初夏の鮮やかな夕陽が沈んでしまうと、この校舎を照らすものは何もなくなってしまう。真っ暗になった校舎は、そのシルエットまでが歴史を感じさせる。
そしてあたしは、どうもこういう雰囲気が苦手だ。小さい頃に近所の小さな神社で、幽霊を見てしまったのが原因かもしれない。幽霊が出るような神社なんか、いかにも御利益なさそうだと思っていたら、道路拡張に引っかかって、境内が半減してしまったらしい。ま、どうでもいいことだけど。
どうでもいいことといえば、ご多分に漏れず、この学園にも七不思議は存在する。上りと下りで段数の違う階段だの、深夜に絵から抜け出して徘徊する創立者の絵だの、古典的なものから、真冬の夜、グラウンドをぐるぐる回るジャージ姿の幽霊という、いかにも関西的なものまであった。これなんか、想像するとコントっぽくて全然怖くないよね。
「ふぅー、やっぱり嫌だよねー」
静寂をわざと打ち破るべく、あえて独り言をつぶやいてみた。とりあえず、何もなくてよかった。
部活が終わった後になって、忘れ物に気づいたあたしは、七不思議と赤点を天秤にかけた結果、真っ暗な校舎に侵入し、こうやって無事に生還してきたというわけだ。
「さーて、それじゃあ帰ろうかなーと、ん?」
陸上部室の方に人影が見えたような気がした。今日はあたしが鍵当番だから、もう誰も残ってないはずなのに。もしかして、私みたいに忘れ物をした人がいるのかな?
急に鼓動が早くなるのを感じた。楠本先輩だったらいいのに、なんて思ったからだ。入学して最初に心惹かれた人。1年上の、短距離のエース。東京にいた頃も陸上部だったし、続けていこうとは思っていたけどね、こんなに熱心に部活をしているのは、ひとえに楠本先輩に会いたいから。
でも、まだ話すらまともにできない。まわりがみんな関西弁だらけの中で、あたしと同じく東京出身の先輩は、きれいな標準語で涼やかに話し掛けてくれるんだけど。先輩の華やかな笑顔を見ると、胸が苦しくて何も言えなくなってしまう。
はっきりと初恋だと自覚している。でも、なかなか告白できない。チャンスをうかがってる所なんだ。針の穴くらいの小さなチャンスしか、あたしにはないんだろうけどね。
おっと、今はそれどころじゃなかった。あの人、こんな遅くに何やってるんだろ?とりあえず、声をかけてみよう。
「誰かいるんですかぁー?」
あたしの声に反応して、その人影がゆらりと揺れた。見たところ、同級生かな。男の子みたいだけど。…声かけなきゃよかったかも。
あたしはどうも男の子が苦手なのだ。子供の頃から、ずっと。いじめられたとか、そんな覚えもないんだけどなぁ。かなり悩んだりもしたけど、今じゃあ、別にいいかぁ、なんて開き直ってたり。
ゆっくりとこちらを振り向いたその子は、幼い顔立ちでちょっと中性的。すらりとした体付きは、まだ少年と言った方がしっくりくる。よかったよ、これが野性的な男とかだったら、走って逃げてるかもしれない。
急に声を掛けられたからか、彼は目を見開いて驚いたように固まっていた。半開きになった口から、言葉が漏れてくる。
「…ジブン、オレが見えてんの?」
彼の黒目がちな瞳が揺れて、頬を涙がこぼれていく。可愛いという言葉がぴったりで、思わず苦手なのを忘れて見とれてしまいそうだ。
「何を言ってるのよ。当たり前じゃない。それより、早く帰らないと…」
「頼みがあるんや、聞いて、な!」
彼はあたしの元にゆっくりと歩み寄ると、がっしりとあたしの両手を握り締めた…はずだった。
「えっ?」
触感がない。
「驚かんといて、な。オレの願い、聞いてくれたらさっさと消えるさかい」
なんとなく、彼の足元が透けて見えるような…。って、これって、もしかして…。
「ちょ、ちょっと聞いていい?もしかして、あなたって、七不思議の幽霊さん?」
幽霊にさん付けしてどうする、という気もするが、失礼な態度をとって、とり憑かれても困るし。
「オレもそんな有名になっとったんか?いやー、照れるわぁ」
頭を軽く掻きながら、ゆっくりと飛び跳ねる彼。一見して、幽霊には見えないけど。だいたい、照れる幽霊なんて聞いたことがない。
「うん、オレがその幽霊さんやで。よろしゅうな」
自己紹介するくらいなんだから、ホントに幽霊なんだろうなぁ、やっぱり。
「なんか、イメージ違うなぁ…」
「ん、幽霊っぽくないやて?ほな、幽霊らしくしようか?オレ、死んだとき、足もげとったんやでー」
「いらんいらん、していらん!」
思わず関西弁が移ってしまった。
「ま、オレもあのカッコするの気色悪うて嫌やねん。それより、お願いなんやけどー」
あたしの肩に手をかける。あまりに妙なことばかりで、鳥肌も立たない。
「…何よ?」
彼はもう暮れきった空を見上げて、遠い目をした。ような気がした。
「オレ、子供ん頃から走るのが大好きでな。大きくなったらオリンピックでるんやー、言うてたわ。実際、早かったんやで。中学の時なんか、全国大会行ったんやから」
それはすごい。あたしなんか、県大会予選止まりだよ。
「あの日、ここの裏通り歩いとったらな、アホなトラックが突っ込んできよんねん。即死やったらしいわ」
「そ、そう…」
そんなに淡々と言われても。返す言葉がないじゃない。
「ちょうど、インターハイの予選の前日でな、走るのめっちゃ楽しみにしとったさかい、ついつい自縛霊になってもうたらしいわ」
…それって、『ついつい』なるものなの?
「で、お願いっちゅうのはや、オレとレースしてくれへんか、っちゅうことや。ちゃーんと走って満足したら、オレも浮かばれる思うんや」
「うーん…」
「人助けや思うて、なっ、なっ?」
あたしも走るの大好きだから、彼の気持ちもよく分かるし。人じゃないけど、助けてあげたい。
「うん、いいよ。幽霊と一緒に走るっていうのも、貴重な体験だしね」
「やったー、ありがとー、美咲ちゃん、大好きやー」
あたしに飛びついて、感謝の法要、いや、抱擁をしてくる彼。はじめて男の人に抱きしめられた感想は、…すごく息苦しい。寒気もするし。やっぱ、苦手だわ、幽霊も男性も。
「…なんで、あたしの名前、知ってるの?」
「だって、練習いっつも見とったんや。グラウンドうろついたこともあったんやで。でも、誰も見てくれへん。ほんまはな、もう諦めとったんや。せやから、美咲ちゃんに声かけてもらうて、もう嬉しゅうて…」
さきほどの光景が頭に浮かんで、もう一度彼を見つめる。なるほど、黒目がちな訳だわ。瞳孔が開いてるもん。って、そんなことはどうでもいいから。
「じゃ、走ろ!えーっと…」
「オレは翔ゆうんよ。短い間やけど、よろしくな」
あたしは差し出された手を握り返すと、グラウンドの方へ目線を向けた。
「えーと、あたしは中距離がメインなんだけど、翔は…」
「うん、オレは短距離や。んなら、間とって、400でどうや?」
400はなんとか守備範囲だ。翔は男の子だし、全国大会レベルだから、勝負にならないかもしれないけど。
「よーし、負けないよー!」
あたしは、普段の2倍はテンション高かった。恐怖は人を興奮させる、というのはどうやらホントらしい。
「ちょ、ちょっとタンマや!」
あたしがグラウンドを半周する頃、翔の弱々しい声が耳に届いて、足を動かすのをやめる。振り返ると、翔はまだスタートラインから10メートルも進んでいない。
「それでも全国大会経験者?体がなまってるんじゃない?」
「ち、ちゃうわい」
ゆっくりと駆け寄ると、彼はあたしの胸に顔をうずめて泣き出した。突き放すのも可哀相だったし、いやいやながらも彼の頭のあたりをゆっくりとなでてあげる。ひんやりとした触感が、この季節にはぴったり。
「いったい、どうしたの?」
「走られへん…」
あたしに抱き着いて少し落ち着いたのか、翔はその儚げな顔であたしを見上げると、消え入るような声でつぶやいた。その表情があたしを動揺させる。思わず、抱きしめてあげたくなる泣き顔だった。
「どうして?どうして走れないの?」
優しく、あやすように問い掛ける。彼は走らなければずっとこのままなのだ。なんとしても走らせてあげたい。翔は、目線を落とすと、悲しそうに言った。
「だって、だって…、…足がないんやもん」
「…おい、待てこら」
あたしは、こめかみの所が小さく痙攣するのを感じた。
「すまん、ほんまにすまん!オレも気がつかんかったんや、ホンマやって」
気づけよ、そんなことくらい。ま、そういうあたしも意外すぎて気づかなかったけど。
「あー、でも、このままじゃ、どーしよーもないやん。あー、もう、どないしょー」
「じゃあ、誰かに乗り移ればいいじゃん」
あたしは思いついたことをそのまま口にしてみる。
「あかんらしいねん。無理矢理憑いても、ほんの少ししか体操れへんし、とり憑いた人に消化吸収されてしまうねん。オレみたいに弱っちい霊やと、な」
「…、とり憑いたことあるの?」
「ない、ない。通りすがりの霊に教えてもろたんよ」
「通りすがりの霊…?」
「うん、人探ししてはったわ。なんでも千年以上霊やってんねんて。すごい霊力強うてな、近寄るとビリビリくんねん。オレみたいな素人でも分かったわ、タダモンちゃうて」
霊に素人も玄人もあるのか?まぁ、確かに千年も霊やってれば、その世界について一家言くらいは持ってそうだけど。
「そーや!」
翔は両手を叩いた…が、音はしなかった。にっこりと意味ありげに笑う彼に、本能的な怖気を感じる。
「嫌よ」
「そんなー、まだなんも言うてへんで」
さきほどからの会話でなんとなく分かってしまった。つまり、『無理矢理』じゃなければいいわけで。
「合意の上であたしにとり憑くっていうんでしょ?嫌よ」
「美咲ちゃん、いけずやー!」
今度は泣きそうな顔になる。…だめだなぁ、この顔は母性本能をくすぐるわ。
「…分かったわよ。一回だけよ」
「ほら、はやく」
あたしは誰にも聞こえないように、グラウンド脇の木の枝に腰掛けていた翔に声をかけた。嬉々としてあたしの背後に飛び降りる翔。
「ええ?ちぃーとだけ違和感ある思うけど、我慢してな」
あたしの中に何か入ってくる感覚。本能的な恐怖感。自分が自分でなくなるような感じ。なんとなく、死ぬってこんな感じかな…。
「ほら、出来た」
声がすごく近くから聞こえる。なんか、頭の中を響く感じ。と、あたしが見てる風景が近づいてきて、翔が歩いてるんだって分かる。
「あんまり、無理な使い方しないでよ」
「わかってるって。さぁ、走るよー!」
部員のみんなが集まってるところまで、駆け足で近づく。翔の息遣いが、心から楽しんでるんだって教えてくれて、あたしもすごく嬉しくて。
「遅れてもうて、すみませーん!」
とたんに怪訝な表情をみせる部員達。そりゃそうだ、普段のあたしからは考えられない態度だから。
「今日は元気がいいね。その方がいいよ」
こ、この声は、…楠本先輩!認識すると同時に頬が赤くなるのが自分でも分かった。
「ありがとうございまーす!」
翔はペコリと一礼すると、その場で体育座りをした。そのまま、他の人に聞き取れないぐらい小声でつぶやく。それだけで、あたしにははっきりと聞き取れるのだ。
「ふーん、やっぱなぁ」
「な、なによ、なにがよ」
「美咲ちゃん、あの人のこと、好きなんやろ?」
そんな、いきなり急所を突かなくても…。
「な、なに言って…」
「だって、いつも美咲ちゃん見てたんやで。オレ、美咲ちゃんの無邪気な笑顔が好きやねん」
なによ、それって子供っぽいってこと?それを言うなら、翔だってそうじゃん。
「美咲ちゃん、あの人には態度違うてたし。もう、バレバレやん」
あははっ、バレバレでしたかぁ。もう笑うしかないや。
「ええなぁ、オレも生きとったら、好きな人と一緒に走れたんやけどなぁ」
「翔…」
それっきり、何もかける言葉が見つからなくて、あたしはただ黙りこくるだけだった。
「先輩、一緒に走りましょう!」
トレーニングが終わり、フリーで走る頃になって翔は、なんと楠本先輩を誘ったのだ。あまりにいきなりだったので、あたしには止める間もなかった。
「うん、いいよ。美咲ちゃん、今日はやる気だね」
名前を覚えてもらっていたという、感動にあたしは浸っていた。そうする間にも、翔はコースにつく。100のスタートライン。
「えっ、美咲ちゃんって中距離が専門じゃなかったっけ?」
楠本先輩は短距離が得意だ。その辺を翔も知っていて、あえて短距離勝負を持ちかけたのだろう。ま、この体は、今日は翔の物だし、ここまできたら、好きにさせてあげよう。
「いいんです。今日は全力疾走したいんです」
そう言うが早いか、翔は足をセットする。先輩の一人が、この勝負に興味を持ったのか、スターター役を買って出てくれた。
「用意、…、ハイ!」
手を叩く音と同時に、あたしの、翔の体が力強く躍動した。
「まさか、負けちゃうとはね…。美咲ちゃん、短距離に鞍替えしたら?」
走ったあたしも驚いた。長距離型の筋肉をしていると言われたことのあるあたしが、まさか100で先輩に勝ってしまうとは。翔がインターハイを楽しみにしていたというのも、素直に頷ける。
「あ、先輩、その件で話があるんですけど…。ちょっと、部室へ来ていただけませんか?」
話って?翔、いったい何考えてるの?変なこと、考えてないでしょうね?
「ちょっと、翔…」
「美咲ちゃん、ありがとうな。オレ、もう満足や。もし生まれ変われたら、今度こそオリンピックに出たんねん。応援してな」
ゆっくりと部室へと足を運ぶ翔。心なしか、その足取りが重い。
「そろそろ、オレも消えなあかんみたいや。だいぶ、力が抜けてきてん」
「翔…」
それっきり、なんの応答もないまま、部室の中に入る。先輩が後から入ってきて、いきなり言った。
「で、話って何かな、美咲ちゃん?」
「話は後で、美咲ちゃんとしてあげてください」
その言葉が放たれると同時に、あたしの体は枷が外れたように軽くなった。
「えっ、どういう意味…」
言葉が途中で途切れた。先輩は呆然とあたしを見ていたが、やがてあたしの心を惹き付けたあの笑顔を見せると、ゆっくりとあたしに近づいてきて…。
「さよなら、美咲ちゃん。ほんま、美咲ちゃんに見つけてもろうてよかった」
「えっ、先輩、まさか…、ねぇ、翔!」
人差し指を口元で立てて、軽くウインクする先輩。ゆっくりと指を下ろしながら、さらにあたしに近づいてくる。
「せ、ん…」
なおも呼びかけようとする、あたしの口を温かくて柔らかい何かがふさいだ。それが先輩のくちびるだということに気づくまでに、数秒を要した。
先輩の両手があたしの背中を力無く抱きしめる。あたしも反射的に、先輩の、翔の背中を抱きしめた。力強く。
やがて、翔は体の力を抜き、あたしに体を預けた。『無理矢理とり憑くと、とり憑いた人に消化される』、彼の言葉が耳に甦る。
「翔!」
「これから…先は、自力でなんとかするんや…で。オレは…、オレも…みさ…すき…やっ…た…」
「ねぇ、ねぇってば、翔ー!」
あたしはその場に座りこむと、今は先輩に戻った彼を抱きかかえて叫んだ。その声に、先輩が目を覚ましてもなお、あたしは涙を止めることができなかった。
彼の、翔のこの世との二度目の別れは、あたしにとってはつかの間の恋の終わりだったのかもしれない。
部室の中には、あたしともう一人。着替えを終えたあたしは、柔軟をしながら先輩を待つ。
「どないしたの、美咲ちゃん?」
あたしがまじまじと顔を見つめているのに気づいて、先輩は照れたように頬に手を当てる。その手首には、キャラクターのついた水色のリストバンド。先週のデートであたしが選んだお守り代わりのアイテムだ。
あれから、あたしは先輩にきっぱりと告白して、なんとか先輩の恋人の座を射止めることができた。どうやら、先輩もあたしに好意を抱いてくれていたみたい。でも、まさかオッケーしてくれるとは思ってもなかったのだ。
「え、先輩変わったなーって」
「そうかしら?」
タイムも1秒近く縮めたそうで、ますます陸上が好きになったらしい。そうそう、はっきり変わった所といえば、言葉に時々関西弁が混じるようになったこと。だんだんこちらに慣れてきたんだろうって、先輩は笑いながら言うけど。
「うーん、なんとなく」
あたしは無邪気に笑って見せる。その笑顔が好きだ、と先輩が言ってくれたから。その言葉通り、先輩は柔らかな笑顔を返してくれる。
「一緒に走りましょう!」
先輩の中に今もいるはずの翔にも、聞こえるようにはっきりと誘いながら、あたしは先輩の手をとった。
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