「ムッティ!」 聖(ひじり)の元気な声がひびいて、少しすると予想通り、お尻のあたりに軽い衝撃。 「赤ちゃんがびっくりするよ」 私は、洗いあがったお皿をかごに入れると、聖に向き直っておなかを触らせてあげる。 いつもの日課。 「ボクの妹」 うっとりと目を細めながら、聖はていねいにおなかをなでてくれる。 「そうよ。聖はお兄ちゃん」 「もうすぐ、出てくるの?」 「そうね、あと50回くらいねんねしたら」 「ようちえんのお昼寝もかぞえる?」 「それは数えない」 聖はしゃべっているあいだも、片時も休まずぴょんぴょん跳ねている。下の階に住んでいるのが共働きのご夫婦だからいいようなものの、夜はこれでも結構、騒音に気をつかう。 携帯が鳴った。 「なんや、お父さんか」 「悪かったな、俺で。……聖は?」 「幼稚園は今日から春休み」 「なら、こっちへ来い。ディーターがおらへんから、退屈してるやろ」 「ええのん、患者さんは? 相変わらず、ヒマなクリニックやなあ」 「俺は、1日ふたりしか診察しない主義やって言ってるやろ」 「おじーちゃん! 遊ぼ!」 横から聖が叫ぶ。 「ひっくん」 父の声は、もう情けないほどメロメロだ。「きょうは、何して遊ぼか?」 「剣道せえへん?」 聖は父と話すときは、とたんに関西弁になっている。 ディーターとふたりのときはドイツ語。私がいるときは日本語。 マンションにいるときは標準語で、葺石の実家に帰ったときは関西弁。 小さな頭の中をのぞいてみたくなってしまうほど、見事に使い分けている。 「じゃ、今から行くから。またぎっくり腰にならんように、ほどほどにしてよ」 聖から返って来た携帯にそれだけ言って切ると、ため息をついた。 本当は、仕事が休みの今日こそ徹底的に家の掃除をしたかったけど、ま、しゃあないか。親孝行、おじいちゃん孝行。 マンションを出ると、まだ春用の薄着では少し寒いくらいだった。 夙川べりの桜も、つぼみは固い。 「ムッティ。ファティはもうすぐ帰ってくる?」 「そうねえ。あと10おねんねしたら」 この会話も、1日3回は繰り返す日課だ。 ディーターは二ヶ月前から、鹿島さんといっしょにアメリカに行っている。 ハリウッド。 リック・テン、レスリー・テン夫婦の共同監督作品による本格時代劇が、ハリウッドで撮影されているのだ。 時代は幕末。アメリカの捕鯨船が土佐沖で難破する。海岸に漂着した乗組員のひとりのアメリカ青年の目を通して、激動の時代の日本を描くという、冒険活劇だ。 鹿島さんは、土佐藩を脱藩する前の坂本竜馬の役を演じる。 そして、ディーターは殺陣とアクションの監修を、鹿島さんとともに務める。 レスリーは本当は、ディーターを主役に抜擢したがっていたのだが、彼はそれだけは頑なに固辞した。彼らはとても残念がっていたけれど。 テロリストの過去のある彼がアメリカ行きのビザを取るために、レスリーはじめ多くの映画界の人たちが東奔西走してくれた。その友情を私たちは決して忘れないだろう。 「聖は、ファティがいなくて、ムッティとふたりだけだと寂しい?」 「さびしくないよ。でも……」 彼はむずかしい顔をして考え込んでいる。 「寂しくないけど、寂しいんだよね。ムッティもだよ」 「ムッティも?」 「ファティのこと、大好きだから」 それを聞くと、満面の笑顔になる。 「ボクも同じ」 聖は、ほんとうにディーターのことが大好きなのだ。 私が大学院で2年間、心理学を勉強しているあいだも、彼が聖のめんどうをずっと見てくれていた。 臨床心理士の資格をとって働き始めてやっと1年、慣れない職場で疲れているときも、患者さんの悩みを背負い込んで、自分まで精神状態が不安定になってしまったときも、父や祖父、藤江伯母さんとともに、ディーターがどれだけ支えになってくれたことか。 人間は強くなくても、ぼろぼろになっても、生きているだけでいいのだということを、彼は自分の身をもって知り尽くしている。 彼と巡り会わなければ、私はきっと今みたいに自分を信じて前に進むことを知らなかった。 私は、東の空を見上げた。その方向にいるはずのディーターを想った。 今佳境に入っているという映画冒頭のクライマックス、捕鯨船の難破シーンの撮影が終われば、高知県と太秦スタジオでの日本ロケが始まる。もうすぐ会えるのだ。 「ムッティ」 つないでいる聖の熱い手が、ぶんぶん私の手を振り回す。 「ボク、ファティとふたりだけのナイショがあるんだ」 「なあに。内緒って」 「ヒミツ」 言いたくてたまらない気持ちが全身からあふれている。 「ほかの人には絶対しゃべらないって約束したんだもん」 「ムッティは「ほかの人」なの? 悲しいなあ」 私は、道の隅でしゃがみこんで、むくれたように聖の顔を下からのぞきこむ。 「ファティとムッティと聖は愛し合ってるんだよ。だから内緒はないの」 「あのね」 ほっとしたらしく、聖はきつく結んだ口をほどいた。 「ファティはこないだ、泣いちゃったんだよ」 「え?」 「おうちで、ボクの顔を長いあいだ見て、それで、目から涙がいっぱい出たの」 私は不安な気持ちを隠しながら、わざとのんびりと尋ねた。 「ファティ、おなかでも痛かったのかなあ?」 「ううん。ちがうって。悲しいんじゃなくて、うれしいんだって」 聖は思い出そうとするように、茶色の瞳をじっと空に向かってこらした。 「ファティは、ボクと同じ5歳のとき、ファティとムッティが死んじゃったんだって。そして毎日、とってもとっても悲しかったんだって。 だから、ボクにはちゃんとファティとムッティがいて、もうすぐ妹も生まれて、おじいちゃんも惣吉おじいちゃんもいて、えっとえっと、藤江おばさんや師範もいて、毎日楽しいのを見てると、すごくうれしいって」 「……」 「ボクが楽しいのを見てると、昔の悲しいのが消えていくんだって。だから、うれしくって涙がでるんだって」 そして、びっくりしたように叫んだ。 「ムッティ、泣いてるの?」 私は、聖の話を聞きながら、涙があふれて、思わず顔を両手でおおっていた。 ディーターの気持ちがわかりすぎるほどわかったから。 5歳のときに両親を失い、それ以来、心がばらばらに壊れるほどの苦しみをなめてきた。 聖が生まれてからも、自分が受けた虐待を子どもに与えてしまうのではないかと、ずっと恐れていたほどに。 でも、彼は聖に自分を重ね合わせて、その痛みから癒されていたのだと思う。 きっとディーターは、聖といっしょに自分の人生をやり直していると感じたのだろう。 「ムッティ」 「だいじょうぶよ、聖。ファティの言うとおり。人間はうれしくても泣いちゃうのよ」 心配そうに見つめている聖のほっぺたを、ぷにっとつつく。 「ファティには、今あったことは内緒」 「ナイショはいけないんじゃないの?」 「ムッティだけはいいの」 立ち上がって、もう一度手をつなぐ。 「さあ、行こう。おじいちゃんが玄関まで出てきて、待ちくたびれてるかもしれないよ」 私たちは葺石家までのだらだら坂をゆっくり下った。 「ファティにはやく会いたいね」 「うん」 歩きながら空を見上げると、なんだかふたりでずっと、あの空をどこまでも歩いているような気がした。 55555ヒットのキリバンを取ってくださったNaoさんのリクエスト、「聖がすこし大きくなった頃の円香とディーター」ということでした。ありがとうございました。 |