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EWEN

Episode 9
バークレー警視の憂鬱


 ロンドン・パディントン駅にほど近いオープンテラス・カフェ。
(ここでティータイムを過ごす季節も、もう終わりだな)
 熱い紅茶をすすりながら、バークレー警視は少し寒々と流れる水面を眺める。
 運河の真上の橋に作られたこのカフェで、行きかう水上バスを見ながら遅い朝を楽しむのが、このところの彼の非番の日の過ごし方だった。
 しかし、もうそれもあとわずかだ。
 今月いっぱいで彼は、その長い警察人生を終える。


 警視に昇進してから訪れたデスクワーク中心の勤務に嫌気がさし、1週間前辞表を提出した。
 30年間の叩き上げ人生。実力でここまで登りつめた。
 このまま現場から離れた生活を送るくらいなら、定年にはまだ間があるものの、 郊外の家でガーデニング三昧の余生を送ったほうが、よほどましと言うものだ。
 今彼はカフェのテーブルで、備忘録を執筆中である。
 30年のあいだに多くの犯罪と戦い、多くの凶悪犯を捕らえてきた。
 もちろん迷宮入りになった事件も多い。5年以上前に起きた、IRAのテロリストによるロンドン警察官連続殺害事件もそのひとつだ。
 あれは悲惨な事件だった。わずか2週間のあいだに3人もの警官が、ナイフで切り刻まれた。
 被害者のうちのひとりが、最後の息で「翡翠の天使」とつぶやいたことから、「翡翠の天使」事件として記憶しているロンドン市民も多い。
 警視庁の威信をかけた大捜査網にもかかわらず、犯人の行方は杳として知れぬままだ。
 あの事件だけは今でも深く、脳裏に刻みつけられている。
 あたかも犯人とすれちがったのに取り逃がしてしまったような、苦い後悔の念とともに。


 ふとペンを走らす手を止める。胸ポケットの携帯電話が鳴ったのだ。
「ああ。俺だ」
「警視。お休みのところすみません」
 部下のコーンウェルだ。どうでもいい書類のありかを聞いてくる。
 いつも俺の机の前で冷や汗をハンカチで拭うことしかできないこの若造が、今度警部補に昇進するという。
 世も末だ。この大ロンドンの治安は、俺がいなくなった後いったいどうなってしまうのか。
「それより、警視の送別パーティの件なのですが。中華料理にしますか。それともインド料理がいいですか」
「俺はヨーロッパの飯以外は食わんと言っとるだろう!」
 ぶつりと容赦なく電源を切る。
 能無しのコーンウェル。頭の中身はお留守のくせに、美男子ぶっていつも髪型を気にしている。
 本当の美男というのは、そこのテーブルでコーヒーを飲んでいるヤツのような男のことを指すのだ。
 長い黒髪をした黒ずくめの男。まだ若い。20歳くらいだろうか。さっきからカフェの女どもの視線を一身に集めている。
 長年の習慣で、バークレーは相手の細かい特徴まで記憶する癖があった。
 背は190センチ近く。少し痩せて手足が長い。
 女性とみまごうくらい繊細な顔の線。完璧な鼻梁と、意志の強そうな薄い唇。きつめの円弧を描く美しい眉と、見る者を吸い込む翡翠色の瞳。
 翡翠色。――翡翠色、だと?
 バークレー警視は、早鐘のように鳴り始めた心臓のあたりを、右手で押さえた。
 あの警官連続殺害事件を捜査していたとき、たった一度だけ街で出会った翡翠色の目をした少年。
 こいつは、あの少年と同一人物ではないのか?
 彼は脳の中にしまいこまれた記憶ファイルを、すばやく探し当てた。
 こんな瞳の色はそうあるものじゃない。髪の色は違うが、染めたということもある。
 少年は3度目の事件の翌日、駅に向かっていた。それ以来事件は起きていない。
 5年間ずっと、頭の隅にひっかかっていたこと。
 「翡翠の天使」。事件の翌日ロンドンを離れた少年。
 解けなかったパズルがばちりと嵌まった気がした。
 間違いない。なによりも30年間殺人事件の捜査ひとすじだった俺の勘が、そう告げている。
 犯人はこいつだ。
 やがて席を立った男の後ろを、手馴れたバークレーの尾行が続いた。


 カフェを出て、黒髪の男は広い通りを東に向かった。目的があるのか、かなり早い足取りだ。
 ホームズで有名なベイカー街を越え、リージェントパークを左に見たところで、南に折れる。
 途中、彼は一軒の店に立ち寄った。タバコを買っているらしいことを確かめると、バークレーは手に持つ新聞に隠して、携帯を取り出した。
「おい、コーンウェル、すぐ出て来い。今すぐだ」
「いったい、どうなさったんですか」
「翡翠の天使を見つけた。今尾行中だ」
 オックスフォードサークルまで来ると、いきなり相手の姿が見えなくなり肝を冷やした。
 地下鉄の駅に降りたのだ。
 コートの襟に顔をうずめながら、隣の車両から見張る。
 ふたたび地上に上がったとき、バークレーは舌打ちした。
 ブリクストンだ。テムズ川の右岸。カリブやアフリカから来た移民たちの町。
 彼は、移民たちがイギリスをだめにしたと固く信じている。
 ふたたびコーンウェルに現在位置を短く伝えると、治安の悪い街に踏み出した。
 翡翠の瞳の男はためらうふうもなく、露店の並ぶ路地を縫って、幾度となく角を折れる。
 あわてて尾行の間隔を詰めようとすると、いつのまにか人通りが完全に途絶えていた。
 奥は行き止まりだ。
 そして、男は立ち止まってまっすぐバークレーの方を向き直り、タバコをくわえたままにやりと笑った。
 しまった。誘い込まれた。
「散歩はどうだった? 少し腹が出てるみたいだったから、運動のためにかなり歩き回ってやったつもりだが」
 低いあざけり声で言うと、男は脅威的な力でバークレーをレンガの壁に叩きつけ、その前に立ちふさがった。
「俺のことを知っているみたいだな。言え。いつどこで俺と出会った」
 喉笛に食い込んだ親指にむき出しの殺意が宿っていた。
「ご、5年前、駅の近くで、声をかけたことがある。スコットランドに行くと言っていた」
「それは俺じゃないな。ディーターか。いや5年前、奴はまだいなかった。ケヴィンはしゃべれるはずはない。ルイならば、おまえのような醜悪な顔を見たくはなかろう。 ……そうすると、ダニエルか」
「な、なにを……」
 こめかみにひんやりとした感触。気がつくと、男はバークレーの銃を左手に握り、銃口をぴたりと押し当てていた。上着の内側をさぐられた気配すら感じなかった。
 冷や汗が背中を伝う。
 男は空いたほうの手でさらに彼の内ポケットを調べ、警察手帳を取り出し、秀麗な口元をゆがめた。
「スコットランドヤードか」
「おまえが、5年前の連続殺人の犯人だな。「翡翠の天使」」
「ああ、そんなこともあったな」
「アイリッシュの豚め!」
 バークレーは雄雄しく、はき捨てるように叫んだ。
「俺が豚なら、おまえは女王の犬だ。しっぽを股ぐらにはさんで、いい声で鳴いてみろ」
 男は笑い声を洩らし、小娘にキスをするときのように優しくそっとバークレーの顎を片手ではさんだ。そして、銃口を開いた口にねじこんだ。
「おやすみなさい、は?」
 その美しいブルーグリーンの瞳には、狂気と地獄の深淵が映っている。
 バークレーは、死を覚悟しながらなお、殺人鬼の顔を網膜に焼き付けるように見つめた。
 ああ何とかしてこいつが犯人である証拠を残さなければだが俺のダイイングメッセージなどコーンウェルにはわかりっこないだろうなちくしょうせっかく買ったばかりの郊外の 自宅で庭いじりの老後を楽しもうと思ってたのになんてザマだこんな汚い街でアイルランドのテロリストに殺されちまうとは……。
 走馬灯のように次から次へと後悔がよぎる、そのとき。
 銃口が口から離れた。
 男は体を震わせながら、右手で銃を持つ自分の手首を押し戻すと、うつむいて苦しげにつぶやいた。
「早く、逃げろ……。僕の力では、こいつを長くは抑えられない……」
「え?」
「いいから、走れ!」
 言われたとおりバークレー警視は駆けた。後ろを振り返ることもしなかった。
 死の恐怖から逃れるためではない。
 目の前で起こった光景のあまりの不条理さに、彼は恐怖したのだ。
 路地を曲がったところで、ひとりの男とぶつかった。
「警視!」
「コーンウェル!」
 やれやれ、こいつが役に立ったのは初めてだぜ。
「おまえのピストルを俺に貸せっ!」
 ふたたびあの路地に戻ると、黒髪の男の姿は影も形もなかった。
「どこに行った! 行き止まりのはずだ。こちらからは俺たちが来たんだ、逃げられっこない」
 バークレーとその部下は、自然と上を見上げた。
 足場のないれんがの高い壁のほかにあるのは、ロンドンの秋の曇り空ばかりだ。
「やはり、天使だったのか。それとも悪魔……」
「バークレー警視?」
「そんなはずはない。やつは人間だ。それもきわめつきの性悪のテロリストだ」
 彼は知らず知らずのうちに笑い出した。
「見ていろ。世界の果てまで行ったって、貴様を捕まえてやるぞ。「翡翠の天使」、いや「翡翠の悪魔」」
「どうなさったんですか。警視」
「警視庁に戻るぞ。コーンウェル。もう一度5年前の事件の洗い直しだ」
「え? すぐ犯人を指名手配しなくてよろしいのですか」
「無駄だ。今さら手配したところで、ヤツは捕まらん。それより早いところ本署に戻って、辞表を撤回せねばな」
「ええっ。お辞めになるというのは、なしですか?」
 コーンウェルが露骨にイヤな顔をしたのも、彼の目には入らない。
 こんな愉快な気分になったのは、久しぶりだった。  





    Episode 3に登場した使い捨てキャラ「バークレー警部」のファンである
    十六夜月世さんのリクでできたエピソードです。
    時間的には、本編第5章と6章のあいだにあたります。
    おまけの座談会。

     *     *     *
円香 「ねえ、ディーター。もしかして、このバークレーさんて今でもユーウェンを追いかけてるの?」
ディーター 「さあ……。そうかもしれないな」
円 「ユーウェンが消えてしもたの、知らないんや。それじゃ間違ってディーターが捕まるかもしれないってこと?」
デ 「だから、北アイルランドに新婚旅行に行くっていうのは当分無理なんだ」
円 「せっかくこのとき、ディーターが必死で助けてあげたのにね」
デ 「(低く) ……早く殺しておきゃよかった」
円 「……えっ?」
デ 「あ? ああ、ごめん。今のは、俺の中に残ってるユーウェンの意識」
円 「びっくりさせんといてよ。もう。
   この人まさかもう、日本まで追いかけてきてたりして。
   『ICPOのバークレーであります。ユーウェン! 逃がさんぞーっ。逮捕するぅ!』
   『バークレーのとっつあん。相変わらずしつこいな』
    ……きゃはは。なんてお約束なキャラ」
デ 「??(なにがおかしいのかよくわからない) ……日本まで追いかけられるのは、困るな」
円 「そうやね。それでなくても今、テロ対策とかワールドカップとかで、警戒が厳しいのに。
   みなさん、なんとディーターはすんでのところで、国外退去になるところやったんですよ。
   ま、私の愛の力で、退去命令は一週間で撤回になったけど」
デ 「(あきれたように)……おまえ、こんなにしゃべる色気のないガキと結婚して、よく満足してるな」
円 「な、なんやてぇ!」
デ 「だ、だから、今のもユーウェン!」
円 「うるさいっ! 問答無用! 面――ッッ!」
デ 「ああ……。こっちの方が、バークレー警部よりよっぽど怖い……」

   
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