第10章「王都騒乱」
(5)
「看守。おまえは出て行け」
エドゥアールの拳を受け流しながら、セルジュは、扉のわきで身をすくませているエティエンヌに命じた。
「し、しかし、規則では」
「出て行けと言っている!」
「は。承知つかまつりました。失礼をば」
看守はあたふたと扉を閉めたが、そっと外から中の様子をうかがっている気配がある。
両手を鎖でつながれている不利な体勢のため、いともたやすくエドゥアールはセルジュの腕に羽交い絞めにされてしまった。
「どうした。汚らしい虫けらごときが、何をそんなに怒っている」
「これが怒らずにいられるか」
エドゥアールは、拘束をふりほどこうと無茶苦茶に暴れる。「どれだけ――どれだけ、おまえのことを心配したと思ってるんだ」
「心配? わたしを?」
セルジュは嘲るような笑い声を漏らし、手の中の囚人をするりと放した。「これほど手ひどく、わたしに裏切られたというのにか」
ふたりは正面から互いをにらみ合う。
「陛下はどこにおられる」
「王都から遠く離れた田舎の村に閉じ込めている。相変わらずご壮健で、しかも頑固でいらっしゃるよ」
「リオニアとの条約は?」
「そんなものは、とっくに雲の彼方だ。今は、カルスタンとの軍事同盟の草案づくりが急務でね。来春のリオニアへの派兵が盛り込まれることになっている」
「セルジュ!」
エドゥアールは、腹の底からしぼりだすような悲痛な声を上げた。「いったい、何があったんだ」
「何も。夢から覚めて正気に戻っただけだよ」
「プレンヌ公爵に妨害されたのか」
「あの人が、そのようなことをするわけはない」
セルジュは、喉の奥でククッと笑った。「酒毒が頭まで回っているらしい。そばに侍る者を、いまだに「ルネ」と呼んでいるくらいだ。本物はラヴァレ領でおまえの近侍の騎士に殺されたというのにな」
「……」
「ただし、そいつはルネほどは巧妙ではなくてね。何かと目障りだ。ルネならば、周囲にそれと悟らせぬように巧く父を操っていたのに」
エドゥアールは眉をひそめたまま、いつもにまして饒舌なセルジュを見つめ続けた。
「ルネの父親の代から、奴らは密偵を送り込んで、父を焚きつけ、思うように操っていた。父の王室に対する憎悪も、ラヴァレ伯一族に対する憎悪も、ギルドにいいように利用されたわけだ」
「ギルド……武器商人ギルドか」
「知っているのか」
「この上の牢におられるティボー公爵に、あらましは聞いた」
「まったく、くだらない世の中だ」
市中のケンカをながめる傍観者のように、セルジュは腕組みをして壁にもたれた。
「いくら平和条約を結ぼうとしても、無駄だった。クラインのような一小国の手に負える相手ではない。この大陸じゅうの国が束になっても勝てるかどうか」
「じゃあ、束になればいい」
エドゥアールの瞳は、光を失っていない。「クライン、アルバキア、リオニア、カルスタン。北方三国とも手を結べば、どんな強大な組織だってぶっつぶせる」
「そういう世迷言を声高に唱える人間は、真っ先に消されてしまうだろうな」
セルジュは、ため息まじりに答えた。
「父ひとりが相手なら、せいぜい数年のあいだ領地に隠れているだけでよかっただろう。やがて寿命が来て死んでくれる。だが、ギルド相手だとそうはいかぬ。平和を唱えるかぎり、おまえも、おまえの子孫も、死ぬまで奴らの影におびえて生きることになる」
エドゥアールは、それを聞いて黙り込んだ。
「セルジュ、ほんとうのことを言えよ」
口を開いたときは、先ほどまでの剣幕と打って変わった穏やかな声だった。「俺や国王陛下を拘束しているのは、奴らから守るためなんだろう?」
「ははっ。なぜ、そんなことをする必要がある」
セルジュは、顎を上げて小馬鹿にしたように笑った。「おまえを始末することで、わたしが一番得をするというのに」
「……得?」
「そうだろう。おまえがいる限り、わたしには玉座は回ってこない」
薄い唇が、みにくく歪められた。「エドゥアール・ファイエンタール、おまえに生きていられては困るのだよ」
囚人の服を着、手に鎖をはめられた伯爵は、静かにその場に立っていた。
「セルジュ。俺は王になどなるつもりはない」
「じゃあ、なぜ国王に近づいた? わたしとともに税制改革に着手した? はじめから、この国を自分のものにするつもりだったのだろう」
「ちがう。俺は、おまえ以外に次の王になる人間はいないと思ってる」
「嘘だ!」
セルジュは突如、憤怒を全身に宿して突進してくると、エドゥアールの襟首をぐいとつかんだ。
「陰であざけっていたくせに。親しげな口ぶりで油断させ、あとで王位をさらっていくつもりだったくせに。うっかり騙されるところだった。もう少しでおまえのことを信じかけ――」
セルジュは次の言葉を失った。はじめて間近で見たエドゥアールの瞳は、水の膜がかかって揺れながら、ありったけの哀しみを表していた。
「そんな……あわれむような眼で見ないでくれ、ますます惨めになる」
セルジュは、苦しげに何度もあえいだ。「蟻はわたしのほうだったと……思い知らされる」
「王になるのは、おまえだ」
エドゥアールは子どもに言って聞かせるように、繰り返した。「俺は、おまえを助ける。何があろうと、おまえをそばから支えてやる。クラインは俺たちの祖国だ。ふたりで力を合わせて、この国を敵から守ろう」
気がつくと、追いつめていた側のセルジュが、逆に崩れ落ちそうな体をエドゥアールの肩に支えられている。
しばらく息を継ぎ、セルジュは乱暴に彼を突き放した。
「そんな口車に、誰が乗るか」
ゆっくりと服装を整えると、背中を向けたまま非情に宣告した。
「父が死刑執行書類に署名した。おまえは国家反逆者として、五日後に王宮広場にて処刑される」
「……王宮裁判を受ける権利もないのか」
「おまえの理想は、貴族の権益を弱めることではなかったのか。それなら、一般民として死んでいくのは本望だろう」
訪問者が牢扉を出て行ったあと、エドゥアールはしばらく項垂れていた。
ふと気づくと、一枚の紙きれが床に落ちていた。
いや、違う。出ていく際に、セルジュがわざと落としていったのだ。
拾い上げて、それを読んだエドゥアールは、腹の底から湧き出てくる喜びと安堵ゆえに、力なく笑った。「あの、へそ曲がりめ」
『今夜、荷馬車が王牢の前に横づけされる。
出る準備をしておけ 』
満ちた月は、厚い雲の後ろに隠れたままだ。
この独房に入った日の夜も、窓から満月の光が射し入っていたことを思い出しながら、エドゥアールは一ヶ月暮らした部屋を感慨深く振り返った。
「お元気で」
看守が深々と一礼してから、鍵を取り出し、彼の両手にはめられていた鉄錠と鎖をはずした。
年老いた下男は、継ぎの当たったぼろ織りのマントを彼に着せかけ、懸命に背中の糸くずをはらおうとしている。
「本当に、だいじょうぶなんだな。エティエンヌ、ジャン=ジャック」
「はい。リンド侯爵さまのお計らいで、あなたを逃がしたお咎めはおよばないことになっています」
「世話になったな。楽しかった。もうちっとだけ、ここにいたかったなあ」
「そんなことはおっしゃらずに」
ジャン=ジャックが、「あうあう」という悲しげな泣き声をあげたので、エドゥアールは彼を抱きよせ、しわだらけの額にキスした。
「いつか、また遊びに来るよ。それまでに綴りを百、書けるようにしておくんだぞ」
「もう行くのか」
らせん階段を見送りに降りてきたのは、ティボー公爵だった。老公は煤けたランプの光の中で、旅装の若者に慈しみの眼を注いだ。
「この国を頼む。エルンストの息子よ。わたしにはもう、その気力がない。ただこの隠れ家で、次の世代の幸いを祈るばかりだ」
エドゥアールは黙ってうなずき、膝を曲げて暇を乞うと、階段を下り始めた。エティエンヌの持つランプが、塔の石壁にゆらゆらと巨大な影を映す。
「ここでの一ヶ月は、数年分の学問にまさった」
おのれに言い聞かせるようにつぶやくと、先に立つ看守が感慨深げに答えた。「あなたの一ヶ月のご滞在は、王牢の百年の変化にまさります」
142段を降りて一階に到達すると、エティエンヌはランプを持ったまま器用に鍵を取り出し、扉を開けた。
さらに、鉄格子の二重の門を次々と開錠する。
夜空はまた分厚い雲に覆われ、凍えるような氷雨がばらばらと落ち始めた。塔と城を取り囲む森は、幽霊が立ち上がったかのように、ざわざわと揺れている。
先ほど到着したはずの荷馬車の姿が、ない。
「……エティエンヌ」
背筋をきんと冷たい悪寒が走り、エドゥアールは看守に向かって腕を伸ばした。「早く中に戻――」
黒い人影が三方から襲いかかった。
「うっ」とうめくエティエンヌの声が、彼の耳に届いた最初の異変だった。
あとは、突然のしかかる重み。思ってもいない方向から加えられた衝撃。突風が吹きすぎる音がしたかと思うと、頭に火球が当たったごとき激痛。
天地がさかさまになり――そして、エドゥアールは真の闇へと放り込まれた。
潮の香りがする。なつかしい港町で、いつも嗅いでいた香り。
それにしても、ずいぶん乱暴な揺り籠だ。足からずり落ちそうになったかと思うと、心臓が口から飛び出しそうなほど急激に落下する。
「あーあ、せっかく鎖がはずれたと思ったのにな」
エドゥアールは、ふたたび彼の両手を縛(いまし)めている鉄の枷をぼんやりと見つめた。
木の床に仰向けに寝かされていると気づいたのは、ついさっき。いまだに目の焦点は定まらない。娼館の一番安い個室よりもまだ狭い部屋は、右へ左へとゆっくり大きく揺れている。
「船の中……」
なぜ、こんなところにいるのだろう。セルジュの手配した荷馬車に乗って、今頃は安全な場所へ――ラヴァレの谷、愛する妻が待つ領館に着いているはずなのに。
「食事だ」
男が入ってきて、彼の顔の横に乱暴に皿を置いた。
眼球を動かすのもおっくうだ。水のように透き通ったスープと干からびた黒パンがひとかけら。それでも、動こうとすると頭に激痛が走り、吐き気がこみあげてきて食べられない。
浅い眠りと覚醒を繰り返し、ようやく体を起こせるようになった。
枷をはめたまま、どうにか壁のところまで這い、脚を投げ出して座る。小さな円い舷窓から見えるのは、よどんだ灰色の空と、窓に時おり打ちつける白い水の泡だった。
「ここは……どこだ」
「クラインから東に八十海里の沖合ですよ、伯爵さま」
にたにたと笑いを貼りつけて入ってきた男は、船室の扉をよく通れたものだと感心するほどの巨体だ。短い腕を道化のように大げさに回してお辞儀する。
「申し遅れました。わたしはフラヴィウスと申す、しがない商人。御身の身柄を預からせていただいた者です」
エドゥアールは、ぼんやりしていた頭が怒りゆえにはっきり覚めてくるのを感じた。睨みつける相手を得て、ようやく目の焦点が結ばれる。
「武器商人ってのは、商品をあんなに手荒に扱うものなのか」
「ほっほっほ。小賢しい方とは聞いておりましたが、そのとおりですな」
商人は腹をゆすりながら、エドゥアールを傲岸に見下ろした。
「確かにあなたは、わたしどもの大切な商品です。あなたのお命と引き換えという条件で、クライン国王陛下にカルスタンとの軍事同盟に同意していただかなければなりませんからな」
「一国の運命と俺ひとりの命が引き換え? そんなの話にならねえ」
「そうでしょうか。可愛い妹君の忘れ形見。陛下にとっては国よりも貴いものではございませんかな?」
エドゥアールは、ぎりっと奥歯をきしませた。「下衆やろう」
「うるわしき仰せですな。王家の血を引いている方とは思えぬお言葉です」
フラヴィウスは、つかつかと前に歩み出ると、一枚の上質の羊皮紙を取り出した。
「王へ宛てた書状です。これに、直筆のご署名をいただけますかな」
「もし、しないと言ったら?」
「異教徒の大陸にある奴隷市場にお連れします。白い奴隷は、異国では高く売れますからな」
「普段ならそれも楽しかろうが、あいにく今は新婚の身でね。花嫁が家で待ってる」
「結婚は人生の墓場だと申しますぞ。まだ奴隷のほうが楽ではありませんか」
伯爵と商人はしばらくのあいだ、ひたと睨み合った。だが、さすがに相手は百戦錬磨の商人だ。ひるむことを知らない。
「わかった」
エドゥアールは大げさなため息をついた。「ただし、署名したくても、これじゃできねえけど」
と、鉄の枷をはめた両手を持ち上げてみせた。
「承知しました。はずして差し上げましょう」
ひとりの従者が進み出て、彼の鉄枷をはずし、それからペンとインク壺を差し出した。
「ここのところに」
差し出された羊皮紙に、するするとペンを走らせる。
「ほらよ」
書かれた文字を覗き込んだフラヴィウスは、目を剥いた。
『バーカ』
次の瞬間、エドゥアールは俊敏にうごいた。インク壺を武器商人の顔のあたりに投げつけ、腕をつかんでいた男の手の甲にペン先を突き立てた。
「うわあっ」
ふたりの体をわきに突き飛ばし、はじかれたように扉に向かって走り出す。
港町ポルタンスに長年住んで、この手の帆船の構造はわかっていた。舷窓があるなら吃水線より上層に違いない。上甲板の明かり取りの格子が見えれば、階段はすぐ左手だ。
冬の海は荒れる。この時期、たいていの貨物帆船は、強風を避けるため海岸線に沿うように航行しているはず。うまく行けば、海岸に泳ぎ着けるか、別の船に拾われるかもしれない。
いや、うまく行かない確率のほうがずっと多いのだが、それでもエドゥアールはじっとしているわけにいかなかった。自分の存在が、フレデリク三世の重荷になることを思えば、海に飛び込んだほうがましだった。
だが、実際には一度も航海経験のない彼が、絶えず揺れる船中で追いつ追われつを演じるのは、やはり無理があった。
よろめいた隙に、大柄の船員のひとりに飛びかかられ、したたかに顔や腹を殴られた。
取り押さえられ、両脇を抱えられて元の船室に連れ戻された彼を、アライグマのように目の周りをインキで真っ黒にしたフラヴィウスが出迎えた。
「元気な御方だ。さぞかし、奴隷市場でも高値がつくでしょう」
商人は、唇を切って血を流しているエドゥアールを見て、嘲るように笑った。「そうだ、ちょうどよい。その血が使えますな」
彼は従者に命じ、流れる血をエドゥアール自身の指に塗った。そして、羊皮紙を広げ、署名の代わりに無理やり指紋を押させた。
「ふむ、なかなかの説得力だ」
光に透かすようにして書状を満足げにながめると、「さっそく次の寄港地からフレデリク国王陛下のもとに届けさせましょう。これを見れば、意地を張っている場合でないことがおわかりになるでしょう」
言い残してフラヴィウスが出ていくと、エドゥアールはまた枷をはめられ、床にころがされた。
扉に閂がかかる重々しい音を最後に、ふたたび彼はひとりになった。
「まいったな」
セルジュは、結局は彼を裏切ったのだろうか。牢獄から逃がすふりをして、武器商人に売り飛ばしたのか。第一王位継承権を持つエドゥアールを、彼はそこまで憎んでいるのか。
ずきずきと痛む身をようやく起こし、壁にもたれかかった。
ミルドレッドは彼が王牢から消えたことを知り、どれほど衝撃を受けているだろう。父は冬の寒さに弱って寝込んでいないだろうか。ユベールは。アルマ婆さんは。使用人のみんなは。
こうしている間にも、刻一刻と船は祖国から離れていく。ふたたび彼が、愛する人たちに会える日は来るのだろうか。
しんしんと雪の降り積もるラヴァレの谷を瞼の裏に思い描いて、エドゥアールは涙を流した。魂が鳥になれるのなら、今すぐ息絶えて帰りたいと願った。
商船の船長は、上客なみに部屋をひとつ占領している貴族の捕虜を、ただ遊ばせているのはもったいないと考えた。
「よろしいですかな、フラヴィウスどの」
「あまり傷をつけぬように願いますよ。ほっほ。なにしろ売り物ですからな」
船員のひとりが、彼の枷をはずし、代わりに王牢ではめていたのに似たゆるい鎖につけかえた。左足にも重い鎖つきの鉄の輪がはめられた。これでは海に飛び込んでも、ひとかきもすることなく海底に沈むだけである。
じゃらじゃらと鎖を引きずりながら、甲板に押し上げられると、久し振りの青空の明るさに目がくらんだ。
「さあ、伯爵さま。お仕事だぜ」
突き飛ばされ、甲板によつんばいになると、頭に固いブラシが投げつけられ、周囲で働いていた船員たちがどっと笑った。
「この甲板を、隅から隅まで。このブラシできれいに洗うんだ。さぼりやがったら承知しねえぜ」
泣き言を言ったら蹴りつけてやろうと、にやにやしながら見つめていた船員たちは、うずくまったままの貴族の若者が、くすくすと楽しそうに笑いだすのを聞いて、ぎょっとした。
「あー、久し振りだな。床磨きなんて今まで、やりたくても、やらしてもらえなかったからさ」
「な、なんだって?」
「まあ、見てろよ。この豚小屋よりも汚ねえ甲板を、ぴかぴかに磨き上げてやるから」
唖然とする船員たちの前で、エドゥアールは誇らしげに顔を上げた。腕まくりをしてブラシをつかみ、慣れた手つきでごしごしと床をこすり始めた。
帆船は十日後、東の海の群島海域に近づいた。
そのひとつ、ラガス島の港で最初の寄港をすることになっており、フラヴィウスはラガスのギルド支部に立ち寄るために、ここで下船するのだった。
「船長、あの伯爵さまを頼むぞ」
狭い島影を航行するためにマストの帆を降ろし始める船員たちを見やりながら、大商人は意味ありげな笑いを浮かべた。「ごまかすなよ。奴隷市場の儲けは六対四だからな」
「そのことですが」
真っ黒な鬚面の船長は、口ごもりながら言う。「本当にあの男は、伯爵ですか」
「なんだと?」
「もしや、従者でも身代わりにしているのではないでしょうか。何と申しますか、貴族にしては、あまりにも型破りで」
「ほう」
「甲板は二日できれいに磨きあげられ、進水式を終えたばかりの船同然。それでもまだ何かしたいというので、芋の皮むきでもさせようと厨房にやったら、料理はコックがほれ込むほどの腕前で。しかも、船の書記までが、商品送り状や船荷明細書の計算が間違っていることを指摘され、助手に使いたいと言い出す始末」
「……」
「あれは伯爵家の辣腕の執事か何かで、本物のラヴァレ伯爵はどこかに逃げちまったということはないでしょうか」
フラヴィウスは「ううむ」と考え込んでいたが、顎と境い目のない太った首をぶるぶると振った。
「本物に間違いはない。確か、子どものころは港町の娼館で下働きをしていたと聞いておる」
「そりゃ道理で」
船長は頭を掻きながら、ひとりごとめかして付け加えた。
「伯爵にしておくのは、もったいないですなあ」
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