伯爵家の秘密


第9章「第二の秘密」


(2)

「モンターニュ領に行こう」
 部屋の扉を開けて、いきなり宣言されたとき、婚約者の突飛な言動にすっかり慣れたはずのミルドレッドも、しばし呆然となった。
「で、でも結婚式まで、あと二週間もないんですのよ」
「だから、行くんじゃないか」
 エドゥアールは、さも当然という、すました顔で答える。「結婚式の前に、形だけとは言え子爵の叙爵式がある。受け継ぐ領地を一度も見たことがないというのでは話にならないだろ?」
「でも、もうこの季節、山は雪に埋もれていますわ」
「雪ぞリを使った斜面すべりも、一度やってみたいな」
 と言いながら、そっとミルドレッドと侍女のジルの手を引っ張り、音が筒抜けになりやすい暖炉のそばから引き離す。
「実は、ふたりにまた手伝いを頼みたい。きみたちでないと、できないことなんだ」
「ポルタンスに行くときも、そうおっしゃいましたけど、結局、何のお役にも立てておりませんわ」
「ああ、あれはあれでよかったんだよ」
 エドゥアールはにっこり笑った。「そばにいるだけで、きみは俺の元気の素だから」
 普通なら照れくさくて言えないような言葉を平然と言ってのける婚約者に、ミルドレッドはいつも当惑する。
(こんなに甘やかされてしまっては、いつか自惚れて、自分のことを本当に素晴らしい女性だと勘違いしてしまうのではないかしら)
「実はね」
 ふたたびエドゥアールは声をひそめた。「王都からモンターニュ領への道は何本かあるけど、そのひとつがプレンヌ公爵の領地のひとつを通っているんだ」
「存じておりますわ。フォーレ領ですわね」
「あそこの検問は、ものすごく厳しくて、衛兵の態度も横柄なんですよ。絶対あの道は通りたくありません」
 ジルは頬をふくらませて、言った。
「そこに住んでいるふたりの女性を助けたい」
 エドゥアールは答えた。「だから、きみたちが必要になる」


 その翌日、伯爵家の二頭立て馬車はモンターニュ領に向かって出発した。
 駕籠の中は、エドゥアールとミルドレッド、近侍の騎士のユベール。それに侍女のジル。
 家令のオリヴィエは、御者の隣に座る。
 モンターニュ領は、北西部の山岳地帯にある。王都からは、ほぼずっと登り道。宿駅の村で替え馬を使いながら、二日はかかる。
 白い王冠をかぶった峻険な峰が近づくにつれ、空気は冷たく澄んで肺に心地よい。道の両側に続く森の切れ目には、高原の黄色い花々が一面に咲き乱れている。青空がいっそう濃さを増したかと思えば、冷たい風が吹き、みるみるうちに灰色の雪雲が覆う。
 長旅だが、目が飽きるということはなかった。
 一日目の行程が終わりに近づいたころ、検問所が見えてきた。
 プレンヌ公爵が持つ七つの荘園のひとつ、フォーレ子爵領だ。
 紺色のマントを羽織った衛兵が槍を突き出して馬車を停め、御者に誰何する。
 オリヴィエが、谷ユリの紋章のついた通行証を取り出し、代わりに答えた。
「我らはモンターニュ子爵領に向かうところ。駕籠の中にはラヴァレ伯爵と、モンターニュ子爵令嬢ミルドレッドさまが、それぞれ従者とともにお乗りです。決して粗相なきよう」
「検めの手順は、我らが決める」
 確かに一介の兵にしては、態度が横柄だ。この国を実質支配している公爵の権力を笠に着ているのだろう。
 衛兵のひとりは屋根の荷物入れや車輪まで調べ始めた。もうひとりは、駕籠の小窓を開けて、鋭い目つきで中を検める。
 中には確かに男女ふたりずつ、計四人が乗っていた。一応、儀礼にのっとって伯爵らしき金髪の若者に向かって敬礼をする。
「なあ、おっさん。この地方はワインが名産だって聞いたんだけど」
 奥に座っていた黒髪の少年が、なれなれしい口調で話しかけた。「なんか、おすすめある? できるだけ安くて上等なヤツ。あ、それに、アカシアの蜂蜜をたっぷり買ってこいって頼まれてるんだ。どっか養蜂場の直売所みたいなとこ、ない?」
 金髪の男がすかさず、たしなめた。「若さま。お静かに」
(で、では、そっちのほうが伯爵さまということか?)
 主であるプレンヌ公爵にとって、ラヴァレ伯は宿敵であるはずだが、末端の兵にそこまでの知識はない。
「買ってかないとシモンがヘソ曲げるぞ。披露宴のメインディッシュのソースには、どうしてもアカシアの蜂蜜がいるんだって」
「レンゲの蜂蜜ではいけませんの?」
 上等なボンネットをかぶった令嬢が言った。
「アカシアのほうがくせがなくて、素材の味を殺さないらしいんだ」
 すると、もうひとりのメイドらしき女が、頭蓋骨から空気が抜けるような高い声で言った。「まあ、贅沢ですわよ。コックごときのわがまま、ほっときゃいいんです」
「冗談じゃない。あいつがへそを曲げたら、生煮えのにんじんが毎食出てくるんだぞ」
 一斉に皆がしゃべりだし、駕籠の中はとんでもない賑やかさになった。
「わ、わかった。通ってよい」
 馬車が走りだすと、彼は同僚の兵と顔を見合わせて、苦笑いした。「世の中には、いろんな貴族サマがいるもんだな」


 『三人』の乗客を乗せた馬車は、フォーレ領の北側の検問所を通過し、いよいよモンターニュ領に入る。
 片側が断崖絶壁のつづら折りの山道を登っていくと、新雪をいただいた雄大な山々がぐんぐんと目の前にせまり、山壁にはりついている木の放牧小屋が、まるで手に触れそうなほど近くに見える。
 二日目の昼、カラマツの幹の間から湖が見えてきた。深い藍をたたえた鏡のような湖面に、山や森の景色がくっきりと写り込んでいる。
「ほら、あそこですわ」
 馬車から降りて、ミルドレッドが指し示したのは、湖の向こう岸で陽光を浴びて輝く、白い二階建ての館だった。
「あれが子爵家の領館です。小さくてお恥ずかしいのですが」
「……とんでもない。まるで天国みたいなところじゃないか」
 足元を透明な水が打ち寄せる湖岸に立ち、放心したようにエドゥアールがつぶやいた。「こんな素晴らしい景色の中で、きみは育ったんだな」
「育ったというか」
 ミルドレッドは、顔をあからめた。王都に比べて何のとりえもない田舎だと、これまでずっと生まれた地を卑下していたのだ。
 エドゥアールの瞳を借りて見る自分の故郷は、なんと美しい場所なのだろう。素直にそう思える。
 さらに湖岸を半周して領館に着くと、ミルドレッドは誇らしさのあまり、馬車から急いで降りて、エドゥアールの手を引っ張った。
「小舟を湖に浮かべて遊ぶこともできますのよ。少し山に登れば、氷でできた神秘的な洞窟があります。それともやはり、そり遊びを先に?」
「そう焦らなくても、これから何度だって来れるよ」
 エドゥアールは微笑むと、子どもをあやすように彼女の髪を撫でた。「まず家令に会わせてくれないか。領地の経営のことを詳しく聞きたいんだ」
「あ、はい。……マキシム」
 玄関に出迎えに出ていた老人と初老の男に、令嬢は呼びかけた。
「この人が家令のマキシム。その隣が執事のロランです」
「ようこそいらっしゃいました。旦那さま」
(ああ、わたくしったら)
 使用人たちと挨拶を交わす婚約者の背中を見つめながら、ミルドレッドはひそかに自己嫌悪に陥った。
(エドゥアールさまは、遊びにいらしたのではない。子爵家を継ぐためのお仕事にいらしたのよ。たった二日の滞在で、わたくしのために割く時間など、あるわけないわ)
「こちらでございます」
 家令のマキシムは、伯爵とオリヴィエを、小さいが気持ちのよい書斎に案内した。どの部屋にも大きな暖炉があり、一年中薪を絶やすことはない。
「高名なラヴァレ伯爵さまに、子爵家の領地をおまかせできることは、光栄のきわみでございます」
 老齢の家令は、大きなひげをたくわえた口元に安堵の笑みを浮かべた。「これで、わたくしも後顧の憂いなく、去ることができます」
「去る? これからも領地の経営はあんたにまかせたいんだけど」
「いえ、若さま。わたくしは、すでに70歳に手が届いております。このへんで、ゆっくり休みとうございます」
「家族は?」
「おりません。ひとりものでございます」
 家令や執事は、主人の家に住み込みで働くため、一生独身を通す者が多い。オリヴィエは結婚して家族を持ったが、執事のロジェとメイド長のアデライドは独身だ。
 そんな彼らにとって、どこかに小さな家でも借りて、誰にも命令されずに過ごす老後は、生涯の夢なのだろう。
「じゃあ、出納帳と財産表を見せてくれないか」
「承知いたしました」
 エドゥアールたちは書斎に入ったきり、何時間も出てこなかった。
 ミルドレッドは湖に面したテラスで、長椅子の上で膝をかかえて座っていた。
「お嬢さま。そろそろ中にお入りにならないと」
 ジルがテラスに出て来て、寒そうに首をすくめた。「ひゃあ。日が落ちた途端に耳がちぎれそうじゃありませんか。まったく」
 ミルドレッドは手編みの膝かけの下で、もそもそと体を動かした。
「寂しいわ、ジル」
「はいはい。若旦那さまに放ったらかしにされて、寂しくなってしまったのですね」
「そうじゃないの。わたくし、やっぱり結婚してもエドゥアールさまのお邪魔になってしまいそうな気がする」
「まあ、またそんなことを」
 ジルは、いたわりをこめて、もう一枚の膝かけで主の肩を包んだ。「あの御方は、お嬢さまにぞっこんなんです。お嬢さまがいないと腑抜けになってしまわれますよ。ご自分でも、そうおっしゃっていたでしょう」
「そんな受け身の存在じゃなくて、何かをしたいの。お役に立ちたいの。よくやったと誉めてほしいの」
「贅沢ですねえ。そばにいるだけでいいって言ってくださってるのに。普通は反対に、そう言われたい一心で、女はあれこれ尽くしてしまうものなんですよ」
「わたくし、絶対にマリオンさまとオルガさまを助け出してみせるわ」
 ミルドレッドは肩かけを振り落として、立ち上がった。「ジル、あなたもがんばるのよ」
「けれど、あんな突拍子もない計画、絶対うまく行きっこない気がします。大丈夫なんでしょうか」
「エドゥアールさまのお考えになることに、万に一つも間違いはないわ」
「やれやれ」
 一番星の見え始めた夕空に向かって、ジルはおおげさなため息を吐いた。


 子爵家領館での晩餐は、舌の肥えた賓客をうならせるほどの絶品だった。
 パンを浸して食べる、名物のチーズ・フォンデュ。大麦と野菜を入れて煮込んだスープ。どこの家の軒先にも吊るしてある牛の干し肉。寒い地域だけに、保存食はとても種類が豊富で味わい深い。
 チーズの種類は、牛、羊、山羊を全部合わせると、とても両手では数え切れない。見た目は素朴だが、都会では絶対に味わえない上質の田舎料理だった。
 エドゥアールはとてもよく食べ、よく笑い、回りも笑わせた。けれど、おやすみのキスもなく、さっさと自室に引き上げてしまったとき、ミルドレッドはちょっぴり失望した。
 不満な気持ちを抱えながら、旅の疲れで早めに寝台にもぐりこんだとたん、扉をノックする音が聞こえた。
「まあ、若さま」
 ジルの声が聞こえ、あわてて起き上がろうとしたとき、エドゥアールが入ってきた。
「今から、外に行けるかい?」
 窓越しの月の光の中で、彼は愛する人に手を伸べた。
「外? いったい何があるのです?」
「今から、湖で泳ぐ」
「泳ぐ!」
 秋も深まりつつある頃、このあたりの気温は、朝方には零度近くまで下がる。
 あわてて暖かい裏打ちのあるコートを羽織り、導かれてテラスから湖へ下る道を走った。湖岸の広っぱに、板を組んで作った急ごしらえの小屋ができていた。
 その中から、もくもくと盛大な煙があがっている。
「マキシムが教えてくれた。毎年秋になると、ここの使用人たちは、こうやって遊ぶんだそうだ」
 下働きの若者たちが、せっせと炉で焼いた石に湖から汲んできた水をかけると、ものすごい勢いで蒸気が充満する。
「そろそろ、支度ができました」
 執事のロランは、子爵一家が今まで見たこともないような快活な笑顔で言った。
「ようし」
 エドゥアールはためらいもなく上半身に着ているものを脱ぎ、下はひざ丈のショース一枚という姿になった。
「きゃーっ」
 ミルドレッドは、あわてて顔を覆う。「こ、こんな寒いのに。心臓が止まってしまいますわ。エドゥアールさま!」
「気持ちいいぞ。いっしょにやれば?」
「けっこうです!」
 数人の若者たちとともに小屋に入って、扉を閉める。七、八分経ったかと思える頃、突然もうもうたる湯気とともに扉が開き、歓声を上げて男たちは湖になだれこんだ。
「まったく、若旦那さまときたら」
 オリヴィエは、ミルドレッドの横でため息をついた。「こういう悪だくみにかけて、右に出る者はおりませんな」
「わたくし、使用人たちがこんな遊びをしていたなど、夢にも思いませんでした」
「そうでしょう。たった一日で館の者すべてと打ち解けてしまわれた。あの方は、人と和む天性の才をお持ちです」
 オリヴィエは何かを噛みしめているように、足元の地面に目を落とした。
「わたくしは二十年かかって、仕えるべき御方をようやく見定めることができました」
 月明かりが湖の波紋を宝石のように輝かせ、若者たちの歓声が遠くの森まで木霊する。


 セルジュの執務室の扉がいきなり開いた。
 プレンヌ公爵は、つかつかと息子の前に歩み寄ると、無言のまま机の上の書類やペン立てを両側に払い落した。
 セルジュは平然と、椅子の背を倒した。「何がおっしゃりたいのです?」
「よくも、わたしに恥をかかせてくれたな」
「ことばを返すようですが、ご自分の品性を貶めているのは、ご自身ではありませぬか?」
 ありったけの侮蔑を微笑にこめて、言葉を切った。
「おまえこそ、どの会合でも、良いもの笑いの種だ。共和主義者などとつるみおって、どこまで家名を愚弄すれば気がすむ」
「あの男は役に立つから利用しているだけだと、何度も申し上げております」
「リオニアの間者が王都をうろついておる。それも、おまえの手の内か」
「カルスタンの間者は、ずっと以前から、わがもの顔に歩いているでしょうに」
 セルジュは、蒼い目を苛立ちに燃え立たせた。
「一度でもあの大国の言いなりになれば、次に何が起きるか歴史が証明している。なぜ、そこまでカルスタンに肩入れするのです」
「おまえこそ、歴史が何もわかっておらんな」
 腰を降ろした公爵は、両腕をソファの背に翼のように伸ばした。
「45年前、わが父はカルスタンとの間に散発した紛争に、徹底抗戦をつらぬいた。戦乱が終わってみれば、かの大国の国力は全盛期の半分になっていた」
 その混乱のすきに乗じて、カルスタンの属国だった北方三国もリオニアも、カルスタンの支配を離れた。
 世に【ラクア戦役】と呼ばれる戦争である。フレデリク一世は、そのときの功績により【大王】という称号を得た。
「和平調停が結ばれたとき、兄は20歳、わたしは18歳だった。もしあの戦争が、あと三年長引いていれば、玉座についたのはわたしだったろう。父もその心づもりだったはずだ」
 「だが」と苦々しげに、エルヴェは続けた。「平和が訪れたとたん、大王は人が変わった。弱気になり、守りの姿勢に入った。対外強硬路線を唱えるわたしを退け、アルフォンス公爵家に養子にやった」
 それは、金髪の征服民族の中では古くから行われていた慣習だった。
 家督を受け継ぐ子以外の兄弟は養子に出され、二度と家名を名乗れなくなる。血を分けた兄弟による骨肉の争いを防ぐための知恵だ。
「わたしがどれほど絶望したか、わかるか。あの無能な兄を十人束にしても敵わぬほどの天分を持つわたしが、なにゆえ一介の公爵などに甘んじねばならぬ。もしわたしが王となり、この国を治めていれば、リオニアの愚かな市民革命など叩きつぶしてやれたものを」
 目に見えぬ何かを握りつぶすかのように、拳を固める。
「ファイエンタールの血筋を絶やし、わがアルフォンスが新しい王朝を開く。強く新しい国を築く。そのために、三十年かかってカルスタンを味方につけたのだ。利用できるものは何でも利用してやる」
 セルジュの背中を、ぞっと悪寒が駆け抜けた。
「あなたを退けたお父上と兄上に対する怨念と復讐」
 高貴な若者は、からからになった口を開いた。「父上のご生涯は、ただそれだけのためだったのですか」
「どのような高邁な事業も、元をたどれば、ただの私情よ」
「あなたは可哀そうなお人だ」
「セルジュ」
 薄闇のなかで、彼と同じ色の瞳が獣のように光った。次の瞬間、ぐいと手首をつかまれ、熱い息が顔にかかった。
「裏切ることはゆるさぬ。おまえはわたしが世に造り出した最高の人形」
 ふりほどくことができない。怒りと憎悪で全身を炙られる。生まれてはじめて、セルジュは恐怖に唇がわななくという体験をした。
「わたしからおまえを奪う者は、片っぱしから抹殺する――相手がたとえ国王であろうと」


 昇ってきた朝日を浴びた白銀の峰が、ふもとの村々に突然のまばゆい目覚めをもたらした。
 窓からさしこむ光の明るさにエドゥアールが目をこすっていると、執事のロランが、しぼりたての牛乳と焼きリンゴとじゃがいものパンケーキを運んできた。
「お嬢さまが、まもなく朝の御挨拶にお見えになります」
 朝食をたいらげた頃、ノックがあった。
「おはようございます。エドゥアールさま」
 ミルドレッドが、大きな毛皮を抱えて入ってきた。「そり遊びのときに着る防寒具をお持ちしました。今朝は冷え込んだので雪の具合もいいし、絶好のそり日和ですわ」
 返事がないので、顔を上げたミルドレッドは、エドゥアールがぽかんと口を開けたままなのに気づいた。
「そ、その格好」
「ああ、この地方の民俗衣装ですのよ」
 と言いながら、彼女は恥ずかしそうにスカートのすそをつまんで、くるりと回った。
 ちょうちん袖の白いブラウス、色とりどりの小花模様を刺繍した黒いドレスに縞模様のエプロン。薄茶色の髪を三つ編みに垂らしたミルドレッドは、いつもの大人びたドレスのときと違い、まだほんの、あどけない少女のように見えた。
「……凶悪すぎる」
 エドゥアールは両手で顔を覆って、呼吸を落ちつけようと努めた。
「結婚したら、ひとつ約束してほしい」
「なんでしょうか」
「その衣装は、公の場所では絶対に着ないでくれ。言いよる男どもと決闘していたら、いくつ命があっても足りない」
 その日は、恋人たちにとって、ポルタンス旅行のあと久々に訪れた休日となった。
 そり遊び、山小屋での昼食。午後は湖に小舟を浮かべて、凪いだ美しい湖面の静寂を、心ゆくまで楽しんだ。
 これから冒す危険を考えれば、呑気すぎるほどの贅沢な時間だった。
 夕方になって、伯爵家の馬車は帰途へ出発した。
 途中の村で一夜を明かし、翌日ふたたびフォーレ領を通った馬車は、しばらく行くと街道をそれた。
 すでに夜になっている。こじんまりとした石造りの館が見えてきた。
 森の中に馬車を隠すと、門衛の立つ門を避けて裏庭に回った。
 遅咲きのハーブが強く香っている。鍵のはずれていた木戸をくぐり、館の半地下の裏口から入った。
 ゆらゆらとランプの炎が揺れる地下のワインセラーに、金髪の女性と、彼女に瓜二つの娘が不安げに座っていた。
 その傍らには、低い天井の下で身を屈めて立つ近侍の騎士ユベール。
「マリオン、オルガ!」
 抑えきれぬ叫び声をもらしながら、オリヴィエが走り寄った。
「お父さま」
 父と娘は、十年ぶりの再会にひしと抱き合い、おずおずと孫もかたわらから、その抱擁に加わった。
「仔細は手紙に記したとおりだ。どうだろう。ラヴァレ伯領に来てはくれぬか」
「まいります。お父さま」
 きらきらと涙の粒をこぼしながら、マリオンは答えた。「もうわたくし、限界でしたの。公爵さまはこの数年、お見えにもなってくださいません。いくら文を送っても、お返事の一通さえ」
「すまぬ、わたしの一存で。だが、ここにおわすラヴァレ伯爵は信頼するに足る御方。おまえたちの運命を預かってくだされよう」
「フォーレ子爵夫人」
 エドゥアールは、片膝をついてマリオンを正式な敬称で呼んだ。
「住み慣れた地を離れるのはおつらいと思いますが、わが領で、せいいっぱいのおもてなしをいたします。どうぞお心を安んじられますよう」
「ありがとう存じます。伯爵さま」
 母娘は頭を垂れた。「よろしくお願いいたします」
「準備はできております」
 ユベールは、落ち着いたことばで一同を促した。「どうぞ、お静かに。そしてすみやかな行動を」


 門衛は、館の玄関から令夫人が呼ぶ声を聞きつけた。
「はい。奥方さま」
「庭の東側にうなり声がするのよ。オオカミが入りこんでいるのではなくて?」
「そんなはずは……承知しました。見てまいります」
 門衛は、庭の東側の茂みを槍で突き、異常がないことを確かめてから、正面に戻り、扉から小窓をのぞいた。
 令主人と令嬢は、いつものとおり暖炉のそばで刺繍をしている。
 門衛は、その夜もなにごともなく任務を全うした。


 フォーレ領の南検問所の衛兵たちは明け方に、数日前に通過した谷ユリの紋章の馬車がやって来るのをみとめた。
「また、よろしく頼む」
 御者台の家令が、通行証を示す。
 駕籠の中から、眠そうな会話が聞こえてきた。
「最高級のアカシアの蜂蜜が手に入ってよかったですわね、エドゥアールさま」
「ああ」
「あのコック長のしたり顔が目に見えますよ、まったく。披露宴で最高の御馳走を作れなかったら、さっさと首になさいませ」
 暗い内部を覗くと、行きと同じ四人――黒髪の少年、羽根帽子をかぶった騎士、ボンネットをかぶった子爵令嬢とその侍女が見えたので、衛兵は窓から離れた。荷物を調べていたもうひとりもうなずいたので、「行ってよし」と御者に顎をしゃくった。もちろん、小金を寄こせという合図だ。
 銀貨二枚を得た衛兵たちは、走り出した馬車を満足げに見送った。


「もう大丈夫ですわ」
 ミルドレッドのことばを合図に、オルガが、頭から黒髪のかつらをはずした。
 母親のマリオンは、羽根帽子と騎士装束を脱ぐ。
「やっぱり正解でしたわ。わたしがユベールさま役でなくて」
 メイドのジルは、ふくよかな胸を張って言った。「絶対、上着のボタンがはまりませんから」
「でも、伯爵さまと騎士さまは大丈夫なんでしょうか」
 不安が抜けきれない笑顔のマリオンに、ミルドレッドはにっこりと笑みを返した。
「あの方たちなら心配ありませんわ。ちゃんと自力でお逃げになれますから」
「けれど、けれど。あの格好――」
「やめて、ジル。思い出させないで」
 馬車の中は、四人の女の忍び笑いが満ちた。


 門衛がゆっくりと庭を見回っている気配がする。
「そろそろ頃合いです」
 刺繍の木枠を置いて、ユベールが言った。
「馬車は領内を出たころだな」
 向かいに座っていたエドゥアールが答えた。
 ふたりの目がふと合ってしまい、あわててそらされる。
 ユベールは、マリオンのガウンと白いショールを羽織り、金髪を結ってレースのナイトキャップを目深にかぶっている。エドゥアールは金髪のかつらに、同じくオルガの薄桃色のネグリジェを着ていた。
「おまえが、それほど女装が似合うとは思わなかったぞ。ユベール」
「若さまこそ、女としてお育ちになるべきでした」
 むなしい応酬が終わると、騎士はランプを手に立ちあがる。「裏手の森に馬と着替えが隠してあります。森の獣道を通って地境を突破しますので、お覚悟ください」
「早く出よう。腹の皮がよじれそうで、もう限界だ」
「……わたしもです」
 寝室の扉を閉めると、ランプを吹き消し、窓を一気に押し上げる。
 ふたつの影はたちまち、凍えるような闇の中へと消えた。





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