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第3章「王都へ」
(1)
領館は、一気にあわただしい雰囲気になった。
部屋から部屋へとメイドたちが走り回り、ひっきりなしに荷物を積み込む馬車が出発する。その有様は、まるで屋敷全体の引越しが始まるのかと思わせるほどだった。
「俺が王都に行くだけで、なんでこんな騒ぎになるんだ」
呆気に取られているエドゥアールの後ろで、家令のオリヴィエが髭を引っぱりながら、もったいぶって言った。
「恐れながら、王都にまかりこすのは若旦那さまだけではございませんぞ。王都にある伯爵家の居館にて、大勢の客人をお迎えしなりません。ラヴァレ伯爵家として恥ずかしくないだけのおもてなしのためには、これだけの使用人、食材や器財が必要なのです」
王都にも居館を維持するための使用人はいるが、それだけでは到底足りない。コックのシモンやメイド長のアデライド、大勢のメイドたちまでが大挙して移動するというのだ。
「そして、申し上げるまでもなく」とオリヴィエは念を押す。「わたくしめも、ご同行いたします。万が一にも、おもてなしに粗相があってはなりませんのでな」
言わんとしているのは、『その粗相の張本人とは、あなたさまです』ということだ。エドゥアールは顔を思い切りしかめて、家令を振り返った。家令はどこ吹く風。
「叙爵式が終わったら、さっさと引き揚げるんじゃねえのか」
「とんでもございません。王都滞在は、貴族の方々とのまたとない社交の機会。最低でも一ヶ月。二ヶ月は向こうにおられるお覚悟で、お臨みくださいませ」
「それじゃ、小麦の穫り入れが終わっちまう。ちぇっ。楽しみにしてたのに」
「それは、よろしゅうございました。泥だらけで農夫のまねごとをされる心配がなくなりましたからな」
あれからオリヴィエは、馬丁見習いのダグをぎゅうぎゅう締め上げて、エドゥアールが大麦の穫り入れを手伝ったことを白状させたのだ。
(水車小屋の件は、そのとき農夫からお聞きになったのだな)
オリヴィエには、あなどれぬという警戒感とともに、どこかにエドゥアールに対する感嘆の気持が芽生えている。(妾腹とは言え、さすがは伯爵さまの血を引くお方ということか)
「王都行きは、お気が進まないご様子ですね」
主の浮かない顔色を読んだのか、お茶の給仕をしていた執事のロジェが言った。
エドゥアールは、裏庭に面したテラスの椅子にもたれて、せっかくのシモンの労作であるブルーベリー入りのスコーンをフォークで切り刻んで、ただのパンくずにしている。
谷に来て四ヶ月。せっかく領地や館内の様子がわかるようになった矢先だったのに、この不在は悔しい。
それに何よりも――。
「お父君のご病状のことがご心配ですか」
執事は先回りして、彼の心中を読んだ。
伯爵は重い内臓の病気で、『冬至祭までは持たない』と医師に宣告されている。その期限まで、あと三ヶ月なのだ。
夢にまで見た再会を果たしたのに、これが永遠の別れとなっては悔やんでも悔やみきれない。
「わたくしが留守居役を務めますゆえ、旦那さまの看病は、おまかせくださいませ。それよりも――」
紅茶のお代わりをカップに注ぐふりをして、耳元でそっとささやく。
「王都は、プレンヌ公爵派の巣窟でございます。居館の内部も例外ではありません。くれぐれもお気をつけになられますように」
「ああ」
エドゥアールは、スコーンのくずをぱらぱらと芝生に落とした。木々の間を飛びまわってきたツグミが、たちまち足元に集まってくる様子を見て、ようやく彼は微笑んだ。
出発の朝は、館じゅうが森閑と静まりかえっていた。この幾日か、準備のために朝早くから夜遅くまで沸き立っていたのが、嘘のようだ。
ベッドから起き上がって、バルコニーへの折り戸を左右に押し開くと、その理由がわかった。
館が白い海の上に浮いているのだ。
エドゥアールは思わず、裸足でバルコニーに走り出た。手すりから眼下を見下ろすと、谷全体が霧に覆われていた。
高い木の梢や、村の教会の塔がかろうじて頭を突き出しているだけで、あとは一面の純白の世界。
まるで一夜にして、氷の海の上に飛ばされてきてしまったようだ。
「若旦那さま」
部屋の中からジョゼが彼を呼んだ。
戻ってみると、お茶のお盆を運んできたふたりのメイドは、興奮に頬を染めている。
「驚かれたでしょう」
「驚いた。まるで天国みたいだ」
「この谷は、いつも夏が終わって秋に季節が変わるとき、こういう霧が出るんです」
「この霧のおかげで、お茶の葉やりんごの甘味が増すんですって」
「よかったです。若旦那さまがご出発という日に、この景色をご覧になれて。きっと神さまが旅の前途を祝福しておられるのですわ」
娘たちの無邪気な笑みに、エドゥアールの表情も次第にほころんだ。
悲壮な決意で王都に入ろうとしている自分が、子どもじみて愚かに思えてくる。
ありのままに、ふるまえばいい。すべてを受け流して、自然体でいればいいのだ。
「ありがとう。なんだか本当に、うまく行くような気がしてきた」
「もちろんです。きっと、うまく行きますわ」
「きみたちも、いっしょに王都に行くんだろ。ここはいいから、支度をしておいで」
ふたりは、ぶるぶると首を振った。
「とんでもない。若旦那さまのお支度が私たちの仕事です。今からお風呂に入って、ぴかぴかになっていただかないと」
「わかった」
エドゥアールは、屈託なく笑った。「それじゃ、念入りに支度してくれよ」
「はいっ」
その日、ホールに集まった使用人たちは、階段を降りてくる伯爵子息を見て、息をつめた。
袖や襟のレースの重なりさえ一分の隙もなく整った伯爵の正装。毛先まで丁寧に梳かれ、まとめられた黒髪。
何よりも、その顔に刻まれた決意が、すべてを物語っている。
長年伯爵家に仕えてきた者たちは、そこに若き日のエルンストの面影を見つけて涙ぐみ、雇われて間もない新しい使用人たちでさえ、彼が百数十年の伯爵家の歴史を受け継ぐべきお方であることを確信した。
「オリヴィエ」
「はい。若旦那さま」
「めんどくさいことになっちまったけど、よろしく頼むぜ」
「もったいないおことば」
家令は心をこめた深いお辞儀をし、そんな自分自身に大きな驚きを覚えた。
わずか四ヶ月前、この同じ場所で呆れながら迎えた野育ちの若者。その同じ人間に頭を下げることに、いつのまにか抵抗感がなくなっているとは。
「すでにメイド長はじめ数名の者が居館の準備のために先立っております。お心を安んじられますよう」
腰を折ったまま、固い声で家令は答えた。
このホールに集まっている使用人の中で、伯爵領に残る者は、およそ半分。副コック長や、直接伯爵の身の回りの世話をするメイドたち、庭師など外回りの使用人と、下働きの少年少女たちは領館に残る。
出発組は、エドゥアールの馬車の後ろから、食材などとともに幌付き馬車に乗って王都に向かうことになる。
「ロジェは?」
エドゥアールは、使用人の列の中に執事の姿を捜した。
「は、旦那さまのご様子を見てくると申したきり――」
そのとき、メイドのひとりが悲鳴のような叫びを挙げた。
ホールにいた者たちは、一斉に二階を見上げた。
ステッキを突き、もう片方の腕を執事に支えられて、ゆっくりと階段を降りてきたのは、エルンスト・ド・ラヴァレ伯爵その人だった。
「旦那さまが――」
「お歩きに――」
感極まって、泣き出す者もいた。ふたたび起き上がることのできぬ死の床に就いていると言われ、何ヶ月ものあいだ自室から一歩も出なかった伯爵が、ゆっくりと、しかし確かな足取りで己の体を支えているのだ。
「エドゥアール」
階下にたどりついた灰色の髪の伯爵は、黒髪の子息と向き合った。「道中つつがなく過ごすように」
唇を半開きにしていたエドゥアールは、我に返り、きゅっと口元を引き締めた。
「ああ」
「陛下に拝謁したら、くれぐれも無沙汰の非礼をお詫びしてくれ」
「まかしとけよ。それより」
ぞんざいな言葉の中に、せいいっぱいの労りをこめる。
「親父、俺のいない間に死ぬんじゃねえぞ」
「承知しておる。おまえが伯爵となって戻ってくるまでの留守は預かった」
と微笑む父親の穏やかな目尻の皺を、エドゥアールは強く心に刻みつけた。
敵陣に乗り込むための、最高の餞(はなむけ)だ。
「安心しろ。ちゃんと爵位を受けて戻ってきてやる」
そう言い捨てて、くるりと踵を返すと、エドゥアールは玄関の車寄せから馬車に乗り込んだ。
駕籠の扉が閉まったとたん、抑えていた涙があふれてくる。
「行ってきます――父上。お元気で」
御者が手綱を振り、しずしずと馬車は出発した。
谷を覆っていた霧はすっかり消え去り、あたりに光が満ちあふれた。
行く手には、この季節には珍しい、一点の曇りもない青空が広がっている。
ラヴァレ伯爵領から王都までは、いくつもの山を越えていくことになる。
坂をものともせぬ駿馬とそれを乗りこなす騎手ならば、一日で着ける道のりだが、大勢の人間と重い荷を積んだ馬車ともなると、そうはいかない。
街道沿いの村々で宿や休憩を取りながら、夏の終わりの雨に潤い始めた緑の風景を眺めつつの穏やかな旅。王都にたどりついたのは、出発して二日後の夕方だった。
クライン王国の都ナヴィル。かつてこの地を支配していた黒髪の先住民族の城砦だった都市だ。
大平原の中央を流れるこの国のもう一本の大河、ラロッシュ河の巨大な中洲の上に立っている。橋を落せば、周囲は深く広い水の流れに守られ、まさに天然の要塞だ。
巨大な城壁の上に塔や家々が屹立するさまは、神が積み木箱をひっくりかえし、うず高く積み上げたのだと形容される。
馬車が長い橋を渡って王都の門に近づくにつれ、西に傾ぐ陽にオレンジ色に照らされた町並みが、圧倒的な豊かさと華やかさをもって迫ってくるようだ。
クライン王国の百五十年の繁栄を具現した都だ。
町の造りには、貴族と平民の身分の格差が、まるで縮図のように現われている。
中央の丘には、ひときわ高くそびえたつ純白の王城。その周囲の高い城壁に沿って連なる壮麗な邸宅と広い庭園は、公爵と侯爵たちの居館だ。そして坂を下っていくと、伯爵、子爵、男爵の順に下級貴族の邸宅が続く。
王の周囲を金髪氏族の末裔が占め、その補佐を黒髪氏族の末裔が務めるという図式は、クライン王国における貴族制度と何ら変わることはない。
そして、貴族たちの足元を拝するように建っているのが大商人や手工業者の親方たちの家々。
さらに下層に、小売りや職人たちの長屋。そこからもあぶれた者たちは、川堤や橋の下、都の外壁の中にまで住んでいる。
それでも、都の繁栄を求めてやって来る者たちは、後を絶たないのだ。
大通りをのぼる立派な馬車に、屋台の商人や買い物客たちが手を止めて顔を上げる。そして、その格式を見て伯爵の一行であることを悟る。目ざとい者なら、谷ユリの紋章だけでラヴァレ伯爵の馬車だとわかるだろう。
伯爵の居館は、静かなニレの並木道に面した二階建ての煉瓦造りの建物だった。大きな噴水が前庭の中央にそびえ、豊かな緑とともに見る者の心を潤す。
玄関に並ぶ使用人たちの最前列で迎えたのは、近侍のユベールだった。メイド長のアデライドの顔も見える。彼らはすでに数日前からナヴィルに入り、数々の準備を整えている。
馬車から降りるエドゥアールに手を差し延べてから、ユベールは膝を屈めた。
「長旅、お疲れになられたでしょう」
「疲れた。眠い」
下唇を突き出しながら、エドゥアールは不機嫌に答えた。
騎士の後ろに立っていた神経質そうな男が、子どもをなだめるような笑みを浮かべてお辞儀した。
「彼はこの居館の執事、ナタンでございます」
紹介しながら、ユベールは灰緑色の目をわずかに細めた。
このナタンという男、決してエドゥアールにとって好ましい人物ではないらしい。
「ようこそ、王都にお越しくださいました。若旦那さま」
「よろしく、頼む」
エドゥアールは、あくびを噛み殺しながら挨拶を返した。
「中庭に、お茶の準備が出来ております。どうぞこちらへ」
先導されて廊下を抜け、庭への両開きの扉をくぐる。
居館の建物に四方を取り囲まれた中庭は、すでに晩夏の残照の中にあった。どこから渡ってくるのか、夕方の風が昼間の暑さをなだめるように、あずまやの屋根から垂れ下がった白いクレマチスの花を揺らしている。
たとえ、この屋敷が公爵の息のかかった者ばかりに支配されているのだとしても、少なくとも庭だけは、エドゥアールを心から歓待してくれているようである。
表が騒がしくなった。彼の後に到着した使用人たちが、家令オリヴィエの指揮のもとに荷物の積み下ろしに取り掛かっているのだ。あずまやに用意されたお茶と菓子で旅の疲れを癒す特権を与えられているのは、エドゥアールだけ。
(あっちで、みなといっしょに働きたいな)
そばで給仕を始めたナタンが、落ち着かない様子の主人をチラリと嘲るような目で見て、慇懃に言った。
「若旦那さまはお疲れのご様子、今宵は食事の後は早めにお休みなさいませ」
「えーっ」
エドゥアールは、あからさまにがっかりした声で叫んだ。「冗談じゃねえ。せっかく楽しみにしていたのに。王都の夜は毎日が祝祭みたいだって聞いたぜ」
「外出は、お控えくださいませ」
執事は鋭くたしなめた。「叙爵式までの十日間、貴族らしくないおふるまいは厳に慎まれますように。恐れながら、たとえば飲酒に賭博、ケンカに女遊びの類は、一切ご法度でございます」
「ちぇっ。やろうと思ってたことを全部言い当てられた……」
「それに、そのような暇はございません。明日の朝からは息をつく暇もないほどの日程をお覚悟くださいませ」
「なんだよ。今度は何をさせられるんだ」
「先ほど申し上げましたように、伯爵としてふさわしいお人柄か否かが吟味されるのです。王宮での国王陛下への拝謁、公爵さまたちへのご挨拶に加えて、王妃さまご主催の舞踏会へのご出席もございます」
「舞踏会……」
エドゥアールは露骨に絶望的な顔をした。
「それから、慈善事業のご視察もあります。貴族にとって慈善とは、欠くことのできぬ大切な義務のひとつでございますので」
「はあ……」
もはや溜め息しか出なくなり、黙って紅茶をすする。
「あとは……そうですね。ご結婚の儀について、先方様との打ち合わせもございます」
思い切りお茶を吹き出した主の横で、ユベールはすました表情を保ちながら、実は目頭に涙を浮かべ、かろうじて笑いをこらえているのだった。
「け、け、結婚ーっ?」
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