(1)
女たちはおしゃべりをやめ、開いた扉に一斉に目を注いだ。
「おはよう」
レノスの大声が部屋の空気を震わせた。まさしく、新兵どもを前にしたローマ軍の司令官そのものだ。
「仕事、知らない。たのむ」
だがその後に続いたのは、ひどい片言だった。族長の妻となったからには、夫の言語を覚えることは何にも増して重要だ。いつまでも誰かに通訳を頼むわけにはいかない。それでは、いつまで経っても、レノスは『よそもの』でしかないのだ。
女たちは表情を消して、そそくさと立ち上がると、それぞれの織り機の前へと散って行った。
メーブだけが、仏頂面で長椅子に残っていた。
「あそこが空いてるわ」
一台の織り機を指差すと、さっさと自分の場所に戻って、仕事の続きに取りかかる。
毎年クレディン族の女性は、麦の採り入れがすむと「女たちの家」に集まり、冬支度のために新しいブリーカンを織り始めるという。ブリーカンとは、羊毛で格子縞の模様を織りあげた、氏族特有の美しい織物だった。
「女たちと早く仲良くなりたいのだ」
ここに来ることをセヴァンに頼んだのは、レノス自身だった。
シャッシャッという小気味の良い音を立てながら、二十人くらいの女が一斉に機を織っている。誰も、あえてレノスのほうを見ようともしない。
(誰かにやり方を訊いても、答えてはくれまいな)
からっぽの織り機の前に座ってはみたものの、途方に暮れるばかりだ。布を織るのは、生まれて初めて。今までの人生で、女らしいことは何一つ学んで来なかった。
回りを見渡しているうちに、近くに座っているひとりの女に目が留まった。
四十歳くらいだろうか、白髪の混じった濃茶色の髪を三つ編みにしている。重りを器用に操りながら、まるで魚が流れの中でひるがえるように、何十本もの糸の列の中を、舟形の杼(ひ)をくぐらせていく動きは、女たちの誰よりもなめらかで、美しかった。
レノスは彼女を教師役に定め、その仕事ぶりを目をそらさずに観察し続けた。
昼は、部屋の片隅にひとり座って、持ってきたパンと凝乳をできるだけ早く腹につめこむと、机の上に積まれている糸束を取り、自分の織り機の上部の水平棒に、三つ編みの女の織り機と同じ配色になるように、糸をはめこんでいく。重りを結んで垂らし終えると、ためしに杼を往復させてみた。
最初はひどいものだった。横糸はそろわず、あちこちに大きな隙間ができた。だが、織ってはほどくという作業を根気よく繰り返しているうちに、多少はましと言えるような出来栄えになってきた。
「あら、何をしてるの」
いきなり、ひとりの女が素っ頓狂な声を上げた。
「やだ、この模様ったら、コリンの家の」
「猿まねよ、猿まね」
あちこちから、くすくすと笑い声が聞こえて、レノスは振り返った。
あわてて視線をそらす女たちの中で、さっきの三つ編みの女だけがひとり、冷たい目つきでレノスを見据えている。
「ち、ちょっと、こっちへ来て」
メーブがレノスの手をひっぱり、家の外に連れ出した。
「ブリーカンには、その家だけの固有の柄があるの」
彼女はげんなりした口調で、説明する。「それぞれ、自分の家だけが使える紋章模様が決まっている。たとえば、普通の村人は二色だけど、戦士は三色、族長は四色使うことがゆるされているの」
「そうなのか」
「あなたって、私たちのこと何も知らないのね」
メーブは盛大にため息をついた。「……今日は家に帰って。セヴァンが持っているブリーカンの模様をよく調べて、明日覚えて来て。織りかけの布は、私が後でほどいておくから」
「わかった」
レノスは、悄然とうなずいた。「ありがとう。世話、かける」
「ほんとうはあなたに関わりたくなんかないわ。ルエルにさんざん拝み倒されたからよ」
彼女は縮れた長い金髪を掻き上げた。「あなた、なぜコリンを真似たの?」
「上手だった。一番」
「なるほどね」
メーブは、鼻を鳴らした。「コリンは、セヴァンの乳母よ」
「え?」
「どんな手仕事も器用にこなし、村一番のもの知り。私たち村の女は皆、あの人にあこがれている」
「……そうだったのか」
「でも、コリンはあなたのことをひどく嫌っている。ローマ人の女がセヴァンを盗んだと泣いていたもの。彼女が右を向けと言えば、みな右を向くでしょうね」
冷ややかに言い捨てると、彼女は家の中に戻って行った。
(わたしが……セヴァンを盗んだ?)
憔悴して、とぼとぼと家に帰る途上、厩番のユッラが駆け寄ってきた。
「奥方さま、どうでした?」
レノスのことを「奥方さま」と尊敬をこめて呼ぶのは、この村でたったひとりだ。
「機織りは、一生かかってもわたしの手に負えぬな」
「そうでしょう、そうでしょう」
さもありなんと、ユッラはうなずく。「おれ、織り機、一時間、座ってられません。それに、女たちのおしゃべり、キンキン、耳、痛くなります」
レノスは、わずかに伸びた自分の黒髪を引っ張った。「女になるというのは、むずかしいものだな」
次の日、レノスはセヴァンの肩掛けを見本にして、ふたたびブリーカンを織り始めた。
何度も失敗を繰り返し、わずか小指の先ほどを織りあげるのに、途方もない時間がかかる。
そのあいだ、ときおり小さなささやき声が聞こえるほかは、寒々とした雰囲気の中で女たちは仕事を続けた。
(わたしのせいだろうな)
本来ならば、「女たちの家」は彼女たちにとって、にぎやかなおしゃべりと息抜きの場所だろうに。レノスという異分子がいることで、その楽しい雰囲気を台無しにしているのだ。
(やはり、ローマ人のわたしでは無理なのか)
外の厠に行くと、セヴァンの乳母が出てくるところだった。
「コリン」
彼女は無言のままそばをすり抜けようとした。こうしてみると、レノスの肩ほどまでしかない小柄な女だ。
「あなた、セヴァン、乳母。聞いた」
レノスは、ことばの箱を必死にかき回した。「なりたい、友だち」
コリンと心を通わすことさえできれば、きっと他の女たちとも仲良くなれる。反対に、彼女がレノスを嫌っている限り、壁を崩すことはできないだろう。
女は眉間のしわを深くしただけで、何も答えず歩み去った。
(時間がかかるな……わかってはいるのだが)
厠から出たとき、ひげだらけの長身の男が、肥桶をかついで歩いてくるところに出くわした。
戦闘で捕虜になったピクト人だ。この村で、あらゆる汚れ仕事を担わされている。
誰とも目を合わすことなく、誰とも話すことなく、この村でひとりぼっちの異質な存在として生きている。
――わたしと同じだ。
「ご苦労さま」
苦い共感をこめて男に声をかけてから、仕事場に戻った。
それから三日ほど経った朝、「女たちの家」に来てみると、先に来ていた女たちが顔をこわばらせ、あわてて俯いた。
レノスは、自分が織っていたブリーカンが、ナイフのようなもので無残に切り裂かれていることを知った。
カシの森では、どこもかしこもが黒く蠢いていた。
それは、松明の光を背に立つ聖者たちの影であり、木の柵の内側にいくつも建てられた巨大な石碑の影であり、彼らがあがめる神々や精霊たちが、呪いのために忙しく立ち働いている影だった。
「カシの聖者よ」
セヴァンは彼らの前に膝をつき、額を森の朽ち葉にこすりつけんばかりにひれ伏した。
「どうか、俺とレウナの結婚を認めてほしい。もし許してくださるなら、あなたがたが命じるだけの牛を生贄にささげよう」
影はひそひそとささやき、やがて光の中から答えが返ってきた。
「答えは変わらぬ。『ローマ人は、災いをもたらす。ローマ人と氏族の血を交えてはならぬ』」
「だが、レウナはこの島で生まれ、氏族の女の乳を吸ったのだ」
かすれた声で、反駁する。「ローマ人と氏族のあいだには、平和と友情が存在しうる。レウナはその象徴となる人だ」
「平和など必要ない。ローマとは死ぬまで戦い、氏族の誇りを守り通すのだ」
「北からも海の向こうからも、絶えず異民族が侵入して、俺たちの土地をおびやかしている。このうえローマと敵対することは、決して氏族のためにはならない」
「サフィラの息子よ。そなたは、心までもローマの奴隷に落ちてしもうたようじゃな」
「俺は母の胎より生れ落ちたときから氏族だ。断じて奴隷などではない」
影たちはひとつに集まり、相談を終えるとまた離れていった。その長いあいだ、セヴァンは身じろぎもせず、拝跪を強いられた。
「そなたに神々の託宣を伝える。この穴に、ローマ人の女レウナを生贄としてささげよ。それが、そなたの忠誠を示す唯一の方法だ」
セヴァンは立ち上がり、服についた草をはらった。
「話は終わった」
そして、蠢く影たちを決然と睨みつけた。「カシの聖者よ。俺はあなたがたに敬意を払ってきたし、これからも払おう。だが、あなたがたの言葉に従うつもりはない」
影はざわりと、四方で動いた。
「あなたがたは託宣と称して、どれだけの人間の命を奪ってきたか。人の命をもてあそぶ神など、俺は信じない」
セヴァンは、ドルイドの聖所に背を向け、一度も振り返らぬまま木の柵から出た。
頭上に、呪いの精霊たちが殺到して来るようだった。今にも地面が底なし沼に変じて飲み込まれるか、あるいは天からの雷撃に打たれるかと恐怖したが、カシの森を出ても、何も起きることはなかった。
羊飼いのひとりが大慌てで丘から降りて来て、門の見張りに大声で叫んだ。ローマの小隊がやってきた、先頭の兵は、平和の印である緑の枝を掲げている、と。
セヴァンは木の柵の門を細く開けさせ、外に出た。十人ほどの騎馬兵の列の中から、百人隊長の兜を着けた男が前に進み出て、馬を降りた。
「第七辺境部隊の筆頭百人隊長ラールスだ」
ここで、この男と対峙するのは、もう何度目だろう。
砦じゅうの兵士から集めたと言って、身代金に上乗せする金を持ってきたこともある。レノスに飲ませてあげてほしいと、高価なイタリヤのワインを持ってきたこともある。
俺が代わりに捕虜になるから、司令官を解放してくれ、と切々と懇願したこともあった。
今度は違った。ラールスのうつろな表情は、張り詰めていたものが袋から破れ出てしまったあとのように見えた。ただひとこと「カルス司令官に会わせてくれ」と言った。
「何のために?」
「ブリタニア総督からの命令書が来た。直接伝えたい」
「もう軍人ではないのに、総督の命令に従う必要はないと思うが」
「会って、直接確かめたいのだ」
「俺が送った書状の内容を、疑っているのか」
ラールスは、のろのろと首を振った。「スーラ元司令官夫妻が俺たちにすべてを話してくれた。あの方が隠していたことを……本当のことを、全部」
「では、もう文句はなかろう」
「俺には、納得がいかないんだ!」
突然、両目という穴から煮えたぎる怒りが噴き出した。後ろにいた部下たちが、その剣幕におろおろしているのがわかる。
「これは、あの人の真意ではない。きさまのせいだ。きさまが、あの人を辱め、意のままにしているんだ!」
セヴァンが口を開こうとしたとき、後ろから、「待て」と声がした。
「わたしが直接、話そう」
門の中から出てきた女は、氏族の長いスカートを履いていた。肩掛けの中からすらりと伸びた腕には、鉄の手甲の代わりに銀の腕輪がはめられている。短く切って兜の中に押し込められていたはずの黒髪は、今はのびやかに風にそよいでいる。
そして、矢継ぎ早の厳しい命令を放っていた唇は、ふっくらと薄紅色に彩られて、やわらかな微笑をたたえている。
ラールスはそれを見たとたん、ひどく傷ついた表情を浮かべて、たじろいだように一歩下がった。
「氏族の村にとどまることを決めたのは、わたし自身の意志だ」
「司令官どの……」
「わたしは、もうその名には値しない人間だ。もともと女はローマ軍には入れない決まりなのだから」
放心していた百人隊長は、まるで釘で打ちつけられていた板を無理やり剥がすときのように、地面に視線を落とした。
「本当なのですか。本当に族長の妻となることが、あなたの意志であると」
「そうだ。わたしはわたしの意志でセヴァンとともにいる」
ラールスはきっと口元を結んで顔を上げると、剣帯にさげていた物入れから、一枚のパピルスを取り出して広げた。
「ブリタニア総督からの命令を伝えます。
レノス・クレリウス・カルスどの、貴殿の北ブリタニア辺境部隊の司令長官の任を解く。
合わせて、ローマ軍指揮官の職もはく奪する。貴殿が在任中に出された命令は破棄され、貴殿の名はすべての公文書から消される。以上」
「つつしんで、受諾する」
「第七辺境部隊に対しても、北の砦のすべての文書から、あなたの名前を消し去るようにとの命令が届いています」
「手間をかけるが、よろしく頼む」
ラールスは、パピルスを持っていた手をだらりと下げた。その目から怒りの炎は消え、代わりに絶望という名の膜がおおっていた。
「残念です。あなたが俺たちを捨てるなど、絶対にありえないと思っていたのに」
「……すまない」
敬礼してきびすを返したラールスは、肩越しに小さくうめくように言った。
「今後、俺たちがあなたの名を口にすることはありません。もう決して」
去っていくローマ軍に背中を向けて、レノスは門の中に入った。
族長の家に戻ると、犬小屋への垂れ幕をくぐる。
十数匹の犬たちは、たっぷりの運動と食事を終えたばかりで、身体を押しつけ合うようにして、まどろんでいた。レノスがしゃがみこむと、一匹が耳をぴくりと動かして、起き上がった。
「ドライグ」
セヴァンの猟犬は、長い時間をかけて、ようやくレノスを主と認めてくれたようだ。鼻づらの前に差し出した手のひらを、暖かい舌が柔らかくくすぐった。
ここでは、ことばは必要ない。人には言えない思いが積み重なると、レノスはここに来る。かつて、ここで捕虜として暮らしていたとき味わった不安と苦悩の思い出が、今は心地良くさえある。
「レウナ」
背後に夫が立つ気配がした。「だいじょうぶか」
「覚悟していたことだ」
できるかぎり明るい声で答える。「むしろ、ようやく区切りがついて、ほっとしているよ。女だとわかってしまった以上、もうあそこにわたしの居場所はないからな」
肩をぎゅっとつかまれるのを感じた。「もうやめろ」とでも言っているように。
「あなたがラールスと話していたとき、横で俺がどれほど肝を縮めたか、知っているか」
レノスはそっと、その手を握り返した。「どうして?」
「あなたが、北の砦に帰ると言い出すのではないかと」
「ひどいな。そんなにわたしが信じられないのか」
ふたりはしばらく無言で互いの指をからませていたが、突然セヴァンが何かを思いついたときのように、ひゅっと口笛を吹いた。
「狩りに行かないか?」
「今から?」
「たいして遠くはない。ブナの森だ」
厩番のユッラは、猟犬を引き連れてやって来た族長夫妻を見て、たいそう喜んだ。
「今日は、いい日。きっとたくさんの獲物、とれる。馬、重くてたいへん」
女の服を脱ぎ捨てて、トゥニカに着替えたレノスは、アラウダにまたがった。村の門から飛び出し、二頭の馬を競い合うように疾駆させると、内に閉じこめられて鬱積していた活力が解き放たれるような心地がした。
猟犬のドライグも、負けじと後からついてくる。
夏の終わりの空は抜けるように青く澄みきり、絹糸の束のような雲がたなびいていた。
森に入るとたちまち、ふたりは狩りに夢中になった。かわるがわる投げ槍を使って、ウサギやカモをしとめた。ドライグは忠実に走り回って、獲物を駆り立ててくれた。
だが、昼下がりの森には、これという大物は姿を現さなかった。小動物を狩るのに飽きたふたりは、水飲み場である沼の近くで、アシの陰に身を低くして、今日一番の獲物が現われるのを辛抱強く待った。
「覚えているか。ここは、俺たちが最初に出会った森だ」
「ああ、覚えているとも」
八年前、世界のことなど何も知らない十五歳の氏族の少年は、ローマの新任司令官に対する怒りに燃えて、弓をひきしぼったのだ。
あのときいったい誰が想像できただろう、憎悪に引き裂かれていたふたりが、多くの時を経て互いを想い合うようになり、ついに結ばれるなどと。
「あなたの笑顔を見たのは、久しぶりだ」
セヴァンは、妻のうなじの後れ毛に触れながら、ささやいた。セヴァンが額に巻いているのと同じ布で、レノスも髪をまとめている。長い髪は狩りには邪魔なのだ。
「『女たちの家』に行くのは、つらいか」
「いや」
「行きたくなければ、無理に行かなくてもいい」
「わたしが不器用なだけだ。何度織っても失敗する」
「コリンという女がいるだろう?」
「ああ。おまえの乳母だと聞いた」
「面倒見のよい女だ。相談すれば、きっと親身になってくれる」
「ああ」
レノスはたくさんの言葉を喉の奥へと飲みくだした。族長として村を束ねる夫には、告げ口など絶対にしてはならない。
「メーブは、ルエルの言うことなら何でも聞いてやるのだな」
なんとか話題を変えようと努めながら、痺れてきた足の重心を移したとたん、セヴァンの腕の檻にすっぽりと入ってしまう。狩りとは別の獲物を得たことを知った彼の指は、嬉々として動き始めた。
「あの人はアイダンに嫁いできた頃から、俺たちのことを小さな弟だと思っている」
セヴァンの声に、うんざりしたような響きがこもった。
「おまえは、メーブが苦手なのか?」
「なるべくなら、一緒にいたくはないな」
心のどこかで、じわりと安堵を覚える。年頃の少年が美しい兄嫁に心を動かされるのは、よくあることだ。セヴァンとメーブとの結婚話を聞かされたときから、そのこだわりはずっと消えていなかったのだ。
レノスは降参して力を抜き、全身を彼にゆだねた。
「ルエルは、おまえとは違うのだな。メーブとずいぶん親しそうだ」
「幼いころに母親を亡くしているから、彼女を母親代わりだと思っているんだろう」
「……そうだろうか」
「どういうことだ」
「つまり、ルエルは……メーブのことを」
唇をふさがれたので、その続きを口に出すことはできなかった。
すぐそばで伏せていたドライグは、ヘラジカが沼に下りて来るのに気づいて、低いうなり声をあげた。だが、主人たちが全く意に介さない様子を見て取ると、戸惑ったように尾を垂れ、やがて元通り気持ちよさそうに丸くなった。
「たったこれだけ?」
陽が暮れなずむ頃、ふたりが持ち帰ったわずかな獲物を見て、ユッラはあきれたように叫んだ。「……いったい、こんな時間まで、何をしていたんですか」
聞くまでもなく、ユッラにはもう答えがわかっていたのだろう。沈みそこねた夕陽のように、顔じゅうを真っ赤に染めていたから。
小麦の採り入れどきになると、また異民族の襲撃がひんぱんに起きるようになった。隣のダエニ族から救援を乞う知らせを受けたクレディン族の戦士たちは、セヴァンに率いられて、敵を迎え撃つために北に上っていった。
村には子どもと老人、女たち、そして少数の守りの戦士が残った。
レノスは夜が明ける前から『女たちの家』に来て、機織り機の前に座りこみ、ランプの灯を頼りに、一心にブリーカンを織っていた。
幾度もほどいては、最初からやり直している。織りかけの布地を誰かに切り裂かれることはもう二度となかったが、今度はあまりにも不揃いな織り目が、自分で許せなくなった。
こんなものをセヴァンに着せるわけにはいかない。族長であり王である夫には、最高のものを贈らねば。
太陽が昇るころ、他の女たちも続々とやって来て、すでに織り始めているレノスに驚きの目を向けた。相変わらずレノスに話しかける者はいないが、集中するにはかえって都合がよい。
まもなく、規則正しい機織りの音が部屋じゅうを満たした。
それからどれくらい経っただろうか。いつ果てるともなく続く音が、何かの偶然でぴたりと途絶える瞬間があった。
そして、その静寂の中でしか聞こえないほどのかすかな物音が、裏手の煮炊きをする場所から聞こえてきた。
「誰かしら」
勝手口の一番近くに座っていた若い女が立ち上がって、様子を見に行く。ほどなく悲鳴とともに、物が倒れる荒々しい音が響いた。
彼女はほどなく、部屋に戻ってきた。後ろから男に抱きかかえられ、その喉もとには、短剣が突きつけられている。
「ロウェナ!」
女たちは総立ちになった。
彼女を捕えていたのは、あの戦争捕虜の男だった。
男の蒼い瞳は、せっぱつまった荒々しさに揺れており、このできごとに慄いているのは誰よりも彼自身であることを物語っている。
「みな、落ち着け」
レノスは部屋じゅうを見渡して、女たちに声をかけた。とっさのことだったので、氏族のことばは出てこなかった。「声を立てるな。その場から動いてはならん」
そして、穏やかな表情を浮かべると、ゆっくりと一歩を踏み出した。
「おまえもだ。落ち着いてくれ、ピクト人。話を聞こう。何かほしいものがあるのか」
「食べ物。水。それから馬だ」
レノスは目を見開いた。「おまえ、ラテン語が話せるのか」
男の視線は、真っ直ぐにレノスを捉えた。「俺の育った村の回りには、ローマ軍の兵士がいくらでもいたからな」
「ピクト人かと思っていたが……違うようだな」
レノスは、眉をひそめた。「海の向こうの民か」
「俺の部族は、かつてガリア・ベルギガの北側に住んでいた。だが、部族同士の争いによって、どんどん北に押し上げられ、やむなくフリスランの海岸近くに定住したのだ。土地は低く、畑を作っても海の潮が押し寄せて台無しにする。ひどいところだ」
男は、悲惨な生活を思い出して心を衝かれたのか、顔をくしゃりと歪めた。「魚を採りに海に出ると、ブリタニアの船に出会い、争いになることもしばしばだった。だから、俺たちは毎年夏になると、何艘もの船を仕立ててブリテン島にわたり、やつらの作物を奪うことにした」
「そうか」
レノスは答えた。「今、ダエニ族の地に攻め込んできているのは、おまえの部族なのだな」
「今、合流しなければ、また一年待たねばならん。今日逃げ出すしかないと心を決めた」
「そうか。それで食べ物を手に入れるために、この家に入り込んだわけか」
レノスは机に手を伸ばし、熟練された素早さで糸切り用の短剣を取った。
「しかし、それを聞くと、ますますおまえを逃がすわけにはいかんな」
「逃げてみせる」
「人質といっしょに馬に乗るつもりなら、わたしが必ず途中で追いついて、おまえを捕える」
短剣をかざしながら、威圧するように微笑む。「もしロウェナに危害を加えようものなら、わたしが地の果てまで追いかけても、おまえを殺す」
「おまえにそんなことが……」
「できる。わたしは十年間、ローマ軍の司令官を務めたのだからな」
驚きのあまりポカンと口を開けた男に、レノスは表情をやわらげた。
「だが、もしあと一年この村で働けば、おまえをただで解放してやろう」
「解放?」
「ローマ人が数年から数十年で奴隷を解放することは、おまえも知っているだろう。ここであと一年働け。そして、この村がどうして豊かなのかを、しっかり自分の目に焼きつけろ。それが、おまえが自分の村に帰ったときの手土産になる。干し草を蓄えて、羊や牛を飼え。水路を引き、畑を耕せ。海の潮が作物をダメにするなら、潮を防ぐ堤防を築く方法を教えてやろう」
「……嘘だ。そんな口約束が信じられるか」
「わたしは、クレディン族のセヴァンの妻だ。わたしの名において約束したことは、族長の名において約束したのと同じ重みを持つ」
敢然と言い放つレノスを、男は畏怖に打たれたように見つめた。
「フリスランの男よ。おまえは、何という名前だ」
「……メルヴィス」
「メルヴィス。おまえがあと一年ここで働くことを約束すれば、わたしもおまえの生命を保証しよう」
レノスはことりと音を立てて、短剣を置いた。そして両腕を広げながら、ゆっくりと近づく。「わたしを信じてくれ。わたしもおまえを信じる」
男と人質のあいだに体を割り込ませ、男の手首をそっとつかんだ。
カランと音を立てて、短剣が床に落ちる。
部屋のあちこちから、安堵のため息が漏れ、ロウェナはレノスの背中にしがみついて、すすり泣き始めた。
三日後、戦いに勝利して帰ってきた戦士たちは、村人たち全員の歓呼を受けて大通りを凱旋した。家に入り、レノスの助けを受けてオオカミのマントを脱ぐとき、セヴァンは待ちかねたように言った。
「ひと騒動あったそうだな」
「ずいぶん耳が早いな」
「門を入る前に、あらましは報告を受けた。あなたは族長の名において、あの男を赦すと言ったそうだな」
セヴァンの声は、たいそう面白がっている調子だった。
「出過ぎた真似だったらすまない。だが、おまえがその場にいても、同じことを言うと思ったのだ」
レノスは、しれっと答えた。「今度の戦いでも、おまえは捕虜を幾人も連れて戻ってきた。昔のクレディン族なら、敵の首はすべて刎ねていたはずではなかったのか」
「ああ」
セヴァンは夢を見るような瞳になった。「あなたの声が聞こえてくるのだ」
「わたしの声?」
「どんなに離れていても、あなたは俺に命じる。殺してはいけない、と」
レノスも、「ああ」とうなずいた。「コロセウムのときのように、か」
セヴァンは炉端の長椅子に座り、枯れ枝を放り込みながら、炎をじっと見つめた。
「あなたは昔、ゲルマニアの森で俺に教えてくれた」
『彼らが戦いをしかけてくるのは、根が好戦的だからではない。貧しいからなのだ。寒く土地の痩せた北の民は、温かく作物の豊かな南の国をうらやんでいる。そして、隙あらば攻め込んでくる。
だから、ゲルマニアが豊かで平和になることが、ローマのためになる。そのために、まず互いの信頼関係を築くのだ』
「わたしは、そんなことを言ったか」
「だから俺は、ゆくゆくはピクト人や海の向こうの民と契約を結ぼうと思う。男たちは夏のあいだ出稼ぎに来て、われわれといっしょに畑を耕し、羊を飼う。麦とともに羊毛を自分の村に持ち帰って、次の年は織物にして戻ってくる。俺たちは、それをローマに売る。戦わずにみなが豊かになる方法を、みなでともに考える」
レノスは、薄茶色の瞳を驚いたように見開いた。
「……とてつもないことを考え出したものだな」
セヴァンは首を振った。「俺の考えではない。全部、あなたから教わったことだ」
レノスは彼の隣に腰をおろし、その肩に頭をもたせかけた。
「わたしはここに来てから、自分がわからなくなっていた。言葉も通じず、どうでもよい小さなことにひどく悩み、自分がどんどん小さな人間になっていくようだった。だが、ようやく気づいた。どこにいようと、どんなに立場が変わろうと、わたしのすべきことはひとつなのだな」
「あなたらしい言葉だ」
セヴァンは妻の髪に手を触れ、微笑んだ。「新しい捕虜の教育は、あなたにまかせよう。その男はどこにいる?」
「それがその……すぐ隣だ」
「隣?」
レノスは苦りきった顔で説明した。「その……メルヴィスが、わたしに仕えたいと……だから、この家の軒先で寝ると言い出して、いくら説得しても聞かないのだ。やむなく隣の犬小屋で寝てもらっている」
セヴァンは頭をかかえた。「あなたという人は、いったい何人の男を虜にすれば気がすむのだ」
「何を馬鹿なことを言っている」
レノスは、彼が父親から受け継いだ古いブリーカンを椅子から取り、夫の肩にふわりとかけた。もうすぐレノスの手で新しいブリーカンが織り上がる。それを彼の肩にかけるときは、誇らしい気持ちでいっぱいになるだろう。
「セヴァン」
レノスは夫の手を握りしめ、間近から彼のハシバミ色の目を覗きこんだ。
「わたしは、おまえが王として、この地のすべての民を正しく導けるように助けたい。ローマも氏族もなく、ゲルマニア人もピクト人もなく、すべての民が和解して、ともに平和と繁栄を分かち合えるように。わたしの命を懸けて、おまえのために尽くそう」
「言ったはずだ。俺は王の器ではないと」
セヴァンはそっと妻を抱きしめた。「けれど、あなたが隣にいれば、何でもできそうな気がする……レウナ。あなたは俺にとって最高の宝だ」
ブリーカンにしみついた夫の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、レノスは幸福に満ち足りた思いで「ああ」とうなずいた。
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