伯爵家の秘密


第10章「王都騒乱」


(3)

 王都を中洲として挟み込むように流れるラロッシュ河。
 クライン王国における『王牢』とは、その西岸に立つ古城の塔を指す。ファイエンタール王朝がこの地を都と定めたとき、王の重臣のひとりが守りのために建てた城だ。
 もう百年以上前、この城は、王族を幽閉する場所として用いられていた。王位継承にまつわる、王族同士の血で血を洗う係争ゆえである。
 現在は、もっぱら六層の塔のみを、貴族のための牢獄として使うようになっている。
 クライン王国法の『恩恵』と呼ばれる特別な補則により、貴族は、一般民衆とは異なるやり方で罪をさばかれる。裁判所における裁判ではなく、王宮内の【裁判の間】において、専任の司法官による裁きを受ける権利を有すると定められているのだ。
 王宮裁判は、王の臨席が原則であるゆえに、軽罪についてはお目こぼしを受けることが多く、傷害や殺人、横領や背任、反逆罪といった重罪についてのみ、裁判が開かれることになる。
 牢獄も、一般の囚人の入るカビ臭く不衛生な穴倉などではなく、それなりの品位を保ったものと定められていた。
 ラヴァレ領における屈辱的な捕縛から二日後。
 王立軍によって囚人用馬車で護送されたエドゥアールは、獄屋の扉の前で目隠しをほどかれた。
 ここまでに昇ったらせん状の階段の数は、142段。おそらく、ここは四階ほどの高さであろう。
 宛がわれた独房は、おそろしく天井が高い。天井のすぐ下に、鉄格子のはまった採光用の小窓がしつらえられていた。
 剥き出しの壁は、百五十年の歳月を耐えた灰色岩の石積みで、数えきれない囚人の遺した絶望と怨念を吸い込んできたかのように、ところどころ青黒く変色していた。
 小窓の真下に、書き物机と椅子。その横は、とうもろこしの藁入りの敷床にシーツのかかった、簡素な木の寝台がひとつ。片隅には、穴の開いた木の椅子と陶製の大きな壺。これが用足しの場所ということだろう。
「伯爵さま」
 分厚く頑丈な牢扉を振り返ると、まだそんな歳には見えないのに、ひどく老けた印象の男が一礼した。
「わたしは、この牢の看守、エティエンヌと申します」
 その脇から、よどんだ眼をした背中の曲がった老人が、陶器の水差しと鉢を手に持って入ってきた。それらを机の上に置くと、扉をまた出て、今度は服と手ぬぐいを持って、戻ってきた。そのあいだ、一度もエドゥアールと目を合わせようとしない。
「ここにいるジャン=ジャックが、お召し替えのお手伝いをいたします」
 貴族の中には、生まれてから一度も自分の服のボタンをはめたことがない者もいる。それゆえ王牢では、囚人ひとりずつに下男がつくのだという。
「ありがとう。でも、自分でできる」
 と、エドゥアールは答えた。ひどく疲れている。一刻も早く、ひとりになりたかった。
「承知しました。それでは失礼して」
 エティエンヌは、胴に巻きつけているベルトから鍵束を取り出し、囚人の両手をつないでいた枷(かせ)の留め金をはずした。
 エドゥアールの左手首にはめられた鉄の輪から、長い鎖がだらりと垂れ下がる。
 看守たちが出ていくと、寝台に座り込んだ彼を、重苦しい夕闇が包んだ。
 ふと気づくと、シャツにも手にも乾いた血がこびりつき、かすかな異臭がしている。死人のように蒼白な近侍の騎士の顔が頭をよぎり、エドゥアールはぎゅっと目をつぶった。
 シャツをむしり取るようにして脱ぎ、ぬるくなった湯を器に注ぐ。用意された手ぬぐいを濡らして体を拭き、着替えをすませた。
 首からかぶる粗末な囚人用のシャツは、脱ぎ着がしやすいように袖口が割れている。ひとつ動作をするたびに、手首の鎖がじゃらじゃらと鳴った。
「ロジェがオルガに見せた幽霊は、ここの囚人だったのかもしれないな」
 とつぶやいて、エドゥアールは苦々しく笑った。もしかすると、彼も命が果てるまでここに閉じ込められ、幽霊となって谷に帰るのかもしれない。ひどい無力感に襲われ、ふたたび寝台に座りこんだ。
(ユベールは命を取りとめただろうか)
 ユベールのことも、父伯やミルドレッドのことも、領館の使用人や谷の村人たちがどうなったかも、今の彼に知るすべはない。
 国王とセルジュの身を案じ、王国の運命を憂える以前に、自分自身がいつまで生きられるのかもわからなかった。
(俺のせいだ。俺さえこの世に生まれてこなければ、アンリもユベールも平穏な人生を全うできた)
 身をよじるほどの焦燥をもて余しながら、枕に突っ伏した。
(俺さえいなければ、この国に王位継承争いの火種を蒔くこともなかったんだ)
 このまま、息を止めてしまいたい。この世の何もかもが、もうどうでも良いとさえ思えた。


 翌朝エドゥアールは、浅い眠りの繰り返しの果てに目を醒ました。初冬の独房は、すっぽり毛布をかぶっても手足がかじかむほど冷え込んでいた。
 鉄格子の小窓からは、冷気が素通しで吹きつけてくる。だがそれは、ポルタンスの水路に降りて食器を洗うときの、水面を渡る早朝の風に似ていた。
 港町で娼館の下働きをしていたときのことを、とりとめもなく次から次へと思い出しているうちに、自然に笑みが浮かぶ。肉体は鍵をかけて閉じ込められていても、心まで閉じ込めることはできないのだ。
 寝台から起き上がるころには、エドゥアールはすっかり本来の自分を取り戻していた。
(嘆いていても仕方ない。今の自分にできることをしよう)
 さっそく行動を開始した。ベッドを隅に引きずって椅子をその上に積み、壁の石に足をかけてよじ登る。
 東の山の端から昇ってくる太陽が目を射った。凍てついた鉄格子をつかみ、思い切り下を覗き込んでも地面は見えない。
(あーあ。この高さじゃ、ここから飛び降りるのは不可能だな。あきらめるか)
「な、何をしておられるのですか!」
 看守のエティエンヌが、それに気づいて悲鳴を挙げた。
 これから後、かわいそうな看守は日に何度も、この貴族らしからぬ囚人に悲鳴を挙げさせられることになる。
「なあ、なんか話ししようぜ。ひとりで食べるのは、つまんねえんだ」
「……」
「あんた、この監獄に何年勤めてるんだ? どうやったら、そんなに肌が白くなれるんだって人に聞かれたことない?」
「お、お静かに願います」
 扉のそばに陣取って、朝から晩まで鉄格子ごしに話しかけてくる囚人は、エティエンヌにとって初めてだった。王牢に入る囚人は、ぜいたくな暮らしに慣れ、気位が高い。最初のうちは今の境遇に耐えられずに看守にやつあたりし、ものの数日もすれば健康を害し、生きる気力を失ってぼんやりと日を過ごすようになるものだ。
「おい、ジャン=ジャック。その箒を貸してくれよ」
 静かだと思えば突然、机や椅子をガタガタと積み上げて、天井や壁を掃い始める。「俺、蜘蛛の巣のかかってる部屋って苦手なんだよね」
 ひとときもじっとせずに牢の中で動き回るエドゥアールに、下男も振り回されっぱなしだ。めったに口を利かぬ老人のはずなのに、いつのまにか「はあ」とか「あれあれ」などと呟いているのを耳にするようになった。
「このお茶、もうちっと何とかならないか? 色ばっかり濃くて、香りも風味も全然ないんだもんな」
「わがままをおっしゃいますな。茶葉の割り当てだって決まってるのです」
 数日して気がついてみれば、独房の扉越しに、囚人と看守はお茶の時間を共有するようになっていた。
「だからさ、鍋に水を汲んですぐの沸かしたてのお湯を使うんだよ。それだけで全然違うから。あー。この扉を開けて俺にやらせてくれれば、美味いお茶飲ましてやるのに」
「じ、冗談じゃありません、そんなことをしたら、わたしの首が飛びます」
「ところで、この王牢には何人くらい入ってるんだ?」
「秘密事項です。お答えするわけにはまいりません」
「みんな貴族だよな。どんな罪状で入ってるんだろ。俺より上の位の連中もいるのかな」
「お答えいたしかねます」
「別にいいけどさ。ときどき退屈で、大声で歌ったり踊ったりしたくなるんだけど」
 エドゥアールはいたずらっ子のように、にやりと笑った。「うるさいから、この下と上の部屋の住人には、よろしく言っといてくれよ」
「あ、あなたはご自分のお立場がわかっていらっしゃるのですか」
 看守は、呆れたというより、しみじみと感心して訊ねた。
 この王牢に、軽微の罪人はいない。数年あるいは数十年も閉じ込められ、死刑台に登る者も少なくない。そんな絶望の地で今まで出会った囚人たちと、この伯爵はあまりに違いすぎるのだ。
「わからねえ。だって俺、無実だし」
「無実ならなおさら、人は絶望するものではないのですか」
「どうして? 自分が無実なことは自分が一番知っている。それなら、どこで生きようと自分に恥じる必要はないじゃないか」
「自分に恥じる?」
「そう。自分に恥じる生き方をすることが、俺にとってはもっとも恐ろしい」
 若き伯爵は、扉の鉄格子ごしに透きとおった眼差しを投げかけてきた。それは、牢獄の薄暗がりの中とは思えぬほど高貴な青色に輝いていた。
(本当に、この方は無罪なのだ)
 看守はその瞬間、そう確信した。


 ミルドレッドは侍女のジルとともに、子爵家の馬車に乗って王都に着いた。
『エドゥアール・ド・ラヴァレ伯爵が、反逆罪の容疑で王立軍に捕縛された』
 王都にそういう噂が駆け巡ったとき、仰天した父モンターニュ子爵が急いで、早馬の使者と救援の馬車を差し向けたのだ。
 子爵家の居館に馬車が帰り着いたとき、母親と父親は転がるように外に飛び出し、娘をもう二度と離さぬといわんばかりに強く抱きしめた。
「よかった、よかった。無事で」
「ご心配をかけました。お父さま。お母さま」
「いったい何があったのだ。エドゥアールさまが何故こんなことに」
 暖炉の前でブランデー入りミルクを飲みながら、ミルドレッドは、順序だてて今まで起こったことを話した。
「エドゥアールさまが連れ去られたあと、王立軍の兵士たちは領館の内部の捜索を始めました。国王陛下が館内に閉じ込められているのではないかと疑ったようなの。大伯爵さまとわたくしたちは、そのとき【伯爵の部屋】にひそんでいました」
 兵士たちが扉の前に立ち止まり、「この部屋が怪しい」という話し声が聞こえてきたとき、ミルドレッドはエドゥアールの命令を思い出した。
『秘密の地図をおぼえているだろう? みんなをあの通路に誘導して』
 父伯の同意を得ると、ミルドレッドは震える膝を御して立ち上がり、伯爵家の肖像画の一枚を外した。そこに現れたのは小さな真鍮製のリングだった。思い切り引くと、部屋の隅でたちまち何かがカタンと外れる音がした。
 秘密の通路への入り口が開いたのだ。
 まず家令がランプを持って先頭に立ち、続いてマリオンとオルガ、アルマを押し出すようにして続き、最後にエルンストが扉を閉めた。
 かびくさい細い通路を抜けると、漆喰塗りの小部屋があり、一同はそこで夜を明かした。
 執事ロジェが大声で彼らの名を呼びながら、屋敷じゅうを歩きめぐっているのに気づいたのは、翌朝も日が高くなってからだった。
 王立軍はすでに引き揚げたあとだった。主たちの無事を喜び合うとすぐ、騎士ジョルジュと従者トマは、谷の出入り口の街道を閉鎖するために出て行った。
 そして、騎士ユベールは、瀕死の重傷を負って手当を受けていた。
「まあ、あの騎士さままでが――」
 母ダフニは、悲報の連続に、泣く気力もなくなってハンカチを握りしめた。
「でも、おとといの朝、ようやくお医者さまが峠は越したとおっしゃってくださいましたの」
 声に憂いを宿したまま、ミルドレッドは続けた。「でも、今度はお義父上がお倒れになってしまって」
 エドゥアールが捕縛されたことを知ったエルンスト伯の嘆きは、ひとかたならぬものがあった。何度も館を飛び出そうとして、そのたびに使用人たちに必死で取り押さえられた。
 その心労のためか、身をひそめていた地下の寒さのためか、次の日には床から起き上がれなくなっていたのだ。
 弱っている大伯爵を安心させる意味でも、ミルドレッドと家令のオリヴィエが、子爵の差し向けた馬車を使って王都に来ることが決まった。
 ジョルジュとトマは残って領館を守り、ラヴァレ領全体の防衛のために手を尽くすことになった。いつまた、王立軍やプレンヌ公の手の者たちに、谷が襲撃されるかわからないからだ。
「お止めしてよかった。大伯爵さまが、王都にいらしては危ない」
 と、モンターニュ子爵は沈鬱な面持ちで言った。「王都も今、混乱のきわみだ。国王陛下が行方知れずであられることが知れ渡り、王宮の貴族たちは大混乱に陥っている。不穏なうわさがはびこり、暴徒が商店を打ち壊す騒ぎだ。ラヴァレ伯爵が陛下誘拐の首謀者だという根も葉もない話を真に受け、居館を取り囲んで、投石などで一時は騒然としていたらしい」
「わたくしたちも、この数日は閉じこもりきりです。あなたも、決して外へ出てはなりませんよ。しばらくはこの屋敷で暮らしなさい。エドゥアールさまの奥方だと知れたら、何をされるか――」
「いいえ、お母さま。今からさっそく伯爵家の居館にまいります」
「ミルドレッド!」
「なぜいけませんの?」
 ミルドレッドは立ち上がり、胸に両手を当てて誇り高く微笑んだ。「夫の代わりに、わたくしが居館をとりしきるのは当然でしょう。それに、一刻も早く、エドゥアールさまに面会する手はずを探さなければなりません」
「そんな危険なことを……あなたまで捕らえられてしまうかもしれないのよ!」
「かまいません。それはとても名誉なことだわ。だって」
 目に涙をたたえて、それでも彼女は毅然と言った。「それは、わたくしがエドゥアールさまの妻であることを、皆が認めることですもの」
 父パルシヴァルは、絶句する奥方の肩にそっと手を置いた。
「ダフニ、止めても無駄だ。この子はもう私たちの娘ではない――ラヴァレ伯爵夫人なのだよ」


 王都の目抜き通りは、町角ごとに制服の警官がものものしく立っていた。
 警官の尋問をなんとかやりすごし、ニレの並木通りに走り込む。すっかり葉を落として殺風景な街路を歩いていくと、ミルドレッドははっと目を見張った。ラヴァレ家の居館の塀が、あちこち投石で壊れていたのだ。ところどころ焼け焦げた痕さえあり、門の鉄扉はくにゃりと折れ曲がっていた。
「これはひどい」
 オリヴィエが顔をしかめる。
 彼の後について、ジルとともに門をくぐり、ゴミの浮いた噴水を横目に、踏み荒らされた庭を抜けた。
 玄関のノッカーを叩くと、よほど経って中から出てきたのは、居館執事のナタンだった。
「若奥さま……オリヴィエどの」
 もともと顎の尖った貧相な風貌の男だったが、この数日の騒動からか、ますます痩せて目だけが飛び出て見える。
「ナタン。お疲れさまです」
 ミルドレッドは、何か言いたげなオリヴィエを制して、ねぎらいの言葉をかけた。とは言え、相手がプレンヌ公爵の息のかかった者だと知っているため、笑顔がどこかよそよそしくなるのは否めない。
「居館の様子はどう?」
「あぶなく火をかけられるところでしたが、なんとか屋敷の中は無事でございます」
 玄関の間を抜けて中庭に入ったミルドレッドたちは、あたりを見回して感嘆の声を上げた。
「まあ」
「おお、これは……」
 何も変わっていない。中庭を囲む異国風の回廊にも、煉瓦の壁にも、荒れた様子はない。
 冬枯れの庭は色さびしくなっているものの、レンテンローズの濃赤がつつましく、あずまやの周囲を彩っている。
「どうして……だって、暴徒が前庭まで押し寄せて来たのでしょう」
 振り向くと、ナタンが途方に暮れたような表情で答えた。
「玄関が今にも破られそうになったとき、近所の商店主や住民が大勢でやってきたのです」
「町の人たちが?」
 王都の商人たちにとって、エドゥアールの名は『貴族の私的徴税権を廃してくれた英雄』として名高かったのだ。しかも、先だっての結婚の祝宴に招かれ、祝いの酒や菓子をふるまわれた住民も多かった。
『あの伯爵さまは、貧しい民の味方だよ。悪いことなんかなさるもんか』
『心ない暴徒が、お屋敷を略奪しようとしているらしい。なんとかせねば』
 口から口へとうわさが伝わり、ついに、手に手に武器替わりの鋤やモップを持った住民たちが大挙して、救援に駆けつけたというわけだった。
「そうだったの」
 最悪の事態を覚悟していたミルドレッドは力が抜けて、あずまやのベンチに座り込んだ。
 エドゥアールのことを慕っているのは、ラヴァレの領民やポルタンスの裏町の人々だけではない。この王都ナヴィルの民衆も、窮地に陥った彼を見捨ててはいなかった。
 貴族も平民も同じ人間だという彼の理想がいつしか、みなの心を動かしたのだ。
 ふと気づくと、ナタンが居心地悪そうに、うなだれて立っていた。
 もともと彼は公爵側の人間のはず。この暴徒騒ぎの中で、とっくに居館を見捨てて逃げてもよかったのだ。現に、彼のほかに使用人たちは誰も見当たらない。
 なぜ、逃げずに館に残っていたのか。ミルドレッドは、そこまで考えてようやく、彼の内側にある葛藤に気づいた。
 おそらく、彼はプレンヌ公から完全に見限られたのだ。門前払いを食らい、行く場所を失ってしまったのだ。
「ありがとう。ナタン」
 彼女は手を伸ばして、執事の両手を握りしめた。「よく館を守ってくれました。困難のときに見捨てない友こそ、真の友だといいます。本当にありがとう」
 ナタンは戸惑ったように身じろぎした。「いえ、わたしは……」
「助けが必要なの。わたくしを助けてちょうだい。エドゥアールさまを、なんとかして牢獄からお救いしたいのです」
「ですが、ですが……」
「あなたを信じます。ナタン」
 まっすぐな瞳でそう言い切った伯爵夫人の前に、ナタンは崩れるようにひざまずいて、深く頭を垂れた。
「はい、若奥さま」


 コックもいない中、ジルのこしらえた簡単な夕食を取ったあと、ミルドレッドは二階の突き当たりの書斎に入った。
 エドゥアールが王都に滞在するときは、ほとんどの時間をこの部屋で執務に充てていた。
 彼がいつも座っていた椅子に腰掛け、書き物机の上を見回して、彼のペンや書き散らかしたメモを見たとき、ミルドレッドは張り詰めていた糸が切れたように、はらはらと涙を流した。
「エドゥアールさま」
 エドゥアールさま、早く戻ってきて。わたくしをひとりにしないで。敵は強くて大きすぎて、わたくしひとりでは何もできません。
「教えてください。明日は誰と会えばよいの。今夜はどうやって眠ればいいのでしょうか」
 ミルドレッドは机に突っ伏し、心ゆくまで泣いた。
 窓の外には、しんしんと冷たい夜の帳が降りてきた。ジルが静かに入ってきて、ランプに灯りをともし、暖炉に薪をくべて出て行った。
 伯爵夫人は泣きはらした顔をようやく上げて、長いあいだ一心不乱に思案した。やがて唇をキッと引き結び、引出しから一枚の便せんを取り出すと、ペンを取って手紙をしたため始めた。


 ラヴァレ家の家令や執事が、毎日のように王牢を訪れているという。無論、囚人には面会することはおろか、簡単な言伝てすら許されない。毛布や冬の衣類など、差し入れられたさまざまなものも、裏地をほどいて厳重に調べられる決まりになっている。
 パンや菓子は細かく刻まれ、手紙の類が入っていないか徹底的に確かめられてからでないと、手元には届かなかった。
 それでも、それらの贈り物をミルドレッドの指が整えたのだと思うだけで、エドゥアールは胸が熱くなるのだった。
 雪が静かに舞うある日、看守が「牢医さまがお見えです」と告げた。
「牢医?」
「持病のお薬をお届けくださったとか」
「持病? ああ、そうか。俺、体が弱いんだった」
「ちなみに、どこがお悪いのです?」
 診察の準備のために手首の鉄の輪をはずしながら、エティエンヌは疑わしげに訊ねた。
「重度の貧血だったかな」
「……いたって血の気は多そうにお見受けしますが」
 独房に入ってきたのは、父伯の主治医でもあるフロベール博士だった。この高名な医師は、王都の貴族たちの館へ往診に呼ばれることが多く、ときおり王牢の重病人を診ることもあると聞いている。
 白髪の医師はほっとした顔で、牢の入り口で深々と一礼した。
「伯爵さま。お元気そうで」
 と言いかけて、あわてて訂正する。「かなり顔色がお悪いですぞ」
「そうなんだ。ふらふらして、ろくに動けない」
 独房の隅で立ち合っている看守は、「そうか?」と首をひねる。
「貧血の特効薬をお持ちしました」
「助かった。これを待ってたんだ」
 差し出された小さな壺に入っている赤黒い液体は、無論、ベナの汁だ。
 一ヶ月でも染めるのを怠れば、エドゥアールの髪は根元から徐々に、元の金髪に戻ってしまう。
「それでは、さっそくお脈を拝見いたしましょう」
 フロベールは伯爵の手首を取りながら、持参したカルテを机に広げ、「どれどれ。前回の数値は」とつぶやきながら、何度も覗き込む仕草をした。
 紙が少しずつ押し出されて来ることに、エドゥアールはようやく気づいた。
 クラインの医師がカルテに病名や処方を記すとき、医学が大陸でもっとも進んでいるとされる北方三国の言語が用いられる。だが、そのカルテにびっしりと書き込まれている北方語は、まぎれもなくエドゥアールに宛てた手紙だった。

『 親愛なるエドゥアールさま

ラヴァレ領のことは、決してご心配なさいませぬように。
ユベールさまのお怪我は、ソニアの懸命の看病で快方に向かっています。
お父上もご婦人がたもご無事です。使用人たちも全員無事です。村にも畑にも被害はありませんでした。ジョルジュとトマが毎日谷をめぐって、万全の見張りをしてくれています。
王都の居館も以前のように美しい姿で保たれ、ナタンがせっせと庭の手入れをしています。
わたくしも元気にしております。わたくしが元気でいる限り、あなたは世界の果てからでも帰っておいでになると約束してくださいましたわね。
そのおことばを信じて、元気でお待ちしています。
あなたの釈放のために、あらゆる手を尽くしています。オリヴィエが毎日、王都を駆け回っています。フロベール先生も、連絡役を引き受けてくださいました。
綿入れの上着を縫っているところなので、できたら届けます。
 心より愛する あなたの妻ミルドレッドより』

「次はお背中を拝見します」
 医師はおだやかな声で、反対側を向かせた。患者が誰にも見られず泣けるようにという、名医ならではの配慮だった。





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