―どうして?好きだと言ってくれたのに…!
フラッシュバックする、あの時のあいつの言葉。心までも引き裂くような声に、オレは思わず両手で耳を押さえた。
あいつと付き合い始めたのは、ちょうど半年前。受験が終わってすぐの春。
自分で言うのもなんだが、ちょっと野性的で美形のオレは、モテまくっていた。初めてを3年前に体験してから、付き合った相手は両手両足にもあまる。
オレにとって、女の子と付き合うことは、ただの遊び、ゲームでしかなかった。手に入れる、その瞬間が楽しいのだ。所詮、恋愛は狩る者と獲物との闘い。オレは狩人の方だ。手に入れてしまえば、興味も失せてしまう。
そんなオレが、たまには変わったのもいいだろう、と思って手をだしたのが、行春だった。同級生のくせに、見た目は中学生にしか見えなくて、そのくせ、根性だけはオレよりもすわってた。だって、考えてもみろ、女好きで通っているオレに付き合ってくれって言えるか?同じ男なんだぜ?それも、堂々と、怖気づかずに。
行春とは、1ヶ月ちょっとだったかな。オレが振ってやった。なぜかは分からないが、怖かったのだ。早くやめないと、とりかえしがつかないことになるって思ったから。未練を断つために、これ以上ないっていうくらいに手ひどく。もうそれっきり、会うこともないように。
狩人が目の前の獲物をみすみす逃がしてしまうなんて考えられないことなのに。それなのに。…今だにあの時のことが忘れられない。あの時初めて味わった罪悪感は一体なんだ?
「なに、またぼーっとして」
気がつくと、隣で寝ていた女が、オレの顔を覗きこんでいた。苗字さえはっきりと覚えていない女。ついさっき、刹那の愛に浸った相手。つい2時間ほど前まで、「こいつが運命の相手か?」とまで思っていたのに、今はただのうざったい存在でしかなかった。
「うん、ちょっとな」
「嘘、誰か他の人のこと考えてたでしょ?」
うるさいな、オレの勝手だろ。オレはオマエと体を繋いだが、心まで繋いだわけじゃないんだぜ。
「亮平、やっぱり本命がいるのね。さっきのHだって、気持ち入ってなかったわ」
本命、か。バカ言うんじゃねぇ、オレにそんなのいるわけが…。
―どうして?…
「クソッ!」
またフラッシュバックしたあの言葉に、オレは思わず毒づいた。無性にむしゃくしゃする。オレは隣にいる物体に、オレの中でぐろぐろと蠢くどろどろとした何かを叩きつけるべく、強引に抱き寄せてキスを迫る。その瞬間、妙に澄んだ音と頬に受けた衝撃がオレを打ちのめした。
「ふざけないでよ!あたしはね、誰かの代わりは嫌なのよ!」
頬を押さえたまま、呆然とするオレの目に、女が服を着て、ドアの向こうへ消えるのがスローモーションのように映っていた。
ぴぴぴ、ぴぴぴ、ぴぴぴー♪
携帯が鳴っている。オレは脇にあるビールの空き缶を蹴散らしながら、バッグを手繰り寄せた。
「おい、亮平、大丈夫か?」
「…なんだ、新二か、なんのようだ?」
うまく舌が回らない。天井が少し揺れているような気がする。昨晩から飲んだアルコールが、まだ頭の中に残っているようだ。でも、それもいいかもしれない。こうしていれば、あの言葉が聞こえないから。
「お前、なんかあったのか?ガッコももう何日も休んでるし」
「…別に。なんともねぇよ」
なんでいちいちお前に説明しなきゃいけないんだよ。オレはゆっくり寝ていたいんだ。オレは、オレを忘れていたいんだ。
「明日のドイツ語くらいは出て来いよ。あの外国人、1回休んだら単位やらない、なんて言ってるらしいぞ」
単位がなんだ。このコントロールできない気持ちが、単位で治るとでも言うのか?
「出て来いよ。その後で飲もうぜ。何があったのかは知らないけどさ、悩みだったら聞いてやるからさ」
相変わらず気のいい奴だ。高校の頃からそうだった。そう、あいつとも仲がよくて、よく気になったもんだ。…新二だったら、あいつのことも何か知ってるかもしれない。
「分かったよ、行くよ」
「よかった、それじゃあ、明日な」
オレもホントにバカだな。いまさら、あいつのことを知ってどうしようというんだ。あいつももう忘れているだろうさ。なにしろ、Hどころかキスさえしなかった関係だしな。
酔いがゆっくりと醒めていく。オレは、動き出した思考を押さえるために、また一本、冷蔵庫からビールをとりだした。ひんやりとした手触りが、あいつからのささやかな仕返しのような気がした。
「よ、元気ないなー。女どもも心配してたぜ?」
二日酔いの頭でドイツ語などという理解不能な言語を聞かされて、相当参ってしまったオレは、新二にひきずられるように、いつもの居酒屋へ連れて行かれた。不思議なもので、テーブルにつくと、こんな状態でも生ビールを注文してしまう。居酒屋の持つ雰囲気のせいだろうか。
とりあえず、めでたくもないのに乾杯をすると、さっそく新二が聞いてきた。
「そういえば、この間付き合ってた女はどうした?」
「この間?髪がロングの方か、ショートの方か?」
顔さえもはやまともに覚えていない。会えばすぐに思い出すだろうが。『顔を絶対に忘れずに、街で会ったら必ず声をかける』は、モテるための最低条件だ。
「…相変わらずだな。で、今はどっちだ?」
「今はいねぇよ。もう、当分はそんな気にならねぇ」
無類の女好きで通っていたオレがそんなことを言ったからだろう、新二は心底心配そうな顔でオレを見つめた。
「大丈夫じゃねぇじゃん。どうしたんだよ、ホント」
「どうしたもこうしたも、オレ自身よく分からないんだよ」
「…病気か?なんなら、個人輸入で薬手配しようか?」
そういえば、こいつインターネットやってたな。でも、なんの薬なんだよ?ヤバい系じゃないだろうな。
「ま、それは冗談として。今日はぱーっと飲もうぜ。後から珍しいヤツもくるしな」
冗談言ってる顔には見えなかったが。
「なぁ、参考までに、この間の女はどうだったんだ?」
こいつはオレの別れ話が好きらしく、付き合ったヤツのうち、半分くらいは把握している。いい趣味してるよな。
「どうもこうもねぇよ。ヤってやったら、『他の人の代わりにされたくない』って、ポイさ」
「なんだ、それじゃあ、お前の方が振られたのか?ホント、最近不調みたいだな」
調子が悪いわけじゃない。気が乗らないだけだ。まさか、この年で女に飽きてしまったわけではないだろう。その証拠に、可愛い子や好みの子がいたら、どうやって攻略しようか、なんてすぐに考えてしまう。
「でも、お前がねぇ…。お前、本命が出来たんじゃないか?」
またかよ。お前までそんなこと言うんだ。恋愛なんてゲーム、本気でのめりこんでどうするって言うんだ?
突然、中学の音楽の授業で習った、川の名前がタイトルのクラシックなメロディが流れた。新二の携帯の着信音。初めから本体に備え付けられた音をそのまま使っているのが新二らしい。
「来たぜ。ちょっと連れてくる」
階段を降りて店の入り口へ向かう新二。どうやら、さっき言ってた『珍しいヤツ』が来たらしい。結構大きな店なので、わざわざ呼びに行かないといけないらしい。カップルで待ち合わせをするには、ちょっと不便な店だ。
「久しぶりだね、亮平」
脳裏で今耳に届いた声と、記憶の声とが一致する。オレは心拍数が一気に2倍になったような気がした。
「ゆ、行春…」
「ほら、今大学休みだから、こっちへ帰ってきてるんだ」
急性言語障害という病気でもあるのだろうか。行春の言っている言葉の意味が全然理解できない。自分が言いたい言葉も見つからない。
「な、珍しいヤツだろ?久しぶりだもんな。同じ大学だって受かってたのに、急にオレ達を捨てて海外になんか行きやがってさ」
「うん、あの頃はちょっといろいろあってさ」
「でも、いきなり留学だもんなー。なんでって思ったもんな」
「強くなりたかったんだ。勉強するためっていうより、自分を鍛えるためかな」
「ふーん、そうだったのか」
「それより、ビール注文してくれない?久しぶりに飲むから、待ち遠しくって」
「おう、分かったぜ。ちょっと待ってな」
言葉がオレの頭上を行き来する。相変わらず、思考が動かない。呆然と行春を眺めていることしかできない。わずかな間に確実に成長した行春を。
「欲しい物を手に入れるためには、強くならないと、ね」
新二が再び席を立ったスキに、行春は小声でオレに話し掛けると、軽く右目でウインクする。
その瞬間、オレははっきりと自覚した。あの時の自分の気持ちを。それまで、遊びでしか恋愛をしていなかったから。本気になるのが怖かったから。だから逃げたんだ。自分が傷つかないはずの方法で。
「ゆき…」
喉にひっかかった弱々しい声に、行春がにっこりと微笑む。妖艶というにふさわしい笑顔。相変わらず、オレは行春から視線がはずせない。そのオレの手の上にそっと、行春の柔らかな手が添えられた。
「今度は離れさせないからね」
行春の言葉が呪縛となってオレを捕らえる。オレは行春に狩られてしまったことを自覚した。人生この先、行春以外の人を真剣に愛することができないだろう、ということも。
あの時に逃げなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。それとも、今まで付き合った女達に冷たくしてきたことに対する、当然の報いなのだろうか。それでもいい。もうあの声は聞こえないだろうから。
新二は携帯で誰かと話しているようだ。なかなか戻ってこない。そうこうするうちに、ビールが来てしまう。行春はジョッキを受け取ると、新二を待つそぶりも見せずに、
「おーっ、来たよー。さ、乾杯しよ!二人の再会に、乾杯!」
初恋の人は無邪気そうに笑いながら、手にしたジョッキをオレの前に突き出した。
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