「やっと、会えた」 クシロ航宙局管制センターからのムーヴィングウォークをくぐり出たとき、舞い散る白の景色の中で突然、声をかけられた。 ポートに今年初めて雪除けのエアドームが張られた日の夕刻。 「あんたの名前を調べるのに、火星中の航宙士に尋ねて回ったよ。【ギャラクシー・ヴォイス】の持ち主、三神ユナさん」 立っていたのは背の高い、吸い込まれそうなほど蒼い瞳の男だった。 「俺は、ランドール・メレディス。久しぶり。そしてはじめまして」 「乾杯」 七色に美しく輝くクォーツグラスを、かちんと合わせる音が響いた。 「俺たちの『再会』のために」 厳密に言えば今日は初対面のはずなのに、男は旧知の幼なじみと語るように、くつろいだ姿勢でカウンターに片肘をついた。 声で抱いていた印象よりずっと若く見える。20歳代後半か。厚い胸。太陽を思わせる金色の髪に、湖面を思わせる瞳。革ジャケットのラフな服装で、春の草原を駆けるのが似合いそうな男だった。 あの半年前の事故が思い浮かぶ。耳をすまさなければ聞こえないほどかすかな彼の声を、必死に捕らえようとした。何度も何度も彼の名を呼んだ。彼が生きていることを知ったとき、どれだけうれしかったか。 ユナは感慨のあまり、知らず知らず目の前の男に微笑みかけた。 「傷はもうすっかりいいの?」 「ああ、すっかりね。まさかあの約束を果たしに、俺が訪ねて来るとは思ってなかっただろう?」 「ええ。少なくとも当分のあいだは、あなたは忙しくて地球に戻れないと思ってたから」 彼女のやんわりとした皮肉に、彼は苦笑した。 「火星は俺のような犯罪者にとっては天国みたいな場所でね。刑務所は、一年中満員すしづめ状態。重大犯罪でないかぎり、数ヶ月から一年で仮釈放されてしまう」 「シップは?」 「もちろんスクラップ処分だよ。したがって俺はもっか失職中。まあ、命を失うことに比べれば、ましだけれどね」 半年前、火星近海で遭難したランドールの密輸シップのSOSを、クシロ管制センターの勤務についていたユナが偶然キャッチした。シップは大破し、酸素もあとわずかで底をつくというぎりぎりの状態で、彼は救出されたのだ。 銀河連邦警察に連行されるとき、ランドールが最後に残したことばが刑事をとおしてユナに伝えられた。 『デートの約束を忘れるなよ。お嬢さん』 そして、その約束を果たすべく、はるばるクシロまでやってきたのだと、彼は言った。その強引さに押され、ユナは帰宅せずにまっすぐここに来ている。 クシロに離着陸するクルーやポートスタッフたちのあいだで有名な、バー【ポンチセ】。ユナ自身も、夫のレイと初めて出会ったのはここだった。 【ポンチセ】とは、アイヌ語で「小さな家」のこと。濃いヒゲをたくわえた、熊を思わせる40代のマスターは、見知らぬ男に率いられて入ってきたユナを見ても、驚いたそぶりも見せなかった。もともとが口の堅い男だ。 ふたりがカウンターに並んで座ると、マスターはまずランドールからの注文を聞いたあと、ユナに対しては黙ってうなずき、いつものライムの利いた甘めのギムレットを即座にシェイクしてくれた。 「よく来るのか」 ことばを交わさないままユナのグラスにカクテルが注がれたのを見て、ランドールは尋ねた。 「ええ、夫といっしょに」 ふたりのあいだには、生死をともにした者たちだけが持つ気安さが漂い始めていた。ただユナのほうは、それを警戒する慎重さも、もちろん持ち合わせている。 ランドールは、自分の前に置かれた泡立つ淡い黄金色のモスコミュールを見つめながら、吐息をついた。 「この一杯のカクテルを飲むためだけに、俺は地球に帰ってきた。それなのに、1億キロ彼方のこのバーで会う約束をしたお嬢さんは、驚くなかれ、人妻だという。それも、シップ乗りなら誰でも知っている、キャプテン・レイ・ミカミのご令室だとは」 「気を悪くしたのなら、ごめんなさい。でもあのときは、それを言う暇などなかったわ」 「気を悪くしたわけじゃない。俺は死刑宣告されてもギリギリまであがく、往生際の悪い男でね。それは、あんたが一番よく知ってるだろう」 彼はいかにも愉快そうにクスクス笑ったかと思うと、いきなり真顔になって彼女をじっと見つめた。 「俺は、顔を見たこともない女性に会うために、最後の生きる力をふりしぼった。大袈裟じゃない、本当にそうなんだ」 突然、自分の上に注がれた熱を帯びたまなざしに、ユナは息が詰まりそうになる。 「あんたの声が聞こえたからこそ――俺は生きようと思った。俺が今ここにいるのは、ユナ、あんたのおかげだ」 「光栄です、ランドールさん」 とっさに慇懃(いんぎん)な言葉で応酬したユナは、自分が少したじろいでいるのを自覚する。 「声だけで人が人に恋するということを、信じられるか?」 「そういうことも、場合によってはあると思うわ」 慎重にことばを選びながら、ユナは答えた。 「でも、あなたの場合は違うと思います。あなたのように特殊な体験をした人の場合は。 『つり橋効果』という心理学用語をご存知? 危険な場所に居合わせた男女が、その危険ゆえに擬似的な恋愛感情に陥るという、一種の錯覚です」 ランドールは不快気に金色の眉をひそめたが、それでもからかうような様子を崩さなかった。 「防戦一方なのはお嫌いみたいだね。口説かれるより口説くほうが好き?」 彼は少しずつ身体を近づけてくる。その吐息をかすかに感じ、背筋に軽いしびれが走った。ユナはまさに今、危険のただ中にいた。 「あいにく、どちらも経験不足のようですわ。ランドールさん。私すみませんが、これで失礼します。 あなたと今日会えたことは心からの喜びでしたし、航宙管制官としても、あなたとの交信はよい経験となりました。お体を大切に、お元気で」 立ち上がろうとしたユナの手を、ランドールは逃がさぬように握りしめた。 ユナはきゅっと唇を結んで、彼をにらみつける。 「怒らせたのなら、赦してほしい。自分が性急なのはわかっているし、そういう性格のせいで今までの俺の人生は失敗だらけだった。もう少しだけ時間をくれないか。頼む」 見上げる彼の瞳は、熱帯魚の水槽の反射を写しこんで、青くせつなげに揺らめいていた。 ユナはゆっくりと元の席に腰をおろした。 「わかりました。節度をわきまえていただけるなら、もう少しお付き合いします」 「ありがとう」 ランドールはグラスをつまみあげると、うまそうに飲み干した。 「ここは、本当にいいバーだ。モスコミュールに本物のジンジャービアを使ってる。今はアメリカエリアでも手に入りにくいシロモノなのに」 「ええ、だから世界中のシップクルーが、ここのことを知っていると言われるわ。私も管制業務中に、よく場所を聞かれて困ります」 「それは、質問に乗じてあんたを誘おうという、奴らの魂胆だと思うけど」 「そんな約束をしたのは、たった一度ですわ」 ユナは微笑んだ。「そしてそのお約束は、今日果たしたわ」 「それじゃあ次の約束だ。またここで、俺と会ってほしい。その次も、さらにその次も」 「付き合えということ?」 「そういうことだ」 ランドールは、片手を伸ばしてユナの頬に触れようとして、彼女の柔らかいが断固とした拒否の視線に会い、そのまま諦めて手を下ろした。 「言ったと思うけど、私は結婚しています」 「わかっている。相手は宇宙一のパイロット、キャプテン・レイ・ミカミだ」 彼の表情に一瞬、無邪気なまでの闘争心がよぎる。 「しかし、どんなに彼が超人でも火星航路に乗り組んでいる限り、二ヶ月に一度しか地球には戻れない。俺はその間だけの恋人になりたいんだ。どうせ俺は自分のシップも失って、地球にいるしかない身だ。彼が地球に戻ったときは、おとなしくあんたを彼の腕の中に帰す」 「そんなこと、できるわけない」 「なぜだ? あんたの夫だって、火星で同じことをしている。俺の知る限り、火星航路に乗り組んでいる男で、火星に女を持っていないヤツなんてひとりもいないぜ。ひとりもだ」 「そう。あなたの知る限りではね。でも、あなたはレイ・三神のことを知らないわ」 揺るぎのないユナの返答に、ランドールは驚いたようだった。 「それほどまでに、彼を信頼しているのか。どんなに立派でも、生身の男だぞ」 「信頼できなければ、結婚はしなかったわ」 ユナはふたたび立ち上がった。 「諦めてくださいましたか。ランドールさん。これでデートは終わりです」 「いや、まだだ」 ランドールは素早くユナの前に立ちはだかり、彼女の肩を両手でつかんだ。 「諦めたりはしない。いや、むしろますます、その気になってきたよ」 まっすぐにユナをのぞきこむ彼の青い虹彩に、ほの暗い光が灯った。 「ますます、あんたをレイ・ミカミから奪ってやりたくなった」 カウンターのうしろで、【ポンチセ】のマスターが動く気配がした。客のトラブルを鋭く察知したのだ。もしユナが助けを求めて彼の方に視線を向けさえすれば、すぐにでも警備ロボットを呼んでくれただろう。 だが、ユナはそうしなかった。 「本心が出ましたね。ランドールさん」 彼女は落ち着きはらって、彼に微笑み返した。 「あなたは同じ航宙士として、レイに謂れのない敵愾心を持っているのね。私が彼の妻だと知ったとたん、私を誘惑して彼を裏切らせようと目論んだ。まったく不毛で、意味のない戦いだと思いますわ」 「そう思いたければ、思ってもいい」 ユナがかたくなに顔をそむけても、なおもランドールは顎に手を添えて、彼女の目を自分に向けさせようとした。 「やめて」 「やめるものか。俺には今日を逃したら、二度とあんたと会うチャンスはない。そう思っただけで、どうして腸(はらわた)がたぎるような気持ちになるのかわからない。あんたが俺を狂わせているんだ」 「もう、それくらいにしてもらおう」 突然、大きな手が伸びて、ランドールの二の腕をつかんだ。有無を言わせぬその力に、彼は痛そうに唇をゆがませた。 「その人は僕の妻だ。これ以上困らせるようなら、夫として黙ってはいられない」 そこにはレイが立っていた。口元に微笑みさえ浮かべ、声は落ち着いていたが、その裏に隠れている憤怒は、岩盤の下のマグマにさえ喩えることができただろう。 「あんたが、レイ・ミカミか」 ランドールは抗うことなく、相手の目を見つめたままゆっくりと手を降ろした。一目で相手の実力を天秤にかけたのだ。 「いつから、この店に?」 「つい、さっきだ。きみが無理矢理妻の顔に手を触れたあたりかな。自分のしたことを見てみるんだな。そして、僕の限りない自制心に感謝してほしい」 ランドールはそのことばにはっとして、ユナの顔に目を向けた。そして、その頬が指の痕に薄く染まっているのを見て、驚きとまどうような表情を浮かべた。 「俺は、どうかしているらしい」 「そのようだな。以後こんなことは二度とないと信ずるが」 「ああ、わかったよ。失礼する。……奥さんにすまないことをした」 ランドールは上着を手に取り、チェックをすませて店の扉に向かった。肩を落としたその後ろ姿は、興奮のあとで心なしか悄然としているようにも思えた。 レイは、いたわるようにユナの身体を手元に引き寄せながら、じっと彼を見つめていた。 「待ってくれ。ランドール・メレディス」 彼はぴくりと立ち止まり、いぶかしげな表情で振り向いた。 「きみは、二級航宙士のライセンスを持っているんだったな。半年前に、所有していたシップを事故で大破させ、目下のところ次の職にもついていない」 「それが、どうしたと……」 噛みつくように答えたランドールは、向き合っている男の寛大な微笑に、語尾を失った。 「僕の火星定期シップYX35便に乗る気はないか」 「なんだと?」 「航宙士として雇うわけにはいかないが、ラウンジ・クルーのポストがある」 「……はやい話が、雑用ってわけか」 「だが悪い話ではない。申し訳ないが、火星法務局に問い合わせて、きみのことを少し調べさせてもらった。壊れたシップのローンに、航宙法違反の罰金も含め、きみには莫大な借金があるはずだ。より好みしている場合じゃないと思うが?」 黙りこんでいるランドールに、レイは一枚のカードを差し出した。 「もしその気になったら、これを持ってクシロの航宙局に出頭してくれ。話は通しておく。次の出航は来週木曜だ。待っているよ」 無言のまま受け取ると、金髪の男は身体を翻して、ドアを出て行った。 「あれが、レイ・ミカミか……」 ランドールは、クシロの繁華街の光の洪水の中で立ち尽くしていた。 「確かにたいした男だ。だが、誰にも弱点はある。妻に言い寄る男を自分のシップに乗せておけば、引き離して自分の監視下に置ける。おおかた、そういう魂胆なんだろう」 屈辱に拳を震わせながらも、彼はひとり笑みを浮かべた。 「それでもいいさ。俺はこの話をありがたく受け、逆手にとって利用してやるだけだ。 見ていろ、レイ・ミカミ。――いつか、おまえに吠え面をかかせてやる」 「レイ。さっきから浮かない顔をしているわ」 雪雲の消えたクシロの夜空は、怖いほど冴え冴えと星がまたたいていた。 「彼がきみに触れたとき僕は声をかけられなかったのは、忍耐からじゃない」 黒々と濡れた舗道にオレンジの街灯がまばゆく映る。身体を寄せ合って帰途に着く途中、レイは足元を見つめながら言った。 「きみが一瞬、奴に見惚れていたようだったからさ。少なくとも僕にはそう見えた」 「あなたったら」 ユナは思わず吹き出す。 「私は、あなたの助けが遅いので途方に暮れていただけ。彼といっしょに『ポンチセ』に行くことをメールしておいたのに、いくら待っても迎えに来てくれないんだもの」 「僕の邪推だと思っていいのかな」 「あたりまえよ。もし私が少しでもほかの男性に心を傾けたとしたら、結婚式を挙げた月のチャペルに行って、懺悔するわ。そしてもう一度あのときと同じことばをあなたに誓う。それに」 ユナは、愛する夫にますます強く身体を押しつけた。 「彼はあなたがキャプテン・三神だから、私に近づいただけなのよ。あなたの自尊心を傷つけるために。自分でもそう認めていたわ」 「いや、むしろ事実は反対だと思うよ」 なおも憂鬱そうに、レイが答えた。 「ランドールはそれほどまでに、きみに心奪われている己自身を認めたくなくて、僕への挑戦にすり替えて、自分を納得させようとした」 「それは、どういう意味?」 「やれやれ」 彼は、呆れたように首をすくめた。 「奥さま。きみはいつも自分を過小評価しすぎだよ。その美貌と魅力がどれだけたくさんの男を惑わしているか、自覚したほうがいい。僕はいつも火星航路にいるあいだ、きみを取られるんじゃないかと気が気じゃないんだから」 「まさか。私があなたに心配しこそすれ」 レイは立ち止まると、反論しようとする妻の唇を、有無を言わせぬキスでふさいだ。 「この話はやめよう。ランドールはもう、僕のシップの一員なのだから」 「さっきの話は、やっぱり本気なの? レイ」 「ああ、本気だよ」 ふたりは身体を離し、また歩き出した。 「彼については、いろいろ調べたんだ。――いろいろね」 意味ありげにいったん口を閉ざす。 「ランドール・メレディスは埋もれるには惜しい人間だよ。そして、彼はこの話を断らないはずだと確信している。僕と同じく、宇宙の女神に魅せられている男ならば」 「でも、YX35便には」 レイはそれきり、家に帰りつくまで何もしゃべろうとしなかった。 『宇宙でのキャプテン・レイ・三神』といっしょに乗り組むことがどれほどの悪夢か、ランドールはまだ知らない。それに、【ラウンジ・クルー】などという職名は、YX35便には存在しないはずだった。 レイはいったい何を考えているのだろう。思わず、あの可哀想な男に同情の気持ちを寄せそうになったユナは、このことも懺悔に値することかどうか、しばし悩んだ。 題名の「scrambles」という英語には、「奪い合い」という意味があるそうです。 |