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EWEN

完結編
〜Die Heirat〜

§5.

 3週間後に、結婚式。それもドイツで。
 考えたこともなかった事態に、私は慌てた。
 お膳立てはすべて付属病院のスタッフが動いてくれた。式を挙げてくれるカトリック教会も見つかり、お金のない私たちのために、大学構内で会費制の披露パーティーを開いてくれることも決まった。
 ウェディングドレスを貸してくれる人も現われた。裁縫好きな人が小柄な私に合わせて、丈や肩や胸のあたりを詰めてくれる作業にさっそく取りかかった。
 次々と事が進んでいくのを、私やディーターは、ただあっけにとられて見ていた。
 情けないが、なにしろ初めてのことなのでしかたない。おまけに私にとっては外国だし。
 私は式が決まると、すぐに家に国際電話をかけた。
 みんな驚いていたが、喜んでくれている様子も手にとるようにわかった。
 鹿島さんは、テレビの収録のスケジュールをすぐに調整して来てくれることが決まった。祖父ももちろん、出席だ。外国旅行慣れしているし、ふたりともパスポートも持っている。
 問題は藤江伯母さんたちだった。伯母さんは高所恐怖症で飛行機に乗れない。海外も初めてだ。
 円香ちゃんの一生に一度の結婚式やもん、死んでも出るんやと、最後までがんばっていたのだが、ご主人や息子さんたちの反対もあって、泣く泣く諦めることになってしまった。
 私も本当は、藤江伯母さんに出席してほしかった。10歳のとき母を亡くした私の親代わりになってくれた伯母さんには、花嫁姿を見守ってほしかった。
 がっかりして電話口の向こうで泣いている伯母さんに私は、日本で必ずウェディングドレスを着て披露宴をするからと思わず請合ってしまった。
 瑠璃子は、飛びあがって喜んだ。
 ドイツ。ケルン。行く、行くわよ、絶対。
 パスポート? そんなん今から走って取りに行ってくるやん。
「それより、どうすんの? 柏葉くんも、呼ぶの?」
「えっ。恒輝? ……どないしよう。考えてなかった」
 でも、あいつ呼ぶのって、なんか、ちょっと……。
 かまへんやん。あたしが誘って、引っ張って行ってあげる。
 こういうのは、うんと見せつけて、かんっぺきに諦めさせたほうが親切ってもんや。
 未練が残ると、次の恋に全力投球できひんようになる。
 結局、恒輝は瑠璃子に強引に押し切られて、ふたりでケルンにやってくることになった。
 ははあ。次の恋ってのは、瑠璃子、あんたのことか。
 私は受話器を握りながら苦笑していた。あながち、邪推ではないと思うが。
 私がそんなことで、てんやわんやしてる間、ディーターは大学の聴講にまた通い始めた。午前中や講義のない日は、コンピュータールームでずっと病院会計のプログラムに取り組んでいる。
 そして、暇を見つけては私とふたりで、ケルン市内をあちこちデートした。
 カルナヴァルとよばれる謝肉祭の前の日は、ケルンでは、「薔薇の月曜日」という祝日だった。
 パレードが出て、山車の上から御菓子をばらまく、大人も子どもも楽しめるにぎやかなお祭りだ。
 翌日のカルナヴァルは、ケルン大聖堂の前の広場に移動遊園地ができて、一晩中大騒ぎだった。
「ほら、円香。あれがドイツの観覧車」
 ここの観覧車は、乗っている人を振り落としそうなほど高速回転する代物だ。どちらかというと、遊園地の絶叫マシーンに似ている。
 乗ると目を回してしまった。日本の観覧車のような風情は、あったもんじゃない。
 夜は父の寮で、キッチンを使って私が作ったごはんを、ふたりで食べることが多かった。
 もう結婚したみたいだねと言いながら、思いきり照れまくった。
 父が夜勤のない日は、父といっしょに寮の食卓を囲んだり、外に食べに行ったり。
 3人が集まると、話題は結婚式の打ち合せという事務的なことが大半を占めた。
「ねえ、お父さん。みんながこんなに一所懸命になってくれて、全部やってもらってなんか悪いな」
 ある日、ディーターが学生寮に帰ったあとに、私はしみじみと父に洩らした。
「日本では全部、結婚式場にまかせてしまうからな。こういう手作りの結婚式も、ええもんやろう」
「私まさか結婚式を挙げるなんて、想像もしてなかった。お金もないし、何にもしなくたっていいて思てた」
「悪いなんて思う必要はないぞ。みんなは嬉しくてやってるんやから」
「うん……」
「俺たち精神科のスタッフはな、こういうことで報われているんや。他の外科や内科の連中ほどには、人の死に毎日接してるわけやない。でも俺たちの一番辛いのは、一度退院した患者がまた悪くなって、何度も何度も戻ってくるときや。一人の患者が何年、何十年と退院できないのも辛い」
「……」
「特に俺の研究所の病棟は、そういう患者が多い。戦争で心に傷を負った少年兵。ひどい虐待に会い、誰にも心を開かない人。PTSDに苦しむ人々。……ディーターもその一人やった。あいつが片足を失い、この病院に戻ってきたとき、どれだけみんな悲しんだか……」
「……うん」
「だからおまえたちが結婚するって知ったとき、俺たちがどんなに嬉しかったかわかるやろう。こういう嬉しさは俺たち精神科医にとって、一生のうち何べんあるかわからへん最高のご褒美なんや。病気と闘うほかの患者にとっても、最高の励ましなんや。その喜びを精一杯表してくれるみんなに、悪いなんて思う必要はない。みんな、おまえたちを心から祝福しとるんや。胸を張ってればいい」
「うん……。ありがとう、お父さん」
 私はしゃくりあげながら、父の肩にそっと頭を凭せかけた。
 私とディーターは、世界一幸せなカップルだと思った。


 3月17日、私たちは、ケルン市街の高いビルの聳え立つそばの、ちいさな白い教会で結婚式を挙げた。
 ヴァージンロードを、真っ白なウェディングドレスを着て、父と手を組んで歩いたことも。
 その両側で、祖父や鹿島さんや、瑠璃子や恒輝や、ケルンでお世話になった多くの人たちに見守られていたことも。
 祭壇の前でディーターが微笑んで、私を迎えたことも。
 神父さまのドイツ語の誓詞に、練習したドイツ語で答えたことも。
 パイプオルガンも、彼との誓いのキスも、ブーケも、教会の鐘の音も。
 そのあと、きれいに飾り付けられた大学のカフェテリアで、開かれた披露パーティーも。
 何もかも、夢のようだった。一生忘れないだろう。
 たくさんの人たちの祝福と愛情が、形となったこの一日を。
 その晩から市内のホテルでの2泊を、有志の人たちがプレゼントしてくれていた。
 あくる日曜は、日本から来たみんなと中華料理店で、ささやかな内輪のパーティーをした。祖父と鹿島さんはその夜日本に帰ってしまったが、瑠璃子と恒輝は、どうしたことやらそのまま行方不明。
 月曜の朝になると、私たちはケルン市役所に行き、何と80人待ちという難関を突破して、結婚届を提出した。
 それから中央駅から電車に乗って、デュッセルドルフ市に行き、日本総領事館で婚姻届を出した。
 父の知り合いの日本人駐在員の方に、手続き方法を調べてもらっていて、すごく助かった。
 あとは、ディーターの日本行きのビザの申請。
 あーあ。一日仕事だった。終わると、ふたりはぐったりと総領事館の玄関の敷石に座りこんだ。
 結婚というのは、大変な労力のいる作業だ。
 ゆめ、生涯にふたたびすることのないように。
 今日から私は正式に日本の戸籍でも、円香・グリュンヴァルトになったのだ。
 なんだか、くすぐったい。
 夜はそのままケルンに戻って、父の寮に「ただいま」と帰る。
 結婚してそれまでの男子寮にいられなくなったディーターが、こちらに引っ越してきたのだ。
 とっても、変。花嫁の父も、何か拍子抜けしたような顔で出迎えてくれた。
 父は、口では何も言わなかったが、寂しかったと思う。
 ひとり娘が、嫁いだのだ。
 今たとえいっしょに過ごしていても、私は父の娘ではなく、ディーターの妻なのだ。
 父の気持ちを思うと、私はまた泣けてしまう。
 その次の日は、ディーターが運転する車で、日帰りのライン川沿いのドライブを楽しんだ。
 彼はこの1年で車の免許を取っていたのだ。オートマ車なら、左脚が不自由でも大丈夫だという。
 それが、私たちの新婚旅行みたいなものだった。
「いつか、アイルランドに、本当の新婚旅行に行こうよ。私、ディーターの生まれたところが見てみたい」という私に、  彼は困ったように、今は無理だけどいつかきっと、と答えた。


 4月、ライン川沿いの桜並木が、夙川より一足先に散り始める頃。
 私は大学の入学式にぎりぎり間に合うタイミングで、日本に帰国した。
 ディーターをケルンにひとり残して。
 なんと私たちは新婚早々、3ヶ月もはなればなれに暮らすことになってしまったのだ。
 その理由は、いくつかある。
 ひとつには、ディーターの日本へのビザがすんなり下りるかどうか、わからなかったことだ。
 起訴は免れたが、彼は例の武器密輸事件で、日本で書類送検された身だったのだ。
 私は日本に帰るとすぐ、大阪の入国管理局に行って、配偶者として在留資格認定証明書の交付を願い出た。
 打つべき手をすべて打った後、祈るような気持ちで結果を待った。
 もし査証が発給されなかったら、またねじこんでやると、父と大学の人たちは準備してくれていたのだが、実際は案外とあっさり許可がおり、なんと私が帰国した1週間後にはビザはおりてしまった。
 配偶者ビザは資格認定基準が普通よりゆるいのだと聞いたが、私には奇跡としか思えなかった。
 もう一つは、ディーターが聴講している講座が、6月で修了すること。
 聴講とは言えきちんと修了証書がもらえるので、取っておきたいと彼は思ったのだ。
 さらに、頼まれていた病院会計処理のプログラムが佳境に入っていたこと。これを完成させてからでないと日本へは行けない、と。
 このことについては、かなり深刻に私たちは話し合ったのだ。けんかにもなった。
 3ヶ月離れるのは、ふたりとも辛かった。
 でも今考えれば、これは必要な時間だった。
 あっという間に結婚式に漕ぎつけてしまった私たちにとっては、頭を冷やして将来のことを考える良い機会だったのかもしれない。
 私はなにごともなかったように、大学生活をスタートさせた。
 初日にいきなり氏名変更届を提出して、教務科の人をびっくりさせるという顛末はあったが。
 授業は初年度から、専攻の教育心理学が半分を占める。おもしろかった。高校までと違い、自分から食らいつかないとおいてきぼりになりそうな緊張感があった。
 家に帰れば以前と何も変わらない毎日。
 でも、何かが違う。
 私はときどき手を止めて、ぼんやりとしてしまう。いつもディーターのことを考えてしまう。
 左手の薬指を縛る細い結婚指輪以上に、心の中が彼に縛られている。


 祖父はある日、私のいれたお茶を飲みながら尋ねた。
「住むところは、もう決まったんか」
「はあっ?」
 私は、口をあんぐり開けた。
「ディーターとおまえが住むところや。捜してないのか」
「だって、私たちここに住むよ。当然、そう思てたよ」
「何、あほなこと言うてんのや。新婚夫婦が鍵もかからん部屋で、年寄りといっしょに暮らせるわけないやろう」
「でも私たちが出てってしもたら、おじいちゃん、ひとりぼっちになるよ」
「だいじょうぶや。藤江も来てくれるし、康平かておる。心配することなんかない」
 それでも、夜は誰もおらんようになる。淋しいやんか。
 私は、言おうとしたことばを飲みこんだ。
 18年間暮らした家族なのに、おじいちゃんが私たちに遠慮するなんて。
 なんで結婚したとたん、こんなに他人行儀になってしまうんだろう。
 ところが2、3日して、私はおずおずと切り出した。
「おじいちゃん、あのね。やっぱりしばらく、このうちにいっしょに住んでもいいかなあ」
「え?」
「捜してみたんやけどね。このへんで家賃が7万以下で、ふたりで住めるところなんて、あらへんみたい」
 以前ディーターの暮らしていた菅さんのアパートには、もう他の人が入居してしまっているし。
「それでなくても私たち、家賃払うお金なんて全然ないから」
 祖父は呆れて、開いた口がふさがらないようだった。
 情けない話だが私は、大学生と職のない外国人が結婚して暮らしていくことの大変さを、それまで全然考えていなかったのだ。
 ディーターだってあの身体では、前のように工事現場で働くこともむずかしいだろう。
 私は本当に世の中を甘く見ていた。
 葺石家の家計を中学生の頃から預かり、金銭感覚は人一倍シビアだと自負していた。
 その私の結婚観は、まるでおままごとのようだったのだ。
「昔っからそうやで。しっかりしてるようで、間が抜けてるというか、なんというか」
 恒輝は、私の性格を的確に把握していた。
「一言も、ありましぇん・……」
「おまえは、そうやけどな。ディーターは、もっとちゃんと考えとったと思うで」
 え。考えとったって、何を?
「だから、三ヶ月も離れて暮らすことに、したんちゃうか」
「恒輝、ディーターからなんか聞いてんの?」
「さあ。俺、なんも知らん」
 ディーターと私は毎週一回、5分間だけ電話で話した。
 料金は父に払ってもらうコレクトコールだから、やっとそれだけお許しをもらったのだ。
 5分は短い。最初のうちは、ふたりとも何もしゃべらないうちに5分たってしまって、あわてた。
 慣れてくると、要領よく話せるようになった。
 それでもしゃべっているのは9割がた私のほうで、彼はあいづちを打つだけ。
 3ヶ月の終わりのほうになってくると、彼は約束した時間にいないことも多くなった。
 私は内心、気が気ではなかった。
 彼は本当は、日本に来たくないのではないだろうか。
 病院の外での暮らしが楽しくなって、捨て切れなくなったのでは。
 もしかして、私が彼のことを思うほどには、私のことを思っていないのではないか。
 夜ひとりでいるときなど、結婚指輪を握りしめて泣いてしまうことも、1度ならずあった。
 こんなことなら結婚しないほうがよかった、などと馬鹿なことまで考えた。
 もちろん朝になれば、元気な円香さんに戻って、家事や学業に精を出したけれど。


 6月に入ると、梅雨入りが宣言された。
 関西も始めのうちは、梅雨らしく雨が降り続いたけれど、後半からは真夏のような日差しがやってきた。
 記録破りの猛暑の夏のはじまりだった。
 私は、とにかく涼しいうちにと早起きして、洗濯と風呂の掃除を済ませ、ホースで庭の水やりをしていた。ホースの先から勢い良く水が噴き出し、繋ぎのゆるい留め金から霧のように、私の顔や手足に飛沫がかかる。
 夏の家事の中でも、ダントツに気持ちのいい、ささやかな贅沢だ。
 先を指でつぶして、遠くの垣根まで噴水のように水をとばしていると、門のところに人影が立ったのに気づいた。
 ああ。
 あのときも、そうだったよね。
 私は、庭を掃いていた。バックパックを背負った背の高い外国人に、今みたいに気づいたのだ。
 あのときはユーウェンだったから、私はその瞳の冷たさに怖気をふるったけれど。
 今は、私を見て微笑んでいる。
 相変わらず、古いTシャツに穴のあいたジーンズ。肩にかけたバッグパック。
 違うのは、多分ノートパソコンや本類を入れている、重そうなボストンバッグを右手に持っていることだけ。
 もう、あれから2年少し経ったんだね。はじめて会ったときから。
 大好きなディーター。大好きな、だんな様。
 私はあわてて玄関まで戻ると、蛇口の栓を締めた。
 これは、誉めてほしい。ちゃんとこの夏の水不足を気遣ったのだ。
 そして、脱げてしまったサンダルもものともせず、泥だらけの足のまま駆けていって、彼の胸に飛び込み、飛沫で濡れたのか涙で濡れたのかわからない顔を、彼のシャツにこすりつけた。


§6

 私の大声に、長い廊下をどたどたと走ってきた祖父は、玄関で彼と抱き合った。
「ただいま、師範」
「よう帰ってきたな。ディーター」
「あ、おじいちゃん、鹿島さんは? 今日は、撮影?」
「いや、こっちにおるはずや」
「じゃ、電話する。藤江伯母さんにも」
 2人はまさしく10分もしないうちに、かけつけてきた。
「また、キャンセル待ちで安い便を乗り継いできたな。たまには関空まで迎えに行かせろよ」
「ディーター。ほんまに、良かった。帰ってきてくれて良かった」
 藤江伯母さんは彼にとりすがって、私より感激して泣いていた。
「ほんとに、ご心配、かけました」
 ディーターはひとりひとりの顔を見て、それから、葺石家の古い黒光りする天井や柱を見渡して言った。
「ああ。やっと、帰ってきたんだ」
 彼の声から私は、どんなに彼がここに来ることを願っていたかわかった。
「みんな、とにかく坐ろ。麦茶、入れるから」
 私が促すと、ディーターと祖父は、はっとしたように私を見た。
 そうだ。円香。
 円香。おまえ。
「大学は?」
 2人が異口同音にたずねたので、私は吹き出した。
「今日の授業は、昼からや。大丈夫」
 私たち5人は、いつ果てることもないおしゃべりに興じた。
 この3ヶ月の、それぞれの生活について。
 葺石流の入門者が少し増えたことや、鹿島さんの今やっている殺陣(たて)のこと、など。
 話がケルンでの結婚式の思い出話に及ぶと、藤江伯母さんは、私たちふたりをかわるがわる睨みつけた。
 日本でも披露宴やってくれるて、言うたよ。ちゃんと約束守ってや。私は円香ちゃんのお母さんのかわりに、円香ちゃんの花嫁姿、見届けなあかんのやからね。いつ、やってくれんのん。
 ひえぇ。まだ、覚えてたか。
「伯母さん、あ、あの、もうちょっと待ってね。今ちょっと、お金が」
「円香。いいよ、やろう。披露宴」
 ディーターは、私に微笑みかける。
「ディーター! 日本の披露宴は、めっちゃ高いのよ。何百万円もかかるんだよ」
「5万マルクあれば、足りる?」
 ちなみに、この当時1マルクは約60円である。
「5万マルクなら、今すぐ準備できる」
 私は彼から離れて、壁際まで飛び退った。
 ディーター、あんた、まさか、銀行強盗かなんかやった?
 彼はおなかを抱えて大笑いした。ううん。まさか。
 もう12時を過ぎていたので、私はあわてて昼ご飯を支度した。
 ディーターのリクエストに応えて、そうめん。
 食後、私は昼の講義に間に合うように、部屋に戻って軽くお化粧をして、小走りで急いだ。
 K学院大までは、バスで5分。急がないときは徒歩で通っている。
「円香」
 靴をはいているとき、ディーターが玄関まで見送りに来てくれた。
「ごめんね。忙しくって。三時半には、戻ってくるからね」
 彼は私を抱きしめて、キスした。
「円香。会いたかった」
「ディーター、私も。愛してる」
 ああ。なんて、誘惑。
 大学の講義なんか休んじまおうかな、と一瞬ふらふら来る、が、自制した。
「いってきまあす」


 とりあえずこの日の私は、バスでもキャンパスでも、講義のときも、ずっとにやにやしていたと思う。
 知らない人が見たら、すっごく危ない人だろう。
 講義が終わると、友人の誘いを振り切って、バス停まで走った。
 バスがしばらく来ない、と知るや、坂道を脱兎のごとく駆け下りた。
 かかとの細い今流行のパンプスなら、ぽっきりの勢いだ。幸い私のは、生協のケミカルシューズ。
 家にころがるように飛び込むと、藤江伯母さんが台所で、たくさんのご馳走の用意をしていてくれた。
「伯母さん、みんなは?」
「道場にいてるよ」
 うわ。やった。
 みんなの邪魔にならないよう、道場にそっと身体を忍びこませる。
 祖父と鹿島さんとディーターが、稽古をしている。
 知らない人が見れば、ディーターの左脚が義足だということは、この立会いからはわからないだろう。
 ただ知っている私にとっては、彼が以前よりは、前に出て行きにくそうに見える。
 他の武道もそうだろうけれど、特に葺石流にとっては、効き手と反対側の足さばきというのは大切なのだ。
 それが自分の思い通りにならないというのは、大きなハンデにちがいない。
 稽古が終わると、彼はすぐ私のそばに来た。
 ちらりともこちらを見なかったのに、気づいていた。たいした注意力だと思う。
「どうやった? 足、痛くない?」
「まだ、今日は、軽かったから」
 軽いというわりには、三人ともすごい汗やけどなあ。
「前と同じくらい、いけそう?」
「ううん」 ディーターは少し苛立たしげに、竹刀を握りしめた。
「左手の、力が足りない。足も、身体を乗せていけない。全然、だめだ」
 私は不安になって、鹿島さんを見上げた。
「だいじょうぶや」
 師範代は、白い歯を見せた。
「確かに左側の手足は前より弱いけど、集中力は良くなってる。ここ一番の思い切りと、状況判断も」
 きっと人格が統合されることで、精神力がついたんやろなあ。5つに分かれとった心が、ひとつになったんやもんな。
 腕組みしながら、鹿島さんはひとりごとのように呟いた。
「かならず、前よりもっと強い使い手になれる。心配するな」
 道場にはやがて、恒輝や他の門下生たちがやってきた。
 みんな、ディーターが戻ってきたことを大騒ぎで喜んでくれて、その日は稽古にならなかった。
 恒輝は、でも、少し複雑な表情だった。
「だって前の勝負の続きをやりたくても、ディーターはまだ俺の剣を受けるのは無理やろ。俺、弱い者いじめだけは、ようせんからな」
「この、たこ」
 私は恒輝の頭をカポッと叩いた。
「女の子とデートばっかりしまくってるあんたには、ちょうどいいハンディよ。ディーターに、こてんぱんにやられておしまい」
「おい、ディーター。ほんとに、こんな暴力女と結婚してよかったのか。おまえ、思いっきし尻にしかれるで」
 その夜は、めったに姿を見せない藤江伯母さんのご主人も、そしてもちろん恒輝も加わって、楽しい晩餐会が開かれた。
 藤江伯母さんのご主人(聡伯父さんという)はとても無口な人だが、恒輝がその分、倍も賑やかだ。
「だから、ディーターは何も3ヶ月のあいだ、遊んでたわけやないんや。そのへん、おまえはわかってなかったやろ」
 と恒輝は、20歳になった強みで、ビールをあおっては泡を吹く。
 ディーターの作っていた病院の会計用プログラムは、少しいじれば、他のクリニークにも応用が効いた。
 それをあちこちに売りこむうちに、彼は会社を作ってしまったのである。
 もちろん、社員はいない、彼だけの会社だったが。
「なんで、あんたがそんなこと知ってるの」
「そりゃディーターとは、ずっとメール交換しとったもん」
 げえ。一ヶ月3,800円で、ドイツにメールし放題だったとは。
 ディーターの作ったそのプログラムは、とても質のよいもので、そこから口コミで他のプログラム制作の話も舞い込んだ。
 さらに、日本に支社のあるドイツの製薬会社にも、聖ヘリベルト大学からの紹介をとりつけ、よい仕事をすることで信用を得て、将来の日本での取引につなげようとしていた。
「だから最後の一月くらい、こいつ、まともに寝んと、プログラム作っとったはずやで」
 私は驚いて、ビールをうまそうに喉に流し込んでいるディーターの顔を見た。
 だから、私の電話にも出られなかったのか。
 どうしても6月までは日本に行けないと言ったのは、このためだったのか。
 私たちふたりが生活できるように、彼はちゃんと考えていたんだ。
「な、なんで、私にひとことも言うてくれなかったん。そんな大変なことしてるって」
「だって、失敗したら、がっかりさせるから」
 ディーターは何でもないことのように、にっこりと笑った。
「あほ円香。男がそんなこと、いちいち女に吹聴できるか」
 と、恒輝が偉そうに、ふんぞりかえって言うと、
「男には、そんな意地っ張りなとこ、あるな」
「ディーターはもしかすると日本人より、日本の男かもしれんな」
 と、祖父や鹿島さんも、妙に共感しちゃってる。
「だから、いつも言うてるやろう。男にはいちいち口に出さん、いろんなことがあるんや」
「あんたの黙ってすること言うたら、パチンコばっかしやないの」
 聡伯父さんと藤江伯母さんまでが、めずらしく口げんかを始めたものだから、みんな爆笑だった。


 夕食のあとかたづけやお風呂が終わり、伯母さん夫婦、鹿島さんと恒輝が自分の家に帰ると、祖父やディーターと私も、それぞれの自室に引き取った。
 私の部屋は、祖父の部屋のひとつおいて隣。
 ふすまだけが仕切りの純和室だが、ベッドと椅子つきの机があって、ピンクのロールスクリーンが目隠しにぶらさげてある。
 小さい頃から暮らしていたこの部屋で、私たちはこれから夫婦として暮らすのだ。
 ウトウトとまどろみながら、それでも3ヶ月の積もる話が山ほどあって、私たちはベッドの上で夜明けまで、ささやき声で話していた。
「日本の披露宴てね、まず、仲人の挨拶があるの」
 私は、どうしても日本で披露宴を開きたいというディーターに、いろいろと説明した。
「なこうど、って?」
「結婚するふたりのお世話をしてくれる、年上の夫婦。ふたりのことをよく知ってて、出席した人に紹介する役目なの。そして結婚してからもいろいろと相談にのってくれる。この頃は形式的に、会社の上司に頼むことが多いんやけどね」
「俺たちは、誰に頼む? 藤江さんと聡さん?」
「んーん。親戚に仲人頼むのって、あんまり聞かないなあ」
「じゃあ、あと、知ってるのは……」
 彼らしか、いない。
「えーっっ!」
 鹿島さんは、もう少しでカウンターの椅子からころげおちそうになった。
 ここは、小料理屋の「あかね」。
 私たちは鹿島さんと茜さんに仲人を頼むため、撮影のある日をわざわざ選んで、京都の太秦までやってきたのだ。
「そやかて、うちら、結婚もしてへんのよ」
 茜さんも、目を丸くしている。「結婚もしてへんのに、仲人はできひんわ」
「私もそう思ったんですけど。彼に仲人ってことばの意味を説明したら、鹿島さんと茜さんしかいないって言って聞かないんです。私たちのことを一番知ってる人たち。これからも私たちのお手本でいてくれて、ずっと相談にのってくれるカップル」
「お手本やなんて……」
 鹿島さんは照れながら、頭をわしゃわしゃと掻いた。
「俺たちは、結婚までよう漕ぎつけなかったカップルやで。俺たちを手本なんかにしたら、おまえらまで離婚してまうわ。こんな縁起の悪い仲人、あらへん」
「それじゃ、早く、結婚してください」
 ディーターが涼しい顔で、言ってのけた。
「ええっ」
「結婚すれば、俺たちの仲人、何も問題はないでしょう?」
 ふええ。ディーター、あんたって人は。
 6年間恋して苦しんで、諦めてきたふたりに、よく簡単にそないなことを。
 でも。
 簡単なことだったのかも、しれない。
 ほんとに、ちょんとひと押し、この2人の背中を押してあげる手があれば。


 7月に入ると、雨はほとんど降らぬまま、梅雨は明けてしまった。連日35度を越す猛暑。
 私は、大学最初の学科試験の勉強に忙殺されていた。
 この家にはエアコンが居間にひとつしかない。もともと夏は涼しい風が通る、日本式家屋なのだ。
 だが、今年の猛暑は違った。
 地球温暖化の影響か、周辺のアスファルト道路や各戸の室外機の影響か。
 冷房がないと、やってられない。
 自然と私の勉強は、居間の大きな桜の和卓の上で、繰り広げられることになった。
 ディーターも私の隣で、ノートパソコンを使ってプログラムを打っている。祖父もそのそばで、お茶をすすっている。
 なんのことはない。こんな広い屋敷の中で、私たち3人は朝から夕方まで、ご飯も仕事も勉強も一部屋で済ませていたのだ。
 私が大学に行っているときも、ずっと祖父とディーターはいっしょに過ごした。
 ディーターにとって、亡きグリュンヴァルト博士と同年代の私の祖父は、ともにいてほっとする存在なのだろうなあ、と私は思う。
 そして祖父にとってもディーターは、孫の夫という以上の存在。
 祖父は13代目の葺石流の当主として4人の子どもに恵まれたが、流派を継ぐべき長男である父が家を飛び出してしまった。
 そして医者になり、結婚し、今度こそと期待をかけた内孫が、女の私一人。
 3人の娘の息子たちにも望みは託したが、葺石流に興味をもつ子は誰もいなかった。
 ある意味家族からも疎まれ、孤独だった祖父にとって、初めて男として腹を割って接することのできたのが、実はディーターだったのだ。
 私との結婚によって、彼に当主を譲れるかもしれないという野望が、祖父の中に芽生えてきたのは当然かもしれない。
 彼が外国人であることも、その体の障害さえ、祖父には何でもないことに見えたと思う。
 だからこそ、祖父は私たちと別居することを望んだのだ。
 あまりにも過大な期待を、私たちに負わせないため。あまりにも精神的に私たちに寄りかかろうとする自分を、抑えるため。
 私のことを気遣ってくれる気持ちもあったと思う。
 私も正直に言うと、このとき少しバランスが危うくなってきていたのだ。
 今まで通り祖父や伯母さんのもとで、葺石家の子どもとして振るまいたい自分と。
 ディーターの奥さんとして、彼のことだけ考えていたいと願う自分と。
 二つの役を同時に演じることはできない。
 年の功で、祖父にはそのことがわかっていたのだろう。
 祖父が別居を望んでいる、ということを私から聞いたディーターは、最初ショックだったようだ。
 どうして? せっかく、家族が同じ家に住んでいるのに。
 ある日の早朝、彼は庭で、祖父と長いあいだ話し合っていた。
 このふたりの会話って、どこまで日本語かどこからタイ語かわからなくって、おもしろいよ。聞き耳を立てても、何を言っているかさっぱりで、すこし悔しいが。
 結局私たちは、新しい住まいを見つけ次第、移り住むことになった。


 鹿島さんと茜さんは、私たちの披露宴のため大車輪で動き始めてくれた。
 場所も日時も、とにかく一切をふたりにお任せした。
 日取りは、太秦の撮影所のスケジュールの空きに合わせて、8月の最後の日曜に決まった。
 祖父の招待客だけでも、映画業界の関係者が大勢見こまれていたからである。
 それ以外に葺石の親戚、道場の門下生、私の友人も合わせたら、結局80人は有に越してしまった。
 こういうリストは、油断していると雪だるまのごとく増えていき、収拾がつかなくなる。
 私は試験勉強のあいまに、招待状書きにてんてこまい(ディーターはどんなに手伝いたくても、こればっかりは無理だ)。
 会場は茜さんの紹介で、京都の由緒ある料亭の2階を、破格の料金で借りることができた。
 花嫁衣裳も、太秦の衣装係からレンタルしてすます。
 なにせ時代劇用の衣装だからちょっと普通と違うだろうけど、それも珍しくていいってことで。
 ふたりの気配りで、私たちは、5万マルクの予算を大幅にセーブすることができた。
 それにもう一つ、鹿島さんはすてきな申し出をしてくれた。
「夙川の俺のマンション、きみたちに譲るよ」
「えっ。ほんまに」
「築10年やから、路線価格でいい。分割払いで、利子もおまけしたる」
「鹿島さんは、どこへ行くの?」
 ……京都。
「え?」
 太秦の近くに、新しくマンションを買う。
 照れ隠しに怒ったような表情をしながら、鹿島さんは答えた。
「今でも半分、京都にいるようなもんやからな。こっちへ来るときは逆に、葺石の離れにでも泊めてもらえばええんや」
「茜さんと、結婚するんだね」
 ディーターの鋭いつっこみに、鹿島さんは、男らしい太い眉を片方上げて苦笑いする。
 いや、いっしょに住むだけや。籍を入れるのはもっと先のことになる。
 今は、これがせいいっぱいやった。でも……。
「きみたちの、おかげや。感謝してる」
「よかったね。鹿島さん」
 鹿島さんと茜さんの来し方を知っている私は、思わず感激して泣いてしまう。
「それよりふたりに、結婚のお祝いをしようと思って、まだやったんやけどな」
「いいわよ。マンション譲ってもらっただけで、十分」
「これは買うてもろたんやから、お祝いやあらへん。一応仲人やし、なんかちゃんとしたもん贈らな」
 私とディーターは、顔を見合わせた。
 鹿島さんは、せいぜい洗濯機とか食卓とかを、考えていたのだと思う。
 私たちは鹿島さんをヘップナビオに連れて行き、2階の「銀座英○屋」で、ディーターに最高級のオーダーメイドのスーツを一着、私も同じモールの店で、うんとすてきなフォーマルドレスを一着買ってもらった。
 給料の1ヶ月分が飛んだと、あとでぶつくさ文句を言われたけど。
 私たちにとっては、思い入れのある大事な買い物だったのだ。
「そのかわり京都で、うんと手伝ってもらうで。いいな、ディーター」
「いいですよ」
 このとき鹿島さんは引越の手伝いをしろと言っていると思ったと、ディーターはあとで弁解した。
 そうでないことは、追い追い、明らかになる。


 7月も後半、長かったテストも終わって、大学は休みに入った。
 私たちは、朝は夙川にジョギングに出かけ、スーパーに買い物に出かけ、夜は花火をした。
 未来ちゃんのお墓にも参った。
 2年前私と過ごしたあの短い幸せだった夏のことを、ディーターはところどころ忘れていた。
 あの三宮での暴走族との乱闘事件も、すっかり記憶から抜け落ちていた。
 人格が統合された際に、一部の記憶が剥離したり、混乱したままなのだという。
 悲しかったけれど、思い出はまた作ればいい。
 私たちには、忘れた過去を終わりのない未来になぞり直すことができる時間がある。
 夕立が来そうではらはらしたある木曜日、鹿島さんと私たちの引越しが、同時に行なわれた。
 本とビデオで溢れていた鹿島さんの引越しは大変だったけれど、私たちのほうの荷入れは簡単に済んだ。ディーターにはほとんど荷物がなかったし、私も実家に不用なものは全部置いてきた。
 それと、中古の小型冷蔵庫。これを見たときディーターは、最高に嬉しそうだった。
 彼が菅さんのアパートのゴミ捨て場から拾った、思い出の冷蔵庫。捨てないでずっと家で使っていたのだ。
 葺石家からゆっくり坂道を5分ほど上がったところにある、2LDKのマンションが私たちの新しい住まい。
 後片付けを済ませ、しばらく新居の感慨にひたってから、私たちはまた坂を下って葺石家に戻った。
 ディーターは道場で稽古、そのままみんなで晩ご飯とお風呂をいただく。
「なんや、引っ越したと思たけど、今までとちっとも変わらんなあ」
 祖父が呆れたように言う。
 別にええやん。これが私たちの決めた、別居のあり方。
 私たちは、にっこりした。
 手をつないで、星空を見ながらまた坂道を上がって、マンションに帰る。
「ディーター。これからも、仲良くしようね」
 これから、20年。30年。おじいちゃんと、おばあちゃんになっても、ずっと仲良くしようね。
 私たちは、いっしょに生と死のはざまを乗り越えてきた。
 どんな苦しみが待っていようと、ともに生きることだけを願って、ここまで来たのだから。


§7につづく




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