8. 伯爵の謀反
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その日を境に、エドゥアール・ド・ラヴァレ伯爵の姿は消えた。
警察隊と共和革命派の激突を、おのれの身体と炎のような恫喝をもって阻止した彼は、混乱に乗じて、いずこかへと歩み去った。
「隊長、突撃命令は?」
「む、無理だ。王甥さまが行方不明なのだぞ。万が一にでも奴らの手に落ちていてはどうする」
そのまま双方はにらみ合いと威嚇射撃を続けていたが、数日後のある朝、警察隊員たちは、バリケードが完全に沈黙しているのに気づいた。夜のあいだもときおり銃声が響いていたのに、それが全くない。
偵察隊が行ってみると、バリケードの中はもぬけのからだった。
籠城していたはずの千人近くの市民は人っ子ひとりいなくなっていた。バリケードを崩すと、石畳の一部がはがれ、地面から下水道に達する穴が掘られていた。
「エドゥアールが、やつらに与しているだと?」
「さようでございます」
一週間が経ち、ポミエ警察長官が、リンド侯爵のあまりの剣幕に蒼白になりながら、調査の結果を報告する。
「ジョセフ・ボードリエという者が発行する急進派系の新聞に、先日ラヴァレ伯爵の署名入りの記事が載りました」
いわく、平民会は穏健派、急進派の垣根を越えて、大同団結すべし。ブルジョアと無産市民のあいだに横たわる溝を越えて、ともに貴族打倒のために戦うべし。
「貴族……打倒」
つぶやきながら、セルジュはポミエの持ち込んだ新聞をぐしゃりと折り曲げた。
「ギロンヌ僧院を拠点とする共和急進派のクラブに、鶯色のコートを着た男が出入りするのを見たという報告もあります。さらにあちこちの広場で、たくさんの群集を集めて演説を……」
だが、警察官が駆けつける前に、人々は蜘蛛の子を散らすようにいなくなり、伯爵の姿も消えているのだという。
「もうよい」
セルジュは、いまいましげに丸めた新聞を床に放り投げた。「市場のほうはどうなっている」
「は……それが、今朝もほとんど入荷せず」
王都ナヴィルの巨大な胃袋を支える公式市場に、農産物を持ち込む商人が激減したのだ。
市場へと続く道路が革命派によって封鎖されてしまい、荷馬車は彼らの主催する自由市場に誘導されるのだという。農産物は、貧しい市民たちに格安の値で売られている。しかし一方で貴族は、明日食べるパンも満足に手に入れられない。わずかな小麦は、今や三十倍という闇値で売買され、それでも奪い合いが起きている。
「警察隊は何をやっている。道路の封鎖を解くくらい、訳なかろう」
「それが……」
ポミエは、青黒い唇を悔しげに噛みしめた。「警察の中に内通者がいるらしく」
「なんだと?」
網の目のようにはりめぐらされた首都の道路の、どこそこが封鎖されているとの報を受けて、警察が現場に急行しても、すでに主謀者たちの姿はない。
ニセの情報がもたらされるのか。それとも、初めからこちらの動きが筒抜けなのか。
警察隊員たちは、そのほとんどが平民の身分である。ひそかに革命派を支持する者が内部にひそんでいても、不思議ではない。いずれにせよ、彼らの背後に卓越した指揮官がいるのは間違いないだろう。
「エドゥアールのやつ!」
悪魔のような男を敵に回した。あの男がいるところ、必ず人が集まる。敵をさえも和らがせ、味方につけてしまう。
「陸軍の一師団を王都に展開させろ」
警察長官は、沼の魚のように口をぱくぱく開けた。「王都に軍が出動することは、法令で禁じられています」
「かまわん。これは、緊急時における特例措置だ」
警察隊と違って、陸軍将校は貴族が大半を占める。よもや共和主義者に懐柔されるようなことにはなるまい。
「王都の治安を回復し、混乱を平定する。同時に主謀者を一網打尽にする」
「ラヴァレ伯爵はどうなさいます」
「無論、何をおいても真っ先に捕獲、いや、保護しろ。多少、荒っぽい手を使ってもかまわん」
ポミエが一礼して出て行ったあと、セルジュは暖炉の前に行き、持っていた新聞を火の中に放り込んだ。めらめらと燃え上がる火を映しながら、彼の瞳は氷のように凍てついた色を帯びていた。
「わたしを裏切ることは、決して許さぬ……エドゥアール」
下水の饐えた匂いが漂う裏町を、黒ずくめの騎士が歩いていた。
あたりを素早く見回し、崩れかけたレンガ造りのアパルトマンのひとつを選んで、黒い鉄柵の扉を開けて入る。
家具やごみが乱雑に積まれている階段を三階まで上がると、突き当たりの錆びた真鍮のノブを回した。
天井の低い屋根裏部屋は、粗末な寝台と古びた机だけでせいいっぱいの広さだった。埃だらけの窓から漏れ入る薄明かりと手元のランプの光をたよりに、ひとりの男が一心に書き物をしていた。
鶯色のコートは薄汚れて、あちこちに破れがある。だが、その背中に侘しさはなく、ただ静かな力強さに満ちていた。
「若さま。捜しました」
声をかけた近侍の騎士に振り向くでもなく、伯爵はただこう言った。
「ああ、悪いな。今ちょっと手が離せない。そこらへんに座っといてくれ」
羽根ペンは、よどみなく動き続ける。ユベールは命じられたとおりに、寝台に腰かけた。
布団に乱れはなく、ひやりと冷たかった。この部屋の住人は、もう何日も寝台で寝ていないのだろうとうかがい知れる。
ようやくペンをことりと置いて、エドゥアールは背をそらし、深く息を吐いた。
「明日の新聞に載せることになってる原稿だ。ボードリエに朝からせっつかれているんだ」
振り向いて笑う。うっすらと金色の髭が生えている頬の線の堅さに、ユベールは眉をひそめた。
「きちんと食べておられるのですか」
「まあな。立ってパンをかじるだけのときもあるけど」
「そのひどいお姿をご覧になれば、奥方さまは泣かれましょうな」
騎士は持参した包みを寝台の上に置いた。「冬用のお召し換えの服と、奥方さまからの手紙です」
エドゥアールはそれを手に取ることもなく、窓の外に目を移した。「みんな、どうしてる」
「混乱を避け、ラヴァレの谷に移られました。大伯爵さまも、寝込まれることなくお健やかにお過ごしです」
「そうか」
「ご無事で帰られるようと、奥方さまとジョエルさまは暇さえあれば、礼拝堂で祈りに行かれます」
感情を見せない主人の背中に、ユベールは淡々と語りかける。
「王都には、あなたがもうできることは何もありません。いつまで、こんな暮らしをなさるつもりですか。一度、谷にお帰りください。新聞への寄稿なら、国のどこからでもできるでしょう。使用人も領民たちも、ただひたすら、あなたの御身を案じています」
「悪いな、ユベール」
エドゥアールはうめくように答えただけだった。「俺には時間がないんだ」
「時間?」
意味が取れなかった騎士は、眉をひそめた。
「王宮はどうなってる」
「もうお聞き及びでしょうが、あなたは先週、大臣を罷免されました。国王陛下は、なんとか事態を鎮めようと手を尽くしてしておられましたが、貴族会議の決議を受けて、先週ついに署名なさいました」
「そうだろうな」
「食糧の略奪を指揮しておられるのは、あなただと断じられています。本当ですか」
エドゥアールは窓に顔を据えたまま、後ろ手で原稿を渡した。「そこに書いてあるとおりだ。この王都ナヴィルで売買される食糧のおよそ八割が、この街の二割を占める貴族とその関係者で消費される。残りの二割の食糧で、八割の平民が飢えを満たしている」
「誰よりも法を重んじ、暴力に反対しておられたあなたが、こんな悪事に手を染めるなど」
「国からの配給物資はもう尽きる。今やらなければ、春までに大勢の餓死者が出る。身分が違うというだけで、生まれながらに飢えと貧しさが定められている、こんな悲劇は今すぐに終わらなければならない」
「だからと言って!」
ユベールは、なじるように激しい言葉を浴びせた。「ジャケたち急進派が何と言っているかご存知でしょう。エドゥアール・ド・ラヴァレ伯爵を玉座につけ、王政と貴族制度を廃し、共和政国家を樹立しようと叫んでいる。このままでは、あなたは国家転覆を企む謀反人どもの主謀者になってしまう」
エドゥアールは立ち上がり、窓に背を向けた。その瞳は海の深淵を覗くがごとく、深い闇色に染まっていた。
「まさか、あなたは……」
ユベールは息を呑んだ。「そうなのですか。だから、時間がないと?」
返事のかわりに、ラヴァレ伯爵は急に、にっこりといつもの快活な笑みを見せた。そして、壁にかかっていたみすぼらしいマントを手に取った。
「出ようか。そろそろ、この隠れ家もセルジュの密偵に嗅ぎつけられる頃だ」
「くそ」
またエドゥアールの居所をつかみ損ねたという密偵たちからの報告が入ったのだ。あと一歩というところでいつも、するりと逃げられてしまう。
セルジュは指で眉間をもむ。疲れていた。もう何日も、熟睡したことがない。
妻のヒルデガルトと愛娘のニコルをリンド侯爵領に帰してしまったのも、心が弱る原因だった。
彼らだけではなく、王都からは続々と貴族が逃げ出しつつあった。ひとつには、食糧が手に入らないためだが、それよりも、いつ民衆が襲いかかってくるかわからないという恐怖ゆえだ。執事や料理人と言った長年仕える使用人たちでさえ信じられない。彼らもいつ共和主義に染まるかわからない。それほど、巷では革命の機運が高まっていた。
もっとも、領地に帰ったとて、飢えた民衆が待ち受けていることにはかわりない。ギロンヌクラブを中心とする急進革命派たちが、地方でも蜂起の準備を進めているのだ。
パニックに陥った貴族の中には、反共和主義のカルスタンに亡命する準備を始めている貴族も大勢いるという。
貴族の亡命が始まれば、ことは国内の問題にとどまらなくなる。カルスタンの介入という最悪の事態は、なんとしてでも避けなければならない。
セルジュは、執務室のソファに体を投げ出すようにして横たわった。
エドゥアールが好んでいたソファだ。ここに座って、彼らは他愛ない冗談を交わしたり、夜が更けるのも忘れて熱心に議論を戦わせたりしたものだ。
あの至福の時は、もう戻ってこないのか。
奴こそ、家族が何よりも大切だと唱えた張本人のはずだ。わたしやフレデリク国王までとうとう感化されてしまったほどに。ラヴァレ領で待つ家族に会えなくなってもよいというのか。伯爵という身分を捨てるつもりか。
「もう、限界だ」
セルジュはつぶやくとソファから跳ね起き、部屋を出た。
侍従長のギョームに訪いを入れ、王の庭に入る。
「リンド侯爵さま」
ギョームは懸念を宿した眼差しを、セルジュに向けた。「今度の一件で、陛下はすっかり弱りきっておられます。どうぞお手やわらかに」
あずまやの寝椅子で寝ころぶフレデリク三世の姿を、久しぶりに見た。
王も、ここでエドゥアールと過ごした懐かしい日々を回想しているのだろうか。
「陛下」
拝跪して立ち上がると、セルジュは平板な声で言った。「侍従長の気づかいに応えられず、心苦しいのですが、どうしてもお耳に入れたきことがあります」
「ラヴァレ伯のことか」
「手を尽くしての捜索にもかかわらず、姿を現わしません。新聞への寄稿や目撃証言を見ても、やつが暴動の主謀者たちと行動をともにしているのは確実です。王都警察には、ラヴァレ伯爵を国家反逆の容疑で捕縛するよう命じました。陸軍も王都周辺に展開し、いつでも突入できるよう準備しています。そのことをお含みおきいただきたく」
「リンド候」
「なんでしょう」
フレデリクは起き上がり、両手でぐっと膝をわしづかみにした。
「余は、退位しようと思う」
「なりませぬ」
セルジュの答えは、刃で切り捨てるような鋭さだった。「陛下が退位なされば、この国は大混乱に陥ります。愚民どもは略奪をほしいままにし、貴族や大商人はわれ先に国を逃げ出しましょう。そうなれば諸外国、わけてもカルスタンが黙ってはおりますまい」
「国境の防衛を口実に、クラインに侵入してくるか」
「おっしゃるとおりです」
「エドゥアールは、何を望んでいるのだ」
「わかりません」
苦いものを吐き捨てるように、セルジュは言った。「何を考えているのか、まったくわかりません。何があっても互いの心は結びついていると思ったのは、どうやらわたしの錯覚だったようです」
「考えれば、不思議なものよの。リンド候」
クライン国王は、青白い顔に薄い笑みを刷いた。「そなたの父、プレンヌ公が、あれほどファイエンタールを目の敵にせねば、ラヴァレ伯爵とエレーヌは、あの子を外にやらずに手元に置いて育てただろう。そうなればエドゥアールも、これほどまでに貧しい民衆の苦しみを我がこととし、このような無謀な行動を起こすこともなかっただろうに」
「……」
「これは、プレンヌ公がファイエンタールにかけた最後の呪いなのかもしれぬな」
セルジュは目の回りにかっと血が集まるのを感じた。
「そんなことはさせません」
思わず、叫ぶ。「わたしの命に賭けて、こんな茶番は必ず止めてみせます」
フレデリクは、力なく肩をゆすって笑った。「さだめし、あの小わっぱは、そなたに止めてほしいと願っているのかもしれぬな」
ロワン外苑には、一万人を越える民衆が集まろうとしていた。
かつて、この場所には、征服民族と原住民族を隔てる壁が張り巡らされていた。その跡地が、細長く伸びる公園の連なりとなったのだ。
身分の隔てを象徴する地。かつてラヴァレ伯爵は、モンターニュ子爵令嬢との婚姻の披露の宴を、このロワン外苑で催したことでも知られている。
王都警察隊は、公侯爵の邸宅が立ち並ぶ通りの前に一列に並んで待機している。ぴりぴりと緊張した空気の中、平民会議員、各州のギロンヌクラブの会員、政治新聞の発行人などが、次々と演壇に立ち、演説をおこなった。
「もう革命へのうねりは、誰にも止められない。今こそ、皆が一致団結して戦うとき。貴族から特権を取り上げ、万民が等しい権利を所有するときです」
話者が息を継ぐたびに、聴衆は大きな歓声と拍手で応える。一万人の立てる音はまるで地鳴りのようだった。
そして、最後に演壇に立ったのは、ひとりの若者だった。
薄汚れた鶯色のコート。櫛目を入れぬぼさぼさの金の髪。だが、水色の瞳は、夏の青空のように人々を包み込む。
「伯爵だ」
「ラヴァレ伯爵だ」
ささやきが、細波のように広がると、伯爵は結んでいた口を開いた。
「皆も知ってのとおり、俺は放浪民族の婆さんに育てられ、港町ポルタンスで八年間、娼館の下働きをしていた」
下町訛りがかすかに残る言葉は、やわらかく人々の耳に浸み込んでいく。
「あそこでは、貧しい人々が貧しいなりに、懸命に生き、互いに助け合って暮らしていた。もちろん、暴力で人を従えようとしたり、欲のために人を陥れようとする人間もいた。それはしかたのないことだろう。人間は完全ではない。貴族の中にだって、高貴な人間も下種な人間もいるのと同じだ」
くすりと笑う者もいたが、多くは戸惑って、互いの顔をちらちら見交わした。
「もう一度言う。人間は完全ではない。罪を犯すことに貴賤はない。人は権力を得ると、簡単に堕落する生き物だ。完全な政府など、この世に存在しない」
ラヴァレ伯爵の声は、次第に熱を帯びてきた。「たとえ、この国が共和政になっても、天国になるわけではない。隣国のリオニア共和国とて、天国からはほど遠い。身分制度を廃したはずなのに、富による新たな身分制度を作り出しただけだった」
「そのとおりだ!」
演壇のすぐ下にいた青年が、熱意をこめて声を張り上げた。ロナン・デュシュマンだった。その隣には、ヴィクトル・ジャケ、ジョセフ・ボードリエら、運動の中心メンバーが立っている。
「だが、共和政がすぐれていることがひとつある。それは国民ひとりひとりが自分の国に責任を持つことだ。国政に手が届かぬ人でも、隣にいる人を助けることならできる。互いに手をたずさえて、不正を許さぬために声を張り上げることはできる」
深みのある、すみずみまで響きわたる声は、今や奔流のように激しく人々を揺すぶる。伯爵の顔は喜びにあふれ、眼差しの輝きは見る者を捉えて放さない。
「あなたが、王になってください」
群集の中から、恍惚とした声が上がった。「あなたが王になって、共和政を実現してください」
エドゥアールは首を振った。
「俺ひとりでは、だめだ。きみたちが、クラインをそのような国にしてほしい。すべての人が身分によって生きる機会を奪われず、恵まれた者は困窮している者を助け、困窮している者は、より困窮している者を助けることのできる国に」
「伯爵」
ジャケが壇の真下に駆け寄った。「おかしい。警察隊がじりじりと退いている」
エドゥアールは彼に無言の微笑を返すと、ふたたび顔を上げた。
「国のどこかで乳飲み子が飢えて死のうとしていることに、国民ひとりひとりが身もだえする想像力を持て。それがなければ、王政だろうと共和政だろうと、何の違いもない。ただ看板を架け変えて、同じことが繰り返されるだけだ」
「様子が変だ。逃げたほうがいい」
ボードリエの上ずった声が背後に届く。民衆の中にざわめきが広がった。
誰かが「みんな逃げろ!」と叫んだ。「軍隊だ!」
「陸軍が突入してきた!」
演壇の下で大勢の人間のブーツがあわただしく鳴る。どこかで威嚇の銃声が響きわたる。
「奴らの狙いは、あなたです」
女たちの悲鳴、男たちの怒号にロナンの悲鳴がかき消される。「早く、逃げてください、伯爵!」
地べたを這う大蛇のように、大楯とマスケット銃の列がじりじりと、だが容赦ない勢いで近づいてきた。公園の樹木の陰から、狙撃兵が見え隠れする。
「やめろ」
演壇の上から、エドゥアールは雷鳴のごとき声で叫んだ。「非武装の市民たちにまで、銃口を向けるつもりか。銃を下ろせ。わたしは逃げも隠れもしない」
軍の動きが止まり、しばらくの沈黙があった。
「エドゥアール・ド・ラヴァレ伯爵でいらっしゃいますな」
とうとう、司令官らしき男が前に進み出た。
「王と国家とに対する反逆の罪で、貴殿への逮捕状が出ております。すみやかにご投降願えるでしょうか」
「わかった」
清明な声で、伯爵は答えた。「この身を預けよう。その代わり、この場にいる者たちに、ひとりでも指一本触れることは許さぬ」
「承知しました。お約束いたします」
「伯爵!」
大勢の兵士の壁に抗い、押し返されつつ、ロナンが、ジャケが、ボードリエが、必死に叫んでいる。
手首に鎖錠をはめられ、エドゥアールは振り向き、彼らに微笑んだ。
「同志たち。あとは頼む」
王宮の西側の大広間は、隔絶されたまがまがしい空気に包まれた部屋である。
ここは、爵位を持つ高貴な生まれの罪人を裁く場所だ。ここ数年の法整備により、軽微な犯罪は、貴族も平民も等しく裁判所で裁かれるようになった。だが、殺人や国家反逆という重大犯罪をおかした貴族は、貴族の特権を保証する法律『恩恵』が定めるところにより、王がこの広間で直接に裁くことになる。
両手に鎖をかけられたラヴァレ伯爵は、西の間の扉をくぐり、近衛兵に両側から挟まれるようにして濃灰色の絨毯を進んだ。
衣服は質素な麻のシャツと黒のショース。二週間に及ぶ牢獄生活を送ったとは言え、その足取りは力があった。
「エドゥアール・ド・ラヴァレ伯爵。き……貴殿は王都にて騒乱を主導した疑いにより、王および国家に対する反逆罪で告訴されている」
罪状を読み上げる侍従長ギョームのほうが、よほど今にも倒れそうだ。たまりかねて、セルジュが陪審員席から立ち上がった。
「ギョーム。わたしが代わろう」
「は、しかし」
「こんな悪辣な輩に、正規の手続きなど不要。わたしが直々に問いただす」
セルジュは、エドゥアールの真正面に立ち、腕組みをして睥睨した。「どういうつもりだ」
エドゥアールは、友の詰問に穏やかな視線を返しただけだった。
「どういうつもりかと聞いている。なぜ国務大臣の務めを投げ捨てて、国を混乱におとしいれるような不法な企てに加わった。どんな理由があるにせよ、きさまはそういう卑劣なことをする奴ではなかったはずだ」
「……」
「答えろ!」
近衛兵たちが阻む暇もなく、リンド侯爵は罪人の胸倉につかみかかった。
「それで、目の前の飢えた民を助けたつもりになっているのか。笑止千万! きさまはこの国全体を混沌に陥れ、はかりしれない禍根を残したのだ。十年後、二十年後まで消えぬ負の遺産を作り出してしまったのだ。それがわからないのか!」
エドゥアールは抵抗することもなく、揺すぶられるままになっている。
「リンド候!」
凛とした声が降りてきた。
フレデリク三世は、親臨法廷における慣例どおり、ずっと離れた玉壇の奥に座っていたが、今や壇を降りてふたりに近づいてきた。
「無駄だ。何を言っても、そやつには返答する気はない」
王は、自分と同じ色の瞳の底を覗き込むようにじっと見つめ、悲しげに微笑む。
「自分の身を犠牲にしても秘密は守りきるだろう。エドゥアール。そなたは実にエレーヌにそっくりよの」
セルジュは彼の襟からいまいましげに手を振り払い、きっぱりと顔をそむけた。貴公子の目の縁が濡れているのを見た者はたったひとりだった。
「弁明する気がないのなら、いたしかたない」
侯爵の声は、沈黙の支配する広間にひときわ大きく、無情に響き渡る。
「陛下。陪審団は、被告エドゥアール・ド・ラヴァレの爵位をはく奪、さらに国外追放することを進言いたします」
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