ここに来るのは、ずいぶん久しぶりのような気がする。 ユナは、カウンターの一番端の席に腰かけると、店内を見渡した。 夫と初めて出会ったバー。あのとき彼女が飲んでいたカクテルが倒れて、ころげ出たチェリーをつまみあげて食べてしまったのが、隣に座っていたレイだったのだ。 今思い出しても笑ってしまう。恋に落ちるにしては、あまりに奇妙な出会いだった。 数ヶ月後ふたりは結婚し、二ヶ月のフライトが終わってレイが地球に帰還するたびに、このバーで待ち合わせる日々がもう三年続いている。 だが、今日はいつもとは違っていた。 夫が恋人のように大切に思っていた女神、YX35が廃船になる、その最後の搬送のフライトが今日だったのだ。 長年乗り組んだシップの廃船に、レイがどれほど心を痛めているだろうと思うと、ユナは夫がこのバーに入ってきたとき、何と声をかけてよいかわからなかった。 管制誘導のときは、普段と変わらぬ明るい声が出せるようにと、それだけを心に念じて務めた。 だが、ここでレイの顔を見たら、泣き出してしまうかもしれない。 (泣いてはだめ。笑顔で、『ご苦労さま』と言おう) 自分に何度も言い聞かせる。 いつもならば、それはたやすいことだった。だが今のユナは、それすらも難しい心の不安定な自分を感じている。 喜びに満ちていたはずの四ヶ月のヴァカンスが、わずか十日で打ち切られた。それからの一ヶ月、レイは一度もユナを抱いてくれないのだ。 ベッドの上で、いつも背中を向けてしまう。キスをするときでさえ、まともに彼女の顔を見てはいない。そこにいるのに、すでにいない人のよう。それはちょうど、火星へのフライト当日の朝、ユナが夫の顔をまともに見られないのと同じだった。 明らかに、レイは彼女を避けている。 廃船と代替シップの就航のための膨大な手続きに追われ、夫が連日の激務で疲れていることは、わかっているのだ。でも、頭ではわかっていても、妻として満たされない日々が続くと、心に小さな穴が巣食い始める。 その穴はいつもなら、ほんの小さな冗談や軽い抱擁や、愛情をこめた視線を交わすだけで埋まってしまうものなのに、今のふたりには、それさえもない。 まるで穴の縁から悪魔に毒を少しずつ注ぎ込まれているように、ますます互いの距離は広がっていく一方なのだ。 ユナはため息をついた。 (その忙しさも今日で終わる。来年早々の新しい定期便のフライトまで、しばらくは穏やかな毎日が続くはずだわ) 無理に自分を納得させながら、また酒を口に含む。 あの日と同じ、ブルーコーラルリーフ。ユナの大好きなカクテルだ。 熱帯魚の水槽に囲まれた『ポンチセ』のカウンターでこれを飲んでいると、南の青い海にたゆたっている気分になれる。そして、発光チェリーのぼんやりした赤い光は、小さい頃からあこがれていた火星を思い出させる。 入り口のドアが開く気配がして、ユナはぱっと顔を輝かせた。 レイに違いない。予定では、サテライトからのシャトル便がとっくに着いている時刻だもの。 ユナはそう確信して振り向いた。 だが、そこに立っていたのは――夫と同じプルシアンブルーの制服を着た、ランドール・メレディスだったのだ。 彼は固い表情を崩さずに、ユナをまっすぐに見つめた。そして近づいてきて、いきなり隣に座った。「いいか」とも問わない。 ユナは戸惑った。狭いバーのカウンターの片隅に座っていたから、彼の大きな身体で隣をふさがれては、逃げ場がない。 「お久しぶり」 無理に笑顔を作った。 「2125時着のシャトル便で帰ったきたのね。それじゃあ……」 「キャプテンは、来ない」 ユナのもの問いたげな視線を浴びて、ランドールはぶっきらぼうに答えた。 「え?」 「少なくとも、今着いたシャトル便には、乗っていなかった」 「機体の引渡しが終わらないの? もしや何かトラブルでも」 ランドールは、無言だった。どう切り出せばよいか、迷っているような横顔だ。 熊のような髭を生やしたマスターが、かすかな懸念を隠しながら、ランドールの前にモスコミュールを置いた。何も言わなくとも最初の一杯が出されるとは、彼もこの店には足しげく通っているものと見える。 一口含むと、ランドールはしわがれた声で言った。 「ずっと前、俺は約束した。あなたをキャプテンから奪おうなんて思っていないと。あなたが望まない限り、指一本触れる気はないと」 何を言い出すのだろう。カウンターに置いていたユナの手に、自然と力がこもる。 「前言撤回する。俺はあなたをキャプテンから奪う。たとえあなたが嫌がっても。腕づくでも」 ユナは素早く立ち上がろうとした。 ランドールはくるりと椅子を回転させ、彼女に膝をつきつけるように座った。その拍子に、ユナの腰は力を失い、ふたたび椅子に落ちた。 ユナは震え始めた。彼の乱暴な仕草におびえているわけではない。もっと恍惚とした恐怖だ。ランドールの深い大空のような青の瞳を間近で見ていると、自分が変わってしまいそうになる。その恐怖だった。 「やめて。レイが来ないなら私は帰ります。そこをどいて」 「ひとつだけ教えてほしい。あなたは俺のことを少しは想ってくれているのか」 「そんなこと、あるわけないじゃない!」 言下に否定しながらも、ユナの脳裡には、あのホームパーティの夜のことが痛みとともによみがえってくる。 ランドールの飲み残したモスコミュールを口に含もうとした、あの一瞬の、信じられない自分の行動が。 「キャプテンは、あなたが俺を愛していると言っていた」 「……なんですって?」 「自分で気づいていないだけだと――本当なのか」 「……レイが」 レイが、そんなことを。 だから、彼はずっとユナを避けているのか。誤解している。完全な誤解だ。 「どいて。今すぐよ」 静かに燃え上がる火のような怒りに、ランドールは身体を引くようにして少し捩った。 ユナはその隙間をすり抜けて、店を飛び出した。 華やかなライトで彩られた夜のクシロの街を、家へと足早に急ぐ。 「待ってくれ」 後ろから、ランドールの追いすがるような叫び声が聞こえた。 「どうしても、話しておきたいことがある」 「まだ何か――御用ですか」 「キャプテン・三神は、あなたの思っているような誠実な男じゃない」 「妻の私よりも、あなたのほうがレイをよく知ってるというの?」 ユナは振り返り、彼をにらんだ。 「少なくとも、今はそうだ」 ランドールは言葉を選びながら、視線を宙に泳がせた。 「ユナ。……あいつはあなたと別れるつもりだ。俺の目の前でそう断言した」 首筋が、ぐいと後ろから引き戻されたような衝撃を覚えた。 「嘘よ……」 「キャプテンが俺に嘘をつく理由なんてない」 彼は苦しげな表情で、まっすぐにユナを見つめた。 「俺は何もできない、何も持ってない、駄目な男だ。だが少なくとも、キャプテンに勝てることがひとつだけある――俺は、あなたを愛している。あいつのように、あなたを公然と裏切る真似だけは絶対にしない!」 ユナは何も答えずに、踵を返した。 「ユナ!」 「私に、近づかないで!」 去っていく彼女の後姿を見つめながら、ランドールは髪の毛をかきむしった。 臓腑から吐き出すような必死の叫びも、最後までまともに受け取ってもらえなかった。 「自分の目で確かめるというのか……。そんなことをすれば、傷つくのはあなたなのに」 家の中は真っ暗だった。 なんとかしてレイへの通信手段をと、コンピュータの端末に向かいかけたユナは、夫の制帽と胸の徽章がテーブルの上に置かれているのに気づいた。 「レイ!」 彼女の顔がぱっと輝く。「いるの? 帰っていたの?」 やはりランドールの言うことは嘘っぱちだった。そうに決まっている。 しかし寝室に入ったとき、ユナは息を呑んだ。 寝室にも明かりひとつ灯ってはおらず、夫は航宙士の制服のまま、庭に面した窓のそばに立っているのだ。 「Put out the light.(明かりを消せ)」 彼は何かの台詞を詠じていた。「――and then put out the light.(そして彼女の命の火も消すのだ)」 その横顔は、まるで仮面のように冷たく、何の表情も浮かべていなかった。 「レイ……」 「モスコミュールの香りがするな」 ユナが一歩近づこうとしたとき、レイは、さっきよりも幾分はっきりした声で言った。 「また、あの男とキスでもしていたのか」 「あなた、お願い」 がくがくと震える膝を制しながら、ユナは彼の背後に立った。 「お願いだから、私の話をちゃんと聞いて」 「嘘と自己弁護だらけの話を、かい?」 レイは振り向くと、微笑みながら首を振る。 「きみは泣きながら、僕を愛していると訴える。そして僕は、情にほだされてきみを赦してしまう。お決まりのパターンに持ち込むつもりだろう? だが、僕はそこまでお人よしじゃない」 「レイ!」 「きみを愛していたよ。ユナ。過去形で言わなければならないのが、残念だ」 妻の顎に手をかけ、ゆっくりと長い指を這わせる。その感触のおぞましさに、ユナは思わず身震いした。 『雪よりも白いこの肌。大理石よりもなめらかなこの肌を傷つけたくはないが』 ようやくユナは、夫が『オセロー』の一節をそらんじているのに気づいた。オセロー将軍が、妻デズデモーナが自分を裏切ったと苦しみもだえながら、独白する台詞を。 『だが、生かしてはおけぬ。さもなくば、彼女はさらに多くの男を欺くだろう』 ユナの喉笛に当てた指に、少しずつ力がこもる。ユナは涙を流しながら、ただじっとその息苦しさに耐えていた。 「少しは、抵抗すれば?」 レイは暗闇の中で、薄茶色の目を残虐な光にきらめかせた。「このままだと、本当に殺してしまうよ」 「レイ……あなたを……」 「なんだって? 聞こえない」 「あなた……を、愛し……ている…」 レイの手が突然、離れた。 「ふ……ははは」 レイは笑い声をまきちらしながら、部屋中を歩き回った。 「ブラヴァー! 死ぬかもしれないときに、そんなセリフが言えるなんて、素晴らしい演技だ。コロンビーナ」 「……あなたじゃないわ」 ユナは、ことばを搾り出した。「今、私の目の前にいるのは、正気のあなたじゃない」 「残念ながら、これが正真正銘の、レイ・三神だよ」 おおげさに眉をひそめながら、彼はユナにふたたび近づいた。 「僕は、はじめからこういう人間だ――きみが知らなかっただけ。僕の子どもの頃からの人生訓はね。他人が手垢をつけたおもちゃは欲しがらない、っていうことだよ」 「……レイ」 「離婚に際しては、できるだけのことはするつもりだ。パイロット専用のこのレジデンスは生憎譲ってあげられないが、クシロ市内でどれでも気に入った家を選ぶといい。かかった費用はすべて僕に請求してくれ」 そして、耳元に嘲るようにささやく。 「なんなら、あいつの家に、直接ころがりこんでもかまわないよ――娼婦らしくね」 次の瞬間、ユナの手がレイの頬を激しく打った。 「満足かい?」 レイは酷薄に笑むと、くるりと窓に向かって立った。 「さあ、出て行ってくれないか。僕の家から」 背中越しに、妻の立ち去る足音が消えていった後も、レイはずっと目を閉じたまま立っていた。 やがて、ゆっくりと目を開く。 星明りに照らされた部屋の中は、彼以外に動く影はなかった。 バルコニーへの窓を開く。 晩秋にも関わらず、夜の庭は花々の甘やかな芳香で満ちていた。ユナが丹精こめて育てた植物たちだ。 楽しそうに歌を歌いながら水をやったり剪定をしたりする姿を、彼はいつも窓の中から見ていた。その美しさは、さながら大地の女神だった。 ラベンダーが風に揺れ、キンモクセイの強い香りが漂う。ランタナもセンブリもノコンギクも、まるで女主人の帰りを待ち焦がれているようだ。 だが女神は、もういない。 突然の衝動に駆られ、レイは裸足のまま庭に降り立った。 手近にあった花をつかむと、力任せに引きちぎる。そして、その隣の花も。うめき声を上げながら、引き抜き、蹴り倒し、怒りにまかせて千切り続けた。 やがて、泥だらけになった両手をだらりと下げ、荒れ果てた庭の真ん中に膝をついた。 「これでいい……」 ヴァカンスは終わった。 幕は、引かれたのだ。レイは、涙に濡れた顔を上げ、優しく包みこむビロードに身をまかせるように、純黒の宇宙をふり仰いだ。 「これで、地球に思いを残すものは、もう何もなくなった」 何も持たずに家を飛び出したユナは、ふらふらとあてどもなく歩き始めた。 「ユナ!」 道の向こうから、ランドールが駆け寄ってくる。「こんなところで何をしている?」 頑なに、彼のほうを見ようともしない。 「いったい何があったんだ」 「触らないで!」 ユナは彼の手を払いのけると、激昂した声を張り上げた。 「あなたのせいよ。あなたが……私を!」 そこまで叫ぶと、そのまま意識を手離し、ランドールの腕の中に崩おれた。 覚めていても混沌しか存在しない残酷な現実から、全力で逃げ出すように。 |