「ただいま」 玄関の扉をくぐったとき、レイは二ヶ月ぶりのわが家に訪れている異変に気づいた。 パイロット専用の広いレジデンスの内部は、いつもと違う重い静けさに包まれていた。窓の外の裏庭は夕闇に沈み、咲き誇っていた花々が降り続く雨に打たれて、頭を重く垂れているのが見える。 「ユナ」 居間のソファに、外出用のコートを羽織ったまま座っている妻の姿を見つけ、ほっとして呼びかけた。 「きみも今帰ったばかりなのか。今日は研修センター勤務だったそうだね。生方(うぶかた)次席が管制中に教えてくれたよ」 答えはない。 いぶかしく思ったレイは、ソファに歩み寄り、はっと息をのんだ。 そこにいたのは、まるで雨にうなだれる大輪の花だった。着ているものや髪も雨で濡れている。だが、彼女の頬には、明らかに雨のしずくではないものが伝っていたのだ。 「いったい――何があったんだ」 その問いかけに、初めて彼の存在に気づいたというようにユナはゆっくりと視線を彼の顔に定めた。そのとたん、またあらたな涙が目の縁にあふれる。 「レイ。お願い」 その日、キャプテン・レイ・三神を地球に迎えたのは、いつもの美しい【ギャラクシーヴォイス】とはほど遠い、消え入るような懇願の声だった。 「怒らないで、私の話を聞いて」 「ランドールは、何か誤解しているようだった」 横に座った夫に肩を支えられても、なお全身をこわばらせながら、ユナは話し始めた。 「いきなり現れて、あなたのことを卑劣な男だと言った。私をあなたから助けてやる、そう言ったの。そして――」 膝の上できゅっと両手の指をからみあわせた。長い逡巡のあと、 「彼は私に……キスしたわ」 ついに告白したとき、肩を抱く夫の手がかすかに動いた。 「とっさのことで何が起きたのかわからなかった。やっと突き飛ばして、うしろも見ずに逃げ出したのだけど。恐くて……今でも、足に力が入らなくて……」 レイは沈黙を保ったままだった。ただ、浅い呼吸の音が聞こえる。 「私がうかつだったの。ごめんなさい。自分の身も守れないなんて……情けなくて、悔しい」 「きみのせいじゃない。きみに何も落ち度はない」 ようやく、夫の低い声が返ってきた。 「落ち度があるとすれば、それは僕のほうだ。ランドールと航海中に少しいさかいを起こした。そのことが原因で、奴は僕をどうしようもない悪党だと思い込んでいるようだ」 「そうだったの。それで……」 「だから、きみが何も心配することはない」 レイは微笑んだ。だが、その微笑は、どこかよそよそしい。冷たい欠片がはさまっているみたいだと、ユナは感じた。 「レイ。やっぱり怒っているの……?」 「何を、怒る必要がある? きみは何も悪くないのに」 「でも……怒っているわ」 レイは彼女の肩に置いていた手を背中に回して、自分の胸に強く抱き寄せると、その髪に唇で触れた。 「僕が怒っているのはね。――きみの無邪気さだよ」 「え?」 「そんなこと、きみは話すべきじゃなかった。なぜ話したんだい? 僕を地獄に突き落とすことがわかっていて」 「レイ……?」 ユナは背筋に凍えるものを感じて、夫の顔を見た。さっきまでの微笑は消えていた。その薄茶色の瞳の奥は、まるで火口の縁から深淵の中をのぞきこんでいるようだ。 「正直に打ち明けて、きみはほっとしただろう。自分の貞淑さを証明できて、鼻高々だろう。だが、そのおかげで俺の脳髄には、あいつがきみに触れている場面が焼きついてしまった。さっきからずっと、映画のように何度もリプレイして見ている」 レイの手が彼女の顎をつかみ、親指がぐいと、唇をなぞって動いた。 「この唇は、帰ってきて洗ったのか? それとも、洗わないまま熱い余韻にひたっていたのか? ここには、今でもまだ、あの男の唾液がついたままなのか?」 「レイ! やめて」 夫は妻を残して立ち上がり、煮えたぎるような目で見下ろした。妻はソファの背に自分の体を押しつけ、恐怖に震えながら夫を見上げた。 「なぜ……そんなこと言うの。私がランドールにキスされて喜んでいたとでも言いたいの?」 「じゃあ、なぜあれほど動揺した? なんとも思っていない奴から受けたキスなど、犬にかまれたようなものだろう。それなのに、何故そんなにうちのめされたんだ? 奴に魅かれているからこそ、きみは自分の想いを必死で否定しているんだ」 「違う――違うわ」 いつものレイ・三神ではない。完全に常軌を逸している。あまりの無力感に、ユナは声を荒げて反論することすらできなかった。 「どうして、わかってくれないの。私が愛してるのは、レイ、あなただけなのに。何をどう証明したら、わかってくれる?」 「……」 「何をすればいいか、私に言って。月に行って誓えと言うなら、百回だって誓うわ。あなたの言うことなら、何でもする。レイ、お願い……」 「本当に?」 「本当よ」 「地球にいるあいだ、二週間ずっとだぞ」 「ええ、二週間ずっと……え?」 気がついたとき、鼻の頭にちょんとキスされたのを感じた。伏せていた目を驚いて上げると、いつものように穏やかな微笑を浮かべているレイの顔が前にあった。 「ごめん、少し意地悪の度が過ぎたようだ」 「え?」 「でもね、二ヶ月ぶりに地球へ帰ったばかりで腹ペコでお預けを食らわされているときに、こういう話を聞かされるのは男としてまったく面白くない。それで、ちょっと腹を立てたふりをしようとしただけなのに、思いのほか演技に念が入りすぎてしまった」 「お芝居……だったの」 「決まってるじゃないか」 レイは、愛しくて愛しくてたまらないというように、ユナの顔のあちこちにキスした。 「どうやったら、きみに愛想をつかしたりできるんだ。僕が教えてほしいくらいだよ」 「レイ……レイ!」 彼女は、彼の首に手を回して、泣いた。安堵のためか、自分でもびっくりするぐらい涙があふれた。 レイを永久に失ったのかと思った。その恐怖に今でも体がマヒしている。 「レイ、愛してる」 「僕もだ、ユナ」 ふたりはソファの上に倒れこんだ。ユナは雨に濡れたコートのまま、レイはプルシアンブルーの航宙士の制服のまま、長い長い口づけをかわした。 「待って、腹ペコなんだったわね。昨日から煮込んでおいたグラーシュを暖めてくるわ」 「そんなもの。僕の食欲のターゲットは、目下こちらのほうだ」 陽が高くなった頃ユナが目を覚ますと、ベッドの隣は空になっていて、色とりどりの文字が明滅する球形のホログラム・メッセージが、枕元で踊っていた。 『許可があるまで、ベッドから出ないこと! 船長』 え、どういうことかしら。 考えこんでいると、隣のキッチンから鼻歌が聞こえてきた。そして、ドレッシングの酸っぱい香りや、魚をソテーするバターの香り、コーヒーミルの回る音。 (レイったら、すごく凝った朝食を作っているんだわ) ユナはくすくす笑うと、もう一度枕に頭をつけてそのまま目を閉じた。ゆうべ幾度もレイと愛し合った余韻が、体中に幸福な気だるさを残している。油断すると、あっというまに夢の世界に引き戻されそうだった。 だが、結局すぐに目を開くと、もぞもぞと足を動かしたあげく、ため息をついて起き上がった。ベッドの縁に腰かけて、そっと床に足をつけようとする。 「やれやれ、船長命令への不服従は、重大な処罰対象だな」 呆れたような声。白いコットンセーターにデニム、エプロン姿のレイが腕組みをして、部屋の入り口で睨んでいた。 「あ、ごめんなさい。でも」 「僕の言うことを何でも聞く。そう約束したんじゃないのか?」 「え? いつ?」 「ゆうべ二度も復唱させたぞ」 「あ、ああ。だってあれはお芝居だったって……」 「芝居でもなんでも、約束は約束」 レイはベッドに屈みこむと、妻の両肩を押し戻して、もう一度寝かせた。 「今日の朝食は、女王様の朝食だ。ベッドまで運ぶから、きみはそれまでここから一歩も出ないで待っていること。いいね」 「わかったわ、でも……」 ユナは、頬を赤らめた。「バスルームには、行っていいでしょ?」 「だめだ」 「そ、そんな」 「しかたないな」 レイは、いたずらめいた笑みをうかべると、ひょいとユナの体を横抱きにベッドの上からすくいとった。 「きゃっ!」 「一歩も歩かずにすむように、送迎してさしあげよう」 バスルームの所定の場所に座らされた後も、夫はいつまでも出て行こうとしないで澄まして立っている。ユナはパニックに陥った。 「レ、レイ、外にいてくれるかしら。すんだら呼ぶから」 「女王様のお望みとあらば」 「望みます」 「それじゃ、仰せのとおり」 いかにも残念そうに、肩をすくめると、 「シャワーを浴びるときは、お呼びください、女王陛下。すみずみまで洗ってさしあげますので」 「呼びません!」 レイの楽しそうな笑い声が、扉の外に消えていった。 『女王様の朝食』という名にふさわしい豪華な食事が終わると、今度はレイの自室に連れていかれた。 そこには、執務用のデスクといっしょに、バイオリンや絵のキャンバスなどが置かれている。 地上にいるときのキャプテン・レイ・三神は、多忙にもかかわらず驚くほど多趣味だ。 油絵もそのひとつで、火星滞在中、ほとんどの時間をクリュス市内や郊外のホテルの最上階にこもって、その窓から見える火星の景色をキャンバスに写し取るのが常だった。 壁には、セザンヌを思わせるタッチで描かれた最高峰のオリンポス山、ライオット・クレーター、マリネリス渓谷などの絵が掲げられている。 「今日はきみを描いてみたいんだ。モデルになってくれるね」 何でも言うことを聞くという約束をいいことに、レイは水を得た魚のようにきびきびと動いている。 ユナが彼の指し示した安楽椅子に座ると、彼は首を傾げた。 「そのナイトガウンは脱いでくれないか」 「え?」 まだ夜着のままだったユナは、ガウンを取ればその下はフリルのついたインナーひとつだ。軽く薄い生地で、乳首まで透けてしまっている。 しぶしぶとガウンを脱ぎ、居心地悪そうに座ると、レイはまた不満げに口をとがらす。 「そのポーズが気に入らないな。もっとセクシーに。そうだな、脚を広げて胡坐をかくみたいに」 「ええっ?」 腰までしか丈のないインナーひとつで脚を広げたら、下着が丸見えになってしまう。 「こ、こんなの恥ずかしい」 「僕しか見てないだろう」 「でも、絵になって残るんでしょ。もし、誰かの目に触れたら……」 「わがままなモデルだな」 レイは大げさに溜め息をついた。「なんでも僕の命令を聞くんだったろ」 「……」 「わかったよ。それじゃ、これを持つことにしよう」 レイは寝室から小さなクマのぬいぐるみを取ってきて、彼女の手に握らせた。 それは、ユナが子どもの頃両親に買ってもらった、お気に入りのぬいぐるみだ。大人になったユナが持つと、ほとんど手に隠れてしまいそうなしろもの。下着を隠すには、ないよりマシといった程度だ。 「いいね。じゃあ動かないで」と宣言すると、レイは真剣な目でじっと妻を見つめながら、キャンバスの向こうで絵筆を動かし始めた。 彼の薄茶色の目がユナの全身にくまなく注がれ、次いで髪に、瞳に、唇に、肩に、乳房に、腹に、脚にと、順に移動していく。 あるいは熱っぽく、あるいは研究者のように、まぶたを閉じ、開き、ときには凝視し、ときには逸らし、何度もそうされているうちに、ユナは、自分に注がれている夫の視線を敏感に感じ取れるようになってきた。彼が見つめている体の箇所が熱い。離れているのに、まるで指でそっと全身を愛撫されている心地だ。 内から湧き上がる、疼くような快感にうっとりと身を委ね始めた頃、夫の「終わったよ」という声がかかった。 「できたの?」 「いや、まだ途中だけど、見てみるかい」 長いあいだ姿勢を変えなかったせいか体が痺れ、ふらふらと椅子から立ち上がったユナは、キャンバスのうしろに回って絵を覗き込んだ。 「ええっ?」 「はは、力作だろ?」 大笑いする夫が指差したキャンバスにはユナの姿はどこにもなく、描かれているのは、茶色の古ぼけたぬいぐるみのクマたったひとつだけだった。 涼しい風の立ち始める夕方になると、レイは妻を外出に誘った。 彼が差し出した服は、ユナのワードローブの中では、一番タイトで、しかも使用されている生地の面積が最小のものだった。結婚前に一度袖を通したきり、恥ずかしくてクローゼットの奥に押し込めていたのだ。 「レイ、無理よ、こんなの」 「今日のきみには似合うはずだよ」 約束を盾に取られる一日を過ごし、もう何を言っても無駄だということを学んだユナは、あきらめてそれを身につけ、髪を服に合わせて結い上げた。 外に出たとたん、道行く男性の視線が一斉にからみついてきた。今日ずっと夫の視線を受けていたユナは、それらを痛いほど鋭敏に感じ取れるようになっている。 恐れと羞恥に身を縮め、夫の体にぴったりと添うように歩く妻を、レイは腕を回してぎゅっと抱き寄せた。まるで鳥が翼を広げて雛をすべての外敵から守っているように。 レストランでの軽い食事が終わると、次にレイが彼女を連れて行ったのは、プラネタリウムだった。 「予約していた三神だが」 「ハイ、プライベートルーム、デスネ」 係のロボットが案内したのは、団体客用の大ドームとは別に、いくつかある特別個室だった。部屋の中央に大きな無重力リクライニングチェアが置かれている。 ふたりが横になると、体の下にあった椅子の感触はふわりと溶けたようになくなり、それとともに壁や天井は無限の空間へと退いて行った。神秘的な音楽が、聴覚を柔らかく刺激する。 上下左右、あらゆる方向に映し出された満天の星空は、宇宙空間そのものだった。 「ユナ」 静かな声でレイが言った。 「手を握っていてくれ」 「レイ、でも……」 「いいんだ」 差し出された夫の手は小刻みに震えている。 「ここが人工的に作り出された宇宙であることは、頭ではわかっている。わかっているのに、このザマだ。4歳の頃からちっとも変わっていない」 ユナは黙って、ただ夫の手を強く握り返した。 「アステロイドベルトでの衝突事故のあと、両親を失った僕は、ハンガリー人の母方の祖母のもとに預けられた。美しい故郷だ。もう何百年もあそこの風景は変わっていない。夜になると、まるで挑みかかってくるような星空が見えた。だから、僕は何年ものあいだ、夜は決して外に出なかった」 寂しそうに微笑む。 「寝るとき、灯りを消すこともできなかった。狭い部屋にひとりでいることも。長い静寂の中に置かれることも。宇宙のあの暗い空間とシップの内部を少しでも連想させるものに、耐えることができなかったんだ」 レイはすっと長い腕を伸ばして、天井の星を掴み取ろうとしたが、映像はその指先からこぼれた。 「祖母は気持の広い暖かな女性でね。決して焦らず、ねばり強く、自分の中の恐怖と戦うことを教えてくれた。彼女のおかげで、今の僕がある。もう十年前に亡くなってしまったが」 「ええ……」 ユナは、フィルムだけでその姿を知っていた。美しく凛とした女性。彼女の秘伝のグラーシュの味を、習いたかった。 「きみが、ランドールに魅かれていることを知ったとき」 レイは星々を仰ぎながら、続けた。 「きみを失うということがどんなことか、あらためて理解したよ。恐怖にすくんだ。もう一度、乗っているシップから放り出されて、あの宇宙空間を漂うのと同じ心地がした」 「レイ、私は……」 「昨夜のあれは、演技なんかじゃなかった。僕はきみのために、あれほど惨めにうろたえることのできる男だ」 彼は身をよじると、星明りに淡く照らされた妻の頬をさぐった。 「ユナ。覚えておいてくれ。僕にとっての居場所はYX35便でも地球でもない。きみの中だけなんだ」 「レイ」 ユナはきらきらと涙をこぼしながら、彼の手のひらの感触に身を委ねた。 「今日私は何でもあなたの言うことを聞くと誓ったわね。お願い、真実を話せと命令して」 「真実を……話してくれ」 「あなたを愛している。私にとっても、あなたが唯一の居場所なの」 「ユナ」 ふたりは無重力の中で横たわったまま、とうとうお互いの唇を探し当てた。 プラネタリウムから外へ出たふたりは、クシロの繁華街を子どものようにはしゃいで歩き回った。 男たちからの粘っこい視線は相変わらずだったが、今のユナには、もはやまったく感じないものだった。 レイだけが、彼女の視界の、関心の、愛情のすべてだったから。 地球の自転が、夜を静かな間(あわい)の時へと導くころ、三神夫妻は長い影を踊らせながら家路をたどった。 「疲れたわ。大変な一日だった。もうこりごり」 ユナがふーっと、満足の吐息をついた。 「奥さま。忘れていませんか」 レイは内緒話を打ち明けるように、楽しげに耳にささやいた。 「僕は確か、約束は二週間と言ったはずだが」 「えっ?」 「だから、次にYX35便が火星に出発するまでの毎日、きみはなんでも僕の言うことを聞かなければならないということ」 「うそ……」 ユナは茫然自失のあまり、よろよろと夫の腕の中に崩れこんだ。 「こんな毎日があと13日続くと思うと……」 幸せで目がくらみそうだ。 |