伯爵家の秘密


第8章「王の資質」


(2)

「モンターニュ領から、出来たてのチーズが届きましたのよ」
 いちじく入りのパンに添えてミルドレッドが出したのは、まろやかな黄色をした甘く濃厚な味わいのチーズだった。
「結婚の準備で、この夏はとうとう帰れなかったものだから、領地を任せている家令が送ってくれましたの。この香りを嗅ぐと、モンターニュにいる気分を味わえるんです」
「んん……まい!」
 エドゥアールは感激にうなりながら、チーズを噛みしめている。「あんまりうますぎて、頬の内側が痛くなってきた」
「夏に山で放牧されている牛の乳だけを使って作るんです。青々とした牧草をたくさん食べて出す牛乳のほうが、冬に牛舎にいるときよりも、ずっと濃くておいしいの」
 彼女は誇らしげに説明した。
 以前の彼女なら、そういうものを自慢するのは田舎くさくて恥ずかしいさえと思っただろう。だが、幸せそうにチーズを頬張ってくれる婚約者の顔を眺めていると、あの山だらけのモンターニュ領に生まれたことを、心から感謝したくなってくる。
 子爵家を訪れたときのエドゥアールは、最初珍しく浮かない顔をしていた。
「昨日、厄介な奴に会ってね。議論がどこまで行っても平行線で、もうへとへとなんだ」
 それ以上は決して語ろうとしない。とても重要な秘密なのだろうとミルドレッドは察した。この子爵家の中でさえも、どこでプレンヌ公の手の者が聞き耳を立てているかわからないと、彼は用心しているのだ。
(今わたくしにできることはただ、疲れておられるエドゥアールさまの心を和ませること)
 テレーズ王妃も、似たようなことを言っておられた。
『陛下のために、せめて自分にできることをしようと』
 どんな些細なことでも、エドゥアールはいつも十倍の愛情と笑顔を返してくれる。でも、テレーズ王妃は、国王陛下をあれほど慕い続け、認めてほしいと願い続けながら、何の見返りもない報われぬ毎日を過ごしていらっしゃるのだ。
(王妃さまがお可哀そう。わたくしにできることが、何かないかしら)
 ミルドレッドがそんな思いにふけっているあいだに、エドゥアールは皿の上を平らげ、すっかり元気を取り戻していた。
「ほんとうに美味い、このチーズ。もっと大々的に売り出したらいいのに」
「でも、あまり量が作れないんです。搾った牛乳を山小屋に運んで、薪を燃やして大鍋をかき混ぜるのは骨が折れる仕事だし、その時期、村人は羊毛の刈り取りや羊の世話のほうで手いっぱいらしくて」
 モンターニュ領は、もともと牧羊が盛んな地域だ。だが、近年は東から入ってくる安い羊毛に押されて価格も下がり気味で、領地の経営はかなり苦しい。
「牛の数をもっと増やして、専任の職人を雇うんだよ。このチーズは片手間仕事で終わらせるには、もったいない」
 エドゥアールは、真剣そのものの顔で言った。「うまく行けば、特産品として輸出できるようになる。モンターニュの名が世界じゅうに知れ渡るんだ!」
 ミルドレッドは、彼の子どもっぽい熱情に、思わず笑い出した。
「なんだか、それも悔しいような気がします。美味しいものは、本当に大切な人だけに食べてもらえたら、それでいいの。みんなに教えたくはありませんわ」
「ふーん、そんなものかな」
「女って、そういうものです」
 解せないという顔をしているエドゥアールに、ミルドレッドはテーブルの上の大皿から、もう一切れチーズを切り分けた。
「これは、何の印?」
 エドゥアールが目を留めたのは、チーズの包み紙の上に貼られたシールだった。
「チーズの原産地証明ですわ。クライン国内のチーズはどれも、このシールを貼ることになっています」
「なぜ?」
「チーズは、土地によって値段が全然違うんです。だから他の地方や外国産のチーズでも、勝手に高級チーズの産地を名乗るようになって、以前は混乱が起きたそうです。それで、原産地の名を記したシールをクライン政府が発行して、それを貼らないと売り買いができないように法律で決められたの。ワインも同じです」
 本当は、ミルドレッドも少し前まで、このことを知らなかった。この数ヶ月に図書館で必死で勉強した賜物だ。
 エドゥアールは、突然「あっ」と大声を出した。
「そうか、その手があったんだ」
「え、な、何?」
 彼は目をきらきらと輝かせて、叫んだ。「ミルドレッド。きみのおかげで、とんでもない名案を思いついた。これで心置きなく、来週の貴族会議を迎えられる」
「どういうことか、さっぱりわかりませんわ」
「あとで説明する。ちょっと用事ができた。また来る」
 そう言い残し、額に軽いキスをすると、エドゥアールはあっという間に子爵家から飛び出していった。
「ほんとうに、お忙しい方ですね」
 メイドのジルが苦笑しながら、女主人の紅茶にもう一杯おかわりを注いだ。
「この調子で、結婚式から姿を消してしまわれたら、どうしましょう。ジル」
「そうならないように、花嫁のヴェールは長くできてるんですよ」
「まあ、本当なの?」
「ええ、祭壇の前から逃げ出そうとする男を蹴つまずかせて、ヴェールでからめとるんです。ほら、魚の網みたいにシャーッと」
「ふふ……あはは」
 ジルの名演技にこらえきれなくなって、ミルドレッドは令嬢の気品も忘れ、大声で笑い出した。


 臙脂色の侯爵の正装に身を包んだリンド候セルジュ・ダルフォンスは、ソファに背を預けて、ぼんやりと考えこんでいた。
 あと少しで、今年最初の貴族会議が始まる。
 ついに父と袂を分かつときが来たのだ。自らの野望の化身として育て上げた息子が自分を裏切ったと後で知ったら、あの人はどういう顔をするのだろう。
 臓腑が湧きたつような興奮を覚えてよいはずなのに、セルジュの内側はしんと冷えきっている。
 なぜかソファを立ち、議場に向かう気がしないのだ。
(わたしは、恐れているのか?)
 自分の心を探ってみても、見当がつかない。今さら、父を恐れるような自分ではないはずだ。
(では、エドゥアールが恐いのか?)
 確かに、奴の才能には並々ならぬものがある。すべてにおいて一番であることを義務づけられてきたセルジュにとって、生まれて初めて妬みを感じる相手と言ってよいかもしれない。
 それでも彼には、セルジュに比べて決定的に欠けているものがある。この国を治めようとする意志は、エドゥアールにはまったくない。
 あたりまえだ。下位貴族の庶子、しかも母親は娼婦。自分が王になると想像したことすらないだろう。
 陛下が、『良き王の資質とは』と問いかけてきたとき、エドゥアールの答えは馬鹿馬鹿しくすらあった。

『戦争で兵士がひとり死んでも、道端で幼子がひとり飢えても、玉座で身もだえすることができる想像力』

(そんな軟弱なことを言っていては、国を治めることなど、とうていできぬ。【戦死者何人、餓死者何人】。その統計の数字の中にこそ、王の手腕が現われるのだ)
 心のうちでそう呟いていたときに、フレデリク王が顔色を変えるのを見た。
 王は、エドゥアールの答えの中にいったい何を感じ取ったのだろう。セルジュには全く計り知ることもできない。
(そう言えば、憂鬱な気分が晴れなくなったのは、あのときからだ)
 【王の庭】で、フレデリク三世がひどく取り乱して暴れたとき。あの愚昧(ぐまい)な王――いや、愚昧を装っていた王の心には、どれほどの苦しみが巣食っていたというのだ。
 玉座に座ることが、それほどの苦しみなのだとしたら、王になることに人生を賭ける価値はあるのか。
(では、わたしは王になることを恐れているというのか?)
 思わず、大きなうめき声を洩らした。驚いた従者が何事かと、隣室から駆け込んできた。「どうなさいましたか」
「何でもない。行くぞ」
「はい」
 数人の従者を伴って、セルジュは王宮の左翼に向かった。【獅子の間】と呼ばれる広大な広間が、貴族議会の会場となる。
 長い金髪をなびかせて歩を進める高貴な若者に、侍従や女官たちばかりでなく、王の家臣や貴族たちも、脇に退いて礼をする。
 この議会を掌握し、国政を思う方向に導いた瞬間から、セルジュは玉座へと後戻りのできない道を歩み始めるのだ。
 それが恐ろしい。国の運命を率いていくことが、突如として恐ろしくなった。
(一時の気の迷いだ。わたしは、そのために生まれてきたというのに)
 唇を真一文字に結び、自分に言い聞かせながら、弱気を振り払おうとする。
 【獅子の間】への廊下を進もうとしたとき、脇から合流してきた者があった。
「よお」
 エドゥアール・ド・ラヴァレ伯爵だった。
 体の線にぴったり沿った鶯色の正装用コート、常になく、黒髪はつややかに整えられている。
「気合いが入っているな」
「ああ。俺の輝かしい議会デビューの日だからな」
「とちるなよ。しくじったら他人のふりをするぞ」
「議壇から転げ落ちるときは、あんたの袖を握りしめて道連れにしてやる」
 ふたりは隣り合って歩きながら、横目で互いを見、あるかなきかの笑みを交わす。
 いつのまにか、セルジュの心から恐れが消え去っていた。
 リンド侯爵セルジュ・ダルフォンスと、ラヴァレ伯爵エドゥアール・ド・ラヴァレは、クライン史に残る貴族会議の日、議場の扉を並んでくぐった。


 【獅子の間】は、円形闘技場と似て、すり鉢状に席が配置されている。五百人が収容できるが、当然ながらすべての貴族を入れるほどの大きさはない。
 まず、一代貴族である士爵には入場する資格がない。男爵は傍聴は赦されているが、発言権も投票権もない。
 子爵は、投票権はあるが発言権はない。よほど政治に関心のある物好きならともかく、ほとんどは委任状の提出ですませてしまう。
 よって、議場に来るのは、ほとんどが伯爵と上位貴族である公侯爵ばかりだ。
 パルシヴァル・ド・モンターニュ子爵も、議場に来たのは、爵位を継いだばかりの血気さかんな若者のときが最後だった。今は毎年秋になると、王宮の玄関で委任状を出すだけ。
「これは、モンターニュ子爵。お珍しい。あなたが議場にいらっしゃるとは」
 たまたま居館が近所同士の、老齢の伯爵に声をかけられた。
「いや、たまには貴族の務めを果たそうと思いたちまして」
「またまたそんな。うかがいましたよ。ご令嬢の婿になられる方が、あのラヴァレ伯爵のご子息だと言うじゃありませんか。今日も壇上で発言されるとかで、もっぱらの噂ですよ。裕福で由緒のあるお家柄ながら、ご出自がちょっと……ですものなあ。あなたも心配が絶えないというところじゃありませんか。ははは」
「わ、ははは」
 まわりの貴族たちも、哀れむような目を彼に向ける。針のむしろとは、このことだ。あわてて逃げ出したくなったが、子爵は踏みこたえた。
(エドゥアールどのは、立派に国政を担うお力をお持ちの人だ。なにが、『ご出自がちょっと』だ。今に見ていろ)
 議壇から一番遠い下位貴族用の席に着いたときは、会場はほぼ九分通り席が埋まっていた。今年初めての議会にしては入りが良いのは、やはり娼婦の息子が議壇に立つという噂が立ったからだろう。
 ファンファーレが鳴り、国王フレデリク三世が入場し、一同起立のうちに国歌が演奏された。
 国王は型通りの挨拶を述べると、最上階のバルコニーの玉座に深々と座り、目をつぶってしまった。もう後は、彼が居眠りをしようといびきをかこうと、誰も気に留めない。
 侯爵のひとりが議長となり、これも決まった形にのっとって、議事を進行していく。
 前年度の決算報告。
 貴族の訃報。廃爵、爵位継承、統合または分爵の報告。所領地の境界変更。
 外交および外務報告。
 ここまで来ると、パルシヴァルも含めて、議席の六割は熟睡状態に陥っている。


「つまんねえ」
 エドゥアールは頬杖をつきながら、呆れたように言った。
「こんな報告、前もって公示すればすむことなのに、なんでいちいち議事にかけるんだ」
「重要なことをまぎれこませて、目立たなくさせるためだよ」
 隣席のセルジュが皮肉げに答えた。侯爵と伯爵は本来、座る席は全く別々だが、今は発言予定者として議壇下にともに座っている。
 次年度の予算審議に進んだのは、二時間ほどが経ってからだ。
「エドゥアール・ド・ラヴァレ伯爵。陛下の御前に意見を述べることを許可する」
 議長の重々しい召呼に応えて、エドゥアールは立ち上がった。その声に、居眠りしていた者も、あわてて背筋を伸ばした。いよいよ今日最大の見ものだ。
 ざわざわと私語がうずまく中、若き伯爵は壇上に登り、ゆっくりと手に持っていた巻物を広げ、顔を上げた。
 その鋭い眼差しに、議場はいっぺんに静まりかえった。
「陛下の御前にて、拙論を披歴する光栄に浴し、まず感謝を申し上げます」
 あざやかな修辞に「ほう」と目を見張る者もいれば、下町訛りを見つけて「ほらほら、やっぱり」と指差す者もいる。貴族議員のほとんどが、私語まじりながらも真剣に耳をそばだてていた。
「まず初めに、われわれの持つ私的徴税特権という悪習は、この大陸どこを探しても、現存するのはクライン国ただひとつだけということを申し上げておきましょう」
 貴族たちにとって、エドゥアールの演説が行われた数分間は衝撃の連続だった。
 私的徴税特権は、本来ならば国が徴収すべき税金を、貴族が横取りしているも同然だということ。
 その高い税金によって一般市民は苦しみ、経済活動を制限されていること。
 諸国ですでに行われている物品税という一律課税を導入し、赤字に傾きがちな国庫を潤し、国力を増すことがクラインの取るべき道であることを、具体的な数字をまじえながら、みごとに説明してみせたのだ。
「ちょっと、待ってください」
 おずおずと、気の弱そうなひとりの伯爵が立ちあがった。有力公侯爵の息のかかった者だろう。
「徴税特権がなくなれば、わが伯爵家は収入の四分の一をなくしてしまいます。今でも日々の暮らしは赤字続きで苦しいのです。特権が廃止になれば、わたしは首をくくるしかありません」
 哀れっぽい声に、会場のあちこちから「そうだそうだ」という叫びが沸き起こる。
「共和主義者め。貴族制度をつぶして、リオニアのようにする気だろう」という、あからさまなヤジも。
 エドゥアールは、それらの怒号にも動じることはなかった。
「あなたがたはクライン王国の繁栄よりも、私利私欲を取るのか!」
 腹の底にずしりと響くような啖呵に、ヤジはたちまちにして静まった。
 そのとき、突然ひとりの男がすっくと議席から立ち上がって、ぱちぱちと懸命に手を叩き始めた。
「いいぞ。すばらしい!」
 パルシヴァル・ド・モンターニュ子爵だった。
 「静粛に」と、発言権のない子爵を議長はたしなめる。
「親父さま」
 エドゥアールは、満面の笑みを浮かべた。そして、先ほどとは打って変わった柔らかい声で、続ける。
「少々説明が足りませんでした。国力を増すということは、貴族の領地を含めた国全体の生産性を上げることに他なりません。あなたの領地はどこです?」
 質問者は、しどろもどろで答えた、「き、北のフレシュール地方です」
「山岳高地の一部を除き、クラインのほぼすべての土地で、養蚕が可能です。山岳ではチーズや、羊毛織りの絨毯が特産品として輸出が見込まれます。国庫の増収分でそれらの産業を積極的に育成する政策をとれば、所領の収入は逆に増えます」
「おお」
 と、質問者は言ったきり、すとんと席に座ってしまった。
(この男らしい考え方だな)
 エドゥアールの回答を聞きながら、セルジュは内心つぶやいた。
 国庫の増収を産業育成のために用い、国家全体の生産性を上げるのが、貴族も庶民もともに豊かになる道だと言うのだろう。
 だが、その豊かな国土を、敵国に踏み荒らされては何もならないではないか。
 必要なのは、まず強い軍隊を持つことなのだ。
(そろそろ、頃合いだな)
 セルジュは、人差し指をすっと上げた。
 会場のあちこちに配置しておいた彼の配下が、議員たちに耳打ちを始めた。
「おい、聞いたか。これはザル法なんだそうだ」
「結局、税金の徴収は貴族にまかされる。決められた額を国庫に納めれば、あとはいくらでもポケットに入れてよいらしい」
 ひそひそと、隣から隣に噂は伝えられる。
 これで、反対する者はいなくなるはずだ。
 セルジュは満を持して立ちあがり、エドゥアールの代わりに壇上に立った。
「ただいまの、ラヴァレ伯爵のご意見は傾聴すべきものです。クラインの将来のために、古い因習を捨て、新しい税法を採用すべき時が来ているのです」
 大方の貴族は、度肝を抜かれた。
 共和主義を憎悪するプレンヌ公爵の子息と、共和主義者として名高いラヴァレ伯爵の子息が結託しているのが、今この瞬間わかったのだ。
 何よりも、セルジュは次代国王と目されている人物。彼が賛成する法案に、賛成しない手はない。
「なるほど」
「確かにすばらしい法案だ」
 取ってつけたような賛辞が議場をざわめかせた。
 だが、そのとき、誰も予想していなかったような事態が起きた。
「わたしは、反対ですな」
 立ちあがり、ゆっくりとねぶるように議場を見回した男は。
 エルヴェ・ダルフォンス公爵その人だった。


「この法案は、まさしく我が国が死守してきた貴族制度の崩壊を意味します。貴族の弱体化と民衆の思い上がりをもたらした挙句、どこかの国のように、民衆蜂起によって国家を転覆させて、よいものですかな」
 セルジュがいかに将来の王位継承者とは言え、国の実権を握るのは、父親のほう。
 プレンヌ公の機嫌を損ねて、貴族として生きていくすべはない。議場にいる者たちは、たちまち震えあがった。
「は――反対だ」
「やはり、こんな法案認めるわけにいかぬ」
 ふたたび怒号が巻き起こる。それでも、セルジュを攻撃するわけにいかず、人々の反感はエドゥアールに集中した。
「共和主義者の犬め!」
「娼婦の息子は、頭まで毒に冒されてるに違いない」
「爵位を取り上げ、国から追放しろ!」
 だが、一部の者、特に下位貴族は、同じ黒髪の部族を応援したい気持ちに駆られ始めた。
「いや、考えてみれば、これは公平な制度かもしれぬぞ」
「上位貴族が猛反対するのは、それだけ多くの特権を持っているからだ」
 議場は騒然となり、発言者たちは、議壇から降りることすらできない状況になりつつあった。
 エドゥアールは、せっかく整っていた黒髪をくしゃくしゃにかきむしった。
「あーあ。ヤバいことになったな。イカサマが見つかったときの賭場の騒乱みたいだぜ」
「……父上。こんなことをなさるとは」
 セルジュは、きりきりと奥歯を噛みしめた。父をうまく丸めこんだと思っていた。しかし最後の最後に騙されたのは、こちらだったのだ。
 エルヴェは、議席で立ちあがったまま壇上の息子を見上げ、嘲るように笑った。
 自分の意にそわぬ者は、たとえ息子であっても、ゴミとして容赦なく切り捨てると言わんばかりに。
「うるさいな」
 突然、喧騒の只中に、天井から凛と轟くような声が降りてきた。
 玉座でフレデリク三世が立ちあがって、議場を睨みつけているのだ。
「なんだ、この騒ぎは。余の昼寝の邪魔をしおって」
「なんと陛下が――」
「議会でご発言を――」
 貴族たちは、知る限り一度も経験したことのない事態に、唖然と口を開けた。
「私的徴税特権については、アルバキア王より進言の文が届いておる。同盟を結ぶ限り、税制度においても両国で足並みをそろえねばならぬ。議長。貴族の徴税特権を廃止し、一律の物品税を創設するために必要な法を整備せよ。余、フレデリク三世の名において命じる」
 そう言い残してふたたび玉座に深く背を預けると、王はふたたび目を閉じた。
 針一本落ちる音まで聞こえそうなほど、議場は静まり返った。
「は、か、かしこまりました」
 あたふたと席についた議長は、木槌を打ち鳴らし、裏返った声で叫んだ。
「国王陛下のご英断がくだされた。よって本提案は採用とする!」
 議場はふたたび、混乱のうずの中に巻き込まれた。
 プレンヌ公爵も無言で席に戻ったが、その顔が怒りのため赤黒く染まっているのは、誰の目にも明らかだった。


「あー、俺、このひと月で、一生分働いたような気がする」
 セルジュの執務室のソファに寝ころびながら、エドゥアールが心地よさそうに伸びをした。
 あれから貴族議会はさらに三度開かれ、物品税の創設に必要な法律の草案が可決され、今年の議会は閉会した。その草案作りに、彼らは徹夜続きの毎日だったのだ。さらに煩雑な手続きを経て、ようやく法律は今日、発布の運びとなった。
 アルバキア王からの進言の書簡というのは、嘘ではなかった。テレーズ王妃が父王に手紙を送り、クライン国内の税制の前近代性について切々と訴えたのだ。さすがのフレデリク王も、隣国の王からの進言は無視できようはずもない。
 だが、ことによると、そんな文がなくとも、議場で王は自ら動いていたかもしれなかった。
「お父上の機嫌はどうなんだ」
「知るものか。あれから一度も顔を会わせていない」
「げ、じゃあ一度も家に帰ってないのか」
「王都には、わたし名義の別邸がいくつもある」
「きれいなご婦人が、もれなくついてる別邸?」
「そんなわけないだろう」
 セルジュが嫌な顔をすると、エドゥアールは愉快そうに笑った。
 このところ、ふたりの関係に目に見えない変化が起きていた。
 王への権力の集中を目指すセルジュと、民衆の幸福を第一義に考えるエドゥアールでは、どこまで行っても相いれるはずはない。だが、用心深く互いを牽制し、隙あらば利用する一方で、心のどこかで気を許してもいる。
 ともに死線を越えた戦友というのは、こんなものかもしれなかった。
「ところで、そろそろ王都を出たほうがいい。わたしは今夜のうちに侯爵領に発つが、きみはどうする?」
「俺が育った港町に帰ってみようと思う。今、伯領に戻ると、しつこい連中に追いかけてこられそうだし、ちょうどポルタンスに用事もあるしな」
「そうか。次に顔を見るのは、秋だな」
「結婚式の招待状を送っとくよ」
「要らん」
 王都からふたりの非凡な若者の姿が消え去ったころ、王宮は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
 発布された新しい物品税に関する条文を読んだ貴族たちが、腰をぬかさんばかりに驚いたのだ。
『物品税の徴収は、特に定めた収入印紙をもってする』という条項が書き加えられていたのだ。
 商人は、役所で専用の印紙を買い、みずからの商品に貼りつける。印紙が貼られていなければ、公の場所で売り買いは禁じられる。
 つまり、貴族が一軒一軒の商店に徴収に回る必要は、まったくないのだ。
「これでは、税を余分に徴収して、ふところに入れることができないではないか」
 気づいたときはもう遅く、国王の新法への署名はすでに終わっていた。
「陛下。どうぞご署名の取り消しを!」
 懇願の声も馬耳東風とばかり、フレデリク三世は、いつもの寝椅子にごろりと横になった。
 





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