BACK | TOP | HOME Chapter 6-3 「平石……」 聞いたことのない名前だった。 「きみは? ここの卒業生かね?」 「卒業はしていない。17年前に中退した」 「そうか。わたしが校長を務めたのは、昭和51年から55年までだ」 かれこれ30年前の校長か。道理で名前も知らないはずだ。 「校長在職中の過労がたたり、家で風呂に入ったとき心筋梗塞を起こして死んでしまってね」 平石校長は、愉快そうに笑った。 「気がついたら、こんな姿になって学校にいた。自分なりに職務をやり残したという悔いがあったのだろうな。それ以来30年、K高の生徒たちを陰から見つめてきた」 彼は、俺をまじまじと見つめた。 「見覚えがあるな。きみ、名前は?」 「水主。水主淳平」 「水主くん? きみがそうだったのか。よく覚えているとも」 「ほんとうに?」 「ああ。思い出すよ。あの関東大会でのフリーキックはすごかったな」 鳥肌の立つ思いだった。もうこの学校では、俺の痕跡は書類の中にしかないと思っていたのに。 俺のことを覚えている教師の幽霊が、学校に棲みついていたとは。 「せ、先生。あんたは」 我ながら情けないことに、感激のあまり口ごもった。 「ここで、何をしていたんだ?」 にこやかだった平石校長の顔が、にわかに曇った。 「うちの生徒たちが、悲しむべき嘘や中傷で互いを傷つけあうのは、見ていられないからな」 「裏サイトの書き込みを削除したのは、やはりあんたのしわざか」 「ああ」 初老の幽霊はディスプレイに向き直り、透き通った指をキーボードの上にかざした。 それだけで、カタカタと軽快な音が始まる。 「昼間は学校を見回り、夜はここでネットの監視をしている。うちの生徒たちが不適当な書き込みをすれば、削除や修正をしたり、生徒を装って仲裁の書き込みをしたり。まあいろいろやってるよ」 キーボードの音とともに、みるみるディスプレイの画面に光る文字が浮かび上がる。 俺と同じ、霊指の力だろう。 「今の子どもたちは、人との関わりがあまりにも不器用だ。べたべたと過剰に仲良くするか、無関心のどちらかで、ちょうど良い関係を築けない」 平石は、手を止めて俺を見た。 「ところで、きみは何故ここに来た?」 「話せば長くなるが、警察の手伝いをしていて、さっきの裏サイトにたどりついた」 「ほう。死んでからも警察に協力してるのか。正義感が強いのだな」 真実はその正反対で、悪の塊だったんだけどな。 「あんたこそ、すごいな。あんたが生きていた三十年前は、学校にコンピュータなんかなかっただろう?」 「そのとおり。最初は何もわからなかったが、コンピュータの授業を見学して、見よう見まねで覚えたんだよ。六十の手習い、おっと幽霊の手習いというところかな」 あまり面白くない冗談に、校長はいかにも可笑しそうに笑った。 「水主くん。幽霊というのも悪くはないよ。時間はたっぷりある。勉強はその気になれば、いつでも、どんな方法でもできる。遅すぎるということはない」 「さすが、校長だな。死んでからも学問を説くとは」 俺だって、幽霊になってまで教師に説教されるとは思わなかったぜ。 妙に心に染みて、胸がキュッとしめつけられる。なんだか高校生に戻った気分だ。 「あんたはひとりで、この高校を三十年間見守ってきたんだな」 俺は、しんと静まり返った教室や廊下をぐるりと見渡した。 「いや、そんな大それたものではないよ」 平石校長は、答えた。 「生きているときも、教師として、校長として、何も残せなかった。せめてこうして生徒たちを見張ってやろうと思ってはいるが、実際は不正が行なわれていても何もできんのだ。悔しいよ」 まるで泣いているように、校長の霊体がゆらりと揺れた。 「ネットだけは、幽霊のわたしでも何とかなる。できるだけのことはしようと思っている」 「幽霊のサイバーパトロールか。これからは俺も協力させてくれ」 「ありがとう。水主くん。仲間ができて心強いよ」 俺たちは、握手のまねごとをした。霊体が重なり合ったとき、一瞬ぴりと電気に似た心地よい痺れが走る。 実際、悪い気はしない。高校を中退した俺が、死んでから母校のために役立つなんて。それも校長の幽霊とふたりで、タグを組むだなんて。 なんだか、成り行きで不思議なことになっちまった。 コンピュータから愛海のケータイに転送された俺は、ようやく家に舞い戻った。 「あ、遅かったね。どうだった」 「ああ、裏サイトのほうは、うまく行った。長い話だから、あとでゆっくり説明する」 「淳平。へん」 愛海は、首をかしげた。「うきうきしてる感じ。いつもより子どもっぽい」 「霊体まで、高校生気分に戻っちまったかな」 キスをしようと愛海のそばに近づくと、ソファの下で寝ていたフー公が、がばっと起き上がった。 「うー」 猫は俺に向かって、毛を逆立ててうなった。 その後、俺はときどきK高のコンピュータ・ルームで、校長の幽霊と落ち合った。 学校裏サイトのほうは、あれから動きが途絶えたままだ。 【変なんだよね。確かに書き込んだはずなのに、すぐに消えちゃったの】 【それヤバいよ。警察や学校に感づかれたんじゃないの】 例の女子高生ふたりは、そういうメールを交わしたあと、すっかり鳴りをひそめてしまった。 「高木アヤカは、変わった様子もなく、毎日登校しているぞ」 平石校長は、昼間の学校の様子を報告してくれた。 「よかった。クスリをやってるなんてウワサが立ったら、来れなくなるからな」 「未然に防げてよかった。それにしても」 よほど義憤に駆られるのだろう。校長は、吐き捨てるように言った。「根も葉もないデマを流そうとするとは、けしからん子どもたちだ」 「今のところ、あきらめたみたいだから、いいんじゃないか」 「いや、ああいう子たちは、簡単に赦してはならん。また同じことをするぞ」 「そうなったら、そのとき考えようぜ」 俺があっさり答えると、平石はバツが悪そうに微笑んだ。 「すまんな。生徒の行く末を案じて、ついキツい言葉が出てしまう。教師の習性だ」 「わかるよ。俺も最初は腹を立てた」 「きみのような子が中退者だなんて。本当に残念だ」 目を細め、しみじみと俺を見つめる。やめろよ、照れるから。 俺も今になって思う。どんな冷たい目で見られても、高校だけは卒業しておけばよかった。 もし、平石校長のような教師に出会えていたら。 そうすれば、俺の人生は少しは良いほうに変わったんじゃないだろうかと思う。 気がつけば、軽く一ヶ月は過ぎていた。 もうツツジは散り、学校の通路ではアジサイが色づき始めている。 で、俺はと言うと、上着のポケットに、太公望から頼まれた巻物が入ったままになっているのを発見し、アジサイよりもさらに蒼ざめた。 こいつは、いくらなんでもヤバいかもしれない。 愛海に頼んで、ケータイから『久下心霊調査事務所』に電話してもらう。 留守電につながり、俺の霊体は問題なく転送された。 ひとりの女が、事務用のキャビネットの陰に椅子を置き、向こうを向いて座っている。 話しかけようとして、わかった。女は授乳中だったのだ。 その腕に抱かれている赤ん坊は、小さな手足の指を突っ張って、懸命に乳を飲んでいた。 「もう少し、待っていてくださいます?」 「あ、ああ」 振り向きもしないのに、俺の気配を察したらしい。さすがに「夜叉追い」の仲間だけのことはある。 「お待たせしました」 しばらくすると、女は赤ん坊を抱いたまま立ち上がり、振り向いた。 まだ若い。動きがきびきびした、頭の良さそうな女だ。おまけに、かなりの美人。 「夜叉追い」になるには、美形に限るという条件でもついているのか? 「はじめまして。あなたが水主淳平さんですね」 彼女はぺこりと頭を下げた。「私は、ここの所員で矢上詩乃といいます。今日はどんなご用でしょう」 「実は、草薙にと預かっているものがある」 「どなたから?」 「太公望から、と言えばわかるはずだ」 俺はポケットから、小ぶりの巻物を取り出した。とたんに、彼女の腕の赤ん坊が、ひょいとそれを取ってしまう。 「あ、小太郎」 詩乃という女は、赤ん坊の手から巻物をそっと取り上げると、代わりに小さな狐のぬいぐるみを握らせた。草薙にそっくりなやつだ。 とたん「くー」とご機嫌に喉を鳴らして、尻尾をかじり始める。まったく赤ん坊というのは、無条件に可愛いもんだ。 「ナギちゃんは外出中なんですよ。どうしましょう」 「じゃあ、あんたから渡しといてくれないか」 「わかりました」 「頼んだ。それじゃ」 俺は勝手に事務所の電話の外線ボタンを押すと、愛海のケータイ番号をプッシュした。 「あ、あの」 その声に振り向くと、女は困っているように見えた。 「変なことを訊くようですが、あなたの周囲に邪悪な存在はいませんか」 「邪悪な存在?」 意外なことばを聞いて、俺は答えにつまった。「どうだろう、俺の存在そのものが邪悪かもしれんが」 「あなたではないんです。どう言えばいいのか……あなたの霊体に邪悪な気配がまとわりついていて、それがかすかに匂うんです」 「煙草の残り香みたいなもんか」 「はい、まあ」 俺は即座に、首を振った。「俺の回りに、そんなものはいない」 身近にいるのは、せいぜい愛海くらいだが、あいつが邪悪だとしたら、世の中の人間は全員邪悪になってしまう。 「それなら、いいんです」 女は、緊張を少し残した笑顔を見せた。 「でも、くれぐれも気をつけてください。霊体というのは回りに影響されやすい、敏感な体質ですから」 「ああ、それは聞いてる。気をつけるよ」 愛海のところへ戻ると、ひどく邪悪な顔をしていた。 「ど、どうした?」 「すごくきれいな女の人に会ってたでしょ」 愛海は般若のような顔で、ぶんぶん腕を振り回した。 「な、なぜわかる?」 「淳平の顔がニヤけてるもん。美人と会ってたに決まってる」 つくづく幽霊ってのは、隠し事ができない体質だ。 「美人は美人だったが、おまえほどじゃなかったよ」 俺はしみじみとした調子で、愛海をなだめにかかった。 こういうとき「会ってない」と全面否定しても女は納得しない。詐欺のコツとは、一つの真実と千のハッタリなのだ。 「いや、足元にも及ばなかったな。おまえを見たとたん、瞬殺で顔も忘れちまうくらいのブスだった」 「うそ……つき」 俺は壁に彼女を押しつけて、とびきりのキスをしてやった。 気がつくと、そこは南原署の二階の廊下だ。 通りかかった男性職員が、壁にはりついて恍惚としている愛海を見て、回れ右をして逃げてしまった。 それから数日。この日も愛海は朝からデスクワークにいそしんだ。 メシを食う暇もないほど事件が立て続けに起こるときもあれば、まったく事件がない日が続くこともある。 刑事の毎日は、実にアンバランスで予定が立たないのだ。犯罪者たちに、もうちょっとバラけて活動してくれと頼むわけにもいかないしな。 愛海はコンビニの新商品、「麻婆ミンチカツ弁当」に舌鼓を打っていた。麻婆とミンチカツじゃ挽き肉だらけになっちまうだろうに、このコンビニの開発部の考えてることは想像を超える。 刑事部屋に、少年課の石崎由香利が入ってきた。 また愛海をからかいに来たのかと思ったら、近づいてきて、しごく真面目な顔で言った。 「ねえ、都立K高の裏サイト見た?」 俺と愛海は顔を見合わせた。 そう言えば、ゆうべは裏サイトを見ていない。このところ、あまり動きがないので、K高のコンピュータ・ルームにも毎晩は行っていなかった。 「ゆうべ、裏サイトに生徒の実名が出たの。出会い系サイトを使って売春をしてるって。それも写真入りで」 「誰? まさか高木アヤカさん?」 「ううん、それどころか全く逆。あのふたりのほうだよ」 「ええっ」 高木アヤカが薬物を使用していると根も葉もない書き込みをして、彼女を陥れようとしていたバドミントン部のふたりの女生徒の顔が思い浮かんだ。 「そ、それは本当なの?」 「ううん、ガセだと思う。ラブホ前の写真たって不鮮明だし。でも、こういうのってキッカケなの」 その書き込みを皮切りに、次々とふたりの悪口が書かれ始めたというのだ。化粧がダサいとか、昔どこそこで万引きをしたとか。 そちらの小さくて真実味のある悪口のほうが、ふたりにとってはショックだったに違いない。 愛海は大急ぎで南原署を飛び出すと、放課後のK高校へとダッシュした。 水主淳平に関する資料で、もう一度見たいものがあるという口実で、事務長に面会した。 「ところで」 さりげなく、にこやかに、愛海は話題を変えた。 「このあいだ、ここの生徒さんに、ウサ美ちゃんストラップをあげると約束したんですけど、ふたりはまだ校内にいますか」 「ええと、そのふたりでしたら」 事務長は職員室から出席簿を持ってきた。 「生憎、両方とも休んでいますねえ」 裏サイトで起きていることを、教師は全然知らないようだ。 「ちょっと待っててくれ」 「あ、淳平」 俺は校舎の外に一気に舞い上がった。そして新館の二階の窓から、通いなれたコンピュータ・ルームへと飛び込む。 「平石校長。いるのか」 返事はない。西日に照らされた部屋の中は、空気がよどんで底寒い気配が漂っている。 毎晩、裏サイトをチェックしているという彼なら、ゆうべのような書き込みが続くのを見たら、即座に何か行動を起こしただろう。だが、何もしなかった。 どうも、変だ。 俺は平石の言動を思い出していた。そう言えば、友人へのウソの密告を書き込んだふたりの少女に対して、あの校長はかなり苦々しく思っているようだった。 もしかして、書き込みに気づいても、わざと放置しているのではないか。 俺はコンピュータを起動させ、調べてみた。すると、書き込みのいくつかは、このコンピュータから書き込まれていたことがわかったのだ。まるでデマをあおるような調子で。 信じられない。俺の中で、平石校長に対する疑惑が一気に噴き出した。 考えてみれば、彼の口からは、よく生徒たちへの批判が出ていた。優しい口調というオブラートに包まれていたので、あまり気に留めていなかったが。 「愛海」 俺は応接室に飛んで戻って、愛海に話しかけた。 「K高の歴代の校長で、平石という男について調べてくれないか」 NEXT | TOP | HOME Copyright (c) 2006-2009 BUTAPENN. |