キャンパスに己を刻み込むようにしてひたすら筆を動かした。 白いそれは、心の中の汚い部分をすべてさらけ出すようにして重ねられていく色に 見る間に汚されていく。 その行為にまるで美しい花を散らすような、純粋なものを貶めていくような嗜虐感を覚え、 私はキャンパスに向かっているときはいつも不可解な昂揚感にみまわれていた。 出された紅茶を飲みながら1メートルほど先の、嫌みなほどに整った端正な顔を見る。 しっかりとした線を描く輪郭から形よい耳までをなぞり、その横のややつり上がりぎみの、眉まで視線を流す。 眉と眉の間にわずかに刻まれた皺を通り、一本に線を引いたようなすっきりとした鼻梁。 その下にあるきつく結ばれた唇の、やや上がった口角が甘い。 更に頬をなぞり上げたところには、目の前のものを隅々まで見透かそうとするように 下瞼を心持ち上げた眼。 人物がなどには興味がないし、画きたいとも思わないのに、つい指が線をなぞっている。 「顔に何かついてますか」 前触れもなく上げられた顔に、少し居心地の悪い思いをする。 「心配しなくても目と鼻と口と眉以外には何もついてないよ」 今更ながらに視線をはずす。手の中の紅茶はいつのまにか冷めていた。 一口すすってみる。 「マズイ」 「おや。アールグレイは嫌いでしたか?」 そう言いながらカップに手を伸ばし、口元へ運んで行く一連の動作がまるで 計算されているかのようにしなやかなのがますます嫌みったらしい。 つくづく鼻持ちならない男だ。 「ああ、冷めてしまったんですね。新しいのを淹れてきましょう」 「そこら辺のもの1ミリも動かさずに台所とここを往復できるなら淹れてきて」 動かしたらぶっ殺すよと付け加えて。 床の上には、木目のフローリングが全く見えないほどに画材や画きかけの絵が散らかっている。 部屋に入るときになんとか道を作りながら来たのだが、完成した絵を捜しているときに また元の黙阿弥となってしまった。 この男だって、さすがに命と商品は惜しいだろう。 「まったくあなたは。新作が完成したと聞いて駆けつけてみれば夢の中にいるし、 起こしてみれば茶を淹れろと言い出すし、肝心の絵が画材の中に埋もれているし。 本当にヒヤヒヤさせられましたよ」 「いいじゃん、あったんだから。別に絵の具も剥がれてないし?」 「良くありません。これ一枚で一体どれくらいの金が動くと思ってるんですか。 櫻井優希の作品が火曜日の燃えるゴミの日に運ばれて焼却炉行きになったりしたら、 まず五十万人は泣きますね」 勝手に泣けよ、と思ったが口には出さなかった。 代りに床を覆っている画材を足でどける。 「はいはい。良かったね、炭化しなくて。早くそれ持って出てってよ」 完成された絵なんかに興味はない。 私にとっては筆を握っている時間がすべてで、それによってもたらされてた 紙くずなどには何の意味もないのだ。 表情を読み取った奴は少し苦笑を浮かべながら立ち上がった。 「お預かりします。ああ、そうだ。個展の話考えておいてくださいね」 「やりたきゃ勝手にやれば。私には関係ない」 「そう言うわけにはいきませんよ。あなたを一目見たくて来る人もいるんですから。 少なくとも初日の挨拶には立っていただかないと」 無言で抗議。 「まぁ、考えておいてくださいね」 にっこりと、女達がみたら舞い上がりそうな笑みつきで。 言い逃げかよ。 あきらめにも似た心境で一人ごちた。 ソファーにダイブし、冷めきった紅茶を口に運ぶ。 苦味ばかりが舌に残った。 首を伸ばして窓の外を眺める。 窓の外に見えるのは鬱葱と茂った木々ばかり。その向こうに山の稜線がぼやけている。 相変わらず何もないところだ。 だからこそ、こんな不便なところを選んだのだが。 遠くの山頂に帽子をかぶせたように灰色の雲がかかっている。 「・・・雨降りそう」 そう言えばあのいけすかない男と出会ったのも、こんな重く雲の垂れ込めた夏の日だったと思い出す。 もう七年も前の話だ。 高三の夏だった。 一度放り込んでしまえばあとは楽と言わんばかりに幼稚園から大学まで エスカレーター式の学校に入れられていた私は、特に受験勉強をする必要もなく、 よく授業を抜け出しては校舎裏の日本庭園で絵を画いていた。 教師達もそのことを見てみぬ振りをしていた。 おとなしく卒業してくれと心の中で願っていたのだろう。 その日は午前中に前の絵を完成させ、新しいデッサンに入った所だった。 茶室の中から目の前の青々と繁った大木を手もとのスケッチブックに写し取っているところに いきなり踏み込んできたのがあいつだった。 「これはあなたが画いたものですね」 前置きも何もなく確信的な口調と共に突き出されたのは、昼休みに葬ったばかりの水彩絵だった。 ここから見える枯山水を書いたものである。 「なに、あんた。変質者?」 ここは女子高である。こんなところにいる二十歳過ぎの男など、怪しい以外の何者でもない。 男はそんな無礼な言いぐさを歯牙にかけることなく言葉をつなげた。 「横浜で画廊をやっています。先ほど、あなたがこの絵を棄てているのを見ました。なぜですか?」 「いらないものを棄てて、何が悪いの?」 「いらないもの?」 男の眉間の皺が深くなる。 「これをいらないというのですか?」 「必要ない」 「・・・では、私がいただいても構いませんね?」 「勝手にすれば」 次に差し出されたのは名刺だった。 藤崎昇と印刷されていた。 「あなたの名前も教えてくれませんか?」 「・・・・・・水科優希」 「水科・・・?」 少し記憶を探るようにしてから、やがて得心が行ったような顔をした。 「わかりました。もう一つ、訊いてもいいですか?」 「何?」 「今は夏なのに、何故あなたが画いているその絵の中の木は枯れているのですか?」 私はそれに答えることができなかった。 あとで知ったことだが、このとき藤崎は理事長に頼まれた絵を持ってきていたらしい。 そこで私がスケッチブックを破いているのを見たというわけだ。 まったく、鼻の利く男だと以前嫌みで言ったら、運命ですよと涼しい顔で返された。 本当に、いけ好かない男だ。 藤崎が持って帰っていった絵は、三ヶ月後、どこぞやのコンクールで賞をとったらしい。 銀杏の葉も寒々しくなった頃に電話がかかって来て、そう告げた。 そこからは早かった。 あれよあれよという間に担ぎ出された私は、舞い込む仕事の依頼で まともに学校に行く暇もなくなるほど忙殺され、自然と家に閉じこもる日が多くなった。 人の事どころではなかったのだ。 その事を深く後悔したときはもう、遅かった。 母の病院から連絡があったときに、やっと自分がどれくらいあの白い 病室を訪ねていなかったか思い出した。 初夏だった。 荷物は少ない。 身の回りの、必要最低限の衣服と画材。 そして母さんの遺骨と遺影。 部屋の中をぐるりを見まわすと、こんなにも生活感の無いところだったのかと 改めて驚かされた。 「本当に出て行くのか? 優希」 最後の朝食を珍しく一緒に取っているときの、くだらない親子ごっこだった。 「行く当てはあるのか?」 「心配しなくても、もう二度とここには戻ってこないよ」 「ここはあなたの家なのよ? 好きな時に戻ってきなさい」 母親面をした女が気遣わしげに、けれど喜びを押さえきれない眼をして私を見る。 吐きそうだった。 罪悪感に駆られ父親を演じようとする目の前の男も、その隣の被害者ぶる自分に 酔いしれている女も。 父親が出かけたあと、今度は育ててやった恩をなどと言い出すのを防ぐために 有金全部を叩きつけて家を出た。 青ざめた女の顔に、少しは溜飲がさがる思いがした。 |