The Warrior in the Moonlight

月の戦士

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Chapter 12 「はるかなる故郷よ」

(4)

 長い八日間だった。
 一日経てばそれだけ、忍び寄る冬の寒さが身を削った。夜テントや馬車の中で凍えて体を丸くして目をつぶるとき、次の朝目覚めることができるかどうかは誰にもわからなかった。
 それでも、遅々とした歩みではあったが、南への逃避行はゆっくりと進んでいた。
 最後尾を進むレノスたちの軍勢は、氏族軍の追跡を少しでも遅らせるために、思いつく限りの対策を講じた。橋を木槌で叩き壊して、川に流した。馬に枝を引きずらせて足跡を消し、時には別働隊を仕立て、偽りの匂いをつけて歩かせた。
 ひとつめの野営地を過ぎ、ふたつめの野営地についたとき、日が暮れた。
 たった一夜のためにさえ、万全の設営をするのがローマ軍のやりかただ。木の杭は持ち去られていたが、先発の陣が積み上げた土塁と、その土を掘り出した塹壕は残っていた。いくつものテントを張った痕があり、焚き火が燃やされた穴は、まだわずかに暖かく、干し魚を焼いた匂いがした。
 その夜、兵士たちが眠りに落ちたばかりのとき、最初の敵襲が来た。ひとつ丘を越えたところに住むマヤカ族の戦士が、森にひそんでいたのだった。
 見張りがいち早く不穏な空気に気づき、レノスたちを叩き起こした。
 脳みそは半分眠っていたが、それでも歴戦の勇士たちは機敏に飛び起きて、敵を迎え撃った。蹴散らされた氏族が森の奥へと敗走していったあとは、ほとんど眠ることができずに、夜明けの数時間前に宿営を出発した。
 ところどころで草がひどく踏みしだかれ、折れた矢が突き刺さっていた。泥地には無数の馬や人間の足跡が残っていたので、先発隊と氏族とのあいだにも、激しい戦いが起きたのだということがわかった。
 三つ目の野営地に着き、塹壕のそばに幾つかのの土まんじゅうを見つけた。
 下に眠っているのは、氏族の剣や槍を受けながら最期まで勇敢にたたかった兵士か。逃げ遅れて背中を矢で射ぬかれた民間人か。ことによると、飢えと寒さと過酷な馬車の旅に耐えきれなかった老人や赤子か。
 ことさらに小さな土まんじゅうを見たとき、この土の下にいるのはルーンではないかという疑いが頭をもたげて、レノスはしばらく息ができなかった。先発隊の伝令の報告によって、弔われたのは別の砦の兵士や病人であることがわかってからも、みぞおちは捩じ切られているように痛み続けた。
 撤退するというわたしの選択は正しかったのか。あくまで、徹底抗戦を貫いて、砦を死守するべきだったのか。そうすれば、冷たい土の下に横たわっている者たちは死なずにすんだのではないか。
――何を弱気なことを言っている。
 恐いのだ。一万人以上の生命が、わたしの間違った判断で失われてしまうかもしれない。
――あなたに、ローマの砦に帰れと命じたのは、俺だ。あなたならきっと大勢の命を救ってくれると思ったからだ。俺を信じろ。
 セヴァン……。
――約束したはずだ。俺はいつも、あなたといっしょにいるだろう?
 背中からふわりと抱きしめられる。いつものように。
 思わず手を伸ばすと、野営地のテントの凍えるような寒さの中で、レノスはひとりでマントにくるまっていた。涙はもう出なかった。
 夜明け前、ふたたび泥水につかりながらの行軍が始まった。騎馬兵も歩兵も、手足の感覚がないまま歩いていた。油断すると意識さえもが、雲が低く垂れ込めた雪空に溶けだしていきそうだ。
 疲労が極まった午後だった。
 森に忍びながら、後をつけてきたのだろう。マヤカ族の大軍が、突如として、レノスたちの側面に襲いかかってきたのだ。
 虚を衝かれたローマ軍は、あわてて態勢を建てなおそうとしたが、陣形は大きく崩れた。
「歩兵、走れ! 先に見える岩場のところまで」
 レノスは、剣を抜きながら叫んだ。「騎馬隊、わたしに続け」
 敵陣のまっただなかに雄叫びを上げながら突っ込んでいく司令官に、ウォーデン率いる騎馬隊がすばやく従った。ラールスは配下の歩兵隊に死にものぐるいで走るように命じた。
 いきなり全速力で突っ込んできたローマの騎馬兵たちに、氏族軍は一瞬ひるんだ。レノスはその狼狽を見て取り、騎馬兵たちに「反転して退却!」と命じた。
 その間に歩兵たちは、よろめく足と焼けつく肺を叱咤激励しながら走りに走って、指示された岩場に向かって距離をかせいでいた。馬を返して味方を追いかけながら、レノスは馬上から叫んだ。「弓兵!」
 歩兵がたちまちのうちに一列の盾の壁を築くと、弓兵はその陰から空に向かって弓を構え、氏族軍に向かって遠矢を射た。
 狙いはあやまたず、降り注ぐ矢の雨を受けた氏族の最前列は歯が欠けるように幾人かが倒れ、残りも矢を避けようとして互いにぶつかり、混乱に陥った。
 ようやく、張り出した岩場の陰の狭い谷に全員がたどりついた。
「ここに陣を敷くのですか」
「ああ」
 短剣で藪を切り払いながら、レノスは答えた。「相手を誘いこんで迎え撃つんだ――ボウディッカ女王の軍を撃破したローマ軍のように」
 質問した兵士の目には、司令官は一瞬、隣にいる誰かにほほえみかけたように見えた。
 果たして、戦果はレノスの思惑どおりになった。陣形を乱して狭い谷にわれ先にと殺到した敵軍は、ローマ軍の弓と投げ槍を真正面から受けた。あわてて後ろに下がろうとしたところに、岩場の上に隠れていた伏兵たちが石を雨あられと投げ落とした。
 さんざんな目に会って撤退していったマヤカ族は、当分は追いかけて来ようとは思わないだろう。
 大勝利に、つかのま心は高揚したものの、体はぼろぼろに疲弊しきっていた。幾人かは大怪我を負い、担架を馬に引かせたり、仲間に肩を貸してもらって歩いたりしている。
 日が傾き始めたころ、南西の砦が見えてきた。北の砦よりかなり小さい、百人規模の中継用の砦だ。
 駐留していた軍はすでに撤退し、食料庫も武器庫も空になっているはずだが、雨露をしのげる屋根があるのはありがたかった。ここから南の要塞までは50マイル、あと二日の道のりだ。ようやく兵士たちの顔にも安堵の色が浮かんだ。
 到着してみると、先客がいた。東の砦の後発隊、約二百人だった。
 予定よりかなり遅れていることになる。東の砦の司令官はバツの悪そうな顔で答えた。
「全面退却に反対する住民が多くてね。予定より半日も遅れて発ったのですよ」
「では、氏族の攻撃を受けたのか」
「いえ、偶然にもカタラウニ族の攻撃開始もかなり遅れたのです。連絡がうまく行かなかったのでしょう。危機一髪で全員避難することができました」
「そうか」
 レノスは、その偶然を神々に感謝した。
 夜は久しぶりに、兵舎の寝床でぐっすりと眠った。あくる日の早朝、東の砦の一行を送り出してから、砦に火を放った。
 その日は天候にも恵まれ、旅ははかどった。様子見の矢がときおり飛んで来ることもあり、決して油断はできなかったが、南の要塞に近づいたという安心感に、肩の力が少しだけ抜けた。
 最後の野営地では、土木将校カイウスや医師グナエウスら主だった第七辺境部隊の面々が、レノスたち殿(しんがり)軍の到着を待っていた。
「よくぞご無事で」
「さっそく負傷者を診ましょう」
 補給係のルスクスがふてくされて座っている空っぽの馬車の荷台が、臨時の救護室となった。
「けっ。無事を祝って乾杯したいが、もうワイン一滴すら残ってませんぜ」
「南の要塞に着いたら浴びるほど呑むさ」
 翌朝、野営地を出発するときは、泥のように疲れていたが、一同の顔には自然に笑みが浮かんでいた。
 あと少し。あともう少しで、この永遠に続くかに見えた逃避行は終わるのだ。
 前方から、軽やかなひづめの音が聞こえてきた。
 伝令に派遣していた騎馬隊のセイグだった。
「すでに第三陣までは南の要塞に入っています。全員無事です。ほかの砦からの避難民も、続々到着しています」
 若者の声は、喜びと興奮に上ずっていた。
「そうか」
 レノスは膝頭がゆるみ、馬からずり落ちそうになって、あわてて手綱を握り直した。
「それだけじゃありません。要塞の司令官が援軍二百騎を迎えに寄こしてくれました。川の渡しで第四陣を護衛してから、こちらに向かって来る予定です」
「それじゃ、もう着いたも同然だぜ」
「ああ、あと少しだ。みんな頑張ろうぜ」
 口々に叫ぶと、兵士たちは見違えるように確かになった足取りで進み始めた。
「司令官どの」
 セイグがにこにこして近寄ってきた。「ルーンも元気です。フラーメンが髭づらをこすりつけて大泣きさせていましたよ」
「そうか。道中ずっとあの子を守ってくれたのだな」
 ふたりは轡を並べて、会話を交わした。「ルーンはどんなに辛い行軍の途中も、ほとんど泣かなかったそうです。きっと勇敢で賢い男に育ちますね。セヴァンと司令官どのの息子なんだから」
「うれしい言葉だ」
「是非そうなってほしいです。ルーンは僕と同じだから」
 セイグの灰色の目は、冬の薄日を受けて優しく細められた。「混血であることは良いことばかりではない。でも、ルーンなら、それを乗り越えて強く生きてくれると思います」
 レノスはうなずいた。
「心配はしていない。いつかローマ人も氏族も見分けがつかない日が来るだろうから」
「ああ、そうですね。そうなったらいいな」
 その日には、もう領土をめぐって血で血を洗う戦いをする必要はなくなるのだ。種族の違いなど誰も気にも留めず、ともに耕し、ともに狩りをし、酒を酌み交わす。アイダンとともに夢見た光景。何十年かかるか、何百年、いや何千年かかるかわからないけれど。
 夢想にふけりながら馬を進ませていたふたりも、旅の終わりに有頂天になっていた兵士らも、誰も異変に気づかなかったのだ。
 ひゅっと空気を切り裂いて、空を一本の矢が飛び――まるで吸い込まれるようにセイグの背中に突き刺さった。
「セイグ!」
 レノスは即座に馬から飛び降り、転げ落ちた騎馬兵に駆け寄った。続いて何本もの矢が周囲の地面に突き刺さった。アラウダが鋭いいななきを上げて、ゆっくりと倒れて行くのが目の端に見えた。
「司令官、あぶない」
 誰かに腕をつかまれて、ぐいと引き戻された。たちまち盾の壁ができて、レノスをすっぽりと覆う。
「あの藪の後ろに撤退」
「待ってくれ。セイグがまだ」
 部下たちに無理やり引きずられ、セイグとアラウダの体がどんどん遠ざかる。
 雄叫びをあげて突進してきた戦化粧の戦士たちには見覚えがあった。クレディン族の戦士たちだ。そして、弓矢を箙(えびら)に戻して、剣を手に持ち替えながら走ってくるのは、戦士長クーランだった。
 彼の姿を見たとき、憤怒が体内を駆けめぐった。
 レノスは、滅茶苦茶に暴れて部下たちの手を振り払うと、剣を抜き、氏族の戦士たちの群れに突っ込んだ。ラールスも、そして兵たちもあわてて後を追う。
 まるで火山口から噴出する炎のようだった。立ちふさがる男たちを剣でなぎ払いながら、レノスが目指していたのは、ただひとり。
「クーラン!」
 よくも、セイグを。アラウダを。よくも、セヴァンを。
 クーランもレノスの姿を見止めて、まっしぐらに向かってきた。
「ローマの女狐め!」
 かっと目を見開き、剣に怒りを乗せて叩きつけてくる。その重みは、老いたとは言え、さすが一族の戦士長だった。
 ラールス隊も加わり、あたりはたちまち、敵味方の盾が激突する乱戦の場と化した。
 レノスはクーランの斬撃をしっかと受け止め、倍の威力にして返した。真っ赤になった頭の中心にあるのは、ただただ、冷えた芯を持つ憎悪だけだった。
 おまえがわたしの大切にしていたものすべてを壊してしまった。
 おまえさえ。おまえさえいなければ。
 剣圧に押されて、クーランの足がよろめいた。レノスは、さらに逆方向からの攻撃を叩きつけた。
 完全に平衡を失い、老戦士は地面に崩れ落ちた。
「クーラン」
 もう一度名前を叫び、剣を握りなおす。敗者の心臓に剣先を確実に突き立てられるように冷酷に計算して。

――レウナ。やめろ。

「セヴァン?」

 レノスの剣を持つ手がだらりと下がる。
 セヴァン。おまえなのか。
 そうか。コロセウムでおまえにわたしの声が聞こえたように、わたしにもおまえの声が聞こえたのだな。
 憎しみに我を忘れて、わたしはとんでもない過ちを犯すところだった。新たな戦いは、新たな憎しみを生み出してしまう。わたしも、おまえも、そんなことは望んではいないのに。
 わたしたちが望んでいたことはただひとつ。
 レノスは、穏やかな声で呼んだ。「クーラン」
 戦士長の堅く閉じていた目がうっすらと開かれた。
「ローマ人は長城の向こうに去る。わたしもルーンもだ。もうクレディン族の村には二度と帰らない」
 氏族の戦士たちも、ローマの兵士たちも剣をおろし、氏族のことばで語るレノスの口元をじっと見つめた。
「わたしとあなたの間に、もう憎しみは必要ないのだ。今までのことは忘れよう。元気でいてくれ。そして、ルエルとメーブを助け、小さなアイダンを立派な族長へと育ててくれ」
 白く濁ったクーランの瞳は、頑なにレノスを見ようとせず、虚空を睨みつけていた。
「クレディン族の村に平和と喜びが続くように祈っている。皆も息災にな」
 レノスは剣を剣帯に戻し、踵を返した。ラールスも、氏族たちを警戒しながら、その後に続く。
「アラウダ」
 口の端に泡を吹きながら、腹を力なく波打たせている愛馬の首をレノスは掻き抱いた。「今までよくわたしのために走ってくれた。ありがとう」
 とどめを刺す、ブツリという鈍い音がした。
 氏族の戦士たちは、ローマ軍がすっかり立ち去ってしまうまで、誰ひとり動こうとしなかった。
「司令官どの」
 騎馬隊長ウォーデンが駆け寄ってきて、明るい叫び声を上げた。「セイグはまだ息がある。グナエウスが絶対に死なさんと頑張っている」
「本当に?」
 部下たちの大歓声の中、レノスは小さなうめき声とともに、天を仰いだ。アラウダがセイグの身代わりになってくれたのだ。
「みんな」
 レノスは指揮棒を高々と上げて、叫んだ。
「応急処置が終わり次第、すぐに南の要塞に発つ。あと少しだ。みんな、セイグのために祈ってくれ」


 森に、雪が音もなく降り積もっていた。
 セヴァンは灰色の空を仰ぎ、後から後から落ちてくる雪片を全身で受け止めていたが、枝で作った杖を頼りに、ゆっくりと小屋の中に歩いて戻った。
 炉のかたわらでしっとりと濡れたマントを脱いでいると、入り口に訪い人の気配がした。
「もう歩けるようになったのか」
 数ヶ月ぶりに見る、カタラウニ族の族長の姿だった。
 マントを薪架に掛けると、セヴァンは長椅子に座った。「久しぶりだな。どうしていた」
「ローマの東の砦に総攻撃をかけた。と言っても、血は一滴も流れてはいない。開始の合図を昼だと勘違いして、もたついている間に、やつらは全部逃げてしまった。砦はもぬけのからだ」
 ラモントは意味ありげに笑った。セヴァンの頼みどおりに取り計らってくれたのだ。
「実にみごとな退却だったよ。ダエニ族、カタラウニ族、クレディン族、マヤカ族の土地に住んでいた全てのローマ人が霧のようにかき消えてしまった。南の高い壁の向こうへとな。後を追いかけた者も、ことごとく出し抜かれた。略奪しようにも、いくつかの砦は火を放たれて、めぼしいものは何も残っていなかった」
「火を……放った?」
「ああ。おまえのいたあの砦も、レウナは町もろとも火をつけて逃げていったそうだよ。見事な逃げっぷりだった」
 ラモントが言い終わるや、セヴァンは声をあげて笑い始めた。
「ウェルキンゲトリクスの焦土作戦を……あの人はやったのか」
 意味はわからないが、そのつぶやきに誇らしげな響きが込められていることに、ラモントは気づいた。
「ルエルからの報告では、レウナも子どもも、壁の巨大な砦の中に逃げこんだようだ。氏族連合軍は何度か攻撃をかけたが、雪が本格的に降り出したのを機にあきらめた。まったく何も得るところのない不毛な戦いだったよ」
 ラモントは狩人の大切にしている壺から蜜酒を汲んで、炉端で一息にあおった。
 長い沈黙のあと、彼は訊ねた。「これからどうするつもりだ」
「雪が溶けたら、村に帰る」
「カシの木の聖者に見つかれば殺されるぞ」
「それでも、ここは俺の故郷だ。帰らねばならない。たとえ殺されても」
 ラモントは酒坏の底に残った酒の澱を、炉の中にぶちまけた。炎はつかのま、両手を広げて受け止めるかのように膨れ上がった。
「本当にそうなのか」
「何が」
「おまえの故郷はどこにある」
 カタラウニ族の族長は立ち上がり、セヴァンの肩に手をかけた。
「自分の目で確かめてこい」


 雪が溶け、森の木々の根元からスミレやサクラソウが顔を出すころ、セヴァンは葦毛の愛馬にまたがって小屋を発った。彼が瀕死の床にある間ずっと、小屋の持ち主である狩人がエッラの世話をしてくれていたのだ。めったに自分からは口を開かない狩人に、セヴァンは心からの感謝をささげた。
 馬の背に揺られるのは五ヶ月ぶりだったが、全く苦にならなかった。冬のあいだの鍛錬の甲斐あって、やせ衰えた体はしなやかな筋肉をまとっていた。
 ラモントが前もって使いを送ってくれていたのだろう。村の門にはルエルが立っていた。
 弟は無言で兄を抱きしめると、肩をふるわせて泣いた。
「セヴァン兄さん……」
「長い間、心配をかけた」
 目と鼻先を真っ赤にした厩番のユッラが馬の手綱を引き取ると、木の門が大きく押し開かれ、広場にたくさんの村人たちが立っているのが見えた。
 だが、彼らはそれ以上近寄っては来なかった。子どもの頃から知っている顔ばかりだ。なつかしさに泣いている者もいたが、笑顔の者はひとりもいなかった。おびえるような目でセヴァンを見つめている。
 セヴァンは何かを探し求めるように顔をめぐらせ、歩き出した。道の舗装は剥ぎ取られ、水路はつぶされ、浴場やいくつかの施設が瓦礫の山と化していた。
 中央の族長の家は、屋根から立ち昇る煙もなく、しんと静まり返っていた。庭に植えたりんごの木は、雪を帽子のように被り、小さな実は青いまましなびていた。
 屋内に入り、冷えきった炉端と埃をかぶった食器を見たとき、足がそれ以上前に進めなくなった。
 そのまま家を出て、震える息を深く吸った。
 村を見渡す。
 俺は、ここで生まれ、育った。ローマの奴隷となり、世界のあちこちに連れ回された長い歳月、どれほどこの村に帰って来たいと願ったことか。
 何にも代えがたい故郷。大切なものはすべて、ここにあったはずだ。
 けれど今は、何もない。
 ルエルが、もの言いたげな目をして、外に立っていた。
「兄さん……」
「なんだ」
「クーラン戦士長が死んだ」
 クーランの家の垂れ幕を押し上げると、喪の衣を着た娘のメーブがぼんやりと座り込んでいた。孫のアイダンは、隅で膝をかかえていた。まだ12歳にもならないはずなのに、その顔はひどく老いて見えた。
 そして、部屋の一段奥まった場所に毛皮が敷かれ、戦士長の亡骸が厚布にくるまれて横たわり、そのかたわらには、白髪の妻が彫像のように静かに座っていた。
「クーラン」
 セヴァンはつぶやいて、そばに近づいた。
「ローマ人の討伐から帰って来てすぐ、高い熱を出して寝込んだの」
 泣き疲れてかすれた声でメーブが説明した。「年なのに無理しすぎたのよ。食べ物もほとんど食べずに、だんだんと衰弱して起きられなくなって……おととい息を引き取ったわ」
 首を振った拍子に、涙がメーブの頬を滑り落ちた。
「いっしょに討伐に行った戦士たちから聞いた話では、父はローマ軍に追いついて、レウナと戦ったらしいの」
「レウナと?」
「父は負けた。レウナは父を殺すこともできたのに、そうしなかった。クレディン族を頼むと言い残して、去って行ったというの。父はその姿を見て……自分のしたことを深く悔いたのだと思う。最期まで何も言わなかったけれど」
 妻は、クーランの体を覆う厚布をときどき直していた。まるで寒くないかと気遣っているように。
「お湯を沸かすわ。水を汲んでくる」
 その場にいることが耐えられなくなったかのように、壺を手に外に出て行くメーブに、「僕も手伝う」とルエルはあとを追いかけた。
 彼らと入れ違うように、クーランの弟が入ってきた。彼はセヴァンを見るなり目を見開き、駆け込んで来て、頭を垂れた。
「セヴァンさま」
「ブリアン。兄上のことお悔やみ申し上げる」
「ありがとうございます。よくご無事で」
「あなたも元気そうでよかった。北の砦にいた者たちは?」
「われわれも妻や子も、駐屯していたクレディン族の兵士たちも、皆無事です。全員、逃げ出すことができました」
 そして、レウナの命令で北の砦と町に火を放ったこと。その混乱に乗じて逃げ出したことなどを、手短に説明した。
 どこか遠くを見つめながら、セヴァンはかすかに笑みを浮かべて話を聞いていた。
「あの人はどんな様子だった?」
「威厳があり、命令はすばやく適確で、兵士たちからも絶大な信頼を得ていました。たった三日で町の住民全員を避難させるという、不可能なことをやってのけたのですから」
「きっとそうすると思っていた」
 セヴァンはうなずいた。「あの人は、一番あの人らしく生きられる場所へ帰ったのだろう」
「それでもなお、あなたのことを話すときは涙ぐんでいましたよ」
 ブリアンは、遠慮がちにセヴァンを見た。「連れ戻しに行かれるのですか?」
「そのつもりはない」
「北の砦にいた兵士たちは今、丘の斜面に小屋をいくつか建ててひそんでいます。春が来れば、西の森の一画に新しい村を作る予定です」
「そうか」
「その隠れ里に、レウナさまを呼び寄せてはどうでしょうか。あそこならきっとドルイドたちにも気取られません」
 セヴァンはもう一度首を振ると、クーランの遺体のかたわらにひざまずき、胸に手を触れた。
「クーラン。安らかに。アヴァロンでアイダン兄さんに会ったら、よろしく伝えてくれ」
 かたわらの妻に向かって無言で挨拶すると、隅でうずくまっている赤毛の少年に近づいた。
「小さなアイダン」
 少年は顔を上げない。
「クーランの孫として、りっぱな男になってこの家を継いでくれ。これからも、祖母上と母上を助けてやってくれ」
 頭に置こうとした手は、次の瞬間、振り払われた。
「……なんで赦せるの?」
「え?」
 アイダンは獣のようによつんばいになり、涙で光る眼でセヴァンをにらんだ。
「あなたはお祖父さんに殺されそうになったのに。復讐したくはないの? 復讐するなら、お祖父さんの代わりに僕を殺せばいい」
「……何を言ってる」
「赦すなんておかしい。僕なら絶対にゆるせない。僕は目を覚ましたお祖父さんに枕元で言ったんだ……どうしていきなりセヴァン叔父さんを刺したんだよって。なぜ話を聞かなかった、もっと話し合えばよかったのにって。背中から刺すなんて……お祖父さんは卑怯だって」
「アイダン。やめろ」
「僕は……ひどいことを。お祖父さんを殺したのは……本当は僕なんだ」
 少年はセヴァンの腕をすり抜けて、走り出した。水汲みから戻ってきたルエルと戸口でぶつかった拍子に壺はころがり、床に水がぶちまけられた。
 アイダンの後を追って、すぐにルエルも外へ飛び出した。クーランの妻はひそやかに顔を覆った。遠くでルエルが怒鳴る声、アイダンが泣き伏す声が風に運ばれて、家の中まで届いた。
 その様子にじっと耳をすませていたセヴァンは、目を開くと、かたわらで呆然としているブリアンとメーブに言った。
「悪いが、村の全員を広場に呼び集めてくれないか。話がある」


 村人たちはおずおずと、広場に集まってきた。
 セヴァンの無事を喜ぶ気持ちに嘘はないだろう。だが、困ったことになったと思っているのだ。
 たとえ一時にせよ、彼らはクーランに従った。セヴァンが築き上げてきたものすべてを叩き壊した。そのときは、ドルイドの命令どおりにすることが、唯一の生きる道だったからだ。
 だが、クーランは死に、死んだと思っていたセヴァンが生きて帰ってきた。そのことに彼らはひどく戸惑っている。きっとセヴァンを見るたびに、いつまでも負い目を感じることだろう。
 ルエルとアイダン少年は、互いの肩をきつく抱き寄せて、歩いてきた。ふたりとも泣きはらして、目は真っ赤だった。その姿を見て、セヴァンの揺れていた心はようやく定まった。
「クレディン族の族長の槍を、今日ルエルに譲ろうと思う」
 冷たく冴えた早春の風が、セヴァンのことばを隅々にまで響かせた。
「ルエルを中心に、クーランの葬礼を準備してくれ。戦士長にふさわしい、人々に語り継がれる立派な葬礼で、クーランをアヴァロンに送ってほしい」
 村人たちは、どう考えればよいかわからないという頼りなげな目で、セヴァンを見つめた。
「その喪が明けたとき、ルエルはメーブと結婚し、アイダンの父親となれ。族長の槍はルエルから、アイダンの息子アイダンに受け継がれる」
 口からことばが出て行くたびに、雲母が一枚ずつ剥がれ落ちるように自分の体を覆っていたものがなくなっていくのを、セヴァンは感じていた。
 クレディン族の未来は決まった。たとえそれが、自分の願っていた未来ではないにせよ。
 豊かさと平和の代わりに、争いと混沌が待っているにせよ。
 それを変えることができるのは、ルエルとアイダン、その後に続く族長たちだ。もう自分ではない。
「坊や……」
 群集の後ろで、乳母のコリンが小さく叫んだ。セヴァンの言葉に秘められている決意に気づいたのだ。
「兄さん、ここにいてくれるよね?」
 ルエルが蒼白な顔で近づいてきた。「いっしょにいて、これからも力になってくれ」
 セヴァンは首を振った。「そうしようと思って、戻ってきた。だが、戻って来てよくわかった。俺のできることは、もうここにはない」
「何を言ってる。僕たちは、僕は、セヴァン兄さんがいなければ駄目なんだ」
「おまえのすることは、ひとつだ」
 セヴァンはほほえんだ。「アイダンの父親となり、この子をりっぱな族長に育て上げてくれ」
 そして、隣にいる少年の手を取る。
「アイダン。過去に囚われるな。おまえの父親もクーランも、そして俺も、もう過去の人間だ。過去に縛られて悔やみながら生きる必要なんてない。おまえはおまえらしく、ルエルと力を合わせて新しい道を切り拓け」
「叔父さん……」
 セヴァンは顔を上げ、村人ひとりひとりの顔を訣別をこめて見渡した。
「クレディン族の上に平和があるように。俺はどこにいても何があっても、この村を忘れることは決してない」
「どこへ行くつもりです」
 ブリアンの問いかけに、セヴァンは少しの間、地面を見つめて考えこんだ。
「カシの森の聖者のところへ」
「えっ」
「メーブ。ウォードの汁を用意してくれないか。そして、俺の剣を」


 森の聖域の中で祭祀を執り行っていたドルイド僧たちは、突風のように襲いかかってきた闖入者になぎ倒された。
 松明の台は倒され、祭祀のための石塚は割られ、幾人かの僧のマントは知らぬ間に裾を切り裂かれた。
 木の柵の中に立っていたのは、抜き身の剣を下げ、顔と胸におどろおどろしい戦化粧をした半裸の氏族の戦士。
「誰だ、おまえは」
「サフィラの息子、クレディン族の前の族長セヴァンだ」
「生きておったのか」
「生きているとも。あなたたちの占いでは、傷を受けても死なない者には罪がないのだったな。俺に斬りつけたクーランが病で死に、俺は生き残った。神々は正しい裁きをくだされたのだ」
 木立に映った影がざわざわと蠢いた。
「なのに、クレディン族の村に俺は帰れなかった。ルエルや村の者は、あなたたちに服従し、呪いを畏れて俺を追い出した。俺はもう、氏族の土地で生きることができない。すべてあなたたちのせいだ」
 セヴァンは、持っていた剣を月明かりの中に突き出した。
「俺の取る道はふたつにひとつ。あなたたちを皆殺しにして、俺が正しいことを証明するか。もうひとつは、氏族を捨ててローマに与し、ローマとともに再びこの土地に攻め入るか」
 彼は喉の奥を鳴らして笑った。「どちらか好きなほうを選べ。あなたたちの託宣のとおりにしよう」
「気でも狂ったか。われらを脅すとは」
「正気だ」
「この聖所から出ぬうちに、精霊がおまえの心臓を握りつぶすぞ」
「俺はかまわん。試してみようではないか」
 戦士は腰に剣を戻した。「いつの日か俺は戻ってきて、おまえたちと、俺を追い出したクレディン族に復讐する」
 セヴァンは聖所の木の柵をくぐって 外に出た。暗いカシの森を進むときも、呪いを恐れていたことが嘘のように心は平穏だった。
 途中で沼に入り、凍えるような水に浸りながら、体から戦化粧を洗い落とした。ただひとつついた嘘をいっしょに洗い落すように。
(誰が、クレディン族に復讐などするものか。あそこは俺が生まれた村だ。たったひとつの故郷だ)
 そして、木々の梢からこぼれ落ちる銀色の光に身を浸す。
(だが、俺は今夜をかぎりに、この故郷を捨てる。明日から俺の故郷は)
 剣を持つ両手を高々と差し伸べた。どこへ行こうと、月は変わらずそこにあるだろう。
 剣を放り投げる。いままで大勢の命を奪ってきた剣。沼はそれを波紋とともに懐深く受け入れた。
 水から上がり、アカシカのマントを羽織って旅装を整えると、エッラを繋いでいた木からほどいて歩き始めた。
 森の端、何本かの若木が生えている場所を通り過ぎる。
 それは、セヴァンが奴隷になったばかりのころ。砦の普請に使うカシの木を切り倒したあとに、レノスはこのあたりにドングリを埋めたのだった。

『なあ、ゼノ。五十年先を見よう。五十年たてば、ここから生え出たカシでおまえの子孫が家を建てるかもしれぬ。五十年たてば、ローマと氏族は笑いながら、ともに狩りをしているかもしれぬ。望んでいる限り、可能性はある。あきらめれば、そこでおしまいだ』

「ああ。俺はあきらめない」
 セヴァンは笑みとともにつぶやいた。あなたがそばにいてくれる限り。
「レウナ。待っていてくれ。今あなたのところへ行く」


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