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第7章「変革」
(2)
王宮に執務室を持つことは上位貴族だけの特権だ。
伯爵以下の下位貴族は、そもそも王宮に自由に立ち入る権利がない。貴族会議の折りなども、談話にはホールやギャラリーのソファを使うか、あるいは中庭や廊下、球技用コートの片隅で立ち話をするしかない。
中央庭園の回廊に接して並ぶ執務室の中で、国務大臣たち、さらにその筆頭であるプレンヌ公は、最奥の続き部屋を占めている。だが当然のことながら、夜も深まったこの時間に、権勢を恣(ほしいまま)にする貴人たちの人影はひとつもない。
リンド侯爵セルジュ・ダルフォンスの執務室は、手前の広い角部屋だった。二十歳の若さからすれば異例なことだ。
部屋に招じ入れられたエドゥアールは、「くつろいでくれ」と豪奢なソファを勧められた。従僕たちはランプに火を入れ、飲み物を運ぶと、お辞儀をして出て行った。
金髪の侯爵は彼の向かい側に座ると、ブランデーを水のように喉に流し込み、そして微笑んだ。
「彼女がきみの婚約者か」
エドゥアールは、「ああ」とうなずいた。この数日のやりとりの中でふたりは、侯爵と伯爵という身分の差を忘れて対等の立場でものを言うことを、約束している。
敬意を忘れて横柄にふるまうとき、人間は油断する。その分、エドゥアールの弱みを握る可能性も大きいだろうと、セルジュは踏んでいるようだ。だが事によると、プレンヌ公のやんごとなき嫡子は、自分を恐れない人間という稀有な存在そのものを、単に楽しんでいるだけなのかもしれなかった。
「きみは、もう結婚してるのか、セルジュ」
「わたしが? まさか」
青年侯爵は、小馬鹿にしたようにクスリと笑った。「婚姻は最後まで取っておく手札のようなものだ。外国との同盟が必要になったときのために、いつでも札を切れるようにしておかねば」
「じゃあ、外国の姫君との縁組を?」
「いずれそうなるだろう。カルスタンになるか、北方三国のひとつになるかはわからぬが」
「大変なんだな。次の国王候補ともなると」
「貴族なら大なり小なり同じことだ。いかに領地を広げ、強い政治的立場を手に入れるか。焦らずに、より有利な縁組を待ち続けた者が勝つ」
「俺なんか、危険だから一日も早く結婚しろとせっつかれたんだけどなあ」
と、ぼやきながらエドゥアールは酒をそっと舐めた。かなり強いブランデーだ。意識を清明に保つためには、あまり飲まないほうがよいだろう。
「エレーヌ姫も二十年前、カルスタンへの輿入れが決まりかけていたんだぞ」
セルジュはさぐるような目つきで、同席者の顔色を見た。「クライン国王の美しき妹君は、かの国への最高の貢物になる予定だったのに、さっさと黒髪の伯爵などに降嫁してしまった。熱心にその話を推し進めていた主席国務大臣の父は、大恥をかいた」
「ふーん」
エドゥアールは興味なさげに相槌を打つ。
「それでプレンヌ公は、うちの親父を毛嫌いしているのか」
「それもあろうな。一国の姫君ともあろう御方と、その臣下たるべき元軍人が、果たすべき役割を忘れ、下劣な恋情に燃えて前後の見境をなくすなど、わたしにはとうてい理解できないね」
エドゥアールは、わざと欠伸を噛み殺して拳を口に当てた。「ま、俺には関係ないけどね」
セルジュはときどき扇情的なことばを使い、わざとこちらの怒りを焚きつけようとしている。それがわかっているエドゥアールも、さらりと攻撃をかわす。
一見なごやかな雑談だが、その実、剣の試合をしているようなものだ。
「それはそうと」
伯爵はグラスをテーブルに置くと、本題に入った。「陛下に例の話をしてみた」
「何と言っておられた」
「田舎に引っ込んでろと。そんな法案、可決されるはずはないとも言ってたな」
セルジュはそれを聞いて、鼻先でせせら笑った。
「あの御方に何を言っても無駄だ。貴族の要求に負けて、特権を際限なく増やしていった先王の治世を、ただ追認しているだけだ。貴族会議でもひとことも発言なさらず、玉座でいつも居眠りしておられるのだぞ」
「そうかな」
エドゥアールは、不服そうに首をかしげた。「国王は、居眠りのふりをしているだけで、本当はじっと耳をすませてると思うけど」
「なぜわかる?」
「あいつは見かけほど無能でも愚図でもない。体の線を見てみろ。マントで隠してはいるが、相当鍛えている体だ。動きにも無駄がない。後ろから殴りかかったら、瞬時に反撃されるぞ」
「……」
「食事でも、いきなり食べるようなことはしない。必ず匂いを嗅ぎ、一口含んで確かめている。王宮の毒見係でさえ信じられないんだろうな。それほど暗殺を恐れてるヤツが、人前で居眠りをかくと思うか?」
セルジュは背筋に戦慄が走るのを覚えた。
(まさか。あの国王が?)
七歳のときから王宮に上がり、国王の姿を見てきた。国王の叔父である父とともに、彼は王への直奏を許される身分であり、晩餐に連なったことも幾度となくある。
その彼でさえわからなかった王の正体を、エドゥアールはわずかな謁見と、たった一度の晩餐で見破ったというのか。
「それでは、陛下は」
「無能なふりをしているだけだ。普通は子どものころからそう振舞っていれば、本当の無能になっちまうものだが」
エドゥアールは楽しげに言いながら、足を組んでソファにもたれた。「さあ、どんなふうに化けの皮を剥がしてやろうかな」
セルジュは次の瞬間にはもう、内心の動揺を完璧に抑えた。
国王が愚鈍であろうと聡明であろうと、こちらの計画に何の支障もない。むしろ、聡明な人物なら、味方につけることには、ますます大きな意味がある。
「そうとわかれば、王の説得にはそれなりの資料が必要だな」
侯爵は立ち上がり、自分の机の鍵をかけた引き出しから、大量の書類を持ち出して戻ってきた。
セルジュ・ダルフォンスは、その華やかな外見に反して有能な実務家だった。短期間のうちに、エドゥアールも驚くほどの資料をそろえていた。
王都の地図は細かく塗り分けられ、それぞれの地区における貴族の利権分布が書き込まれていた。その周囲の公侯爵の領地。交通の要所。地方の下位貴族の所領に至るまで。
「この私的徴税特権の制度によって、それぞれの貴族ごとに、正確にはいったいいくらの収入があるのか。信頼できる従僕に計算させているが、何ヶ月もかかりそうだ。ざっと見たところ、五千万ソルドは下らないだろう」
黒髪の伯爵がまじまじと見つめているのに気づいたセルジュは、顔を上げた。
「どうした?」
「惚れた」
「え?」
「これだけの資料をそろえれば、地獄の悪魔だって説得できそうだ。すげえ。俺、あんたにどこまでもついてくよ」
「何を馬鹿なことを言っている」
と返しながら、セルジュは心なしか顔が赤らむのを感じている。
手放しの誉め言葉に慣れていない。誰もがプレンヌ公爵の嫡子としては彼を敬い称えても、ひとりの人間としての彼自身の能力を称える者に会うことは稀だった。
(これが、この男の真の恐ろしさだ)
そう自分に言い聞かせる。屈託のない物言いと笑顔で、するりとこちらの懐に入り込まれる。フレデリク国王も、その術にやられたのだ。気がつけば、いいように操られてしまっている。
(だが、わたしはその手には乗らないぞ)
若者たちはランプを引き寄せて、資料を見ながら何時間も討議した。
「貴族の私的徴税金の総額を、ざっと毎年五千万ソルドと見積もる。それらの徴税行為を法律で禁じ、あらたに国による一律の物品税を設ける」
「今まで民衆がふんだくられてた分の半額として、二千五百万が新たな国庫収入となるな」
「徴収業務は今までどおり、貴族に当たらせるのが効率がよいだろう。その十分の一を給与として支払えば、大きな領地をもたぬ下位貴族たちも、とりあえずは飢えることはない」
それに、食い詰めた貧乏貴族の子弟が増えれば、王立軍の増強に役立つ。セルジュの真の目論見は、実はこちらのほう。クラインを強力な軍事国家に仕立てあげることだ。
エドゥアールは軍備増強には関心がない。貴族の私的徴税特権を廃止することで、平民たちの暮らしが潤うと思いこんでいる。物品税を使って新しい産業を興し、さらに民を富ませることを夢見ている。共和主義者らしい、甘っちょろい考えだ。
この男の役割は、ただ国王を説得することだけだ。セルジュは彼と志を同じにしていると見せかけながら、途中で離反する。後で約束が違うとわめいても、そのときはもう遅い。
エドゥアールは顔を上げて、訊ねた。
「プレンヌ公は、どう説得するつもりだ?」
「それは、わたしにまかせてくれ」
物品税の創設は、カルスタンが推し進めているリオニアとの戦争の準備だと、父には説明すればよい。二千万ソルドにも昇る増税収入は、すべて軍備増強に充てると言えば、父もカルスタンの使者も納得する。
「なるほど」と、エドゥアールはうなずく。
「だが、実際はカルスタンの言いなりに派兵するつもりはないがね」
とセルジュは、笑った。
軍備を増強したクライン軍、クラインと同盟を結ぶアルバキア軍のふたつを、リオニアとの国境紛争に駆り出すのが、カルスタンの狙いだ。
だが、もしクラインが、ある日突然リオニアと不戦協定を結んでしまえば。
カルスタンは、逆に南方三国から集中砲火を浴びることを恐れ、身動きできなくなる。取るに足らぬ国であったクラインが、国際政治の決定権を握ることになるのだ。
リオニアとの太い人脈を持つエルンスト・ド・ラヴァレ伯爵は長らく病床にあるが、その息子エドゥアールは、リオニアとの交渉役に当たらせるには最適の人物だ。
(もし万が一、その動きを察知されたら、即座にこいつを敵と通じた反逆者として捕らえればよい。わたしは知らぬふりをする)
そんな残酷なことを考えながら、セルジュは親しげに目の前の盟友に微笑みかけ、ブランデーのグラスを持ち上げた。
「クライン王国の【大変革】の成功を祈って」
モンターニュ子爵の居館を訪れると、ミルドレッドの甲高い声が二階から聞こえてきた。
「どうしたんだ?」
呆気にとられて階段の上を見上げるエドゥアールに、「申し訳ありません、それが」と出迎えた執事は、ひたすら頭を下げる。
「町に買い物に出かけられたお嬢さまが、お帰りになるとすぐさま、旦那さまと奥方さまのお部屋に入られて、ひどい剣幕であのように――」
ばたんと扉を開け放って、ミルドレッドが飛び出してきた。玄関の間から階段を上がってくるエドゥアールの姿を認めたとたん、みるみる目の縁に涙のつぶが膨れ上がる。紅潮した顔を両手で蔽い隠して、自分の部屋へと走り去った。
「親父さま、おふくろさま」
エドゥアールが、扉が開いたままの部屋を覗くと、幽霊のように蒼ざめた子爵夫妻が立っていた。
「エドゥアールさま」
「いったい、ミルドレッドはどうしちまったんだ」
「それが――」
ダフニ夫人は言葉を発するなり、わっと泣き伏した。
「娘がいきなり、わたしたちを責め始めたのです」
代わりにパルシヴァルが説明を引き取った。「『お父さまは、町の商人たちから税金を取っているのですか』と。『当たり前のことじゃないか』と答えたら、叫ぶはわめくは……。いったい何が起きたのやら、さっぱりわからないのです」
「わかった」
エドゥアールは、軽いため息を吐いた。「大丈夫だ。俺が話してくるから、あまり心配せずに待っててくれ」
「お願いいたします」
そのとき、バタンと扉が開き、ひとりの貴婦人が帽子の羽根をふり乱して、あたふたと入ってきた。
近所に住む、ミルドレッドの叔母のヴェロニクだ。執事が使いをやり、お嬢さまをなだめてほしいと頼んだのだろう。
「ヴェロニク叔母さん!」
階段の手すりから身を乗り出して叫んだ。
宮廷舞踏会のときに会ったきりだった伯爵から、まるで実の甥のような口調で慣れ慣れしく呼ばれたヴェロニクは、目をまん丸に見開いている。
「親父さまとおふくろさまを頼むな」
そう言い捨てて、エドゥアールはミルドレッドの部屋の扉をノックした。侍女のジルが不安げな顔で内側から開ける。
エドゥアールがひそかに危惧していたことではあった。
先日の国王夫妻との晩餐の席で、ミルドレッドは生まれてはじめて貴族の【私的徴税特権】というものを知った。そのことを確かめるために、あれから王都を歩きまわって調べたのだ。近所の商店の鴨居にモンターニュ子爵家の紋章が貼られているのを見つけたときは、さぞショックを受けただろう。
エドゥアールと知り合う前のミルドレッドなら、それを見ても何とも思わなかったはず。だが、婚約者の感化を受けて、彼女はまったく新しい目でものごとを見るようになってしまった。
貴族と平民のあいだに、人間として何の違いもないこと。放浪民族や娼婦であっても、同じ感情と誇りを持つ存在であること。民衆が汗して得たものを、貴族はときおり度を超えて搾取しているということ。
昨日まで敬愛していた両親が、そういう古い価値観の中に囚われ、当然のこととするのを見て、ひどく混乱したのだろう。
「ミルドレッド」
ベッドの上に突っ伏して泣いている彼女を、エドゥアールは肩を包み込むようにして、自分の胸に抱きとった。
「ごめん……なさい」
「謝るのは、こっちのほうだ。俺、きっときみを不幸にしてるよな」
「いいえ。そ……んな」
エドゥアールは、いたいたしく泣きはらした彼女の瞼に、そっと口づけた。
「俺と知り合わなければ、きみは普通の子爵令嬢として幸せでいられた。自分のしていることに何の罪悪感も持たず、貴族が民衆の上に立つのは当たり前だと思って生きることができた」
「……でも」
彼の胸の中で小刻みに震えていたミルドレッドは、そのことばを聞いてようやく泣きやみ、かすれた声で小さくつぶやいた。
「でも、わたくしは、何も知らないことのほうが……不幸だと思います」
「自分が不幸だってことも、知らないでいられる」
「それでも、それはやはり本当の幸せではないわ。わたくしは、真実を知らないでいたくはありません」
エドゥアールは、「ああ」と感嘆したような声を漏らした。「いい子だ。きみはやっぱり賢い人だね」
「いいえ。愚かな人間ですわ。失敗をしないと学ぶこともできないのですから」
ミルドレッドは、レースのハンカチで丁寧に目元をぬぐった。この方の腕の中では、幼子のように素直になれるのが不思議だと思う。
「わたくし……正しさをふりかざして、親不孝という最大の重罪を犯してしまいました。父と母にあやまります」
エドゥアールは、彼女の乱れた髪をいとしげに指で梳いた。
「これから、この国は急激に変わっていくはずだ。きみのご両親のように旧来の秩序に慣れた者にとっては、新しい秩序を受け入れるには、長い時間がかかるだろう」
「はい」
「受け入れられない者も出てくる。けれど、その人たちを責めてはいけない」
「はい」
「この国の民全員が理解できるようになるまで、ゆっくり時間をかけて説明していけばいい」
ようやく彼女の顔にいつもの花のような笑みが広がり、固唾を呑んで見守っていたジルは、そのことを子爵夫妻に伝えるために部屋を飛び出していった。
その夜の子爵家の晩餐は、エドゥアールとヴェロニクを交えて、にぎやかなものとなった。
ダフニの妹のヴェロニクは、姉に似て気さくな性格で、そして何よりもおしゃべり好きだった。貴族のだれそれの奥方と、何某との噂話まで仕入れて話してくれる。その情報網は、これから王宮の荒波にもまれるエドゥアールにとって、おおいに役立ちそうだ。
食事の後、パイプをもてあそんでいたパルシヴァルは、ふいに真剣な表情で話を持ちかけてきた。
「エドゥアールさま」
「だから、さまは要らないって」
「そうでした……エドゥアール。妻ともよく話し合ったのですが」
それは、爆弾宣言だった。モンターニュの爵位を、ラヴァレ伯爵に継いでほしいというのだ。
「遠縁を養子にと考えてきましたが、そんな面倒なことをするよりは、いっそあなたに譲り渡したいと決意したのです」
上位の貴族がいくつもの爵位を兼任することは、ごく普通に行われている。プレンヌ公爵などは七つの爵位を持っているほどで、そのひとつ、リンド侯爵の名は、すでに嫡子セルジュに継がせた。
もしこれが実現すれば、エドゥアールもラヴァレ伯爵とモンターニュ子爵のふたつの爵位とその所領を併せ持つことになる。そして、ミルドレッドとの間に生まれた嫡男が、やがてその名を継ぐことになるだろう。子爵夫妻にしてみれば、顔もろくに知らぬ遠縁に継がせるよりは、よほどよい。
王宮は古くから、下位貴族が領地を合併して強大になることを警戒して禁じてきたが、近年は子孫が絶えて廃爵の恐れのある者が増え、爵位の合同が認められている。
「いいぜ。俺が爵位を継いでやるよ」
「でも、エドゥアールさま」
ミルドレッドは不安げに見つめた。口で言うほど簡単なことではない。ラヴァレ領のことだけで頭がいっぱいのエドゥアールに、さらにモンターニュ領の経営という重荷が加わるのだ。
「だいじょうぶだって」
エドゥアールは、おおらかな笑みで応えた。「俺が領地を継げば、親父さまたちもいつでも好きな時に帰れるしな。人間、年を取ると、都会より田舎暮らしのほうが体にいいんだぜ」
「ありがとうございます」
パルシヴァルとダフニは、長年の憂いが解決したという晴れ晴れとした顔で頭を垂れた。
王都ナヴィルの家はすべて、王宮とは反対の方向にバルコニーを向けることを義務づけられている。子爵家はラヴァレ伯爵家よりも王都の東の城壁寄りに立ち、バルコニーに立つと、ラロッシュ川を望むことができる。
王都を挟むように流れる夜の川は、漁舟や商船の灯りを黒い川面に映して、光輝く王都を星空に浮かべたように見えた。
風に乗って、音楽とさんざめく笑い声が聞こえてきた。どこかの貴族の館で、短い夏の宵が明けるまで、にぎやかなパーティが繰り広げられるのだろう。
「本当によいのでしょうか」
黙って都を見つめていたミルドレッドは、ずっと頭から離れない懸念のために、長いまつ毛を伏せた。
「わたくしの両親のお世話までお願いするなんて。これから王宮で、国政の難事に向かおうとしているあなたの負担になるようで、とても心苦しいの」
「だから、何度も言ってるだろう」
エドゥアールは、彼女を背中からすっぽりと抱きしめた。「俺は子どもの頃からずっと、暖かい家族の団らんにあこがれていた
んだ。きみと結婚して、この家族の一員に自分もなれるのかと思うと、たまらなくうれしい」
「そう思ってくださるのは、光栄なのですけれど」
「親父も、子爵夫妻と過ごした時間をとても楽しんでいた。これからも、ラヴァレの領館をちょくちょく訪れてほしい」
「本当ですか。両親も喜びます」
「俺も早く、モンターニュ領を見てみたいな」
「もちろんですわ。山以外に何もないところですが、夏の明け方の美しいことと言ったら、それはもう――」
ミルドレッドは感極まって口をつぐんだ。
明日の午後、エドゥアールは王都を去り、ラヴァレの谷に帰ってしまう。いよいよ領地での仕事が山積みになり、これ以上留守にできなくなったのだ。
しばらく、はなればなれの日々が始まる。
「吐く息が、全部ため息になりそうですわ」
「それは、同感」
指をからませ合い、熱情をこめて唇を何度も重ねる。朝も昼も夜もいっしょにいたい。そう願うほどに、お互いの存在はもう分かち難いものとなっていた。
無理に体を離して、無理に笑顔を交わし合った。
「そうだ。元気の出るような、いい知らせがある」
「どんなことですか」
「ジョルジュに、ラヴァレの領館の警備をまかせられないかと打診してみた。騎士試験に合格してから、まだどこにも仕官していないそうだ。やりたいと返事をくれた。明日の朝に会って、正式に契約を交わす」
「まあ、それじゃ」
涙ぐんでいたミルドレッドの目が、美しく輝いた。
「従者のトマも、いっしょにラヴァレ領に来る。ジルとの仲を引き裂かずにすむんだ」
「うれしい!」
ミルドレッドはドレスの裳裾を広げ、くるくるとバルコニーの上で踊った。彼女の笑顔を見るためなら、世界の果てにでも飛んで行けると、エドゥアールは心の中でしみじみと思う。
「エドゥアールさま」
上気して肌を薄い薔薇色に染めたミルドレッドは、真剣な決意のまなざしを彼に向けた。
「わたくし、めそめそして時間を無駄するのはやめます。あなたとの結婚までに、いろいろなことを学びたいの。世界の歴史も地理も、今まで知らなかった政治や貴族制度のことも。あなたの代わりに聖マルディラ孤児院にも、できる限り行きますわ。――あなたにふさわしい妻になれるように」
そこに立っているのは、この世の中のことを何も知らず、ドレスやリボンだけに関心を向けていた、人形のような令嬢ではない。自分の足で歩こうとしている、ひとりの貴婦人だった。
夜更けになって居館に帰ってきたエドゥアールを、近侍の騎士が待ち構えていた。
「ジョルジュの身元調べは、終わったのか」
「はい。若さま。それが……」
ユベールが奇妙な調子で、ことばを濁した。
務めに関しては氷のような冷静さを貫くこの男が、今日に限って、どこか当惑したような表情を浮かべているのだ。
「どうした」
「これをご覧になればわかります」
ユベールの差し出した書類に目を走らせたとたん、エドゥアールの顔は驚愕に引きつった。
「じゃあ、ジョルジュというのは……」
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