伯爵家の秘密/番外編


7. 伯爵夫人の涙



(3)

 枯れ色の草地が広がる峠には、傾き始めた陽にアザミが照り映えて、紅玉のように輝いて揺れていた。
 ラヴァレの谷の底は、すでにこの時間は夕闇に覆われ始めているだろう。領館では、まもなく灯を入れる時刻だ。
 ジョエルは歓声を上げながら、丈の長い草むらでトマとの追いかけっこに、いつ果てるともなく興じている。昨日の宵から続いている馬車の旅に、すっかり飽き飽きしていたのだ。
「あんた。もうそろそろ」
 侍女のジルが真っ先に痺れを切らした。夫に向かってよく通る声で怒鳴るが、トマはのんびりと手を振り返すだけだ。
「まったく、呑気なんだから」と、腰に手を当ててジルは頬をふくらませた。「奥方さま、出発しましょう。急がないと、ふもとに着く前に日が落ちてしまいますよ」
「そうね」
 ミルドレッドは、トマの腕にぶらさがって遊んでいる息子を見つめながら、気のなさそうに答える。
「わたしたちがいないことに若旦那さまが気づかれるとすれば、昼近いはず。すぐに騎馬の追手を差し向けなさるとしても、今ならまだ追いつかれませんわ」
「ジル、あのね」
 伯爵夫人は、ほうっと吐息をつく。「もう、このへんで止めにしない?」
「何をでございますか」
「もともと気が進まなかったの。ジョエルも、この野原が気に入ったみたいだし、今夜は、ここの山小舎でゆっくり過ごして、明日は谷に帰りましょう」
「王都にいらっしゃらないおつもりですか」
 ジルは悲鳴をあげた。「公爵令嬢に居館を乗っ取られているんですよ。我が物顔で、奥方さまの寝台で眠り、奥方さまの鏡台の前に座って髪を梳かしているだなんて……わたし、考えただけでも腹わたが煮えくり返って、胃がどうにかなりそうです!」
「レティシアさまは、そういう方ではないわ」
「奥方さま、ご存じなんですか」
「私がまだ王宮の舞踏会によく出ていたころ、お会いしたことがあるの。とても可愛らしい方よ。あのときは社交界にデビューなさったばかりで、今は――十七歳くらいにおなりかしら」
「十七歳! 若旦那さまときたら、そんな色気もない小娘に手を出すなんて」
「ジル。私が嫁いだのも十七よ」
「奥方さまは、別格です!」
 にぎやかな口論に気づいたのか、馬車のブレーキに入り込んだ砂を取り除いていた御者のランドも、それを手伝っていた騎士ジョルジュも、テラスのテーブルでお茶の片付けをしていたソニアも、集まってきた。
 もともと、秘密のうちに王都に行くという今度の計画の主謀者は、奥方つきの侍女ソニアとジルのふたりだった。それにトマをはじめとする男連中が、否応なしに巻き込まれた恰好だ。
 伯爵夫人は一同を見渡して、穏やかに口を開いた。
「なんだか、わたくし、とんでもない思い違いをしていたような気がするの」
「とおっしゃいますと?」
 ジョルジュが眉根を寄せた。
「今度のことには、別の理由があるのではないかしら。今になって思えば、エドゥアールさまは何か話し出そうとしていらしたのに、わたくしは遮って聞こうともしなかった」
「だって、現に居館には、公爵ご令嬢がお住まいになっておられるんでしょう。いったいどういう別の理由があるというんです」
 ソニアが目に涙をためて、激しい口調で抗議する。内気な性格の彼女にしては、珍しいことだ。
「わからないわ。でも」
 ミルドレッドは、原を駆けてくる最愛の子に視線を移し、微笑んだ。
「ここへ来て、ようやく思い出したの。エドゥアールさまは決して、そういうことをなさるお方ではないと」
 お付きの者たちは、静まり返った。
「ははうえー」
 ジョエルが息せき切って、ミルドレッドの腕に飛び込んできた。「大きなバッタいたよ。びょーんて飛ぶんだよ。ぴょーん」
「あらそう」
 見守っている者たちの間から、小さな笑いが漏れた。きらきらと目を輝かせている金髪の少年は、まるでエドゥアールを小さくして、そこに置いたかのように見えたのだ。
「わたしも、そう思います」
 ジョルジュが腰の剣のさやをぎゅっと握りながら、久しぶりの笑みを見せた。「伯爵さまは決して、人の心の痛みがわからない方ではありません」
「確かにそうだ」
 ランドがぶっきらぼうに同意した。もともと、今度の強行軍には内心へきえきしていたのだ。
「そりゃそうだけど……男ってのは、どんな人格者でも女となると別で――」
 ジルが口ごもると、亭主のトマが憤慨したように言う。「なんだよ、おまえは俺のことも信じてないのか」
「あ、あんたみたいな醜男、女のほうが寄ってくるもんか」
「へん、じゃあ寄ってきたおまえは、女じゃないんだな」
 笑いが起こり、あたりに、ほっとしたような温かい空気が流れた。
「明日の朝一番に、谷に引き返します。今夜の宿泊の手配をしてちょうだい」
「はい、奥方さま」
 使用人たちが準備のために散って行ったあと、伯爵夫人は息子と手をつなぎながら、草原を見渡した。
 夕焼けに染まる草原に、六年前の記憶がよみがえってくる。
 あのときも、わずかな誤解がもとで長いいさかいのときを過ごしていた。伯領に招かれて、ようやくエドゥアールと互いに素直な思いを交わし合ったあと、馬車で帰途につく途中、ここを通ったのだ。
 春まっさかりで、野原はムスカリの青紫で一面覆われていた。ふたりは手をつないで、この時が永遠に続けばよいと願った。
 あのときと今回は、同じではないだろうか。小さな溝と小さな誤解が積み重なって、意地を張り合う結果になってしまう。長く悲しい別離の冬を招いてしまう。
「ちちうえ、来ないの? あいたいよ」
「ええ。もうすぐ会えますよ」
 その言葉が呼び水になったように、あとからあとから涙を連れてくる。
 ミルドレッドは屈みこんで、ジョエルに頬ずりした。「……母さまも、とても会いたいの」
 遠くでひづめの音がする。峠を登ってくるにしては、あまりに性急な疾駆。いや、ほとんど暴走とでも言ってよいような。
 突然の予感に、ミルドレッドの胸が騒いだ。高鳴る鼓動をなだめながら、伸び上がるようにして見つめていると、ラヴァレ領へと続く坂道に突如、土煙をあげる人馬の姿が見えてきた。
「あなた……」
 口の端に泡を吹いている馬から転がるように降りたエドゥアールは、まるで自分自身が走ってきたかと思われるほど息を切らしていた。髪は乱れ、肌は埃で黒ずみ、目は乾いた風と日光にさらされ続けたために、開けていることもつらいらしい。
「ランド……こいつを頼む」
 疲れ切った馬の手綱を御者に託す。谷の馬ではなかった。途中の村で替えてきたのだろう――ことによると、何度も。そして、乗り手本人は全く休みを取っていないのだろう。
「あなた」
 今にも崩れ落ちそうな夫に駆け寄るより先に、彼のほうがミルドレッドに近づいてきて、ふわりと抱きしめた。
 その姿勢のまま、ひとことも口を利かないので、夫人は彼が気絶しているのではないかと不安になった。
「……エドゥアールさま。だいじょうぶですか」
「だいじょうぶ。きみがいたから」
 彼の乾ききった唇が、そっとミルドレッドの耳たぶに押しつけられる。
「きみを見失うようなことがあったら、いつ心臓が止まってもかまわないと思った」
「あなたったら」
 ミルドレッドは手を伸ばし、彼のばさばさに乱れた髪を指でゆっくりと梳いた。
「すぐに谷へ帰るつもりでいましたのよ。ジョエルに、この峠の景色を見せたらすぐに」
「そうか」
「……覚えています?」
「ああ。ここを通るたびに思い出してたよ」
「一生をともにすると、ふたりで誓いました。そのときのことを思いめぐらしていたら、うつうつと悩んでいた気持ちが、嘘のように晴れましたわ。迷うことなど、何もなかったのです」
 エドゥアールは彼女を腕から離し、妻の美しく透き通った薄茶色の瞳をまっすぐに覗き込んだ。
「俺のことを赦してくれるのか」
「赦すも何も、まだ本当のことすら聞いていませんわ」
「やっぱり俺が間違っていた。レティシアと形だけの結婚をして、それで秩序が守られるなら、この国の大臣としてそうすべきかと不覚にも迷ってしまった……すまない」
「……いいえ、あなた」
「結婚はしない」
 ミルドレッドはあわてて首を振った。「でも、それではレティシアさまが」
「なんとか方法を考えるよ」
「でも、不義の子を身ごもっているといったん白い眼で見られたら、もう貴族社会で生きていけなくなります」
 エドゥアールは、それを聞いて驚愕の目を見開いた。
「なんで、きみがそれを知ってるんだ!」
「……え」
「レティシアが身重なこと、誰にも知られないように固く口止めしていたはずなのに」
「ヴェロニク叔母さまが王宮で仕入れてきた噂なのです。一般にはまだ広がっていないと思いますが」
 絶句した伯爵は、崩れるように地面に座り込んだ。
「まさか、きみは、それが俺の子だと思っていた?」
「そ、そう疑ったときもありました」
 「なんてこった」とうめきながら頭を抱えてしまった夫のそばに、ミルドレッドもへたへたと力を失ってひざまずいた。


 春には、花畑の景色目当ての客でにぎわう峠の山小舎も、この季節の泊り客はまばらだ。
 クレール平原とラロッシュ平原を結ぶトンネルが開通すれば、その客もさらに少なくなることが予想されるが、それは少なくとも五年以上先の話だ。
 クライン王国じゅうで今、大々的に道路網が整備されつつある。山岳地方における数十に及ぶトンネル建設計画は、住民の窮迫の度合いによって公平に順番が決定されている。国務大臣であるラヴァレ伯領に通ずる道路を優先しようという声もあったが、伯爵はそういう特権を固辞した。
 湯を使い、こざっぱりした服に着替えて戻ってきたエドゥアールは、暖炉のそばの長椅子に妻とともに腰を下ろした。山小舎で出された食事を二人前きれいに平らげ、少し元気を取り戻したものの、激しい疲労は緩慢な動作に表われている。
「すまない。こんなことなら、もっと早く話しておけばよかった」
「いいえ、お話を聞こうとしなかったのは、私です」
「レティシアのお腹の子の父親は、俺じゃない」
「はい。わかっております」
 ふたりは指をからませ、微笑みを交わした。長い回り道だった。ようやく彼らは最初の出発点に戻ってきたのだ。
「初めから話そう」


「くそう。ちくしょう。何でこうなるんだよ」
 やんごとなき血をひくエドゥアール・ファイエンタール・ド・ラヴァレ伯爵は、王族とは思えぬ罵りを連発しながら、執務机に倒れこんで、書類の束をにらんでいた。
「エティエンヌ。コーヒーだ。うんと濃くて苦いの」
「もう三杯目ですよ。胃がただれて、溶けてしまいますよ」
 扉の前に立っていた居館執事は、お盆の陰に隠れながら小さく抗議した。王牢の看守だったころと比べれば、だいぶましになったが、それでも顔の青白さは今でも幽霊のようだと評される。
「コーヒーでも飲んでないと、瞼の上と下がくっつきそうなんだ。今日じゅうに、こいつをやっつけなきゃ、次の貴族会議に間に合わねえ」
「何をそんなにお悩みなのですか」
 エドゥアールが手にしているのは、クライン陸軍の監査報告書だった。毎年の型どおりの報告の中に、ほんのわずかの綻びを見つけた。会計院に再調査を命じ、部下たちに一枚一枚の領収書の計算をやりなおさせても、結果は同じ。
「ひとつひとつの額はたいしたことないけど、不明瞭な金の流れがあるんだ。たとえば、アルバキアの馬具工房に『あぶみを千個』発注して、そのあと九百個が取り消されている。帳簿上では返金処理もちゃんとされているんだが」
「はあ。何がいけないのですか」
「『あぶみが千個』だぞ。ふつう常識で購入する数か?」
「はあ、さっぱりわかりません。陸軍のことならば、ティボー老公にお聞きになってはどうでしょう」
 大臣会議に連なるユルバン・ド・ティボー公爵は、前の陸軍元帥だ。
「あの爺さんが語り出すと、やたら長い。おまけに金のことはさっぱりだと本人も言ってた」
「旦那さま」
 背中の曲がった老人が入ってきた。ジャン=ジャックはエドゥアールが王牢に入っていたときに彼の世話をしていた下男だ。「お客さまが、いらしたよ」
「誰?」
「ティボー公爵さまだあ」
「ユルバン爺さん?」
「いや、息子さんのほうで」
 まさか、この監査報告のことで来たのだろうか。
 エドゥアールの一瞬の疑惑も、次のジャン=ジャックのことばで砕かれた。「きれいなご令嬢もいっしょだあ」
 丁重に通すように伝え、書類を鍵のかかる引出しにしまうと、すぐに応接間に向かった。
 扉を開け、中の様子を見渡して、彼は戸惑った。
 濃紫色の元帥の制服を着たピエール・ド・ティボー公爵は、険しいというよりは、ほとんど怒りに近い表情をしている。
 対照的に、令嬢レティシアは侍女に片脇を支えられ、顔は蒼く、今にも消えていきそうなほど弱々しい。
「お久しぶりです、元帥閣下。それにご令嬢」
「突然の訪問となり、申し訳ない。ラヴァレ伯」
 息せき切って、公爵が話し始めた。「どうしても急ぎ、確かめたいことがある」
「なんでしょう」
「ここにいる娘のレティシアが身ごもっている。医者の見立てでは、三か月になったばかりだ。その子の父親が貴殿であるというのは本当か」
 エドゥアールは、ぽかんと口を開けた。
「ええと」
 何かの余興だろうか。しかし、父親のユルバンならともかく、息子のほうは朴念仁もいいところで、とても冗談をわざわざ言いに来る性格とは思えない。
「それは……どなたが言ってるんです?」
「しらばくれおって。娘が! 本人が申しておるのだ!」
 そのとき、レティシアの体が揺らいだ。
「お嬢さま!」
 侍女の悲鳴が上がる。絨毯の上に倒れ伏した身重の令嬢をめぐって、ラヴァレ伯爵家の居館は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。


「すぐに、フロベール医師を呼んで診てもらった。出血があり、流産の危険がある。絶対安静だということで、レティシアは、そのまま客間の寝台に寝かされた。それから二週間経って容体も安定したものの、慎重を期して動かせないんだ」
「それで」
 ミルドレッドはお茶で喉をうるおすと、ほうっと息をついた。「それで、それ以来、レティシアさまは居館に『お住まい』というわけなのですね」
「自宅に帰っても、回りから父親は誰かと責められるだけだ。心の休まる暇などないと思う。それならいっそ、うちにいたほうがいいと思った」
「なぜ、レティシアさまはそんな嘘をおつきになったのでしょう」
「うーん」
 エドゥアールは、乾きかけた金色の髪の中に手をつっこんで、ばさばさに乱した。
「俺もセルジュも、大臣会議の面々も、ときどきティボー老公から屋敷に食事に招かれていた。その中で俺が一番与しやすく、利用しやすいと思われたんだろう」
(エドゥアールさまは、本当にご自分のことがおわかりになっていらっしゃらないのだわ)
 ミルドレッドは心の中で嘆息する。
 悪をたくらむ者や、やましい心を抱えている者にとっては、これほど恐ろしい男はいない。けれど、弱っている者、助けを求める者にとっては、彼の明るさ、やさしさは、暗闇にさしこむ陽の光のように見えるのだ。
 それがどれほど世の女性たちをひきつけているか、夫にはまったく自覚がない。
 考えすぎないようにしてはいても、つい事あるごとに妻として、やきもきしてしまうのだ。きっとソニアも、夫ユベールに対して、いつもそういう恐れを抱いているのだろう。だから、あれほど激怒してしまったのかもしれない。
 かわいそうなソニア。先ほどジョエルを連れて部屋を出て行くときも、泣いて謝っていたけれど。
「父公には言葉をつくして弁明したが、困惑する一方だった」
「そうでしょうね。ご令嬢が突然身ごもってしまうなんて、父親にとって、もっとも恐ろしいことです」
 ミルドレッドは、自分自身の父親を思い出して、胸が痛んだ。「お相手についての心当たりはあるのですか」
「ティボー家の門番や使用人たちにも聞いてみたんだが、何も知らないの一点張りだ」
「貴族の令嬢が男性との密会など、使用人の助けなしにできることではありませんわ。きっと固く口止めされているのでしょう」
「可能性としては、屋敷の使用人、家庭教師や出入りの商人、伝令に行き来する陸軍の将校――そんなとこだろうけどな」
 エドゥアールは、暖炉を見つめながら、目を細めた。「このままでは、レティシアの産む子は、父親のない子という烙印を押されてしまう」
 ミルドレッドは、そのことばに身震いをした。
 伯爵家が援助を続けている聖マルディラ孤児院を思い出したのだ。捨て子、貧しい家庭の子どもに交じって、貴族の娘がひそかに婚外で産み落とした子どもも幾人かいた。
 孤児院に預けられるなら、まだ幸せだ。中には、使用人たちが先回りして、産んだ本人には死産だったということにし、生まれた子どもを森の中に埋めることさえあるという。
 その話を聞いたときの、エドゥアールの怒りと嘆きがミルドレッドには痛いほどわかった。彼自身が、生まれたときに死体とすり替えられて逃げ延びるという数奇な運命をたどってきたからだ。
 ミルドレッドは、夫の手をそっと握った。
「あなたは、ご自分に委ねられた小さな生命を守り抜こうと決意なさったのですね」
「それだけじゃない。父公に、レティシアをくれぐれも頼むと、拝むようにして乞われてしまった。令嬢が素性の知れない男の子どもを産むという醜聞が出回れば、公爵が責任を取って元帥を辞任する事態にもなりかねない。それに比べたら、婚外といえどファイエンタールの胤を宿したことにしたほうが、はるかに言い訳は立つ。陸軍の秩序を考えれば、そのほうがよいのかもしれない。けれど――」
 エドゥアールは、苦しげに頭を振った。「きみの気持ちを考えれば、その場で断らなければいけない話だった」
「いいえ。あなたの窮地を救ってくださった大恩あるティボー公爵家の頼みとなれば、無碍に断るわけにはいきません」
 そして、心をこめて付け加える。「あなたは大臣として、まずこの国のことを第一にお考えになって。わたくしのことなどで、悩まないでください」
 伯爵夫人は、花のように微笑んだ。涙に濡れていた睫毛は、今は静かな喜びに打ち震えて、愛する人を見つめる。
「わたくしが愚かでしたわ。もうあなたの真実を疑うことはいたしません。どうぞ、お心にあることをなさってくださいませ」
 エドゥアールは彼女の手の甲にキスを落とした。「言っただろう。公爵令嬢と結婚はしない」
「でも――」
「もう決めた。それでは結局、見えない敵の思う壺にはまるだけという気がするんだ」
「敵?」
 エドゥアールはうなずいた。「陸軍の不明金が会計監査で明らかになったとき、狙いすましたように今度の一件が起きた。あまりにも、頃合いがよすぎると思わないか」
「そう言えば、そうです」
「何か、裏がある。ことによると、ティボー元帥を失脚させたい何者かの計略なのか――」
「まさか。それでは、レティシアさまはその一味に加担しているということなのですか」
「確証はない。敵の正体も一向に見えてこない。あらゆる方面からユベールに調べさせているところだが」
「それがわかるまで、うかつに動けないということなのですね」
 彼は、妻の肩にそっと頭をもたせかけた。「親父にも、はっきりするまで内緒にしていてほしい。冬にさしかかる季節は、ただでさえ体調を崩すときなのに、古巣の陸軍にかかわる難事で心を煩わせたくない」
「わかりました」
 ミルドレッドは、夫のぬくもりを感じながら、しばらく考えにふけった。
「ねえ、あなた。決めました。わたくし、このまま王都にまいります。レティシアさまに、わたくしから直接お話をうかがいます。だいじょうぶ、細心の注意をはらいますから。殿方よりは女のわたくしのほうが、ずっとうまくやれると思いますわ」
 返事はなかった。エドゥアールは彼女によりかかった姿勢のまま、久方ぶりの深い眠りに落ちていた。



 


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