インビジブル・ラブ


雑踏2


BACK | TOP | HOME


Chapter 2-1



 まるで水槽に沈むガラス玉みたいに、俺の身体は朝の光の中では薄い蒼に溶けている。
 そんな俺を見ることができるのは、この世でただひとり。今この部屋のベッドで、気持良さそうに眠りをむさぼっている女だけだ。
 名前は、小潟愛海(おがたあいみ)。南原署の捜査第一係の刑事。
 そして、俺は彼女の担当する殺人事件の被害者。水主淳平(みずしじゅんぺい)。
 俺の持つ『霊指』という奇妙な能力が、死後の『はざまの世界』にいる俺と、この女とを結びつけた。彼女は、俺をこの世につなぎとめている、ただひとつの結び目だ。
 俺はじっと愛海の寝顔を見つめた。何かいい夢でも見ているのか、にへらーと笑う。半開きにした口から、糸のようなヨダレがツーッと流れてきた。
 まったく百年の恋も冷めるとは、このことだ。顔が可愛いだけで、ドジで思い込みの激しい、どうしようもない女。俺ともあろうものが、こんなヤツに惚れてしまうとは。

 生きているとき、俺は結婚詐欺師だった。
 どんなにいい女でも、俺の目には獲物でしかなかった。自分の持てる力を尽くして挑む、命がけのゲーム。けれど相手の心と金を奪い取ったとたんに興味を失ってしまう。
 もしかすると、死んでしまってからはじめて、俺は本当の恋をしているのかもしれない。
 神様というのがこの世にいるなら、なんて皮肉なことをするヤツだろう。
 おっと、そんなことを考えている場合じゃねえ。
 もうすぐ愛海が起きる時間だ。コーヒーを沸かしといてやらなきゃ。猫舌の愛海にとって、いれたてのコーヒーは熱すぎるのだ。
 なんで、こんなことまでしてやらなきゃいけないんだか。まるで自分が、アラジンのランプの精にでもなったような気がする。
 俺は、いつもどおりコーヒーメーカーのスイッチをオンにした。
 水やフィルターやコーヒーの粉は、前日の夜に愛海がセットしておく。
 俺の霊指の能力は、徐々に高まっている。今は電気のスイッチを入れたり、軽いものを動かしたりするのがせいぜいだが、もう少しすれば、もっと重いものでも持ち上げられるようになるに違いない。
 その証拠に愛海は、あの『夜叉追い』という奴らからもらった護符がなくても、俺の姿を見られるようになったのだ。
 たぶんその気になれば、他の人間にも姿を見せたり声を聞かせたりすることができるだろう。だが、幽霊の姿なぞ下手に見せて「除霊騒ぎ」にでもなれば、一番困るのは俺だ。
 予定にない死を遂げてしまい、死者の国へ行く資格すらない俺は、愛海のそば以外に居場所がない。あの『はざまの世界』で、太公望と称するヘンなおっさんに付きまとわれるのがオチだ。
 コーヒーのいい香りが漂ってきたころ、目覚まし時計が鳴り出した。
 愛海はむっくりと起き上がり、時計の頭をぽんと叩くと、そのまま枕に崩れ落ちてしまった。
 おいおい、またかよ。
 こいつと生活するようになって二ヶ月になるが、まともに一度で起きたためしはない。
 俺は愛海のベッドの上にふわふわ浮かぶと、不機嫌な声をかけた。
「おい。起きろ」
「う……ん」
「また遅刻するぞ」
「はぁい……」
「何が、はぁいだ。返事ばっか」
「へへへ、ぶい」
「Vサインなんか出すヒマがあったら、起きろ!」
 まったくむなしくなってくる。何の因果で、俺はこんなヤツに惚れちまったんだか。
 ふたたび寝息をかき始めた愛海に業を煮やして、俺はふとんをはがした。
 パジャマの裾がめくれあがって、胸のあたりまで丸見えだ。
 生きている男ならムラムラと来るところだろうが、あいにく幽霊の俺には、勃つモノすらない。
 耳元をそっと、くすぐるように、ささやきかける。
「今起きたら、たっぷりキスしてやるぞ」
 ムチがだめなら、今度はアメ作戦だ。
「愛してる。愛してるから、起きろ」
 愛海は世にも幸福そうな顔をして、笑った。
「私もー。あいしてるー。フーちゃん」
 フーちゃんって、誰だ!
 俺は完全にぶち切れて、乳首を霊指の力でうんとひねり上げてやった。
「ぎゃやわわあっ」
 この世のものとは思えない悲鳴を上げて、愛海は飛び起きた。
 うん、明日から、この手は使える。

「まったく、あんな起こし方、二度としないでくれる?」
 愛海は片手で胸をかばうようにしてトーストをかじりながら、まだぶつくさ文句を言っている。
「それより、『フーちゃん』というのは、おまえの昔の男か」
「あれ、どうしてフーちゃんのこと知ってるの?」
「おまえが、俺のことをそいつと間違えたんだ!」
 愛海はけらけら笑うと、ほどよく冷めたコーヒーをうまそうに飲んだ。
「フーちゃんは、私が子どもの頃から飼ってるネコだよ。今はものすごくおばあちゃんになって、実家の縁側でひなたぼっこしてる」
 ……なぜ俺がそんなババアネコと間違えられなきゃならないんだ。納得がいかねえ。
「あっ、もうこんな時間。出かけなきゃ。淳平、お願い」
 ばたばたと家を飛び出す愛海の背後で、俺はため息をつきながら、電気と給湯器のスイッチを消して、ドアをロックした。
 春物のピンクのコートをひるがえして、颯爽と街を歩いている。こういうときの愛海は、道行く男たちの目を釘づけにする極上の女だ。
「今日は、どこへ行くんだ」
 霊指の能力で瞬時に追いつくと、俺はたずねた。
「また例の事件の聞き込みに回ることになってる。今日も足が棒になっちゃうよ」
 うんざりしたような表情を浮かべながら、愛海は地下鉄への階段を降りた。
 先週、南原署の管内で殺人があったために、捜査一係の全員がその事件にかかりきりになっていた。
 本来なら愛海と上司の木下警部補は、俺の事件の専従捜査員のはずだが、南原署のような小さな警察署では、そうも言っていられないのだ。
 水主淳平殺害事件の捜査は、しばらくお蔵入りになるらしかった。

 愛海はこの数ヶ月、俺が金を詐取した女たちの証言を、丹念に洗いなおしていた。
 ひとくちに洗いなおすといっても、それはハンパな作業じゃない。俺が結婚詐欺に選んだ舞台は、関東、東北、中京の各地にまで、またがっていたからだ。金を騙し取ると、その足ですぐ別の土地に移動する。それが俺のルールだった。
 愛海は実に辛抱強く、被害者たちに面会を重ねていった。
 「水主淳平が遺したメールやメモが発見された」という口実を使うと、不思議なほど彼女たちは会ってくれた。安藤みずほのときも使った手だ。
 俺は愛海のかたわらに立って、他人は知らないはずの思い出を語る。そして、愛海の口を通してひたすら「すまなかった」とあやまった。
 だが、その謝罪のことばを聞いた女たちの表情が、まるで別人のように柔らかく融けていくのだ。
 それを見た俺はあらためて、自分の犯した犯罪が、相手の心をどれだけ深く傷つけていたかを知った。
 安藤みずほのように、俺のために涙を流してくれる女もいた。赦されてはじめて、俺は心の底から自分のしたことを悔いた。
 自分が騙してきた女たちに少しでも「つぐない」がしたいと思った。
 「つぐない」と言っても、すでに死んでしまった俺にできることなど、たかが知れている。
「せめて、これからは幸せになってくれ」
 と女たちのために祈ることだけだった。

 俺が騙した女たちは、多かれ少なかれ、みな寂しい心を抱えていた。
 みずほのように、自分の身体を傷つける癖を持つ女。高額な買い物で満足を得ようとする女。
 高飛車な態度で、男を小ばかにしたような目で見る女。
 金とプライドだけはたっぷり持っているが、自分に自信がない。自分のことが好きになれない。だから、心を許せるような男にもめぐり会えない。そんな女たちだった。
 そんな女がひとたび男に心を許すと、いくらでも金を貢ぐということを、俺は詐欺師の経験と勘で知っていた。だから、彼女たちをターゲットに選んだのだ。
 高いハードルだけに、やりがいがあった。狩りで獣を捕らえるように、女の頑なな心を捕らえたときの快感は、言葉には尽くせない。
 俺が愛をささやくとき、女たちは本当に幸せそうに笑った。
 自分がどんなに罪深いことをしたか、今の俺にはわかる。愛海に恋をした今の俺ならば。
 満員の地下鉄に揺られている愛海の、つんと上を向いた鼻先を見て、俺は絶対にこいつを失いたくないと思った。
「え、淳平?」
 衝動的に、霊指の力で唇を奪う。
「だ……め、こんなところで」
 抗う声にもおかまいなしに、俺は愛海を抱きすくめると、口の中をやさしく探った。
「……あ、はぁ」
 他の乗客がこいつを見たら、口を半開きにして恍惚ともだえているように見えるだろうな。
 かまうもんか。
 地下鉄を降りるまでに、愛海が痴漢をひとり捕まえたことは、言うまでもない。

 鉄道公安隊に痴漢を引き渡しているうちに結局、愛海は遅刻した。
 こっそりもぐりこんだ捜査会議では、先週起きた「老女殺害事件」についての、捜査員の報告が行なわれているところだった。
「相楽ゆき子のアリバイは、どの方面から見ても崩せそうにありません」
 事件のあらましは、こうだ。
 先週木曜の深夜、一軒家で一人暮らしをしていた老婆が、何者かに首を絞めて殺された。ひどく室内が荒らされていたので、捜査は最初、物盗りという線ではじまった。
 だが、不審な事実が次々と明らかになったのだ。
 つつましい暮らしではあったが、家や土地は老婆名義のものだった。都心ということもあり、売ると相当な額になるだろう。そしてその資産は、つい昨年の暮れに養女となったばかりの中年女が全て相続することになったのだ。
 その女というのが、相楽ゆき子だ。
 怪しいことに、ゆき子は死んだ老婆の血縁でもなんでもない、赤の他人だ。その女が養女になったことを、老婆の親戚の誰も知らされていなかった。
 そして、近所での聞き込みによると、その老婆の身の回りの世話をするために、相楽ゆき子は一年ほど前から、足しげく家に通っていたというのだ。
 同じ詐欺師である俺には、ぷんぷん臭う話だ。
 身寄りのない、一人暮らしの老人を狙う詐欺師集団がこのところ増えている。特に相手が認知症をわずらっている場合、絶好のターゲットだ。
 本人が情にほだされ、あるいは何もわからぬままに判を押し、一味のひとりが養子縁組を結んでしまう。弁護士が一枚噛んでいるケースもあると耳にはさんだこともある。
 あとは、本人が死ぬのを待つだけだ。
 身内が気づいたときには、もう遅い。手続きは合法的で、詐欺であるという何の証拠もない。
 待っているだけで、全財産が相楽ゆき子の元にころがりこむはずだった。だが、何らかの事情ができて、自然に死ぬのを待っていられなくなった。
 そして、押し込み強盗を装って、老婆を殺害した。真相はだいたいそんなところだろう。
 だが、南原署の刑事たちが頭を抱えているように、肝心の相楽ゆき子に殺害当時のアリバイが成立しているらしい。
 それに深夜ということもあって、まったくと言っていいほど犯人の目撃情報がない。
 このことから考えても、相当な手練の詐欺師グループだ。もしかすると、殺しも初めてではないかもしれない。
 俺は愛海が手に握っているケータイの新規メール画面に、文字を打ちこみ始めた。
 こういう会議の席で、俺が愛海に話しかけるために、考え出した手段だ。
 本当なら、俺の声は愛海以外には聞こえないのだから、わざわざこんなことをする必要はない。だが、俺が話しかけると、愛海はつい条件反射で、声を出して返事してしまうのだ。そして係長の大目玉を食うことになる。
 ケータイならば手の中に隠せるから、画面にひとりでに文字が打ち込まれても、誰も気にするヤツはいない。
『養子縁組の手続きをした直後に不自然な死を遂げたというケースが、過去になかったか調べてみろ。ことによると、今回の事件と同じ弁護士か司法書士が、手続きにからんでいるかもしれない』
「あの」
 愛海は手を挙げて、俺の書いたことをそのまま、自分の意見として発言した。
 加賀美係長が、「ほう」という顔をして愛海を見る。
「俺も今、それを言おうと思っていたところだ。小潟、えらくこの事件について熱心に調べているようだな」
「そりゃもう、プロの詐欺師が、手取り足取り教えてくれるもんで」
「なに?」
 ……そんなことまで言わなくていい。





NEXT | TOP | HOME

Copyright (c) 2006-2007 BUTAPENN.