見たくはなかった。
しかし、扉から出たとたん、俺は見てしまった。
身も凍るような光景を。
と、俺の書く小説風に言えば、こうなるんだろう。
俺、コウこと貫田耕冶は天才作家(の卵)。
ネコが日向ぼっこしてるようなのどかで平和な公園も、俺の手にかかれば、たちどころにサイコホラーやミステリーの舞台に変わる。
でも、身も凍ると言ったのは、別に大げさなわけじゃない。
昇降口から通用門に抜ける人気のない裏庭のすみで、一組の男女が向かい合って立っているのを見たとき、確かに俺はそう感じたのだから。
ふたりは俺と同じ、府立西野高校文芸部一年生部員だ。
イサこと井澤怜は、感情を抑えた文体で歴史ものや随筆を書くのが得意な奴だ。
痩せてひょろ高く、顔はまあまあなのだが無表情で無愛想。口数が少ない上に毒舌と来ている。
女のほうは、加納亜季。彼女の得意ジャンルは、きれいな男と女が出てきて、行き違いの果てに結ばれるという、アマアマの恋愛小説だ。
ショートカットのさらりとした髪が、寒そうに2月の風に揺れている。
亜季はカバンからすっと濃赤色の小さな包みを取り出して、怜に渡そうとした。
今日は2月14日。
バレンタインデーだった。
賢明な読者諸君ならおわかりだろう。
やっと放課後になってそのことに気づく俺が、今日一日誰からもチョコレートをもらっていないことを。
亜季が怜に、チョコレートに託した愛の告白をしようとしているという事実を、俺はどうしようもないほど脳に刻みつけながら、立っているしかなかった。
怜がわずかに、こちらのほうに目線を動かした。
もしかすると俺がここで古い下駄箱の陰に隠れていることを、気づかれたかもしれない。
文芸部に入ったときから俺が亜季のことを好きなのを、あいつは知っている。
きつく結んでいた口元を、わずかに開く。
「俺、甘いものキライやから」
風に乗って、そんなことばが聞こえてきた。イサらしい、何の修飾もない投げやりなことば。
俺はいたたまれずに、その場を逃げ出した。
部室長屋の建物の2階隅、文芸部室のボロい扉を後ろ手に閉め、長い吐息をついた。
机の上に、篭城した凶悪犯みたいな格好で祐樹が座っていた。
「よ、コウ」
ミヤこと、SF専門の上谷祐樹。金色のメッシュ入れた髪をつんつんに立てて、俺と同じ一年のくせして大学生の女と付き合っているという、うらやましい、じゃなくて、わけのわからん幽霊部員だ。
「おまえが部活に来るなんて、珍しいな。パブかどっかでバイトしてるんとちゃうんか」
「今日は遅出。戦利品をせしめに、あちこち回ってるんや」
祐樹はそう言って、チョコやいろんなプレゼントが詰まってるらしいスーパーの袋を揺すってみせた。
悔しいがこいつは、かなりモテる。バレンタインは稼ぎ時ってわけだ。
どうして俺の周りには、ルックスのいい野郎が集まるのか。
そこへ、怜が入ってきた。
顔を上げて、ほんのわずかに「あ」という口をした。
こいつが表情を崩すのは、よっぽどのことだ。よっぽど俺に対して、後ろめたい気持ちがあったのだろう。
「アキはどないした」
何も事情を知らない祐樹が、無邪気に問いかけた。
「おまえら、さっき廊下で並んで歩いてたやろ」
「なんか、用事がある言うて、帰った」
怜がぶっきらぼうに答える。
そりゃそうだろう。
こいつはあのまま、チョコを受け取るのを断ったに違いない。彼女にしてみればショックで、部活で顔なんか合わせられないだろう。
可哀想な亜季。
俺の内部に衝動的に、何か得体の知れない感情が生まれた。
「いったいどこへ行くんや」
「ついてくればわかる」
2年の先輩とも祐樹とも別れたあと、高校の通用門から住宅街に出た俺と怜は、下町らしい生活感にあふれた路地をたどって歩いた。
俺がこの近くから徒歩通学しているのに比べ、怜は3つ向こうの駅から電車に乗ってくる。駅とは反対方向のこの辺りは来たこともないはずだ。
グレイの短コートのポケットに両手をつっこみ、俺の後ろを何も言わずについてくる。
数分歩くと、古い民家が多いせいか緑が多くなった。
クヌギの大木が目印の角を曲がると、真正面に古ぼけた洋館が現れた。
洋館というのはちょっと大げさかもしれない。
だが、壁の赤茶けた漆喰と十文字のある丸いガラス窓が、打ち捨てられた2階建ての瓦屋根の家を、侘しげにそれっぽく見せている。
「入って、ええのか?」
枯れかけた生垣のすきまを通り抜けようと身をかがめる俺に、怜は声をかぶせた。
「かまへん。俺が子どもの頃から人が住んでへん家や。地元の人間はお化け屋敷って呼んどる」
誰かが浮浪者除けに板を打ちつけた扉を横目に、草がぼうぼうに伸びた裏手に回り、白かったはずのペンキのすっかり剥げ落ちたガラス戸を、キュッキュッとこじ開ける。
中はほこりの分厚くたまった板の間。飾りだけの暖炉があって、8畳くらいなのに家具がないせいか、だだっ広く見えた。
奥の扉からのぞく家の中では、夕闇がすっかり夜に溶け込んで、板張りの廊下や畳の和室が、かろうじて判別できた。
「俺、小説書くのに煮詰まると、ときどきここへ来て構想を練るんや」
問われもしないのにべらべら自供する犯人みたいに、ひとりでしゃべる。
「ここは昔、人殺しがあったて言われてる屋敷なんや。ちょうどここの部屋、応接間で家の主人が応対していた客が、いきなり主人を包丁で刺した。借金の恨みやったそうや。
ここへ来ると、昔の悪霊が漂ってるみたいで、ぞくぞくせえへんか。ホラー書くには、うってつけの舞台設定やろ」
俺は意味もなく、眼鏡を指の腹で押し上げた。
神経が過敏になっているせいか、振り返らなくても、奴が胡散臭げな目で見ているのが、ありありとわかる。
「……おまえ、今日アキからチョコレート渡されたやろ」
「見とったんか?」
「とぼけるなよ。俺が物陰からのぞいてるの、知っとったくせに。知っとったからこそ、受け取らへんかったんやろ?」
「……」
「俺に遠慮するんか。俺が見とったって、アキのことが好きなら、きちんと受け取りゃええやろ」
「コウ」
怜は、ため息をついた。「落ち着け」
「おまえのその、人を小ばかにしたようなしゃべりかたは、虫唾が走る」
「俺は、アキのことは何とも思ってない」
ポケットに両手をつっこんだまま肩をすくめて、低く言う。
その仕草が俺に最後の理性を失わせた。
「嘘つけ。おまえは……、おまえこそ、アキのことをずっと見とったくせに! 俺がアキを見ると、必ず視界の端で、同じようにあいつを見とるおまえがいてた。
俺がアキへの気持ちをおまえに打ち明けたのは、おまえにも打ち明けてほしかったからや。それなのにおまえって奴はちゃっかり、自分の気持ちはなかったことにしようってのか? 俺に譲ろうなんて腐った考えで、アキの心を傷つけるのか?」
「コウ!」
「てめえなんて、死んでまえ!」
俺はことばの終わらぬうちに、怜に飛びかかった。
数秒間のもみあいの末、あいつを床に押し倒して馬乗りになる。
男兄弟の中で育ったせいか、俺のほうが武闘派だ。
南の空に昇りつめた上弦の月が青白く照らし出す部屋の中に、もうと埃が立ちこめ、
俺は、狂気したように怜の首に両手を回した。
「コウ……。やめろ! シャレになん……ねえ」
「嘘つき。人でなし。おまえなんか……」
怜の両手の爪が俺の手の甲に食い込む、鋭い痛み。
「……コウ」
「てめえの本心を言え! さもないと、このまま永久に口を聞けなくしてやる!」
奴の表情が苦しさのあまり大きく歪むのが、不思議に遠く見える。
「アキの……ことが……好きや」
切れ切れのそのことばを聞いた瞬間、俺は冷水を浴びせられたように背中を硬直させて、あわてて飛びのいた。
「イサ……」
怜は上半身を起こすと、ゲホゲホと続けざまにすごい咳をした。
「満足か」
ようやく発作が収まると、少し涙目になって俺をにらむ。
「コウ、おまえは小説家になってもええけど、俳優だけにはなるなよ」
「え?」
「ものすげえ大根……。俺を挑発して、アキを好きって言わせるための芝居やったって、バレバレやぞ?」
俺は、怜の首筋についた俺の指の赤い跡を、ぼんやり見ていた。
確かにはじめは挑発だった。
怜に真実を語らせたかった。それから俺たちは同じリングに立ちたかったのだ。
亜季が怜に惚れてるとわかった以上俺に勝ち目のない戦いだが、それでもこいつには、俺に気兼ねして試合を降りることだけはしてほしくなかったのだ。
だが、最初は演技だったのに、次第に俺は我を忘れていった。
このポーカーフェイスの男が憎くて、憎くてたまらなくなった。
もしかすると、俺は本当に怜を殺すつもりだったのかもしれない。
この屋敷にひそむ過去の悪霊が、俺を突き動かしていたのかもしれない。
そう考えたとたん、ぞっと全身を悪寒がつらぬいた。
「さ、寒、寒い」
両腕を抱きかかえて震えている俺に、怜はコートのポケットから白い紙箱を取り出した。
「これ、食うか?」
「これって」
亜季が渡していたチョコレート?
奴はうなずいた。
「ほんまは、俺とコウ、ふたりの分をアキは用意しとった」
「え?」
「同じ部の部員同士、ただの義理チョコ。俺は甘いものが苦手やて断ったけど。
アキは今日は医者の予約があって部活には出られないから、おまえの分だけ預かった。
だから、これはおまえの」
「そ、そやったら、なぜ今になって渡すんや」
「部室ですぐ渡そうと思ったら、祐樹がいた。アキは祐樹が来るとは思てへんかったんやろ。あいつの分はなかったし。それで渡しそびれて、そのままになってた」
彼は俺の手に、チョコレートの箱を無理に乗せた。
夜目にも白い箱は、ポケットの中に入ってたせいだろう、体温でほんのりあたたかく感じた。
待てよ。
白い箱?
裏庭で俺が見たとき、箱は濃い赤色をしていた。バレンタイン用の包装紙で包んであったんだろう。
俺の分だって? イサのやつ。
他人へ渡すチョコレートの包装紙を、わざわざ剥がす奴がどこにいる。
包装紙を剥がしたのは、中に入っている自分宛のカードを抜き取るため。
こいつは、やっぱりヤな奴なのだ。
自分へのチョコレートを義理チョコだったと偽って、恋敵に渡してしまうようなヤな奴。
俺はまた、ムカムカし始めて、あわててガラス戸を通って外にでた。
また悪霊にとりつかれてはたまらない。
怜も俺の後ろから続いて出てきた。まだ時おり咳をしている。
2月で日が長くなってきたとは言え、もうすっかり外は暗かった。
俺は月明かりを頼りに、もらったばかりの紙箱の蓋を開けて、チョコレートをひとつ、つまんだ。
手作りっぽいトリュフチョコは、少し柔らかくなっていた。
溶けかけたチョコレート。
上等なチョコレートは、25度以上の熱にさらされると溶けると聞いたことがある。
コートのポケットの中で、ずっと箱を握りしめてアキのことを想っていたであろうイサに気づいて、俺は大笑いしたくなるのをすんでのところでこらえた。
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