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第3章「王都へ」
(4)
国王フレデリク三世からの使者が、ラヴァレ伯爵家の居館の門を叩いたのは、それから二日後だった。
『明朝11時、謁見の間まで来られたし』
「いよいよでございます」
家令のオリヴィエが、脅すような口ぶりで言った。「陛下じきじきのご査定があり、その結果次第で、叙爵のご許可が下されます」
「結果次第で、ダメって言われるときもあるのか?」
「百五十年余で、時期尚早というご判断がくだされたことが一度――候補者はわずか九歳だったとうかがっておりますな――、不品行を理由に認められなかったことが二度ございます。つまりクライン王国の長い歴史の中で、たった三度」
茶褐色のギョロ目がちらりと睨む。「四度目にならぬよう、願いたいものですな」
「はは……」
エドゥアールは力なく笑った。「歴史を作るなんて、簡単だな」
「ユベールどの」
「はい」
「宮廷式の作法、陛下へのご挨拶の練習は、おさおさ怠りなく進んでおりましょうな」
「はあ。お教えはしているのですが」
「それで?」
「つくづくと思いますに、誰にでも不得手というものはあるものだなと」
「それを、何とかするのです!」
逆上したオリヴィエは、思わず床を踏み鳴らした。
「よいですか、若旦那さま。今日の夕食までに宮中作法を修得しておられなければ、わたくしが直々に! 寝ないで! ご特訓申し上げますからな」
怒り過ぎて足元をふらふらさせながら家令が出て行ったあと、エドゥアールは楽しげに笑い出した。
「あいつなりに、必死になって俺のことを心配してくれてるんだな」
「……そのようですね」
翌日、伯爵家の馬車は居館を出発し、王宮への坂道をゆっくりと登り始めた。
王宮の門が見えてくると、手綱を引き絞り、石畳みの道を静々と一足ずつ、二頭の馬を進める。御者の腕の見せどころだ。
王の御住まいのそばで、馬のいななきや蹄の音をさせることは、ご法度なのである。大変な手間と時間がかかるものの、それが長年にわたって行なわれている王都のしきたりだった。
原住民族を武力で制圧した歴史を持つ国だけに、昔の王は絶えず下からの謀反を恐れていたのだろう。
ようやく門にたどり着き、形式的な誰何のあと門番によって降ろされた堀の跳ね橋を渡ると、いよいよ城内だ。
馬車は柔らかい芝の敷きつめられた大手道を、ここぞとばかりに意気揚々と登る。馬たちは優雅に高々と上げた足並みで、城の正面階段脇の馬車道をぐるりと回り、寸分の狂いもなく玄関の門柱と門柱の間に馬車を停めた。
ユベールが先に降り、エドゥアールに白い手袋をした手を差し出す。
今日の伯爵子息は、鶯色の正装のコートを身につけている。ジレの刺繍から手袋のレースに至るまで、模様は家紋の谷ユリだった。
衛兵が最敬礼する脇を通り過ぎ、玄関の間に入ると、侍従がうやうやしく出迎えた。
「エルンスト・ド・ラヴァレ伯爵のご子息、エドゥアール・ラヴァレさまでいらっしゃいますね」
オリヴィエが彼の代わりに返答する。「いかにも、さようでござります」
赤い房で槍先を飾った儀仗兵がふたり彼らの前に立ち、かつんと靴を鳴らして敬礼した。
それを合図にユベールは腰の剣をはずして、衛兵のひとりに渡す。王宮内での武器の携行は禁止されている。
「わたくしは、ここまでしか入ることを許されておりません」
家令はするすると数歩退いて頭を下げた。
「なにごとも、ユベールどののお指図どおりになさることです。絶対にあくびをしたり、よそ見をしたり、背中を掻いたりなさいませぬように」
「わかってるって。五歳の子どもじゃあるまいし」
「五歳児のほうが、よほどマシです!」
不安げな家令の見送りを受けて、ふたりの儀仗兵に先導され、エドゥアールは歩き始めた。騎士のユベールがすぐ背後につき従い、侍従が最後尾である。
王宮内は想像を絶する広さと豪華さだった。廊下を折れると扉があり、扉を開けると、小広間が現われ、きらびやかな天井画とシャンデリアで飾られている。そこを抜けると、反対側の扉からまた別の広間に通じている。
まるで迷路だ。王宮に仕える使用人たちは、さぞ健脚になるだろう。
大きな中庭を囲む回廊に出た。中庭は、花壇と低く刈り込まれた樹木で精緻な幾何学模様を描いており、その遠景には、きらびやかな宮殿大広間の入口が見えた。
回廊を進むと、向こうから数名の供を引き連れたひとりの若い貴族が現われた。
儀仗兵はぴたりと立ち止まり、すばやく脇に退く。
「リンド候セルジュ・ダルフォンスさまであられます」
侍従が後ろから、そっと囁く。エドゥアールの顔に一瞬、緊張した表情がよぎったが、すぐに隠しおおせる。
プレンヌ公爵エルヴェ・ダルフォンスの嫡子。まだ十九歳だが、父譲りの長身と見事な金髪、整った容姿には、人を従わせる威厳がすでに具わっている。
十八のときに父の領地のひとつを受け継ぎ、リンド侯爵と名乗っている。
つまり伯爵よりも彼の位はすでに上だ。正式な爵位さえまだ持たぬエドゥアールにとっては、すれ違うことすら許されぬ上位の貴族。
まして、父であるプレンヌ公に次いで第二の王位継承権を持ち、今のままならば、やがて次代のクライン国王となる存在。
エドゥアールは、侍従やユベールにならって回廊の柱の陰に退き、頭を垂れた。
足音が近づいてきたかと思うと、彼の前でぴたりと止まった。
「きみが、ラヴァレ伯のご子息か」
わずかに視線を上げると、じっと見下ろす蒼い目にかち合った。
親しみがこもっているでもなく、さりとて冷淡とも言えぬ薄い笑みを刷いている。
「父がきみのことを噂していた。時間があれば、父を訪ねてくれるとうれしいが」
とまどって答えに窮している演技をする主に代わって、かたわらの近侍の騎士が答えた。「それは望外の幸せ。陛下のご謁見が終わり次第、必ず参上いたします」
「それでは、後ほど」
若き侯爵の後ろ姿が回廊を曲がって見えなくなるまで、彼らは頭を下げていた。
セルジュは父の執務室の扉を叩いた。
「入れ」
プレンヌ公は、机の上の書類から顔も上げずに言った。「何か用か」
リンド候は、扉わきの豪華な金箔押しの壁にゆったりと背中を預けた。
「ラヴァレ伯の子息に会いました」
ぴたりと羽根ペンを持つ父の手が止まり、顔を上げる様子をじっくりと観察して、楽しむ。
「どうだ」
「どうとは? 普通の男でしたよ。はじめて王宮に足を踏み入れて、ろくに口も利けない様子でした」
「それで?」
「謁見の儀のあと、この部屋に来るように言っておきました。父上が並々ならぬ興味をお持ちのようなので」
「相変わらず、余計なことをしおって」
口ぶりはぞんざいだが、公爵の薄い唇は愉快そうに引き上げられる。
「その目でお確かめになると良いでしょう。彼がそれほど恐るるに足る者か否かを」
「おまえは、どう見た」
「興味がありません」
ぷいと顔をそむける。国を意のままに操ることのできる権力を持つ父が、なぜラヴァレ伯爵父子などに拘泥するのか、セルジュには理解できない。
そんなことを考える暇があれば、もっと多くの富を、もっと強力な軍隊を作り上げることを考えればよいのに。
そして、この凡庸なクライン王国が、どの国にも負けぬ繁栄を享受する強国となるには、何をなすべきかを。
『この国のすべては、やがておまえのもの』
子守唄代わりに枕辺でささやいた父の言葉が、今のセルジュ・ダルフォンスという人間を作り上げている。
「そんなことより、先ほどカルスタン大使からの使いが参りました。今日じゅうに父上にお会いしたいと」
父子の瞳が、一瞬だけ蒼い光を交わらせる。
「急ぎか」
「そのようです」
「わかった。誰にも見られぬよう、昼すぎに私邸に来いと伝えよ」
謁見の間は、国王一家の居住部分に接している。それだけに警備は厳重で、入室前には、衛兵の厳しい検閲が待っている。
それを終えると、重々しい扉が両側へと押し開かれた。
『エルンスト・ド・ラヴァレ伯爵のご子息、エドゥアール・ラヴァレさま』
扉の前に侍っていた文官が、朗々とした節回しで彼の名を告げた。
赤いじゅうたんを踏みながら奥に進み、玉座からかなり離れたところで立ち止まるように合図される。
エドゥアールとユベールがひざまずくと、儀仗兵たちはカチリと槍を鳴らして脇に退いた。
そのままの姿勢で、どれほど待たされただろうか。
「国王のやつ、今ごろ起きて、のんびりと風呂に入ってるんじゃないだろうな」
「お静かに」
ユベールがたしなめた。さすがの氷の男も緊張を隠しきれないように見える。
そのとき、玉座付近に動きがあった。謁見の間に緊張が走る。
国王が着座する気配を感じるが、声がかかるまでチラとでも顔を上げることは許されていない。
しかしエドゥアールにとって、この屈辱的な姿勢はかえって好都合だった。
王宮の人々に自分の水色の瞳をじっと見られることは、できるだけ避けたい。エレーヌ姫を幼いときから知っている人間が、ここには大勢いるのだ。
育ての親であるアルマ婆さんにも、「目だけは真正面からじっと覗き込まれるんじゃないよ」と忠告を受けた。それ以来、彼はなるべく人々の目をまっすぐに見ないように気をつけている。可能ならば、なるべく暗い場所か、光を背にしていられる場所を選ぶようにしている。
ましてや、今から会おうとしているのは、エレーヌ姫の実の兄、フレデリク王なのだ。血縁ゆえに、王は何かを敏感に感じ取るだろうか。エドゥアールの容貌から、妹のかすかな面影を見出すだろうか。
「謁見の儀を今から執り行う」
侍従長らしき男の厳めしい声が、響いた。
ひたすら顔を伏せながら、エドゥアールは全身で王の視線を感じた。
「陛下。エルンスト・ド・ラヴァレ伯爵のご子息、エドゥアール・ラヴァレさまでございます」
案内の侍従が一歩進み出て、取り次ぎ役を務める。
「本日は、叙爵式を控えて、陛下のご査定を受けるためにおいでになりました」
国王が黙ってうなずく気配がする。
「エルンスト・ド・ラヴァレ伯爵は重いご病気ゆえに、ご子息に爵位を譲られることをお望みでございます。そのための伯爵お手ずからの嘆願書も、すでに王宮の書記官の手元に届いております」
また、うなずく気配。
侍従の声が途切れたとき、ユベールが後ろから小声でささやいた。「若さま。陛下にご挨拶を」
エドゥアールは、大きく息を吸った。
「ほ――本日は、国王陛下にあらせられては、ご機嫌うるわしゅう。拝謁の栄に、よ、よ、浴させていただき、きょーえつしごくに存じあげ……あいてっ。舌噛んだ」
謁見の間のあちこちで、抑え切れない苦笑の声が漏れる。
侍従は何事もなかったように、エドゥアールの挨拶を、すらすらとなめらかな言葉で言い換える。
「なんだよ。代わりに言ってくれるんなら、練習しなくてもよかったじゃねえか」
ぶつぶつと不満げにつぶやくことばは、当然ながら翻訳されなかった。
人の動く衣擦れがしたかと思うと、侍従長の声がした。
「今から、二、三の質問に答えるように」
生年月日。生まれた場所。母親の名前。書類に書いてあるようなことを聞かれた挙句、その答えは、いちいち侍従が取り次いで伝える。
「ご苦労であった。謁見の儀を終える」
「な、何だって?」
宮廷作法に反して思わず顔を上げたエドゥアールが見たものは、フレデリク三世が玉座から降りるところだった。
身をひるがえす刹那、ちらりと視線を寄こす。
彼そっくりの水色の瞳は、まったく感情というものを感じさせなかった。まるで、価値のないモノを見下すときの凍りついた瞳。
「エドゥアールさま。頭を」
一同がふたたび伏拝している間に、玉座はもとどおり空になった。
「なにが、謁見だ!」
儀仗兵の先導で広間を出たとき、こらえきれなくなったエドゥアールは回廊に飛び出し、手近な柱に手袋をしたまま拳を叩きつけた。
ユベールが金色の眉をひそめて、その後ろに立った。宥めたくても言葉が見つからないという顔だ。
「何の言葉も交わしちゃいない。顔すらもまともに合わせてない。これで直々のご査定だなんて、笑わせる。いったい、あれで俺の何がわかるってんだ!」
「許しがあるまで、国王には何人たりとも直接話しかけることができないという掟なのです。陛下と直接ことばを交わすことができる方々は、宮廷内でもほんの一部に限られています」
「王宮にこもって、限られた人としか会わずに――それで、国を治める国王だって?」
「若さま」
さすがに人の耳をはばかって、ユベールがそっと主の背中に手を添える。「落ち着いてください」
「俺を憎んでいる目だった」
エドゥアールは悄然とした声で続けた。「そんなに憎いのか? 妹姫の死産と時を同じくして生まれた庶子の俺が」
その泣きそうな横顔を見てユベールは、エドゥアールはフレデリク王との謁見に無意識に何かを求めていたのだと悟った――母の面影を。血縁のみに通い合うという不思議な感性の調和を。
「確かにそれも少しはありましょう。ですが陛下は誰にでも、あのようにお接しになると承っております」
「誰……にでも?」
「はい。陛下は、この世にエレーヌ姫君以外に、気を許した方はひとりもいないのだと、伯爵さまからうかがったことがあります」
この世に死んだ妹以外誰ひとりとして気を許す者がいない。
自分自身の奥方である王妃さえも寄せつけない。
そう言えば、ポルタンスの酒場で酔客たちは、よく下世話な話に興じていた。
「国王さまは、いまだに奥方を寝室にお召しになったことがないらしいぜ」
「だから、お世継ぎが生まれねえんだ」
あれはただの戯れ言ではなかったかもしれない。庶民たちは何も知らずとも、賢く為政者たちの本質を見抜いているものだ。
絶句して回廊に立ち尽くしていると、先ほど取り次ぎ役を務めた侍従が謁見の間から出てきて、エドゥアールのもとに近寄ってきて、一礼した。
「叙爵式の正式な時間につきましては、追ってご連絡申し上げます」
「査定は合格だったのか」
「詳しいことは申せませんが、そういう結論になると存じます」
すっと場の空気が和らぐ。エドゥアールが伯爵の位を継ぐことが、無事に決まったのだ。
「お骨折りありがとうございました」
ユベールが頭を下げた。
「ところで、プレンヌ公のお部屋へ招かれております。お手数ながら案内をお願いしたいのですが」
エドゥアールとその近侍の騎士が昼前からずっと控えの間で待っていると、召使が再三伝えに来たが、プレンヌ公はいっこうに執務机の前から腰を上げようとしなかった。
「父上、ラヴァレ伯爵の子息が来ているそうです」
「わかっておる。待たしておけ」
セルジュは、ふふっと笑い声を漏らした。「もうすぐカルスタン大使に会うため、屋敷にお戻りになるのでしょう。いつ会うのです。顔だけご覧になって、さっさと切り上げればよいではありませんか」
「顔なら、さっき覗き窓から見た」
「それでは、もう用はないでしょう。帰るように伝えます」
「セルジュ」
公爵は、書き上げた書類の上に吸取紙を押しつけた。
「わが国に、公爵は何人いると思う?」
「五人ですが」
「では、侯爵は」
「……確か、二十人以上はいたかと」
「二十七人だ。そして、伯爵は二百五十二人。子爵・男爵は合わせて、千二百人以上いる」
「つまり」と羽根ペンの先を上げて、プレンヌ公は尊大に笑った。
「伯爵の称号など、二百五十二分の一の価値しか持たぬ。それに比べて、国王はひとり。王位の継承権者もひとりだ。そのことを奴には、骨身に染みてわからせてやらねばならぬ」
(馬鹿げた矜持だ)
とセルジュは思った。幼い頃は尊敬してやまなかった父が、この頃は小さく見える。少し前までは、そんな気持になる自分に罪悪感を抱いたが、今はただ滑稽なだけだ。
嫡子は皮肉な笑みを浮かべた。
「わかりました。お好きになさいませ」
召使が控えの間にやってきて、「プレンヌ公は急用で私邸にいらしたきり、今日は王宮にお戻りになれない」とエドゥアールたちに告げたのは、その日も遅くなってからのことだった。
昼食も取らず、お茶だけで五時間待たされたのだ。
次の朝、召使は控えの間に入って、「ひいい」という情けない悲鳴をあげた。
部屋に掲げられていたプレンヌ公の肖像画に、真っ黒なもじゃもじゃ髭の落書きが残されていたからである。
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