伯爵家の秘密


第7章「変革」


(5)

 若当主さまが村にお見えになったというので、村人たちは全員、広場に集まってきた。
 珍しくお付きの者がいない。広場の端で馬を降り、ひとりでこちらへ歩いてくる伯爵を、村の者たちは平身しながら迎えようとしていた。
 ところが、仰天するようなことが起きたのだ。覆面の男が物陰から走り出て来て、棍棒を振り上げた。みるまに暴漢は伯爵を押し倒し、組んずほぐれつの乱闘が始まった。
「わあーっ」
 村人たちは、男も女も声にならない悲鳴を上げたが、どうしてよいかわからない。
 そこへ、ひとりの騎士が颯爽と現われた。剣をあざやかに腰から放ちながら、雄たけびとともに駆け寄ってくると、暴漢を剣の柄で殴りつけ、ブーツで蹴り飛ばした。
 暴漢は剣先を突きつけられ、なすすべなく地面にころがった。「な、なんと強いやつだ。かなわない」
「この谷の平和を乱す者は、決してわたしが赦さぬ!」
 騎士の青いマントが、ひらりとひるがえる。群衆たちの間から拍手と歓声が沸き起こった。
「助かった。騎士ジョルジュ。その鮮やかな剣技は、日々の鍛錬の賜物だな」
「いえ、たいしたことではございませぬ。伯爵さまがご無事で何より」
 伯爵と騎士は、がっしりと固い握手を交わした。
「しかし、いくら強くとも、おぬしが谷のすべてを守るわけにはいかぬな」
「はい、わたくしとて身はひとつ。せめて各村ごとに自警団がいれば、わたくしの右腕となってくれましょうものを」
 「おおっ。自警団か」と村人たちは、どよめく。「いつ、何が起こるかわからないものな」
 いつのまにか、どさくさに紛れて暴漢の姿は消えていた。


「さっそく、若者を中心に、剣の使い方や組み手のしかたを週に一回、指導することになりました」
 ジョルジュは目を輝かせて報告した。「噂を聞いた近隣の村にも、広がりそうな勢いですよ」
「うまくいったな」
「エドゥアールさまの演技がすばらしかったからです」
「それを言うなら、トマのお手柄だろう」
 あまりに芝居に熱が入りすぎて、頭にたんこぶを作ってしまった従者を、ふたりの貴族は両側から「よしよし」とねぎらった。
「あれ?」
 エドゥアールは、おかしそうに笑いだした。
「ときどき思うんだけど、俺たちってまったく同じ仕草をするときがあるよな」
「そうですか?」
「まるで同じ人に育てられたみたいだ」
 ジョルジュは、不思議そうに眉をひそめた。「同じ人?」
「意味がわからなければ、それでいいよ」
 ぽんと騎士の背中を叩いて、書斎を出たエドゥアールの前に、もうひとりの騎士が立っていた。
「若さま。王宮から書状をたずさえて戻りました」
 この男は、役者のように自在に表情を消すことができる。エドゥアールでさえ、次のことばを聞くまでは、それが朗報であるか悲報であるかわからない。
 固唾を飲んで見守ると、ようやくユベールの口元に笑みが浮かんだ。
「国王陛下からの召喚状でございます。来週のはじめ、大伯爵さまとともに、王宮にまかりこすようにと」


 王都ナヴィルへの大橋を渡るとき、エルンスト・ド・ラヴァレ伯爵はぽつりと言った。
「変わらぬな。昔のままだ」
 彼にとって、数えて三年ぶりの王都だった。
 病み上がりの大伯爵の体の負担を気づかって、御者は揺れないように慎重に、ラヴァレ領から三日をかけて馬車をあやつってきた。
 伯爵家の居館に着くと、すぐに主治医のフロベール医師が呼ばれた。
「すこぶるお健やかな様子。安堵いたしました」
 診察を終えた帰り際、医師は笑顔でエドゥアールに述べた。「ですが、無理は禁物です。長旅のせいか、少し貧血ぎみに見受けられます。滋養に富んだものを召しあがり、しばらくはゆっくりと、くつろがれますように」
 玄関まで見送りに出た家令のオリヴィエは、ふと思いついて言った。
「貧血と言えば、若旦那さまも貧血の持病をお持ちだとか。先だって先生の診察を受けるようにお勧めしたのですが」
「若さまが貧血ですか、まさか!」
 迎えの馬車に乗り込もうとしていたフロベール医師は、冗談だと受け取ったのか、車輪の泥除けを叩いて笑った。
「お顔も、唇や目の結膜も、すこぶる血色がよろしい。ありえませんな。血の気の多いの間違いでは」
「まあ、百人が百人、そう言うだろうとも」
 オリヴィエは馬車を見送ったあと、ひとりごちた。「――しかしそれでは、あの臭い液体はいったい何だったのだろう」
 ナタンは心を入れ替えたようにきびきび働き、居館執事としての役目を神妙に務めていた。大旦那さまが久々に来訪し、自らの進退に関するお達しがあることは確実だったからだ。
 彼のような裏表のある俗物は、適度な監視さえ怠らなければ、十分な能力を発揮する。ナタンにとって最大の不幸は、主人の長年の病によって、不正ができる環境が整ってしまったことかもしれなかった。
 居館での細々とした所用がすむと、エドゥアールは籠から放たれた鳥のように、まっしぐらにモンターニュ子爵の館に走りだした。
 ミルドレッドと会うのは、一ヶ月半ぶりだ。気持ちが抑えられない。
 子爵家の玄関の前で呼吸を整えていると、執事がすぐに扉を開けてくれた。
「エドゥアールさま!」
 たちまち、ミルドレッドが二階の自室から飛び出してきた。
「おかえりなさい、わたくし」
 ドレスの裾をつまみあげて、階段を駆け下りてくる。「王宮図書館で面白い本を見つけましたわ。税金に関する本ですの。それに、孤児院の子どもたちとも仲良くなって、一番年長のミシェルは」
 いきなりエドゥアールは、走り寄って来た婚約者をぎゅっと抱きしめた。
 呆気にとられる執事やメイドたちの前で、そのまま何十秒経っても離そうとしない。
 さすがに気恥ずかしくなったミルドレッドが、「あの……」と控えめに抗議しても、
「だめ。栄養補給中」
 と、彼女の髪に頬をすりつける。「一月以上も会えなくて、俺がどれだけ死にそうだったか」
「それは、わたくしだって……」
「じゃあ、黙ってくっついて」
 幸せそうにうなずいたミルドレッドは、しっかりと彼の背中に両手を回した。


 エドゥアールの留守中に、ミルドレッドは約束どおり、多くの書物を読んで知識を身につけていた。
「税金というのは、王からそれぞれの領地に割り当てられたものであり、つまり、その土地の農民が産した小麦や大麦などの農作物の石高に応じて掛けられるものなんです」
 薄茶色の瞳をこらして、学んだことを順序だてて話してくれる。「一方、都市に住む者は、大商人も手工業者も税金を納めていません。初めて知りましたわ」
「だから、王の代わりに貴族がそれを取り立てるという勝手な言い分が、私的徴税特権の始まりだったんだ」
「それで、あなたは、きちんとした税制度をお作りになろうとしているのですね」
 ただ美しいだけの飾り物のような女性ではなく、どんな難しい問題も話し合って、ともに考えることのできる女性を、エドゥアールは理想の結婚相手として思い描いていた。
 ミルドレッドが、その理想そのものの女性になろうとしていることを、しみじみと感じる。かけがえのない伴侶を得た喜びが湧いてくるとともに、ふと体が締め付けられるような不安も襲うのだ。
 もし仮に今、ミルドレッドを喪うようなことがあれば、どうなるだろう。食べものの味はなくなり、見るものすべてが色をなくすだろう。
 母を喪ってからの父エルンストの胸の痛みを、今なら自分のことのように理解できる。
「どうなさったの?」
 ミルドレッドが小首をかしげながら、彼を見ている。「急に黙りこんで」
「結婚式まで、あと三ヶ月も待てそうもないと思ってた。やっぱりそのへんの教会に駆け込もう」
「まあ、またそんなお戯れを」
 エドゥアールは「おいで」と片手を差し伸べたが、彼女はあわてて首を振り、ちらりと部屋の隅を見た。
 メイドのジルがすまして立っているのは、子爵から見張りを命じられているということのようだ。
 さすがのモンターニュ子爵夫妻も、ところかまわず娘にキスと抱擁をしかける娼館育ちの伯爵に対して、かなり用心深くなっているらしい。たとえ婚約者相手であっても、正式な結婚前に貞操を失うことは、貴族の令嬢にとって恥ずべきことなのだ。
「あ、そうだ。ジョルジュのことだけど」
 エドゥアールが素っ頓狂な声を上げると、メイドの肩がぴくりと動いた。
「とんでもないことがわかったんだ。……なあ、ジルもこっちへ来いよ」
「い、いえ。わたくしは……」
「聞きたくないのか。トマのご主人の出自に関わることだぞ」
「き、聞きたいです!」
 駆け寄ってきたジルと、身を乗り出したミルドレッドに、エドゥアールはこしょこしょと耳打ちした。
「えーっ!」
 ふたりは、あまりにも意外な事実に驚愕してのけぞった。
「まさかイサドラさんが、ジョルジュのお母さまだったなんて」
 あまりの偶然に、彼女たちはしばし呆然とした。まるで王立劇場で喜歌劇の舞台を見ているように、現実味がない。
「けど、イサドラは決して母親だと名乗り出る気はないらしい」
 それを聞いて、ミルドレッドが考え込む。
「どうにかして、おふたりを会わせてさしあげたいわ。何かお手伝いできないかしら」
 エドゥアールは、「あ、そうだ」と手のひらを叩いた。
「対面させられるかもしれない。きみがポルタンスについてきてくれたら」
「まあ、わたくしが? でも、どうやって」
「詳しい筋立ては、今から考える。ごみごみした下町だけど、我慢できるかい?」
「もちろんですわ!」
 ポルタンスは、エドゥアールが一年半前まで住んでいた港町だ。愛する人がどんなところに住んでいたのか、どんな生活をしていたのか、見てみたくないはずはない。
「行きます。ぜひ協力させてください」
「ジルも、手伝ってくれるな。トマの輝かしい将来と出世のために」
「よ、喜んで」
「喉が渇いた。お茶をもう一杯くれるかな」
「はい!」
 ジルは、銀のティーセットを置いたテーブルに小走りで戻った。
 その隙に、エドゥアールはミルドレッドの手をくいと引っ張り、自分の膝に座らせた。興奮さめやらぬ表情のメイドがお茶を淹れているあいだ、ふたりは鳥たちがくちばしを合わせるように、たっぷりと互いの唇をついばんだ。


 王宮の玄関に、谷ユリの紋章の入った馬車が到着した。
 侍従長自らが迎えに出て、うやうやしくお辞儀をした。「お久しぶりでございます。ラヴァレ伯爵さま。ご機嫌うるわしゅう」
「ギョーム。元気そうで何よりだ」
 濃緑のコートをまとったエルンスト・ド・ラヴァレ伯爵は、馬車から降りてきた。濃緑は、彼が二十年前に軍を退役したときの中佐の制服の色でもあった。
 背筋を伸ばし、確かな足取りで先導の儀仗兵の後について歩く。その後ろから、伯爵家の正装である鶯色のコートを着たエドゥアール、そして黒衣の騎士ユベールが続いた。家令オリヴィエはいつものように、玄関で待機している。
 回廊にさしかかるとき、儀仗兵がぴたりと止まり、するすると脇に退いた。
 前方を塞ぐように立っていたのは、プレンヌ公爵エルヴェ・ダルフォンスだった。
 濃赤の服に身を包み、その目の底には蒼い炎がちろちろと燃えている。
 彼の後ろに、ひとりの細身の男が立っていた。やはり黒ずくめ。その顔を見たとき、ユベールはわずかに目を見開いた。
 この体つきは見覚えがある。領館に何度となく忍びこみ、追いかけるたびに見失った怪しい影。
 しかも、白くのっぺりした顔には明らかに、父アンリがラトゥールの森で相討ちにした敵の面影がある。
 奴の親族。年齢からして、おそらくは奴の息子。
 何ということだろう。九年前殺し合ったふたりの息子が、今また敵同士としてめぐり会うとは。
 取り繕おうともせずに真っ直ぐに視線を注ぐユベールに、男はにやりと笑いを返した。殺気をあらわにした、おそろしい笑みだった。
 王宮内では剣の携行は禁じられている。だが、この男なら、ひと振りくらいは隠し持っているだろう。斬りかかられたら、わが身を盾にして、伯爵父子をお守りするしかない。
 ぴんと張り詰めた空気が漂う。
 と、エルンストはゆっくりと頭を下げた。
「プレンヌ公爵さま、お久しゅう」
「まだ生きていたようだな、ラヴァレ伯」
「ご希望に添えませず、死に損ねてしまいました」
 落ち着いた声に、どこか茶化したような響きが混じっている。若いころから、この余裕がプレンヌ公を苛立たせてきたことを自覚しているが、エルンストは今さらやり方を変えるつもりはなかった。
 これでも、エレーヌが生きていたときは必死で自分を抑えてきたのだ。もう彼をとどめるものは何もない。いるのは、背中を押してくれる頼もしい息子だけだ。
 怒りをにじませている公爵の脇を、黙礼しながら通り抜けると、王の謁見の間までゆっくりと歩いた。
「エドゥアール」
「なんだ」
「悪いが、陛下の謁見にはまず、わたしひとりだけで臨ませてくれないか」
 エドゥアールは、からかうように笑った。「取っ組み合いじゃ親父が確実に負けるぜ。あいつ、相当鍛えてるからな」
「助太刀が必要なときは、呼ぶ。王宮内で待っていてくれ」
「じゃあ、俺はセルジュの執務室に行ってる」
 若き伯爵は、近侍の騎士に命じた。「親父のそばについててくれ」
「承知いたしました」
 侍従長の先導を受け、エルンストは王の庭に続く薔薇のアーチをくぐった。
 庭の入口で、ユベールは片膝をつき、待機の姿勢を取る。
 大伯爵はそのまま、あずまやまで導かれた。
 フレデリク三世は、寝椅子からゆっくりと起き上がった。拝礼するエルンストを見て、口の片側に皮肉な笑みをのぼらせる。
「たいそう年を取ったものだな。見違えたぞ。まるで枯れ木だ、触れればたやすくポキリと折れそうな」
「長年のご無沙汰、お詫びのしようもございません」
「余は、そなたに長年会わなかったという気がせぬ。あの小わっぱの腹黒さと口の悪さは、そなたに生き写しだったゆえ」
 エルンストは顔を上げ、にっこりと笑った。そのいたずらっぽい笑顔は、若いころと何ら変わることない。
「顔も似ているでしょう」
 誰に似ているというのか。フレデリク王は、言外に含まれているもうひとつの意味を、すぐに理解した。
 伯爵は、さらに鎌をかけるように続けた。
「エレーヌの産んだ子も、生きていれば、エドゥアールと同じ年齢でした」
 王は立ち上がり、あずまやの中をゆっくりと歩きまわった。
  「エレーヌか。そう言えば、あれは子どものころから妙な癖があってな」
   話題をいきなり変えたと見せかける。「誰にも悟られぬような嘘をつくのが好きだった。侍従や女官たちに囲まれて、平気でしれっと嘘を言う。そして、余にだけ、こっそりと舌先を見せるのだ」

 ――お兄さま。子どもを死産で亡くしてしまいました。

 最後に彼女が王宮を訪れたとき、涙声でフレデリクに訴える口元は、兄だけに見えるようにハンカチーフが当てられていた。
 ピンク色の小さな舌が、そこには覗いていた。
「あの人らしい」
 エルンストは、うなずく。「そう。やはり、とうの昔からご存じであられたのですね」
 彼女が産んだ子どもは死んだのではなく、生きていることを。
 そしてその子は男の子であることを。なぜなら、女の子ならば手元で育てられる。女には王位継承権はないからだ。
 だが、彼女が産んだのは男の子だった。それを知ったとき、伯爵夫妻は隠れたところでこっそり育てる決意をした。
 それらの真実を、妹姫の舌先を見たあのとき、王は悟ったのだ。
 そして十八年後に彼の前に現われた若者は、紛うことなくエレーヌそっくりの水色の瞳をしていた。
「フレデリク」
 と誰も呼ばぬ彼の名を呼ぶ、あの声とともに。
 ――フレデリク兄さま。
 幸せそうな、あの声。兄を王宮にひとり置き去りにして。恐ろしい相手を敵に回して。愛する我が子と一日たりとも暮らすことができないという決断をして。それでもエルンストのもとで幸せそうに。
「どの顔を下げて、余の前に出てきた。ラヴァレ伯!」
 突然の激情に駆られて、王は叫んだ。
「貴様は、どこまで余を愚弄すれば気がすむのだ。あの小わっぱを余のもとに遣わし、今また貴様自身が現われ、いったい何をしに来た!」
 ふたりの愛情の結晶であるエドゥアールを憎もうとした。だが、会わずにはいられなかった。妹がこの世に生きた、たったひとつの証ゆえに。

 ――エルンスト、お願いだ。余には、あの子しか心を許せる者はいない。エレーヌの心を余から奪わないでくれ。
 ――王太子さま。もし心からあの人を愛しいと思し召すなら、どうぞ、がんじがらめの檻から解き放ってあげてください。

「陛下」
 ラヴァレ伯爵は、毅然と顔を上げたままだった。灰色の前髪が一房、はらりと額に落ちる。
「もう苦しまれるのは十分です。わたしは、あなたも檻から解き放ちに参ったのです」


 セルジュの執務室をノックしようとしたとたん、エドゥアールは開いた扉から中に引きずり込まれた。
「よくも、父に密告などという真似をしてくれたな」
「じゃあナタンは、ちゃんと言いつけどおりに……く、苦しい」
 長身の侯爵は、エドゥアールの首をぐいぐい締め上げながら、どこか楽しげに見えた。
「で、公爵をうまく説き伏せたんだろう?」
 ようやく壁際から逃げ出し、エドゥアールは乱れた襟元を直しながらソファに倒れこんだ。「よかったじゃないか」
「わたしに無断で、なぜあんな情報を流した」
「あんたのお父上は、王宮じゅうに密偵がいるんだぜ。俺とふたりで結託して法案を提出しようとしていることなんて、早晩バレちまっただろ」
 エドゥアールは、目を細めて笑った。「こちらが場を支配しているうちに、持ち札を一枚見せるのが、ハッタリの鉄則さ。これで貴族会議まで余計な邪魔は入らない」
「たいした山師だな。こっちまで寝首をかかれそうだ」
「あんたの実力を、それだけ高く買ってるってことさ」
 セルジュはそれを聞いて、くくっと愉快そうに喉を鳴らした。「光栄だね。伯爵さま」
 そして、懐から一通の書状を取り出す。
「来週、東のお客さまが王都に来る。お相手をしろ」
「お、おい。冗談じゃねえ」
 エドゥアールは、ぎょっと腰を浮かしかける。「王都には今、俺の親父がいる。この時期はいくら何でもまずいだろ」
 『東のお客さま』――つまり、リオニア共和国の密使ということだ。
 カルスタンとの国境紛争に勝利するために、リオニアはクライン・アルバニアと三国同盟を結びたがっている。その交渉の相手役にはエドゥアールが当たることになったのだ。
 さらに、古くからリオニアとの親交が深いエルンストが同席するとなれば、同盟の成功は約束されたようなものだ。ただし、それがプレンヌ公に見つかれば、ラヴァレ伯爵は父子とも極刑は免れない。
「おまえの実力を、それだけ高く買っているということだ」
 涼しい顔で答えるセルジュに、エドゥアールは大きな吐息をつきながら、天井を仰いだ。「最悪だ」
 ノックがあった。
 セルジュの従者が扉を開けに行き、戻って来た。「ラヴァレ大伯爵さまです」
 エルンストは、先ほど別れてからの短い間に、信じられないほど、やつれて蒼ざめた顔をしていた。
「エドゥアール」
「どうしたんだ?」
「王の庭に行ってくれ。陛下がひどく取り乱しておられる」
「なんだって?」
 エドゥアールは、父を追って回廊に飛びだした。
「待てよ。陛下に何を言ったんだ?」
「エレーヌが死ぬ間際に言い遺したことばだよ」

 ――あなた。兄に伝えて。『良い王になってください』と。

 エドゥアールは、はっと目を見開いた。
「わたしには、ここまでしかできなかった」
 言い残して、父は悄然と去っていく。「すまぬ。後を頼む」
「セルジュ。いっしょに来い!」
 エドゥアールは有無を言わせぬ力で、セルジュの手首をぐいと引っ張って、走り出した。
 王の庭の入口では、騎士のユベールが険しい表情を固めたまま待機しており、侍従長は、そのかたわらで途方に暮れたように立っていた。
「陛下は?」
「あずまやにおられます」
 うわずった声で侍従長が答える。
「若さま」
 近づこうとする主に、ユベールは立ちあがった。「危険です。お気をつけください」
 エドゥアールはうなずいた。そして侍従長に命じる。「ギョーム。すぐに王妃さまを、この場にお呼びしてくれ」
 眼前の光景に当惑するセルジュは、ユベールに袖をつかまれた。「あなたさまは、ここでお待ちを」
 あずまやの中は、食器や花瓶が粉々に割れ、惨憺たるありさまだった。
 フレデリク三世は背中を向け、抜き身の剣を片手に、肩をいからせて立っていた。
 エドゥアールは彼のすぐ背後に立ち、何度もためらってから、言った。
「フレデリク」
「余は王であることを捨てた」
 返ってきたのは、怒りを出し尽くして、空ろになった声だった。
「なのに、この世でたったひとり余が愛した者は、死に際に、言うに事欠き、『良き王たれ』と言いおった」
 『良き王たれ』――それは、祖父であるフレデリク大王が、孫である彼を臨終の枕辺に呼んだときのことばだった。
 当時の彼は、わずか三歳。
 名君だった祖父の遺した呪縛が、父の一生、そして彼の一生を孤独へと追いやってきたのに。そのことをエレーヌは一番良く知っているはずなのに。
「それでも、あの子はなお、余に良き王たれと言うのか」
 ぶるぶると、剣を握る手が震える。
 まわりは敵だらけだというのに。腐敗しきった王宮。堕落した高官たち。おのれの利得しか考えぬ貴族たち。そして無知な民衆。
 こんな国をたったひとりで、どう治めろというのだ。愚昧なふりをして逃げる以外に、どんな道があった。
 その手に突然、何かが触れた。
 どこかで感じたことのある温もり。エドゥアールがフレデリクの手を両手で包みこみ、声もなく涙を流している。それを見たとき、すっと力が抜けた。
 この世にはもういない妹が遺したもの。命を懸けて遺したもの。
 これが、血肉の温かみなのか。共鳴なのか。
 ――これが、がんじがらめの檻から解放されるということなのか。


 テレーズ王妃が庭に駆けつけたとき、王はあずまやに、たったひとりで座っていた。
 ラヴァレの若伯爵が陛下を静めてくださったのだと、侍従長が説明した。
 ギョームに厳重な人払いを命じてから、彼女は夫のもとに近づいた。国王は力なく背中を丸め、まるで百歳の老人のように疲れ果てて見えた。
 剣はすでに鞘に納められ、脇に置かれている。
「陛下」
 と呼びかけると、「近づくな」と、かすれた答えがあった。
「余は狂っている。何をするかわからぬぞ」
「かまいません」
 テレーズは彼のそばにひざまずき、にじり寄った。王は、まるで怯えているように体を引いた。
「離れろ。そなたを傷つけるかもしれぬ」
「離れません。わたくしはあなたの妻ですから」
「余は、妻だと思っておらぬ。そなたは、しょせん他国から押しつけられた人質だ」
「それでも」
 王妃の微笑は、ふわりと柔らかく溶けた。
「それでも、あなたはわたくしの、ただひとりの夫です」
 テレーズは視界がさえぎられたのに気づいた。いつのまにか、たくましい腕が彼女を抱きすくめている。だが、それはほんの数秒だった。
 気がつくと、あずまやには彼女ひとりが残され、長椅子には、剣で切り裂かれた王のマントだけが置かれていた。



            第七章  終




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