インビジブル・ラブ


雑踏


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Chapter 8-1



「そこ……そこよ。感じるぅ」
 マンションの床を、女のあえぎ声が這う。
「もっと深く、強く突いて。……あ……ああ。いい。失神しそう」
「うるさい、まぎらわしい声を出すな」
 肩もみくらいで、これほど盛り上がれる女もめずらしい。
 俺が愛海のマンションに戻って一週間。
 埃だらけの散らかり放題の部屋を何とか片づけた後は、ひたすら尽くす日々だった。
 毎夜毎夜、マッサージと美容パック。新発売の「肩もみ棒」で、肩甲骨の内側に沿ってツボを押してやる。小さなすりこぎ状の棒がピンポイントで直接ツボに効いて、いい具合なのだそうだ。
 まるで奴隷のような生活だが、けっこう俺は幸せだったりする。
 涼香の邪念に取り込まれて帰れなかった一ヶ月を思い返せば、愛海の笑顔が隣にある毎日は、なんと安らぎに満ちていることだろう。
「淳平。好きだよ」
 うつ伏せになりながら、愛海はぽつりと言った。
「ああ、俺もな」
 もう俺は、絶対にこいつから離れられない。離れてやらない。
 俺は、薄い下着だけの愛海の全身を霊体でそっと包み込んだ。うなじに触れると、愛海は「ひゃん」と本物のあえぎ声を上げる。やっぱりこいつは出会ったときから、ここが一番弱いんだ。
 携帯が鳴り、ぐったりしていた愛海は、気だるげにベッドからサイドボードに手を伸ばした。
「はい。……あ、涼香さん。今どこですか」
『さっき、家に着いたところよ』
 電話の主は、日本でのリサイタルを終え、イタリアに戻ったばかりのピオッティ涼香だった。
『でも、ゆっくりしていられるのは一日だけなの。明日からベルリン』
「うわあ、忙しいんですね」
『あなたたちのおかげで、リサイタルも大成功だったし。事務所に頼んで、どんどん仕事を入れてもらったの』
「涼香さん、だいじょうぶですか。淳平をそっちに送りましょうか」
『あはは。邪魔だからいいわ。また必要になったら送ってもらう』
「送るだの送らないだの、俺は小包か!」
 涼香はすっかりスランプから脱し、ピアノを弾くのが楽しくて仕方ないようだ。
 結婚詐欺師に騙された心の傷で、指が動かなくなっていた世界的ピアニスト。
 これからも幸せでいてくれよ。できれば、俺のことなど忘れて新しい恋をしてほしいが、こればかりは時が解決することだ。どうしようもない。
 携帯を置くと、愛海は「よいしょ」とベッドから起き上がった。
「さあ、涼香さんもがんばってるし、私たちもそろそろ腰を上げて頑張らないとね」
「何をだ?」
「水主淳平殺害事件、残された最後の参考人は、現在まだ居場所がわからないの。何としてでも探し出さなきゃ」
 それを聞いて、俺は蒼白になった。いや、幽霊なんだから、もともと蒼白には違いないのだが。
「や、やめろ。そいつは絶対に違うから。犯人なんかじゃないから」
「あら。被害者には、何か人に知られたくない秘密があるのかな」
 愛海は意味ありげにニマーと笑った。「ますます闘志が湧いてきた。絶対に見つけて、その秘密を暴いてやるわ」
 ……悪夢だ。

『黒田智也。32歳。千葉県のおかまバーで働いていた平成××年四月に、店に客として来ていた水主淳平に、現金30万をだまし取られる』
 出がらしの茶をすすりながら、木下警部補は捜査資料をにらんでいた。
「まったく、この水主というヤツは、女だろうが男だろうが見境ないな」
「本当に、節操ゼロですよねー」
 愛海もうんうんとうなずきながら、浮いている俺を楽しげにちらりと見る。
「ばかやろーっ。言いたいこと言いやがって」
 俺の抗議は、むなしく刑事部屋の天井に吸い込まれていった。
 まったく、全国の殺人事件の被害者たちは、こうして生前のかんばしくない素行を暴かれて、悔しい思いをしているのに違いないのだ。
「黒田さんは、当時勤めていた店を辞めたあと、東京近郊のおかまバーを点々としていたんですが、三年ほど前の情報を最後に、行方がわからなくなってます」
「まあ、生きてりゃ今も、同じ水商売に就いているだろう。捜査エリアを広げて、その手の店を当たってみよう」
「はい、わかりました」
 また専従捜査員ふたりだけの、足で稼ぐ地道な捜査が始まるらしい。
「無駄だと思うけどな」
 俺は南原署を出た愛海のそばで、まだぶつぶつと文句を垂れた。
「こいつは、そんなことを恨みに思うような野郎じゃない。第一、たったの30万だろう。寸借詐欺みたいなもんだ。こういう商売では、これくらいは日常茶飯事なんだよ」
「一般ピープルにとっては、30万は大金なの」
 愛海は俺の身勝手な言い草に、憤慨したように答えた。
「日常茶飯事なら何故、黒田さんは警察に訴えて、被害届を出したわけ?」
「うーん」
 俺にも、そこのところがわからないんだ。
 あのとき――今から三年半ほど前になる。
 俺はひとつの大きな山を踏んだ後、ほとぼりを冷ましているところだった。
 ところが潜伏しているうちに、手持ちの金が乏しくなりかけた。
 もちろん、銀行の貸金庫にはそれなりの金が隠してあったが、それは次の詐欺の軍資金に取っておくつもりだったし、警察に目を留められないように、できれば動きは最小限にしたかったのだ。
 そこで思いついたのが、近くの水商売の店で小銭を巻き上げることだった。
 おかまバーを選んだのは、ただの気まぐれだ。さんざん女を食い物にする生活を続けてきたので、少しは女っ気のないところで息をつきたかったのかもしれない。彼らはそういう意味では、女よりもずっと気配りがうまく、話していて心が安らぐ相手だった。
 そのとき、たまたま入った店で、俺の席に着いたのが黒田智也だった。
 『ユキ』という源氏名で、当時はまだ二十代だったか。男にしては線の細い体をして、暗い店内で見れば妙に妖艶な色気のある奴だった。
 店に何度か通ううちに、口から出まかせの俺の身の上話を聞いた黒田は、深く同情して涙まで浮かべ、ある日の帰りぎわに、そっと札束の入った封筒を手に握らせてくれたのだ。
 少しの間チクチクと良心が痛んだのを、はっきり覚えている。だがその一方で、「うまくいった」と、ほくそ笑んでいたことも事実だった。
 愛海にこの話をすれば、烈火のごとく怒るのは目に見えているな。
 相手が男だろうが女だろうが、結婚詐欺だろうが寸借詐欺だろうが、俺はやはり人間として、してはならないことをしちまったんだ。
 黒田に謝りたい。素直にそう思った。

 深まりゆく秋の中、愛海は毎日、あちこちの町を飛び回って黒田智也の行方を追った。
 水商売の人間は口が固い。しかも、ほとんどの同僚は、店に出ているときの源氏名でしか互いを知らないので、名を変えられた途端に、足取りもぱったり途絶えてしまう。
 厄介な捜査だった。黒田が土地勘のある千葉県から始まり、都内や関東各県にまで捜索範囲を広げたが、杳として奴の行方はつかめなかった。
「疲れたあ」
 夜ごと俺にマッサージさせながらも、愛海はがんばった。
 どこへ行っても、彼女はおかまたちに、ちやほやと可愛がられた。愛海には、ふんわりと人をなごませる天性の才能がある。
 南原署刑事課のイジメは何だったのかと思うくらいだ。あそこだけは、愛海を小バカにしたような雰囲気が今でも漂っているのだ。
「あらまあ、刑事さん。お肌もちもち。どんな化粧品を使ってらっしゃるの」
「秘密よ、ヒミツ。おネエさんたちが私よりキレイになったら困るもの」
「まあ、憎たらしい。そんなこと言われたら、どうしても聞きたくなっちゃうわ」
「じゃあ、ここだけの話で、こっそり教えちゃう。S社のヒアルロン酸入りパックが、オススメよ。粉末と液体を混ぜ合わすのに手間はかかるけど、確実に次の日はぷるんぷるんになるから!」
「バカやろ。混ぜるのも塗るのも、俺が全部やってるんじゃねえか」
 俺はそばで退屈しながら、空しくひとり呟く。
 まるで女同士のロッカールームのような会話を延々と続けているうちに、ついに待ち望んでいた「そう言えば」という情報が得られた。
 茨城県で、黒田を見かけたというのだ。

 黒田が目撃されたという駅前を中心に、丹念な聞き込みが始まった。そして数日して、そこから一駅離れた繁華街で働いているという事実をついに突き止めたのだ。
 そのバーは、裏通りの雑居ビルの三階にあった。
 ゴミ箱につまずきそうになりながら、愛海が狭い裏階段を上がっていくと、ちょうどその店の勝手口から出てくる人影があった。
「あ、あの、すみません」
「はい、何か」
 振り向いた男を見て、俺は「げえっ」と叫んだ。
「黒田!」
「え。この人が」
 驚いたのも無理はない。線が細く、なよなよとしていた優男は、わずか4年の間に90キロは超えているだろうという巨体に変身していたのだ。しかも、化粧っ気のないジーンズ姿は、まさにおっさんそのもの。
 こいつが「ユキ」だなんて、詐欺だ。

「まあ、あなたが刑事さん」
 開店前のバーに招き入れられた愛海に、黒田はテーブルの上に乗せられていた椅子をひとつ降ろして、座るように勧めた。
 俺のほうには、見向きもしない。やれやれ、よかった。こいつは涼香と違って、俺のことが見えないみたいだ。
「こんな美しい女性が刑事さんだなんて、誰も信じないわ」
「よく、そう言われます」
 愛海は、真面目くさった顔で答えた。「今日は、水主淳平のことで、いろいろお伺いしたいのですが」
 黒田は、カウンターで日本茶を淹れて戻ってきた。
「名取さんを殺した犯人、まだ捕まらないのね」
 「名取」とは、俺が黒田の店で使っていた偽名だ。
「ええ、それで一から洗いなおして捜査をしています。それで、被害届を出された黒田さんにも、いろいろお話を伺いたいと思いまして」
「黒田なんて無粋な名前やめて、ユカリと呼んで」
 へえ、今の源氏名はユキじゃなくて、ユカリっていうのかい。
「もう一度、確認のためにお聞きしますが、黒……ユカリさんは、四年前の4月12日に、千葉県のバー『キャデラック』で、水主淳平から現金30万円をだまし取られた。間違いありませんか」
「そうね、間違いないわ。でも」
 黒田はメントール入りのスリムな煙草を一本取り出して、「よろしい?」と確かめてから火をつけた。
「ひとつだけ訂正させて。あたし、彼からお金をだまし取られたわけじゃない。自分の意志で渡したの」
「えっ?」
「返してもらうつもりなんか、なかった。別に見返りを期待してたわけでもない。こんな体ですもん、そもそも結婚詐欺なんて成り立たないわよね」
 黒田は唇をすぼめてから、にっこり笑った。化粧しているときなら、女らしい可愛いしぐさかもしれねえが、ただの太ったおっさんがやると、鳥肌ものだ。
「それでは、なぜ被害届を出されたのですか」
 愛海はけげんそうに訊ねた。そうだ。俺もそれが知りたい。
「しかも、届を出したのは、被害を受けて半年近く経ってから。これは少し不自然に思えるのですが」
「理由は簡単。そうすれば、彼の消息が教えてもらえるんじゃないかと思ったの」
 黒田は、ずいっと身を乗り出した。あわてた愛海は、ずいっと身を引く。
「名取くんに、どうしても連絡を取って伝えたかったの。『あんた、ヤバい奴らに目をつけられてるよ』って」
「「ヤバい奴ら?」」
 俺たちは同時に叫んだ。もちろん、黒田の耳には愛海の声しか聞こえていない。
「忘れもしないわ。名取さんにお金を渡した同じ年の9月。あら、10月だったかしら。寒かったから11月――」
 ――しっかり忘れてるじゃねえか。
「警察にお出しになった被害届の日付が、10月24日となっていますから、その頃では」
「そう。じゃあ、その前の夜のことよ。怪しい男たちが店を訪ねて来てね。彼の写真を見せたの。どこかの防犯カメラに偶然写ったみたいな、ピンボケ写真だったわ。こいつを見なかったかって」
 愛海の喉がごくりと鳴るのが見える。
「あたしが、『さあ、これじゃわかんなーい』ってトボけたら、もう一枚の写真を出してきた。サッカーとかラグビーとかで着るような横縞ユニフォームを着た彼だったわ。まだ若い、せいぜい大学って感じの」
 高校時代に部活で撮った写真だ。なんでそいつらが、そんなものを持ってるんだ。
「自分たちのことを何と名乗りましたか」
「あくまでシラを切り通していたら、なんとかいう名前の興信所の名刺をくれた、でも、嘘だってあたしの勘が告げていたわ。あいつらは絶対、その筋の奴らよ」
 頬に、指先で斜めの線を入れて見せる。
「どこかの暴力団?」
「たぶんね」
 愛海は、俺の顔をちらりと見た。
 暴力団といえば、真っ先に思い浮かぶのは、同勇会だ。芸能プロダクションの社長、高見リカコが同勇会を使って、しばらく俺の行方を追わせていた。
 だが、それはもう七年も前の話だ。奴らがそれほど長い間リカコのために動いていたとは思えない。
 じゃあ、いったい誰だ?
 そいつらが黒田のもとを訪ねてきたのが、三年前の10月ごろ。俺はその三ヶ月後に路地裏で何者かに刺されて殺されたのだ。
 愛海は、ぬるくなったお茶を一気にあおり、ふうふう息をついた。興奮しているのだろう。俺だってそうだ。
 もしかして、今度こそ、真犯人の手がかりをつかんだのかもしれない。
 俺を殺したのは、俺のことを恨む結婚詐欺の被害者の誰かだという仮定のもとに、この二年間ずっと南原署の捜査は進められていた。
 愛海だけはひとり、「水主淳平にだまされた女性たちはみんな、被害者のことを恨んでいません」と、その仮説に疑問を投げかけていたのだが、それだって根拠のある考えではなかった。
 今、聞いたことが事実ならば、暴力団らしき連中が俺をずっと追っていたことになる。
 あの路地裏で俺に背後から近づき、一刺しで致命傷を負わせた手際の良さ。暴力団の団員が犯人ならば、何もかも納得がいく。
 ああ、あのときの記憶があれば。
 悔しいことに、死ぬ前に見聞きしたことを、俺は何もかも忘れちまってるんだ。
「翌日、さっそくあたしは被害届を出したわ。さっきも言ったけど、なんとかして、このことを名取さんに伝えたかった――」
 そのとき、黒田は首をかしげて、自分の言ったことばについて考え込んだ。「ううん、違う。やっぱり、彼とひとすじの絆を保っておきたかっただけかもしれないわ。だって、彼、あたしが出会った中でも最高にいい男だったんですもの」
 こんな重大なときに、いちいちくだらねえことをツッコミたくはないが、おい黒田、そこで恥ずかしそうに頬を染めるな!
「だけど翌年の1月、彼が殺されたことを新聞のニュースで知った。もちろん大泣きに泣いたわよ。しばらく呆然として何も手に付かなかった。けど、ようやく我に返って気づいたの。これは、あたし自身がヤバいって」
 黒田はタバコを灰皿に押しつけて、念入りに火を消した。
「だってそうでしょう。あたしは奴らの顔をしっかり見ちゃった。彼が殺されたことを知ったあたしが、警察に密告するかもしれないって、もしかすると奴らは思うかもしれない」
 それはそうだ。もし奴らが俺を殺した犯人なら――顔を見た黒田を口封じに動く可能性は十分にある。
「それで、あたし、事件の後『キャデラック』を辞めたの。せっかくナンバーワンの地位まで登りつめたところだったのに、また場末の店で一からやり直しよ」
「ユカリさん、南原署に来ていただけませんか」
 愛海は、懇願するようにテーブルに両手をついた。「暴力団の構成員の顔写真を見てもらえば、そいつらが特定できるかもしれません」
「それはいいけど――。四年も前の話よ。もう記憶があいまいになっちゃってる」
「それでもいいです。たったひとつの手がかりなんです」
「彼が殺された直後に呼んでくれれば、ほくろの位置まで鮮明に覚えてたんだけどなあ」
 黒田は太った顔に埋没したような小さな目で、店の暗い照明をにらんだ。「そうそう、ひとりは小鼻のところに、ほくろがあったのよね」
 彼は立ち上がって、店のレジに向かうと、一枚の名刺を持って戻ってきた。
「あたしの携帯の番号、書いといた。店の定休日は月曜だから、署にうかがうのは来週の月曜の午後でいい?」
「はい、ありがとうございます」
 愛海は立ち上がり、ぴょこんと頭を下げた。
「刑事さん、ひたむきねえ。なんだか、あたしの若いころそっくり。そう言えば、外見もどこか似てると思ってたの」
 ――おい、さりげなく、とんでもない嘘をつくな。
「あの、ユカリさん。もうひとつ聞きたいことが」
 両手をぎゅっと胸の前で組み、あらたまった調子で愛海は言った。
「水主さんとユカリさんは、体の関係ってあったんですか?」
「あら、やだ。今の子って、聞きにくいことをズバリ聞くのねえ」
 黒田は口に手を当て、くねくねと恥ずかしそうに体をよじって、「ふふっ」と笑った。
 このバカーッ! 否定しろ。否定せんか、全力で!

 黒田のバーを出た愛海と俺は、事件の急転直下の進展についていけず、しばらくボーッとして歩いていた。
「とうとう、手がかりをつかんだな」
「うん」
 愛海の大きな目にみるみる涙が貯まった。まつ毛の堤防が、決壊寸前だ。
「これで、淳平を殺した犯人を捕まえてあげられるよ」
「言っとくが、犯人が捕まっても、俺は成仏なんかしないからな」
 俺は霊指で、愛海の涙をそっとぬぐった。
「そのときは、また新しい迷宮入り事件をふたりで追いかけようね」
「ああ。幽霊と女刑事の最強コンビは、ずっと続くんだ。おまえが定年退職するまで」
「うん」
 愛海はうれしそうに微笑み、俺の首にぴょんと飛びついて、キスをねだった。
 飲み屋街を配達に回っている酒屋の店員が、数センチ宙に浮いている愛海を見て、恐怖でひきつった顔をそむけた。見なかったことにすると決めたらしい。





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