分がたくましく変わったと思い込んでいたし、回りにもそう自己申告してきたのだ。が、どうもそうではなかったらしい。 恐る恐るディーターの顔色を伺うと、悪戯っぽい目で笑い返してきた。 え、まずい。もしかして、詐欺だと思われてる? 「あ、そうや。恒輝くんに聞いたらええの違う? あんたがあの頃よう遊んでたの、あの子やろ」 とどめとばかり、藤江伯母さんがそう言い放った。 「なんや。それ。二十歳の自分に手紙って」 「あんたやったら、去年の今ごろ受け取ってない? 4年生が毎年学校で全員書かされたはずなんやけど」 「ああ、そう言えば、なんかうっすら覚えとるわ。そんなん、俺が出すわけないやろ。宿題かてまともに出したことないのに」 なんでもバイトが休みになったとかで、恒輝は土曜日の今日も、律儀に稽古に顔を出した。 瑠璃子と真剣に付き合い出してからは、女の子とも遊ばないで、まじめな禁欲生活を送っているらしい。 うちでただ飯を食らっては、瑠璃子のいる東京へ行く資金をせっせと貯めているわけだ。 「それにしても、何やこの手紙は。もう少し将来の夢とか、誓いとか、書くもんやろ。ガサツなおまえらしいわ」 「書きもせんかったあんたにだけは、言われとうないわ」 「『こりのよんき』か……。ほんまに何やろな」 恒輝は、ぽんぽんと竹刀で自分の肩を叩きながら、考え込んだ。 「あかん。思いつかん」 「そうやろな……」 「俺らの記憶って、震災前と震災後で、すっぱり切れてしもてんの違うかな。俺だけかもしれんけど」 「あ、それ言えてる。私も震災前のことが、幕がかかったみたいに思い出されへん」 「あの頃、俺らの遊んだところって、広田神社の境内とか、上が原の池の周りとか、夙川グリーンタウンのガチャガチャとか、そんなもんやったんと思うな」 「ふうん。そう言えばそうかあ……」 恒輝との会話にも、これといった収穫はなかった。 思い出せなくてもどうということはない、些細なことなのかもしれない。 10歳の私には大切なことだったのだろうけど。 それでも、思い出せないというのは悔しい。 マンションに帰ってもすっきりしない様子の私に、ディーターはパソコンで全てのサーチエンジンを使って、「こりのよんき」を検索してくれた。もちろん結果は目に見えている。 「そうだ。お父さんに、メールで聞いてみようか?」 「ああ。その手があったか。悪い。お願い」 彼は、日本語でケルンにいる父にメールを送った。 数分後、返事が来た。 「何やて?」 「『ディーターへ。 おまえは、円香におちょくられてるだけや。 そんなことにいちいち神経つかうな。 主治医より』 ……と、おっしゃってます」 「なんやーっ。この言いぐさはっ! 悩んでる娘に向かって、おちょくってるなんて、よくも言えるな!」 ぷんすか怒っている私を、後ろからぎゅっと抱き寄せると、彼は耳元で囁いた。 「明日、歩いてみよう。10歳の円香が遊んでたところ、全部」 私たちは、主日ミサのあと、夙川カトリック教会をスタートして、思いつくところを片っ端から回っていった。 夙川駅前。夙川沿いの桜並木。私の通った小学校と隣の中学校。満池谷の広い貯水池と公園。 みたらし川沿いに歩いて、広田神社。満池谷墓地の中を巡って、また夙川沿いまで。 苦楽園駅前のローゲンマイヤーで買ったパンをかじりながら、私たちは川そばの木のベンチに腰掛けて、くたくたになった足を投げ出した。 頭上の桜の木の葉をさわさわと揺らす涼風が、残暑とも言える陽気を和らげてくれる。 考えてみれば、ふたりでこんなのんびりした時間を過ごすのは久しぶりのような気がする。 先週一週間、彼がドイツに帰国していて、私たちは離れ離れだった。 その前も、夏の間じゅう、私たちは、というよりディーターは、殺人的なスケジュールで動いていた。 期限を切られて仕上げなければならないプログラムが2本あった上に、太秦の撮影所に行く回数は、春ごろから飛躍的に多くなっていた。 その原因は、女子高生である。 以前から、鹿島さんの追っかけファンは20代から30代の女性を中心に根強いものがあったのだけれど、映画村を観光に来た修学旅行の女生徒たちが、公開ロケで殺陣の仕事をしていたディーターに目をつけたものと見える。 彼女らの口コミは抜群の威力があった。 それに気をよくした広報の人が、鹿島さんとディーターの撮影スケジュールをホームページで公開してしまった。 あとは、腹がたつのであまり言いたくはない。私は若い女の子にキャーキャー騒がれる素敵な旦那さまを持ったと諦めるしかないのかもしれない。 へたをすると、顔を合わせるのはベッドの中だけ(太秦に泊まりの日はそれさえもない)という毎日だったが、それも彼の病気がほとんど影を潜めた証拠だと思う。 頭痛も神経症的な不安感もこのところ感じていないようだ。 もちろん油断はしていない。 人間関係が複雑になればなるほど、あつれきの危険性もまた大きくなる。 つい自分を酷使してしまう彼の性癖は、妻の私が一番承知していなければならない。 でも、彼が日本で、家以外に自分の居場所を得たことは、彼の治療に決してマイナスではないと思っている。 「ああ。このあたりも変わってしもたなあ。昔のこと思い出されんはずや」 へたをすると、そのまま昼寝モードに入ってしまいそうな水辺のほとりの静けさを振り払うように、私はわざと大げさに伸びをした。 本当に、震災はこのあたりの地図を塗り替えてしまった。 私の通っていた小学校は校舎が半壊して建て直された。 このあたりでは当たり前だった瓦ぶきの屋根もすっかりなくなった。 公園も道路も、よく行った近所のお菓子や文房具を売る店も、人の入れ替わりとともに姿を変えてしまった。 恒輝の言う通り、阪神大震災の前と後をすっかり分けて考えなければ保てないものが、子どもの私たちにはあったのかもしれない。ちょうど第2次世界大戦を境に、戦前・戦後と呼び習わして、体制の変化を受け入れなければならなかった、祖父母の時代のように。 「10年前って私、毎日何考えてたんやろう。ディーターが子どもの頃のこと思い出されへんの、無理ないと思う。今の生活とあまりに違いすぎるもん」 ディーターは、今も15歳までの子どもの頃のことを断片的にしか思い出せていない。叔父に虐待された日々、内戦の中で殺し合った日々を完全に思い出すことを、彼の中の一部がとどめているのだ。 それらをすべて思い出したとき、彼の人格も完全に統合されるのだという。 でも、その日が来たとき、私たちはそれに耐え得るだろうか。 私は心に巣食う不安をふりはらって、隣のディーターを見た。 10年前、国も人種も信仰も、何の接点も共通項もなかった私たち。それが今こうして夫婦として暮らしている。それがどんなに人知を超えた不思議なことか、忘れてはいけないと思った。 「その頃って、円香のお母さんは生きてた?」 「ああ。そない言うとそやね。その頃はまだおった」 母は、4年生の春休みに交通事故で亡くなった。例の手紙を書いた3ヶ月後のこと。 母の思い出は、しっかりと色や匂いまで残っている。 ふんわりといい香りをさせていた。 いつもよく大きな声で笑っていた。 自宅開業している父の専属の看護婦として、薄桃色の割ぽう着を着て、廊下をぱたぱたと走っていた。 父に会いたくなくても母に会いたかったと言って、診療に来ていた患者さんもいた。 「お父さんが新米のレジデントやったときに、ベテラン看護婦のお母さんと病院で知り合うたんやて。 ある日、お父さんがうっかりして薬の処方を一桁多くカルテに書いてしまった。お母さんはいきなりお父さんの胸倉つかんで、『あほかーっ!』って、しばき倒したんだよ」 父は、その次の日、プロポーズしたと言っていた。その2ヶ月後にゴールイン。 父は心底、母に惚れてたんだと思う。今でもケルンでいろいろ浮名を流しているらしいが、それでも母以外の人との再婚だけは、一生しないはずだ。 「円香が元気なのは、お母さんの遺伝だったんだ」 「ついでに、器用さとか気配りとかの遺伝子も遺してほしかったなあ」 私はため息をついた。 「この手紙のことも、お母さんに聞けたら、きっと何かわかったかもしれへんけど」 「鹿島さんは? もうそのときは、入門してたんじゃなかったっけ」 「あっ。そうや!」 私は素っ頓狂な声を上げて、立ちあがった。 「『こりのよんき』って、もしかすると、京都のことかもしれへん」 |
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