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ギャラクシー・ヴォヤージュ
〜 Galaxy Voyage 〜










 開いていた寝室のドアをノックする音に顔を上げて、白鳥ユナは軽く目を見張った。
 はじめて見る、制服姿のレイ・三神がそこに立っていたのだ。
 成層圏の空の色を表すというプルシアン・ブルーの宇宙パイロットスーツ。一級航宙士の証である白のストライプ。そして黄金色に光るキャプテンの肩章。
 頬が火照るのを感じ、我知らず睫毛を伏せる。
「もう、準備はできたかい?」
「ええ」
 彼女の手元には、すっかり用意の整った圧縮式のスーツケースがある。これだけは自分の手で運びたかった。その中には、明日着るはずの純白のウェディングドレスが入っているから。
 レイは彼女の座るベッドのへりに自分も腰かけ、唇を合わせた。
 火星航路の貨物シップYX35便のパイロットである彼は、2ヶ月ごとに火星へのフライトと地球での休暇という規則的なサイクルを繰り返している。4ヶ月前、ユナは地球に帰ってきた彼に、クシロのバーで初めて出会った。2ヶ月前、彼は赤い火星の大地で栽培された、白いレースのような花びらの花束を持って、プロポーズしてくれた。
 そして、今。
 ユナの指とからみ合わせるレイの手の大きさを、そしてスロットルレバーに当たる部分の掌の皮膚の固さを、彼女は生まれ育った家の庭の小径のように知り尽くしている。
 唇を軽くついばんでいただけだったはずのレイは、いつのまにかユナを押し倒し、ベッドの上に美しく広がるウェーブのかかったその髪の付け根を、情熱的に探索し始めた。
「レイ……」
「やめろと言ってもだめだよ。もう止まらない」
「でも、……遅れてしまうわ。予定時刻は1020時。今日の月定期便の発着はいつもより2便多いのよ。もうそろそろ行かなければ」
 レイは驚いて彼女の真顔を見つめると、くすくす笑い出した。
「優秀な管制官を妻に持つ僕は、宇宙一、時間に正確なパイロットになれそうだな」
 もう一度名残惜しそうに額にキスすると、
「わかった。それじゃ、出発しよう」
 彼はユナの手をとり、立ち上がった。


 クシロ郊外のパイロット専用のレジデンスは、航宙ポートから10分ほどの距離だ。
 制服に身を包んだレイ・三神は人目を引く存在だった。道行く子どもたちは宇宙への夢に目を煌かせながら彼を振り返り、女性たちは羨望のため息をついて、ふたりを見送る。
 人々の視線を痛いほど感じながら彼の横に寄り添って歩くユナは、ふと空を見上げた。この次、あの空から地球に降り立つとき、彼女は三神ユナとなっている。それは、なんと晴れがましく幸せなことだろう。そして、度を越した幸せというのは、自分ひとりの身に余るゆえに、しばしば不安を連れて来てしまうものなのだ。
「宇宙に飛び立つのが、怖いかい、ユナ?」
 ポートへの長いムーヴィングウォークに乗ったとき、レイが薄茶色の目を細めて、押し黙っているユナの顔をじっと覗き込んできた。
「いいえ、そうじゃないの。大丈夫」
「ドクター・リノは優秀な船医だ。宇宙貧血に対するあらゆる処置を講じてくれている。何も心配することはない」
「今回はプライベートフライトなのに、わざわざドクターまで同行してくださるの?」
「彼だけじゃない。22人のシップクルー、全員乗船だ」
 やれやれと、彼は半透明のチューブ越しに空を仰いだ。「せっかくの休暇をつぶしてまでついて来るとは、暇な奴らだよ」
「通信士のチェンさんが言ってらしたもの。【クリスタル・チャペル】での結婚式は、クルーたち全員の発案だったんだって」
 ユナは、楽しげな笑いを漏らした。
「みんな、あなたのことを家族のように大事に思っていてくださるんだわ」
 そんな殊勝な奴らか、とレイは小声でつぶやきながら、眉の付け根を揉んだ。どうせ、憧れの【ギャラクシーヴォイス】の持ち主、白鳥ユナをひと目見たいからに決まってる。
「そうだ、ユナ。乗船手続きのときに注意してほしいことがある。うちのシップは貨物専用だから、乗客というカテゴリーがない。きみのことは、23番目のクルーとして登録してあるんだ」
「わかったわ。23番目のクルー。……なんてステキな響き。ねえ、私にも何か仕事を割り振ってくれるの?」
「月までのわずかな時間のフライトだ。何もする必要はないよ」
「でも、お客様じゃないのだから、できることをしたいわ」
「それなら、キャプテン専属のアテンダントというのはどうだ?」
「どんな仕事?」
「何があろうと、キャプテンのそばを片時も離れないのが職務だ。食事のときも、シャワーを浴びるときも、ドアをロックして部屋に籠もるときも」
「やだ、それって」
「ユナ」
 彼は深い吐息をついた。
「もう知ってるとは思うが……。シップに乗船したとたん、宇宙への恐怖のあまり僕は『変わって』しまう。今でも少し、そうなりかけているんだ」
「ええ」
 背中に回された彼の腕が小刻みに震えているのに気づき、彼女はわざと茶目っ気たっぷりに答えた。
「これまでに何回も、管制ステーションのヘッドフォンを通して、よーく身に沁みているわ」
「通信を介するのと、実物を見るのとは違う。シップにいるときの僕は、どうしようもなく、その……下品で、強引な男になる。それこそ、二度とそばにいたくないと、きみに思われてしまうような」
「キャプテン・ミカミ」
 ユナは、子猫のように頼りなげに肩を丸めている恋人の、形の良い鼻梁を軽くつまむ。
「明日チャペルで唱える、結婚式の誓詞を覚えてる? 『病めるときも健やかなときも、富めるときも貧しきときも……』って。
でも私、きっと心の中でこう付け加えるわ。――『シップにいるときも、地上にいるときも』って。
どこにいても、あなたはレイよ。私は、どのあなたのことも愛しているわ」
「ユナ……」
 ムーヴィングウォークが目的地に運ぶまで、ふたりは長く熱いキスを交わした。


 クシロ航宙ポートに到着し、出国と乗船手続きを済ませると、第8エリアに向かう。第8エリアは貨物シップ専用の離発着スペース。見習い管制官だった頃のユナが専属で担当していた、なつかしい場所だ。
 銀色の機体が、朝の光を浴びて燦然と輝いている。
 間近で見るYX35便の雄姿に、しばし見とれていたユナは、いつのまにか自分の足が床からふわりと浮き上がり、天地が逆になったのを感じた。
「えっ、えーっ!」
 気がつけば、彼女はレイの肩に、まるで荷物を運ぶような格好でかつがれていたのだ。
「ち、ちょっと、レイ! 何してるの」
「うるせえ、黙ってろ! 自分の女をシップに乗せるときは、こーするもんだろ!」
「うそ……」
 わずかな間に、もう入れ替わっていた。はじめて会う、『俺様』モードの彼だった。
 ボーディングウェイを渡り、凱旋した将軍のようにシップの扉をくぐる彼に、船内にいたクルーたちは大パニックになった。
「ぎゃあっ。キ、キャプテン、その人は……」
「シャレになんないっすよ。花嫁を掠奪して帰ってきた古代ゲルマン人じゃないんですから」
 レイは彼らの驚愕など意に介さず、悠々とブリッジへの通路を突き進む。その肩の上では、耳たぶまで真っ赤になったユナが、
「あ、あの……はじめまして。お世話になります」
 ぞろぞろと後をついてくるクルーたちに、恥ずかしそうに挨拶した。
 ああ、YX35便での初対面の挨拶が、よりによって、こんな格好でだなんて。
 ブリッジに入ると、キャプテン席のそばにしつらえられたドームつきのリクライニングチェアの上に、ユナはどさりと降ろされた。
「どうだ、いい気持ちだろう。100万もかけた宇宙貧血対策用の特注品だ。内部の特殊な液体が、人体への加減圧を一定のレベルにコントロールする」
 にやにやと笑いながら、彼はユナの上におおいかぶさり、キスを始める。
「こうしたって、全然重くないだろ。これならどんな体位だってラクラクだぜ」
「あ、あの、レイ。ちょっと待って。こ、こんなところで……っ」
「んなこと、かまうもんか。うんと見せつけてやろーぜ」
「でも、あのっ。そ、そうだ。管制ステーションとの交信は? 上空の天候と地磁気の状態と、離脱経路の確認を……」
「月までのたった5時間のフライトに、復唱なんかいらねえよ。目をつぶってても飛ばせてみせるさ」
「だめーっ。ちゃんと管制の指示に従ってください。そうしないと航宙法違反で、クシロポートの使用を3ヶ月停止します!」
「やれやれ」
 彼は諦めたように肩をすくめた。
「わかりました。厳格な管制官の仰せに従いますよ。そのかわり」
 邪悪な微笑みをちらりと浮かべて、操縦席に向かう。「宇宙に出たら、キャプテンルームで思う存分、無重力プレイだぜ」
「ひ、ひいい……」
 がっくりと背もたれに身体を預けたユナのもとに、ぞくぞくとクルーたちが近づいてきた。
「はじめまして、ユナさん。通信士のチェンです」
「僕は、副操縦士のエーディク」
「機関長のタオですじゃ」
「はじめまして。お会いできてうれしいですわ」
 次々と握手を交わしながら、通信で声しか知らないはずの彼らに、まるで旧来の友のような親しみを覚える。
「キャプテンはね、あれでもめちゃくちゃ念には念を入れてるんですよ」
 こっそりと、その中のエーディクという青年が耳打ちしてくれる。
「え?」
「大切な人を乗せるハネムーン・フライトですからね。ゆうべは電話でたたき起こされて、何度もシュミレーションをさせられましたよ」
 とたんに、金属の工具が飛んできた。
「てめえら、持ち場に戻れ! 俺のユナに5メートル以内に近づいたら、宇宙のど真ん中で排出口から外に蹴飛ばすぞ」
 彼らは途端に、蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。
 大気圏離脱予定時刻が近づくにつれ、ブリッジの中はピンと張り詰めた空気が漂う。
 それぞれのコンソールに向かって、慎重にチェックを重ねるクルーたち。そして、なによりも正面中央で、スロットルレバーを握りしめる宇宙一のパイロット、キャプテン・レイ・三神。
 そのたくましい背中をうっとりと見つめながら、ユナは、今はまだ地球の青空を映しているスクリーンを見上げた。
 やっと、夢がかなうのだ。子どもの頃からあこがれていた宇宙に今自分は飛び立とうとしている。愛する人とともに。
 ふたりにとって、これは人生への船出。
 宇宙を自分の棲家としてきた伴侶が、彼女の手を取ってどんな暗黒の中をも導いてくれる。これからの一生に襲い来るどんな困難さえ、彼がいれば勇気を持ってともに戦うことができる。
 ユナは身体の力を抜き、安心に満ち足りた吐息をついた。
 そして、古い映画館の席で胸をときめかせる幼い少女のように、小さな声で秒読みしながら、YX35便が宇宙に飛び出すその瞬間を待ちわびた。
     









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