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ギャラクシー・ヴァカンス 5
〜 Galaxy Vacances 5 〜








 ここに来るのは、ずいぶん久しぶりのような気がする。
 ユナは、カウンターの一番端の席に腰かけると、店内を見渡した。
 夫と初めて出会ったバー。あのとき彼女が飲んでいたカクテルが倒れて、ころげ出たチェリーをつまみあげて食べてしまったのが、隣に座っていたレイだったのだ。
 今思い出しても笑ってしまう。恋に落ちるにしては、あまりに奇妙な出会いだった。
 数ヶ月後ふたりは結婚し、二ヶ月のフライトが終わってレイが地球に帰還するたびに、このバーで待ち合わせる日々がもう三年続いている。
 だが、今日はいつもとは違っていた。
 夫が恋人のように大切に思っていた女神、YX35が廃船になる、その最後の搬送のフライトが今日だったのだ。
 長年乗り組んだシップの廃船に、レイがどれほど心を痛めているだろうと思うと、ユナは夫がこのバーに入ってきたとき、何と声をかけてよいかわからなかった。
 管制誘導のときは、普段と変わらぬ明るい声が出せるようにと、それだけを心に念じて務めた。
 だが、ここでレイの顔を見たら、泣き出してしまうかもしれない。
(泣いてはだめ。笑顔で、『ご苦労さま』と言おう)
 自分に何度も言い聞かせる。
 いつもならば、それはたやすいことだった。だが今のユナは、それすらも難しい心の不安定な自分を感じている。
 喜びに満ちていたはずの四ヶ月のヴァカンスが、わずか十日で打ち切られた。それからの一ヶ月、レイは一度もユナを抱いてくれないのだ。
 ベッドの上で、いつも背中を向けてしまう。キスをするときでさえ、まともに彼女の顔を見てはいない。そこにいるのに、すでにいない人のよう。それはちょうど、火星へのフライト当日の朝、ユナが夫の顔をまともに見られないのと同じだった。
 明らかに、レイは彼女を避けている。
 廃船と代替シップの就航のための膨大な手続きに追われ、夫が連日の激務で疲れていることは、わかっているのだ。でも、頭ではわかっていても、妻として満たされない日々が続くと、心に小さな穴が巣食い始める。
 その穴はいつもなら、ほんの小さな冗談や軽い抱擁や、愛情をこめた視線を交わすだけで埋まってしまうものなのに、今のふたりには、それさえもない。
 まるで穴の縁から悪魔に毒を少しずつ注ぎ込まれているように、ますます互いの距離は広がっていく一方なのだ。
 ユナはため息をついた。
(その忙しさも今日で終わる。来年早々の新しい定期便のフライトまで、しばらくは穏やかな毎日が続くはずだわ)
 無理に自分を納得させながら、また酒を口に含む。
 あの日と同じ、ブルーコーラルリーフ。ユナの大好きなカクテルだ。
 熱帯魚の水槽に囲まれた『ポンチセ』のカウンターでこれを飲んでいると、南の青い海にたゆたっている気分になれる。そして、発光チェリーのぼんやりした赤い光は、小さい頃からあこがれていた火星を思い出させる。
 入り口のドアが開く気配がして、ユナはぱっと顔を輝かせた。
 レイに違いない。予定では、サテライトからのシャトル便がとっくに着いている時刻だもの。
 ユナはそう確信して振り向いた。
 だが、そこに立っていたのは――夫と同じプルシアンブルーの制服を着た、ランドール・メレディスだったのだ。
 彼は固い表情を崩さずに、ユナをまっすぐに見つめた。そして近づいてきて、いきなり隣に座った。「いいか」とも問わない。
 ユナは戸惑った。狭いバーのカウンターの片隅に座っていたから、彼の大きな身体で隣をふさがれては、逃げ場がない。
「お久しぶり」
 無理に笑顔を作った。
「2125時着のシャトル便で帰ったきたのね。それじゃあ……」
「キャプテンは、来ない」
 ユナのもの問いたげな視線を浴びて、ランドールはぶっきらぼうに答えた。
「え?」
「少なくとも、今着いたシャトル便には、乗っていなかった」
「機体の引渡しが終わらないの? もしや何かトラブルでも」
 ランドールは、無言だった。どう切り出せばよいか、迷っているような横顔だ。
 熊のような髭を生やしたマスターが、かすかな懸念を隠しながら、ランドールの前にモスコミュールを置いた。何も言わなくとも最初の一杯が出されるとは、彼もこの店には足しげく通っているものと見える。
 一口含むと、ランドールはしわがれた声で言った。
「ずっと前、俺は約束した。あなたをキャプテンから奪おうなんて思っていないと。あなたが望まない限り、指一本触れる気はないと」
 何を言い出すのだろう。カウンターに置いていたユナの手に、自然と力がこもる。
「前言撤回する。俺はあなたをキャプテンから奪う。たとえあなたが嫌がっても。腕づくでも」
 ユナは素早く立ち上がろうとした。
 ランドールはくるりと椅子を回転させ、彼女に膝をつきつけるように座った。その拍子に、ユナの腰は力を失い、ふたたび椅子に落ちた。
 ユナは震え始めた。彼の乱暴な仕草におびえているわけではない。もっと恍惚とした恐怖だ。ランドールの深い大空のような青の瞳を間近で見ていると、自分が変わってしまいそうになる。その恐怖だった。
「やめて。レイが来ないなら私は帰ります。そこをどいて」
「ひとつだけ教えてほしい。あなたは俺のことを少しは想ってくれているのか」
「そんなこと、あるわけないじゃない!」
 言下に否定しながらも、ユナの脳裡には、あのホームパーティの夜のことが痛みとともによみがえってくる。
 ランドールの飲み残したモスコミュールを口に含もうとした、あの一瞬の、信じられない自分の行動が。
「キャプテンは、あなたが俺を愛していると言っていた」
「……なんですって?」
「自分で気づいていないだけだと――本当なのか」
「……レイが」
 レイが、そんなことを。
 だから、彼はずっとユナを避けているのか。誤解している。完全な誤解だ。
「どいて。今すぐよ」
 静かに燃え上がる火のような怒りに、ランドールは身体を引くようにして少し捩った。
 ユナはその隙間をすり抜けて、店を飛び出した。
 華やかなライトで彩られた夜のクシロの街を、家へと足早に急ぐ。
「待ってくれ」
 後ろから、ランドールの追いすがるような叫び声が聞こえた。
「どうしても、話しておきたいことがある」
「まだ何か――御用ですか」
「キャプテン・三神は、あなたの思っているような誠実な男じゃない」
「妻の私よりも、あなたのほうがレイをよく知ってるというの?」
 ユナは振り返り、彼をにらんだ。
「少なくとも、今はそうだ」
 ランドールは言葉を選びながら、視線を宙に泳がせた。
「ユナ。……あいつはあなたと別れるつもりだ。俺の目の前でそう断言した」
 首筋が、ぐいと後ろから引き戻されたような衝撃を覚えた。
「嘘よ……」
「キャプテンが俺に嘘をつく理由なんてない」
 彼は苦しげな表情で、まっすぐにユナを見つめた。
「俺は何もできない、何も持ってない、駄目な男だ。だが少なくとも、キャプテンに勝てることがひとつだけある――俺は、あなたを愛している。あいつのように、あなたを公然と裏切る真似だけは絶対にしない!」
 ユナは何も答えずに、踵を返した。
「ユナ!」
「私に、近づかないで!」
 去っていく彼女の後姿を見つめながら、ランドールは髪の毛をかきむしった。
 臓腑から吐き出すような必死の叫びも、最後までまともに受け取ってもらえなかった。
「自分の目で確かめるというのか……。そんなことをすれば、傷つくのはあなたなのに」


 家の中は真っ暗だった。
 なんとかしてレイへの通信手段をと、コンピュータの端末に向かいかけたユナは、夫の制帽と胸の徽章がテーブルの上に置かれているのに気づいた。
「レイ!」
 彼女の顔がぱっと輝く。「いるの? 帰っていたの?」
 やはりランドールの言うことは嘘っぱちだった。そうに決まっている。
 しかし寝室に入ったとき、ユナは息を呑んだ。
 寝室にも明かりひとつ灯ってはおらず、夫は航宙士の制服のまま、庭に面した窓のそばに立っているのだ。
「Put out the light.(明かりを消せ)」
 彼は何かの台詞を詠じていた。「――and then put out the light.(そして彼女の命の火も消すのだ)」
 その横顔は、まるで仮面のように冷たく、何の表情も浮かべていなかった。
「レイ……」
「モスコミュールの香りがするな」
 ユナが一歩近づこうとしたとき、レイは、さっきよりも幾分はっきりした声で言った。
「また、あの男とキスでもしていたのか」
「あなた、お願い」
 がくがくと震える膝を制しながら、ユナは彼の背後に立った。
「お願いだから、私の話をちゃんと聞いて」
「嘘と自己弁護だらけの話を、かい?」
 レイは振り向くと、微笑みながら首を振る。
「きみは泣きながら、僕を愛していると訴える。そして僕は、情にほだされてきみを赦してしまう。お決まりのパターンに持ち込むつもりだろう? だが、僕はそこまでお人よしじゃない」
「レイ!」
「きみを愛していたよ。ユナ。過去形で言わなければならないのが、残念だ」
 妻の顎に手をかけ、ゆっくりと長い指を這わせる。その感触のおぞましさに、ユナは思わず身震いした。
『雪よりも白いこの肌。大理石よりもなめらかなこの肌を傷つけたくはないが』
 ようやくユナは、夫が『オセロー』の一節をそらんじているのに気づいた。オセロー将軍が、妻デズデモーナが自分を裏切ったと苦しみもだえながら、独白する台詞を。
『だが、生かしてはおけぬ。さもなくば、彼女はさらに多くの男を欺くだろう』
 ユナの喉笛に当てた指に、少しずつ力がこもる。ユナは涙を流しながら、ただじっとその息苦しさに耐えていた。
「少しは、抵抗すれば?」
 レイは暗闇の中で、薄茶色の目を残虐な光にきらめかせた。「このままだと、本当に殺してしまうよ」
「レイ……あなたを……」
「なんだって? 聞こえない」
「あなた……を、愛し……ている…」
 レイの手が突然、離れた。
「ふ……ははは」
 レイは笑い声をまきちらしながら、部屋中を歩き回った。
「ブラヴァー! 死ぬかもしれないときに、そんなセリフが言えるなんて、素晴らしい演技だ。コロンビーナ」
「……あなたじゃないわ」
 ユナは、ことばを搾り出した。「今、私の目の前にいるのは、正気のあなたじゃない」
「残念ながら、これが正真正銘の、レイ・三神だよ」
 おおげさに眉をひそめながら、彼はユナにふたたび近づいた。
「僕は、はじめからこういう人間だ――きみが知らなかっただけ。僕の子どもの頃からの人生訓はね。他人が手垢をつけたおもちゃは欲しがらない、っていうことだよ」
「……レイ」
「離婚に際しては、できるだけのことはするつもりだ。パイロット専用のこのレジデンスは生憎譲ってあげられないが、クシロ市内でどれでも気に入った家を選ぶといい。かかった費用はすべて僕に請求してくれ」
 そして、耳元に嘲るようにささやく。
「なんなら、あいつの家に、直接ころがりこんでもかまわないよ――娼婦らしくね」
 次の瞬間、ユナの手がレイの頬を激しく打った。
「満足かい?」
 レイは酷薄に笑むと、くるりと窓に向かって立った。
「さあ、出て行ってくれないか。僕の家から」
 背中越しに、妻の立ち去る足音が消えていった後も、レイはずっと目を閉じたまま立っていた。
 やがて、ゆっくりと目を開く。
 星明りに照らされた部屋の中は、彼以外に動く影はなかった。
 バルコニーへの窓を開く。
 晩秋にも関わらず、夜の庭は花々の甘やかな芳香で満ちていた。ユナが丹精こめて育てた植物たちだ。
 楽しそうに歌を歌いながら水をやったり剪定をしたりする姿を、彼はいつも窓の中から見ていた。その美しさは、さながら大地の女神だった。
 ラベンダーが風に揺れ、キンモクセイの強い香りが漂う。ランタナもセンブリもノコンギクも、まるで女主人の帰りを待ち焦がれているようだ。
 だが女神は、もういない。
 突然の衝動に駆られ、レイは裸足のまま庭に降り立った。
 手近にあった花をつかむと、力任せに引きちぎる。そして、その隣の花も。うめき声を上げながら、引き抜き、蹴り倒し、怒りにまかせて千切り続けた。
 やがて、泥だらけになった両手をだらりと下げ、荒れ果てた庭の真ん中に膝をついた。
「これでいい……」
 ヴァカンスは終わった。
 幕は、引かれたのだ。レイは、涙に濡れた顔を上げ、優しく包みこむビロードに身をまかせるように、純黒の宇宙をふり仰いだ。
「これで、地球に思いを残すものは、もう何もなくなった」


 何も持たずに家を飛び出したユナは、ふらふらとあてどもなく歩き始めた。
「ユナ!」
 道の向こうから、ランドールが駆け寄ってくる。「こんなところで何をしている?」
 頑なに、彼のほうを見ようともしない。
「いったい何があったんだ」
「触らないで!」
 ユナは彼の手を払いのけると、激昂した声を張り上げた。
「あなたのせいよ。あなたが……私を!」
 そこまで叫ぶと、そのまま意識を手離し、ランドールの腕の中に崩おれた。
 覚めていても混沌しか存在しない残酷な現実から、全力で逃げ出すように。
   





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