Hungarian Rhapsody ハンガリー狂詩曲


           (2)


「七十年以上も教師をやってると、いろいろな子どもに会うものです」
 セフィロトは、少し寂しげな笑みを浮かべながら、話し始めた。
「どの子も、健やかな未来を自分の手でつかみとってほしいと祈りながら、送り出します。けれど中には、悪に手を染め、歪んだ人生を選び取る子もいるんです」
 口を切ると、彼はもう一枚、若い男の写真を取り出した。
「渋川ヒロトと言います。二十年前に【すずかけの家】を卒園し、現在27歳。連絡が取れなくなった五年ほど前から、ずっと彼を捜し続けてきました。【サテライト・オメガ】に潜んでいたことまでは突き止めたのですが、そこも半年前に行方がわからなくなりました。膨大な借金を抱え、怪しい男につきまとわれていたようです」
「その怪しい男が、この写真の人物だと」
 セフィロトは、うなずいた。「【サテライト】のすべての監視カメラの映像を調べ、ようやく見つけ出した一枚です。火星行き定期航路の出発ロビーで、すぐ後ろにヒロトくんも写っていました」
 彼は、教え子の写真をいとおしそうに手元に収めると、顔を上げた。
「わたしは、彼を見つけて救い出すために火星に来ました。もしマルギットを密航させた男と同一人物だとすれば、ヒロトくんも【グラナトゥス】という組織のもとにいる可能性が高いと思います。どうかわたしとクリフも、フォボスに連れていってください」
「なんで、俺まで巻き込む」
 クリフォトの控えめな抗議に、セフィロトはさも意外そうに答えた。
「おや、きみは、わたしにいろいろと借りがあると思ったけど」
「わかった。すぐにフォボスに発とう。さっそくタオに連絡して、小型クルーザーを用意してもらう」
 レイは立ち上がると、マルギットにやさしい視線を置いた。「きみは、【ポンチセ】のマスターのところで待っていてくれないか」
「じ、冗談じゃない!」
 マルギットも負けずに立ち上がり、腰に手を当てて威張って叫んだ。「あたしだけ、置いてきぼりを食らわすつもりかい。いっしょに行くよ!」
「しかし、確かさっきは、イヤと言わなかったか?」
「聞き違いだよ」
「そうすると、弱ったな」
 レイは、部屋の面々を見渡した。「クルーザーはパイロットを入れて四人乗りだ。ひとりあぶれてしまう」
「それなら問題ありませんよ」
 セフィロトがにっこりと意味ありげに笑った。
「ロボットは便宜上、貨物として取り扱うことができます。クリフォト。貨物になって、マルギットをしっかりと膝の上に抱きかかえてさしあげなさい」
「ええっ」


 【チューブライナー】がクリュス航宙ポートのあるドームへと近づくにつれ、プルシアンブルーの制服を着た航宙士は、不機嫌そうに黙り込んだ。
「レイ、どうしたの?」
 マルギットが心配になって、そっと話しかけても答えない。
 ポートの地上デッキからエレベータに乗り込み、地上一万メートルまで一気に上昇する。
 地下十キロの暗闇の街から、地上十キロの高みへ。数十分後には宇宙空間へ、衛星フォボスへと飛び立つのだ。
 目まぐるしい移動に、マルギットは息を詰めっぱなしだ。
 小型シップ用の離発着スペースでエレベータを降りると、タオが待ち構えていた。
「クルーザーの整備がまだ終わっとらん。離脱は三十分後だ」
「遅ぇ」
 レイは、相手を石化するバジリスクのような目で、ぎろりとタオをにらんだ。「いったい何やってたんだ。ボケ爺」
 「え」と、マルギットとふたりのロボットは足を停めた。
 穏やかで理知的な態度を崩さなかった先ほどまでの青年とは、まるで別人だ。
「まあまあ、待っとれ。すぐに終わる」
 平然と返したタオは、三人に向き直った。
「レイは自分のことを、おまえさんたちに何か話したかね」
「い、いいえ」
「じゃあ、ちょっくら驚くかもしれんぞ。宇宙に出たときのレイ・三神は」
 もったいぶって、声をひそめる。「まるで悪魔だ」


「タオ。エンジンフルスロットル」
「ラジャー」
「セフィ。目ん玉皿のようにして計器を見てろ!」
「は、はいッ」
「クリフ。その女をしっかり押さえつけとけ。首がもげても知らねえぞ」
「は?」
「離脱!」
 小型クルーザーは限界点の加速に機体を震わせながら、信じられない角度の上昇を始める。
「きゃああ」
 クリフォトの膝で抱きかかえられているマルギットは、遊園地のジェットコースターさながらの上昇感に思わず悲鳴をあげた。
「キーキーうるせえ! 口に拳でも突っ込んでろ!」
「いったい、彼はどうなっているのですか?」
 セフィロトはおそるおそる、隣の席のタオに訊ねた。
「詳しい理屈はわからん。とにかく航宙大学時代から、操縦レバーを握ると、奴はこうなっちまうのよ」
「二重人格――にしては、脳波の波形に乱れがありません」
「どちらも同じレイ・三神なんだよ。ただこれが、宇宙の恐怖に打ち克つための、奴なりの方便なのさ」
「恐怖?」


 火星表面から衛星フォボスまでは、距離にしておよそ6000キロ。
 もともとのフォボスは、直径わずか22キロの岩石と氷から成るいびつな小衛星だった。
 70年前の第一次移民に先立って、人類は数度にわたり火星の有人探査を行なった。その際に大規模な宇宙ステーションが建設されたのが、衛星フォボスだった。
 地中に含まれている氷を採掘して、水や酸素を抽出したため、今フォボスは、ほとんど原型をとどめていない。
 火星の空を一日二回、西から東へと高速で横切っていくフォボスの姿は、【機械の浮遊城】とも呼ばれている。
 そして「フォボス」という言葉は、ギリシア語で「恐怖」を意味する。