カーテンから射し込む日光を瞼の裏に感じ、
（わあっ、遅刻だあ）
とあわてて飛び起きようとし、今日は土曜日だと思い出したときの、地獄から天国に舞い上がった心地。
ふたたび枕に頭を戻して、しばし幸せにひたる。
この春で就職二年目に突入しようとしている私は、相変わらず何もかも余裕のない、綱渡りの毎日を送っている。
「人間、忙しいうちが花や」
お祖父ちゃんの口ぐせ。わしみたいに毎日が日曜日やと、休日のありがたさがわからんようになるで、と。
今しみじみと感じております。二度寝できるありがたさを。
じっと仰向いていると、すぐ隣からディーターの温（ぬく）みと呼吸の音が伝わってくる。
ふたりで朝を迎えられること。何がうれしいと言って、これほどうれしいことはない。あと数日でその喜びも、しばらくお預けになってしまうけど。
夢と現を往復しているうちに、こめかみをさらっと撫でられたのに気づいた。
「おはよう」
「ん……おはよ」
目を瞑ったまま答える。私のお腹を圧迫しないように気をつけて重なり合い、朝のキス。
（うー、今朝はユーウェンが七割ってところかな）
その理由は、キスが少し強引だから。
ディーターは朝が苦手で、起きるのに私以上に時間をかける。でもユーウェンが優勢なときは行動が突発的なので、いろんな意味で用心が必要だ。しばらくすると人格の境目は曖昧になり、元に戻っていくみたいだけれど。
今ではもう笑い話だが、このふたつの人格はかつて殺し合うくらいに互いを憎んでいたのだ。
五年前に、ふたつの人格はひとつに統合された。社会生活を営む都合上、ユーウェンであった部分は普段押し込められている。でも私とふたりでいるときは、出現率がやや上がるかなあ。
「ひゃっ」
冷気がもろに胸に当たって私は目を開けた。パジャマの前が勢いよく押し広げられたのだ。
「ひ、聖が起きてくるよ」
「ちょうどいい性教育になる」
「たとえ夫婦であっても、妻の同意なしに夫が性行為を強要することは――」
「そんな、むずかしい日本語はわからないな」
悪魔みたいに舌をちょっと出して、ディーターは私の上に屈みこんだ。何を言う、ヒュバートの裁判を全部日本語オンリーで傍聴し続けたのは、どこの誰よ。
「わ、ちょ、ちょっとそこは……」
そこにノックの音。
「ファティ、ムッティ。今日は土曜日。八時だよ」
ほら。わが家のタイムキーパーが待ちかねて、起きて来た。
去年の春に聖が幼稚園に入園したとき、ディーターは自分の書斎を子ども部屋用に明け渡して、聖はそちらでひとりで寝るようになった。
朝になって目が覚めると、ファティの義足をつけるのを手伝うのだとやってくる。寝室に入るときはノックするように言い聞かせているものの、たいていは間髪を入れずにドアを開けてしまうので、あまり意味がない。あわててパジャマの前を掻き合わせたが、もう遅かった。
「あ」
聖はすっとんきょうな声を上げて、ととっとベッドに走り寄ってきた。「おっぱい」
ひー、最悪の事態。
わが愛息子は、じーっと母の胸に目を注いでいる。その視線が何とも、しみじみとした感動というか、深い憧憬というか。子どもって、自分がここから母乳を飲んだときのことを、ちゃんと覚えているのだろうか。
「ムッティ。どうして、おっぱい見えてるの？」
「チェックしてるんだ」
ディーターが、すました顔で答えた。
「ちぇっく？」
「生まれてくる赤ちゃんが、おっぱいを飲めないと困るだろう？」
「あ、そうか」
聖は、ベッドによいしょと乗ってきた。「ボクもちぇっくする！」
「こ、こら、聖」
私は手足をばたばたさせたが、ディーターが馬乗りになっているので動けない。
「それじゃ、ふたつあるから半分ずつだな」
「うん、ボクひだり、ファティはみぎね」
「どあほーっ」
まったく、えっちな男どもめ。
やっぱり、娘だよ。母親の味方は娘。早く生まれてきてくれないかなあ。
ぷんすか怒りながら私はバスルームに飛び込んで、シャワーを浴びた。自分のお腹を鏡に写す。そろそろ服の上からでも、膨らみがかなり目立ってきた。
予定日は五月初め。待望の家族が増える。
ディーターがハリウッドでの大仕事を控えている今、自分自身もまだ働き始めたばかりの半人前臨床心理士でしかないというのに、二人目の子育てで、ますます回りに迷惑をかけていいのか。
迷いはあった。でも、今しかないという切実さもあったのだ。
今なら、父も藤江伯母さんも元気で、祖父も術後なんとか健康を保っている。でも――数年後はわからない。
人生は長いけれど、こういう好機は驚くほど短いものだ。できるかできないかと迷うくらいなら、一歩踏み出そう。うんと迷惑をかけよう。ディーターと私は悩んだ末、そう決意した。
リック・テン夫妻監督の時代劇映画は、すでに先月からクランクインしている。
ハリウッドのスタジオで撮るのは、１９世紀のマサチューセッツの港町、船乗り父子の愛憎ドラマや、難破前の捕鯨船上のシーン。
ディーターが直接関わる場面はないけれど、登場人物の動きは逐一頭に入れておかなければならない。主役を演じるアメリカ人俳優につきっきりで剣の指導をすることが、アクションチームの中での彼の分担だ。
鹿島さんは昨年末から一足先にアメリカに渡っていたが、ディーターのビザだけがなかなか降りず（やはりテロに関わったという条項でひっかかった）、やきもきしながら待機していたのだ。認可の連絡が来たときは、喜びも一入だった。
来週の火曜には出発する。それにともなって、この水曜から葺石流の稽古は長い休みに入り、今日の土曜日も丸一日予定はない。
わくわくする。さあ、何をしよう。天気が良さそうだから、家中のシーツ類を洗濯して干してしまうかな。いやいや、せっかくの休みなんだもの、朝から家族でどこかに出かけたい。
あれこれ考えながらバスルームを出ると、ディーターと聖が並んでキッチンに向かっていた。
ふたりでドイツ語で相談しながら、オムレツやサラダを作っているらしい。
セロリをキュウリと呼んでいないから、ユーウェンはいつのまにか奥に引っ込んでしまったのだろう。
隣り合った後姿がそっくり。背丈は笑ってしまうくらい違うのに、首のラインなんか同じ。やっぱり親子だなあと、感激してずっと眺めていた。こんな光景も、ニヶ月間見られなくなる。
で、焼け焦げたオムレツと、しなしなサラダとコーヒーとトーストの朝食。
「どこへ行こう」
「西宮北口のガーデンズ。まだ出来てから一回も行ってへん」
「人ごみはいやだ。公園は？」
「いつも行ってるやん」
「ユニヴァーサル・ステュージオ、いきたいっ」
「高いからダメ」
これはファティとムッティ、声がそろう。
「あ、そうや」
ぱちんと手を打った。
「あそこ、行こ。近くてただで、この季節は誰もおらへん」
「どこ？」
「えーと。なんて言えばいいかな。ムッティがファティを最初に好きになったところ」
ディーターが、「え」と度肝を抜かれたような顔になった。
さすがに一月の浜辺は風が冷たい。
黒っぽい砂の上には、流れてきた藻がこびりついていて、ロマンチックとはほど遠い光景。
「ここが、ファティを好きになったところ？」
「そうだよ」
夙川に沿ってずっと歩くと、河口が開けて香櫨園浜に出る。
「あ、トリさん」
聖が白いカモメを追いかけて走り出す。
１６歳の夏休み。私はディーターとジョギングしながら、ここへ来た。子どものような目でカモメを見上げている彼を見て、一生この人の隣にいたいと思った。時にはゆっくり、時には全速力で、彼の隣を走り続けたいと思った。
その夢が叶って、２６歳の私は今ここにいる。
「不思議やなあ」
「何が？」
私たちは冬の光る海を見つめながら、ふたりで立っている。
「現実が本当に現実なのか、わからなくなるときがあるねん。今もそう。ふっと目が覚めたら、どこか全然別のところにいるん違うかなって」
「ああ。そういうことなら、いつも思ってるよ」
ディーターは遠くの、遠くの、目に見えない空に目を遣った。
「本当の俺は、ベルファストの刑務所のクッション壁の病室に閉じ込められてる。鎮静剤を打たれ長い夢を見てる。遠い外国で結婚して子どもができて、平和に暮らしている夢。ある日突然目が覚めたら、今までのことは全部夢で、自分は囚人だとわかる」
「うわあ、本当やったら悲惨な話やね」
「悲惨だな」
私たちはときどき、けっこう恐いことを平気で話す。まるで今の幸せにわざと傷をつけるかのように。
幸せに浸ろうとするとき、決して忘れてはならない過去があることを思い出すために。
" It's by ｇrace that I am here. "
突拍子もなく、彼が英語でつぶやいた。
「え？」
「今の、日本語だと何て訳す？」
私はしばらく、ない脳みそをひねった。
「ベタやけど、『ここにある奇跡』、かなあ」
「ふうん」
聖が両腕を思い切り伸ばして、ぴょんぴょん飛び跳ねている。カモメの仲間に入ったつもりなのだろう。
長い散歩が終わって、すっかりお腹をすかせ、葺石の家にたどりついたとき、ディーターが門のところで立ち止まった。
「ここ」
「へ？」
私と聖は、訳が分からず振り向いた。ディーターはむっつりした表情で続ける。
「円香を好きになった場所」
「ひゃ」と、私は小さく叫んだ。
「ムッティはそのとき、どこにいたの？」聖が興奮して、庭をぐるぐる駆け回る。
「そっちのほうだった。高校の制服を着て、通路を箒で掃いてた」
「それって、もしかして、最初に会ったとき？ ディーターが最初に日本へ来たとき？」
「そうなるかな」
今さら知る事実に、なぜだかこっちの顔が赤くなる。
「だって、あのときユーウェンになってたんやろ。すごく冷たい目やったやん」
彼は、微笑んだ。心臓が思わずドキンと跳ねるような笑顔。
「それでも、だ」
午後になって、茜さんが久しぶりに美乃ちゃんを連れて遊びに来た。
月に一度、苦楽園のノルトさんの家で、茜さんは日本料理の教室を開いている。アガーテが誘った近隣の外国人主婦たちが、多いときは十人くらい集まるそうだ。
「このところ、安い材料を使った和食、いうリクエストがあるんどす」
昨年来の円高と大不況で、ドル建てで給料をもらっている在留外国人たちは、悲鳴をあげているらしい。肉の代わりに豆腐や野菜を使う精進料理のレシピがもてはやされているとか。
美乃ちゃんは、一歳三ヶ月になったばかり。歩き始めで動きが活発な頃だと思うのに、料理教室の間も、ずっとひとりで大人しく遊んでいるという。
さすがに母親の教育が違う。うちに来ても、美乃ちゃんはいるかいないかわからないほど静かで、騒ぎまくっているのはむしろ聖のほうだ。
次々に自分のおもちゃを持ってきては、可愛い女友だちのご機嫌を取っている姿は、わが息子ながら涙ぐましい。
「鹿島さんからは、ときどき連絡あります？」
「あんまり、おへんなあ」
茜さんは手を休めずに、飲み散らかした卓上のコーヒーカップをせっせと片付けてくれる。「ハリウッドの美人女優はんのお相手で、そんな暇ないのと違うやろか」
「あはは」
思わず笑って返したけど、よく考えてみれば鹿島さんの場合は全く冗談にならない。神妙な顔になってしまった私に、茜さんは堪えきれず、くすくす笑い出した。
「心配せんといて。もう若い頃と違うて、あの人も自重してはる。今は美乃もおるさかい」
「そうだよ……ね」
さすがに茜さんは肝がすわってるなあと、溜め息が出てしまう。
「もしかして、ディーターのこと心配してるん？」
「そりゃあ、やっぱり」
「彼に限って、そんなこと絶対にあらへんよ」
頭ではわかってるけど。
正直言って、二ヶ月も離れて暮らすのはしんどい。どんなに愛していても、疑う気持がむくむく湧いてくる。相手を信じられない自分の弱さを、これでもかと思い知らされる。
「円香ちゃん」
茜さんは、ちょんと私の額を指でつついた。「その顔、まるで高校生やね」
「ど、どうせ私は童顔ですよ」
「そうやなくて」
いたずらっぽく、耳にささやく。「恋をしてる乙女そのものっていうこと」
ああ、そうかと腑に落ちた。
子どもがふたりもできても、何年いっしょに暮らしてても、毎日が不安でドキドキして、悲しくて楽しくて。
私はディーターに今でも恋をし続けているんだ。
晩御飯のあと、私たちはマンションに戻って子ども部屋でボードゲームをして遊んだ。
結局、誰も上がりにならないうちに聖は欠伸をし始め、私たちにキスをして、自分からベッドにもぐりこんだ。
すぐに寝息が聞こえ始める。きっと聖にとっても忙しくて楽しい一日だったのだろう。
ベッドのそばに立って寝顔を見ていると、ディーターがうしろから腕を回してきた。
「今度こそ、妊娠中は円香のそばにいると誓ったのに」
少し無念そうな、呟き。
「しかたないやん。行くことはわかってたんやもん」
「撮影が終わったら、すぐに飛んで帰る」
「うん。でも気をつけて、撮影で事故に巻き込まれたりせんといてよ。落ちそうな飛行機には乗ったらあかん」
言ってて涙が出てきた。最悪の想像ってものは何故、こんなに表現力豊かに湧いてくるんだろう。
「浮気もあかんけど、死んだらもっとあかんよ」
私たちは、出会ってから何度も離れ離れになった。でもそのたびに、ちゃんと彼は戻ってきてくれた。
だから今度だって、だいじょうぶ。絶対に絶対にだいじょうぶ。
「今のうちに、子どもの名前を決めておきたいんだ」
ディーターの手が、少し強くお腹に触れた。まるで中の赤ちゃんにも通じてほしいと願っているように。
「今度は、女の子の名前だね」
生まれてくる赤ちゃんが女であることは、産婦人科の先生に頼みこんで、すでに聞いてある。
「『エリン』という名をつけたい」
「エリン？」
「Ｅ-Ｒ-Ｉ-Ｎ。カタカナで『エリン』。日本人の名前でないことはわかってるけど」
彼はやや黙り込んで、それから言った。
「ローマより前の古代、アイルランドは『エリン』と呼ばれていたんだ」
「そうなんや」
「本当は、ずっとドイツ人として生きていこうと思ってた。けど、少し考えが変わった」
そう呟きながら、彼のエメラルド色の瞳は美しい緑の故郷を見ているのだろう。
「もう二度と帰ることがない国なのに、その名前を子どもにつけるのは馬鹿げたことかもしれない。でも――そうしたいんだ」
「すごくいい名前やと思うよ。エリン。私は気に入った」
「ありがとう」
「エリンちゃん、名前が決まって良かったね」
これから娘の名前を呼ぶたびに、ディーターはきっと自分がアイルランド人であることを誇りに思うのだろう。
私たちは、ぎゅっと体を寄せ合った。
「俺は自分の生きてきたツケを、子どもたちに背負わせてるな」
「だいじょうぶ。子どもは強いもん。そんなことで押しつぶされるくらいなら、人類はとっくに滅んでるよ」
彼の手が、私のお腹を優しく撫で続けてくれる。
ああ、左手だ。
ディーターは九年前、私を殺そうとするユーウェンをとどめるために左腕を自分で切り落とした。まさかこんな平和な日が来るなんて、あのときの私たちは想像もしていなかった。
時空を跳び越える感覚。体がふわりと宙に浮きそうだ。
「ねえ、ユーウェン」
一瞬の間のあと、答えがあった。「何だよ」
「あなたと生きてこれて、よかった」
暗がりの中、翡翠色の瞳が私をじっと見つめた。
それから、少し強引なキスが降りてきた。
