(2)
客を迎え入れる準備のできた妓楼は、入り口の垂れ布の端を少しだけ巻き上げていた。
中を覗くと、香草を焚いた煙が天井に立ち昇っている。そして、思い思いの姿でくつろぐ、しどけない姿の女たち。
衝立で切られた一画からは、むつみ合う男女の気配が漏れてくる。
「待て」
レノスはあわてて引き返そうとしたが、部下たちにはさまれて逃げ道を失った。
「上官が、そろいもそろって不在というのは、いかにもまずい。どうせなら別々に」
フラーメンは、『何を言ってるんだ、この坊ちゃんは』という顔をした。
「副官たちに、留守中の指示はちゃんと残しています。もちろん、我々がどこへ出かけるかは承知の上で」
噛んで含めるように続ける。「それに、ものごとには秩序というものがあります。念願の給料が入った、行きたいところは皆同じとなれば、上官が最初に模範を示すのが、軍の規律というものでしょう」
その持って回った言い方に、レノスはぴんと直感した。「まさか……スーラどのも、いつも来ておられたのか」
「もちろんですとも」
(いくら、奥方を早く亡くされたとは言え、あの御方も良い歳をして――)
そして、部下の分の揚げ代は当然のように、スーラが払っていたのだろう。
「あ、金のことはご心配なく。今夜は新司令官の就任祝いということで、女将がただにしてくれるそうです」
逃げる口実もない。
「もしや、司令官どのは」
うしろにいたラールスが、不機嫌な声でぼそりとつぶやいた。
「まさか、『あちら』を嗜む御方ではないでしょうな」
「ば、ばかを言うな!」
気色ばんでふりむくと、ラールスは決まり悪げに「なら、よいのです」と答えた。
軍で男色だという烙印が押されると、やっかいなことになる。訓練生時代から、レノスには絶えずその手の陰口がつきまとっていた。いわく、婦人に対する態度が冷淡だ。女も買わず、恋人がいる気配もない、などなど。
帝都なら、まだしも、男ばかりがたむろする辺境の砦でそんな噂を立てられるのは、女性だということがバレるよりも、なお悪い状況だ。
ここは、なんとかごまかさねばならない。
「わかった。では行くぞ」
「おお!」
妙な出陣のおたけびをあげて、砦の隊長たちは悠然と中に入った。
とたんに、広間は黄色い歓声で満ちた。
「そちらが、新しい司令官さま?」
「きゃあ、いい男ぶり!」
フラーメンはにやにやした。「ほう、さっそく司令官どのは、女心をつかみましたな」
ふたりの百人隊長もたちまち、なじみの女に抱きつかれている。
(さて、どうするか)
レノスはいよいよ覚悟を決めて、部屋を見渡した。
誰か、適当な女をひとり選ぶしかあるまい。明かりを消すように命じ、服も脱がず、暗がりの中でむつみ合いの真似ごとをする。すぐ果てたことにすれば、相手も納得するだろう。
そのためには、うぶな、経験の浅そうな女を選ぶ必要があった。
品定めをしていると、奥からひとりの女性が進み出た。
歳は三十歳に近いだろうか。ローマ風のひだの細かい優美なストラをまとっている。糖蜜色の髪は高く結い上げられ、古代の塔のように美しく巻かれている。唇は真紅に塗られ、つややかで肉感的だ。仕草の雅さは、帝都の貴婦人と比べても遜色ない。
辺境の地で、しかも妓楼などにいるはずのないような美貌だった。普通の男なら、舞い上がってしまうだろう。普通の男なら――。
「司令官さま、ようこそお越しくださいました」
彼女はしずしずと腰をかがめた。「わたくしは、当妓楼の女主人、フィオネラと申します。北の砦を束ね、この地方一帯の平和をお守りくださる尊いお役目を、つつがなく果たされるよう、お祈り申し上げます」
「丁寧な挨拶、いたみいる」
レノスは答えた。
「今宵は、ふつつかではございますが、わたくしが司令官さまの夜伽を務めさせていただきたいと存じます」
(この女主人が、みずから?)
思わず、息がとまった。どう考えても、この女が経験が浅いとは思えない。
「どうぞ、こちらへ」
ひらひらと激励の手を振って別室に消えていく部下たちを横目でにらみながら、レノスは案内された最奥の部屋に向かっていくしかなかった。
このままでは間違いなく、秘密がばれる。腹が急に差し込んだふりをして、ともかくも逃げるしかないだろう。
案内されたのは、落ち着いた色合いの部屋で、調度も敷物も上質なローマ渡来のものだった。
寝床を整えたフィオネラは、部屋の入口で居心地悪げに立っているレノスに気づくと、ほほえんだ。
「どうぞ、戸を閉めてお入りください」
「あ、ああ。そのことだが、女将」
「どうなさいました」
女主人は、眉をひそめた。「わたくしでは、ご不満ということでしょうか」
「いや、そういうことではない」
レノスは途方に暮れながら、マントを留めるブローチを意味なくいじった。「問題はわたしの側にあるのだ。つまり……」
とたんに、彼女の表情がやわらいだ。
「問題は、あなたさまが女性ということでしょうか」
「えっ」
妓楼の主は、床の敷物の上に居住まいを正し、頭を垂れた。
「申し訳ありません、『レウナ』さま。お遊びが過ぎました。あなたさまがあまりに凛々しい殿方でいらっしゃるので、つい、からかいたくなってしまったのです」
「なぜ、その名前を――」
「前司令官のスーラさまからうかがいました」
顔を上げたフィオネラは、まっすぐにレノスを見つめた。「スーラさまはわたくしに、くれぐれもあなたさまを頼むと言い置いてゆかれました。深い秘密をお持ちの方ゆえに、女のわたくしがお助けできることもあろうかと」
「そうだったのか」
レノスは虚脱して、寝具の上に座り込んだ。
スーラどのは、とうに見越しておられたのだ。部下たちが新しい司令官を無理やり妓楼に誘い、レノスが窮地に陥るであろうことを。
フィオネラは立ち上がり、小さい卓の上から酒肴の乗った盆を運んできた。
「お助けできることは、もうひとつございます」
錫の杯に、慣れた手つきで壺の酒を注ぐ。「わたくしが、丘の向こうの氏族の出身であることです」
「なに」
杯を受け取りながら、女主人の顔を見た。「あなたは、クレディン族なのか」
「はい。姉とわたくしの姉妹は、二十年前に氏族の村がローマ軍の略奪を受けたときに、ここへ連れてこられました」
彼女の微笑は、ランプの灯心のように一瞬の揺らぎを見せたが、すぐに穏やかさを取り戻した。
「姉はまもなく身ごもり、子を産みました。数年前に亡くなりましたが、その子が今はローマ軍の騎馬隊に属しております」
「――セイグの叔母上であられたか」
レノスはうめいた。そう言えば、どことなく面立ちが似ている。髪の濃い金色も。
「それにしても、この砦の兵士が略奪を働いていたとは知らなかった。さぞ苦労なされただろうな」
「スーラさまも、そうおっしゃって、労わってくださいましたわ」
灰色の瞳に、涙が宿っている。
「スーラさまには、とても良くしていただきました。クレディン族について、わたくしの聞き及ぶかぎりのことはお伝えするようにと、命じられております。どうぞ、なんなりとお尋ねくださいませ」
前司令官は、大切なことを何も言わずに去ってしまったと思っていたが、ひそかに、こんな心配りをしてくれていたとは。確かに、『後のことは、妓楼のなじみの女に頼んでおいた』とは言い出しにくかったであろう。
「ふ……はは」
「司令官さま?」
「いや、失礼。ではさっそく聞きたいことがある」
レノスは杯を置き、身を乗り出した。
「先だっての、町への火つけの主謀者は、まだ子どもであるように見えた。素性に心当たりはないか」
女主人の表情が曇った。
「それは……族長の息子、セヴァンさまです」
クレディン族の族長サフィラには、三人の息子がいる。
次代の族長と目されているのは、今年十九になる長男のアイダン。母親から赤みがかった髪と、暖炉の火のように物静かだが情熱的な気性を受け継いでいる。
次男セヴァンは十五歳で、鈍い金色の髪は父親譲りだが、ナイフの刃のような荒っぽい気性は、誰にも似ていなかった。
「ハイイロオオカミが、セヴァンの母親なのだ」と人々は言い交わしていた。
茶色の髪を持つ三男のルエルは九歳で、まだ村の同い年の少年たちとひとつ屋根の下で暮らす年齢だ。
――フィオネラの話のあらましは、こんな具合だった。
「族長の息子か」
面倒な話になった。
略奪や放火を繰り返しているのが氏族のひとりというだけなら、その者さえ捕まえて罰すればよい。だが、族長の子となれば、裏で指示を出しているのは父である族長かもしれない、ということになる。
つまり、クレディン族全体が、ローマ帝国の支配に反逆していることになるのだ。
「どうすればいい」
族長サフィラに直接会って、話をしたい。だが、この数年、族長に会ったローマ人はいない。税の受け渡しは村の外で税徴収人を通して行われ、ローマ人は村の中へ入れないのだ。
執務机の前で頭を抱えていると、扉を叩く音がした。
「司令官どの!」
補給係のルスクスだった。腹をゆすりながら、いつも口の中で何かを悪しざまにののしっている男だ。クレディン族の先祖がハイイロオオカミならば、こちらはまさにイノシシと言ってよかった。
「小麦の補給を本部に願い出てくださるという話は、どうなりましたか」
「ああ、あれな」
レノスは、深々とため息をついた。「申請するにはしたが、却下された」
帝国のいくつかの属州での前年の大干ばつが祟り、穀物が軒並み値上がりしているというのだ。海賊に輸送船が襲われることも、しばしばだった。
そのために、この春に配給を受けた小麦は、ひどく実入りが少なく、屑同然のものも多かった。
夏になり、いよいよ砦の食糧事情はひっ迫していたのだ。
「氏族を脅して、小麦を供出するように命じたらどうです。応じない場合は攻撃すると」
「だめだ」
レノスは即座に強く言い返した。「それでは略奪と同じだ。略奪は許さぬ。定められた税以外を取ってはならない」
「そうですか」
補給係は、がりがりと頭を掻いた。
「けど、どうするんです、いったい。毎日大麦の粥ですか。塩漬け肉だって乏しいし、玉ねぎもチーズも干しイチジクも全然足りないです」
「どうするかな」
レノスはふたたび窓から夏空を見上げた。こういう話を建物の中でしていても、いっこうに事態は良くならない。
外には豊かな土地が広がっているではないか。森ではノイチゴやコケモモがたわわに実っている。イチゴ狩りやキノコ採りは奴隷の仕事だとしても、川では魚が釣れるだろう。平原を走るウサギやシカを追い――。
レノスは手元に目を落として、じっと日誌の日付を見た。
「そうだ!」
いきなり椅子から飛び上がった司令官に、ルスクスはひえっと身を縮めた。
八月十三日は、狩りの女神ディアナの祝祭にあたっていた。
本部への報告書に記すための表向きの理由は、女神にささげものを奉献し、軍の団結を誓う祭りということになっていたが、実際は、砦の兵士たちの糧食を確保し、食卓をにぎやかに彩るために、狩りに出かけるのだ。
早朝に、砦の軍団兵士たちは、西を目指して出発した。くじではずれた留守組たちは世の終わりのような顔をして見送った。
とりあえずの目的地は、砦の周囲に点在している監視塔のひとつ、『西の塔』だった。その近くの森でシカをよく見かけると巡視隊が報告していたからだ。
騎馬隊と将校は馬で、フラーメン隊とラールス隊の兵士たちは徒歩で向かう。
みなの顔は興奮に輝いていた。警備と演習だけの味気ない日々から、たった一日とは言え解放されたのだ。
陽が高く上ると、革袋に入れた水はすぐにぬるくなった。小川の流れはゆったりと煌めき、荒地は紫と黄色のつづれ織りに染まっている。
なだらかな斜面を馬で登る途中、レノスは不思議なものを見つけた。
何もない平原の真ん中に、朽ちかけた石垣が伸びている。
積んだ石のひとつひとつは角が削れて丸くなり、石が欠け落ちた部分には、小さな青リンドウが生え出でて風に揺れていた。
「これはなんだ」
「氏族たちの遺跡ですよ」
フラーメン百人隊長が、隣の馬上から大声で返した。「ローマ軍が島に来るまでは、どこぞの氏族が、境界のしるしとして使っていたそうです。もともとは、千年前の聖地の址をそのまま利用したものだと言います」
「千年前? そんなに古いものなのか」
「さあ、島の言い伝えってだけで、千年だか五百年だかわかりゃしません。なにせ、碑文も何も全然残ってないんですから」
「それもそうだな」
レノスは、苔むした古い石の匂いを深々と吸いこんだ。
帝国軍がこの島に来て、たかだか百五十年。だが、それ以前にこの島では、何百年に及ぶ歴史が刻まれ、人々は古くからの日々の暮らしを営んできたのだ。
監視塔に着くと、野営の準備をする者を残して、歩兵たちは十人隊ごとに、森とその近くを流れる川の周囲に散開した。騎馬隊もそれぞれ少人数の組で出発した。
森の木々や丈の高い草の陰に隠れながら、獲物の来るのをじっと待つことになる。
急ぐ必要はない。北のブリテン島では、この季節はまだ陽は長く中天にとどまり続けるのだ。
レノスは兵たちから少し離れた、ナナカマドの藪のうしろに膝をついた。
沼地の泡のように、腹の底に高揚感が湧き上がっている。それとともに、奇妙ななつかしさも感じた。
昔もこうやって、わくわくしながら獲物が来るのを待っていた。草の香り、じくじくと湿った地面の感触。太陽の焼ける匂いと木陰の涼しさ。何もかも、昔から知っていたものだ。
風はずっと前から止んでいた。あぶが羽音を立てて飛び回る以外、音を立てるものはいない。
背後で、がさりと音がした。
水を飲みに来たノロジカやアカジカか、野ウサギか、それとも羽根を休めに降りてくるカモや赤ライチョウか。
身を屈めながら、ゆっくりと体の向きを変える。
森の中で、動くものがある。レノスは槍を手に、音のしたほうに静かに進んだ。
陽の光のほとんど届かない、地面に近い暗がりの中に、ふたつの黄色い光がらんらんと輝いていた。
(オオカミ?)
槍をかまえ直し、じりじりと近づこうとしたとき、まったく予測もしない方向から荒々しい気配が現れた。
それは金色の髪をした氏族の少年だった。戦化粧はしていなかったが、レノスには誰だかすぐにわかった。
町に火がつけられた夜、月に照らされた丘から彼を不敵に見下ろした少年。族長の息子、セヴァン。
彼の手には、引きしぼられた弓があった。矢じりの先は、まっすぐにレノスの心臓を狙っていた。
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