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ヒカリ、ミチルトコロ                     作: 鹿の子



 出会う前から、円香の事は知っていた。
 ドクトル・フキの穏やかな声が何度もその名まえを呼ぶのを、ゆりかごが揺れるようなリズムで俺は聞いていた。
 そして時折、俺の心の暗い闇を、まだ会った事もない円香っていう女の子の存在が、 小さな灯火のように明るく照らし出してくれることもあった。
 会った事もない、日本に住んでいるというその女の子に、俺はずっとずっと憧れていた。



「ディーター? 何してるの?」
 学校から帰ってきたらしい円香が、制服のままで俺のことを見ていた。
 円香がこうして話すたびに『あぁ、本物の円香だぁ』と思ってドキドキとした。
 ドクトルの話の中だけじゃない、生きている円香。
 生きて、俺を見て、俺に話し掛ける。
 そして俺が話し掛けると答えてくれる。
 俺の名前を呼んでくれる。
「洗濯シテル」
 白い石鹸でゴシゴシとTシャツを洗う手を動かしながら俺は答えた。
「ふーん。でも、昨日も洗っていたよね?」
 昨日か。昨日も洗っていたけど、それも見られていたのかな?円香に。
「Tシャツ、3枚アル。着タラ、洗ウ」
「・・・3枚かぁ」
 円香は、そう言ったまま黙ってしまった。
 円香が黙るとつまらない。
「長イシャツ2枚、ジーンズ2枚、靴1ツ」
 だから俺は、円香に自分の持ち物を全て挙げた。
 そうしたら、また円香は何かを話しだしてくれるかもしれない。
「なんか、修学旅行のリストみたいやね」
 そう言って円香がクスクスと笑い出した。
 あぁ、可愛いなぁと思う。
 でも、『可愛い』という日本語を知らない。
 物の名まえは円香に聞けるけど、まさかこの言葉は円香には聞けないだろう。
 ・・・鹿島さんなら教えてくれるかもしれないなぁ、と思いながら今度は石鹸を落すために水だけで洗い始めた。
 円香はずっと俺の側に立ったまま、その様子を見ている。
 石鹸のぬるぬるのなくなったTシャツをギュギュッと絞って、パンパンと広げてハンガーに干した。
 夏の風に、水分を含んだTシャツが揺れた。
「大きな手だね」
 円香がぽつりと言った。
「大キイ?手?」
 俺は空いた両手を広げ、思わず見つめた。
 日本語のヒヤリングも大体コツがつかめて、なんとか会話になるようにはなってきた。
 俺の言葉に、うん、と円香が頷いた。
「いいね、その手なら色んな人を守れるんだろうね」
 少し諦めたような円香の声だった。
「日本の女の子はさ、って全部が全部じゃないんだろうけどね。男の人に守られたいっていう人が多いんだ。 私は、そういうの違うんじゃないかって思ってて・・・。もう、女なんて面倒くさいなぁって思うこともあるんだ」
 そう言って、円香は自分の手を庭に植えてある木の葉の影からこぼれる日差しにそっとかざした。
「こんな小さな手じゃ、だめなのかなぁ」
 いつも明るい円香だったから、こんな表情や、こんなつぶやきがあるなんてことが意外だった。
 でも、そんな気持を自分に話してくれるかと思うと、嬉しかった。
 俺がここにいた意味があるような気がした。
「守ルコト。手ノ大キサ、関係ナイ」
 日本語を使わないでいいのなら、円香にもっと言いたいことがあった。
 でも、日本語じゃないと、円香には言いたい事は伝えれない。
「ありがとう、ディーター。そうだね。そうだよね、それは手の大きさじゃないよね」
 照れたような顔で円香が答えた。
「でも、憧れるな。憧れるんだ、私」
 そう言うと円香はくるんと向きを変えて、俺に手を振って家に戻ろうとした。
「待ッテ」
「え?」
思わず動いた俺の腕は、円香の腕を掴んでいた。
驚いた円香の瞳に俺が映った。
俺だけが映っていた。
「どうしたの?ディーター」
「・・・アノ」
まだ少しここにいて欲しいなんてことを言ったら、円香は驚くだろうか。
「何か、教えて欲しい言葉でもあった?」
「・・・ウン」
この際、円香の誤解にそのままのってしまおうと思った。
周りを見回す。
いつも水道の横に立てかけられている、あれにしようと思いついた。
「円香、"Wie heisst es auf japanisch ?"」
 そう言って、そのものを指した。
「あぁ、あれはね『洗濯板。せ・ん・た・く・い・た』って言うんだよ」
円香はゴシゴシと、何かを洗うようなゼスチャーをした。
「『センタクイタ』?」
ん?・・・と俺は考える。
その言葉は聞いた事があった。
でも、それは洗濯とは関係がない時にだ。
「円香、チガウ。コレ、チガウ」
その時のことを思い出す。
「鹿島サン、本ノ写真ミテ 言ッテタ。女ノ子ノ水着ノ写真」
円香の眉毛がピクンと上がる。
「・・・ディーターも見てたんだ〜。そ〜いう雑誌」
えっ?
次の瞬間、俺は円香に足を踏まれていた・・・。
円香は走り去りながら、こっちを振向いて『ベー』っとしていた。
その悪戯っ子みたいな顔に、俺は思わず痛さも忘れて笑ってしまった。

風に揺れた葉の間からこぼれ落ちた光が、円香と俺の間をさーっと一直線に結んだ。
円香から俺に、俺から円香に。
天上から降りてきた光の道が繋がる。

自分が生きる場所を、
自分が自分として生きる場所を選ぶことが出来るのなら・・・。
神様、
俺は、円香の側で生きたいと願ってもいいのでしょうか?
円香とこのまま一緒にいたいと願ってもいいのでしょうか?
円香のその真っ直ぐな瞳に、俺だけを映して欲しいと願ってもいいのでしょうか?

いつのまにか、俺は涙を流していた。
温かな涙が、頬を伝わって落ちて行くのがわかる。
こんなにも、
誰かからの愛情を渇望したことがあっただろうか?

もう、憧れなんていう綺麗な言葉では済まされない程に・・・。
俺は、円香を愛しはじめていた。


――ABOUNDING GRACEさん1周年によせて・・・鹿の子


鹿の子さんに、サイト一周年記念にいただきました。
これを書くために拙作を一生懸命読み返してくださったとのこと。
ディーターの気持ちがせつなくて、涙なくしては読めませんでした。
本当にありがとうございました。 合わせて円香のイメージイラストもいただきました。



なお、この作品の著作権は鹿の子さんに帰属します。

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