(1)
静寂は破られ、いちどきに大勢の人間の発する、けたたましい音が押し寄せてきた。
赤い盾が回りを取り囲んだかと思うと、レノスの体は何本もの腕にかかえられ、後ろに引きずり戻された。
放せ。放さんか。レノスはわめいた。まだ戦える。
「まったく、あんたって人は」
フラーメンの半泣きの声が聞こえた。「司令官のくせに、誰よりも先に敵のただ中に飛び出したりして、いったい何を考えてるんですか」
町の広場が、臨時の救護所に早変わりしていた。負傷者が増えすぎて、砦まで運ぶ余裕がないのだ。
民家から担ぎ出されたわら布団の上に寝かされ、包帯兵に鎧と胴着を脱がされた。傷は肩から腕にかけてだったため、厄介ごとにはならずにすんだ。
もうひとりの兵士が酢とワインを混ぜた液体を持ってきた。
「麻酔はいらん」
レノスは、かすれた声で叫んだ。「すぐに戻らねばならんのだから、応急手当だけしてくれ」
ふわりと火の粉が飛んでくる。町の門が燃え上がったのかもしれないと焦る。だが、それは兵士が近づけた松明の火だった。
グナエウスが彼のそばにかがみこんで、言った。
「もうちょっと、落ち着けないのかね。司令官どの」
ギリシア人の軍医は将軍のように高飛車に言った。ふだんは温厚な男だが、治療中は軍隊の序列など、彼の頭から吹っ飛んでしまうのだ。「部下を信じて、寝ておりなさい。今はわたしの指示に従うのが、あんたの役目だ」
望みどおり麻酔はされなかったが、その分、治療は激しい痛みをともなうものだった。包帯が巻かれ、手当てが終わると、とたんに冷たい震えが来て、止まらなくなった。
兵士の松明の動きにつれて、広場の様子がぼんやりと見えた。そこここに、血だらけの兵士が横たわっている。さっきから、彼らの悲痛なうめき声が途切れることなく耳に入ってきていたことに、ようやく気づいた。
「わたしのかぶとは、どこだ」
うわごとのように繰り返しながら、体を起こそうともがいた。「早く戦場に戻らねばならん。わたしの剣は」
這いずるようにしてつかんだ剣は、赤黒いしみで汚れていた。
それを見たとたんに、心の底に封じていた記憶が一度に解き放たれた。その血がアイダンのものであることを。それをアイダンの腹に差しこんだ瞬間の、柔らかく粘つくような感触を。
(わたしは、この剣でアイダンを刺した)
震える手で柄を握りながら、レノスはぼんやりと思った。わたしが、殺した。アイダンを。大切な友を。
なぜ、こんなことが起きたのだろう。アイダンとは、いつかまた狩りに行こうと約束したのに、殺し合いをするつもりなどなかったのに。
もっとほかに方法はなかったのか。氏族との停戦や和解の道が、どこかにあったのではないか。
だが遅い。もう、遅い。指揮官を殺されたクレディン族は、復讐のため狂気のように最後の一兵まで送り出してくるだろう。もう誰にも、この戦いは止められない。
片膝をつき、かろうじて立ち上がったレノスの耳に、今までの闘いの叫びとは違う、新しいどよめきが聞こえてきた。まるで地鳴りだ。
「援軍だ」
「五百人の援軍だ」
砦の門から出てきたひとりの伝令が、ころげるように広場に駆け降りてきた。
「司令官どの!」
彼は口を顔いっぱいにして、喉もつぶれよと叫んでいた。「援軍です。伝令が援軍を連れて帰ってきました。敵はそれを見て退却していきました。我が軍の勝利です!」
「昨夜遅く、要塞から一個大隊五百名、騎兵小隊三十名が出発しました」
南の要塞の騎馬隊隊長は、レノスの前にて説明した。「その進軍の途中、先行して偵察をおこなっていた騎馬隊が、貴殿の送られた伝令ふたりと遭遇したのです」
ただちに、後続の大隊にこのことを伝える一方、騎馬隊は、一刻も早くと必死で懇願する伝令に先導されて、北の砦に急行した、ということだった。
その大役を務めおおせたセイグとペイグは、彼の後ろに埃まみれで立っていた。
「だが、昨日の夜と言えば」
東の砦が襲撃されたとの一報が入ったばかりで、伝令もまだ出発していないころだ。なぜそんなにも早く、救援隊が出発できたのか。レノスの問いに対する答えは、ごく簡潔なものだった。
「東の砦からの伝令が、昨夜のうちに要塞にたどり着いていたのですよ」
東の砦の司令官は、急を告げる伝令を二手に分けて送っていたのだ。北の砦に向かった伝令は、途中で氏族の矢を受けて力尽きてしまったが、南の要塞への伝令は首尾よく辿り着いた。ただちに救援のために出発した要塞の部隊が、途中で幸運にもセイグとペイグに出会ったのだ。
「ありがたい。神々のご加護だ」
「まさしく」
騎馬隊長は深くうなずいた。「我が軍の指揮官は、五百人を二手に分けて、北と東に向かわせるつもりです。なにごともなければ、明後日の未明には、二百人の救援がここに到着するでしょう」
「明後日の未明」
まだ、一日半ある。それでも、覚悟していたよりはずっと早いのだ。
騎馬隊長が出て行ったあと、「よくやった」とレノスが小声でセイグとペイグを褒めると、ふたりの若者は、照れたように頭を下げた。
「ところで、タイグはどこにいますか。さがしても姿が見えないのですが」
功労者をねぎらうには、最悪の知らせだった。タイグが戦いで重傷を負ったことを告げると、ふたりは蒼白になり、礼もせずに駆け出していった。
その後ろ姿を見送ったあと、レノスは崩れ落ちるようにして書机の椅子に座った。いちどきに虚脱感が襲ってきた。腕の傷はていねいに縫合されていたが、まだひどい熱と痛みを持っている。
「あいつらの機転のおかげで、砦は救われたようなものだ」
目を閉じて、つぶやく。
氏族が、たった数十人の騎馬隊を本格的な救援部隊と勘違いしたことが、戦況を一気にひっくり返した。セイグとペイグは、戦場に飛び込むなり、ラテン語と氏族のことばで叫んだのだ。「援軍だ、五百人の援軍だ」と。
わかってみれば、まるで詐欺のような結末だ。それだけ、氏族に冷静な判断ができなかったということか。
「なにしろ敵軍は首領を失い、動転していましたからね。対して、こちらの主力兵の陣営は、援軍の知らせに一気に奮い立った。ここぞ勝機と見て、まるで戦象のように奴らをぐいぐい押し下げ、騎馬隊と軽装歩兵が側面から追い打ちをかけ、氏族のやつらをちぎっては投げ、ちぎっては投げ――」
フラーメンは恍惚とまくしたてていたが、傷が痛んだらしく、水が止まった水車小屋の粉ひき機のように、唐突にふうっとため息を吐いた。
「みんな、司令官どのの突撃を見て、たまげたんですよ」
手当してもらった太ももの傷を痛そうになでながら、彼はしみじみと言った。「なにせ、前にたちふさがる者は、ことごとく粉砕する勢いでしたからね。あんな戦いは見たことがありませんでした」
「そうだったか」
「とりあえず、あれを見て、みんな火をつけられちまったんです。一年前は訓練を逃げ出すことしか考えていなかった連中がねえ。別人のような勇猛果敢な戦いぶりでした」
「氏族はどうなった」
「援軍の報を聞いて、まずダエニ族が総崩れになり、一目散に逃げていきました。しぶとく抵抗していたクレディン族も、やはり最後にはちりぢりになっていきました」
味方の勝利を喜ばしく思いながらも、レノスの心はじくじくと痛んだ。
「ところで、ラールスが見えないな」
「残党狩りの討伐隊を指揮しています」
「残党狩り?」
意外なことばに、レノスはもたれていた漆喰の壁から身を起こした。「今の状況で、そこまでする必要があるとは思えないが」
「おことばですが、司令官どの」
フラーメンは直立不動の姿勢で、彼らしくない暗い激情に顔をゆがめた。
「クレディン族のもうひとりの族長の息子は生き延びています。やつを野放しにしておいてはなりません」
「……なぜだ」
「やつは狂犬です。兄を殺されたのを見て、たったひとりでうちの陣営の中に突っ込んできて、何人もぶった切られました。大勢で応戦したのに、かなわない。あんな危険なやつを野放しにしていては、本当に勝ったことにはならないとみんな感じているんです」
レノスは、ふらふらと立ち上がった。
アイダンが倒れたときのセヴァンの絶叫が、まだ耳の奥に残っている。
――兄さん。兄さん!
レノスは机ごしに手を伸ばして、フラーメンの腕をぐいとつかんだ。
「馬を出せ。今すぐ!」
百人隊長は、緑色の目を見開いた。「……助けに行くおつもりですか」
「戦闘は終わったんだ。残党狩りなどしては、氏族との絆は永遠に戻らん」
「ここまで来て、絆なんてありえません!」
「力で屈服させても、平和はない。人の心に、恨みは永久に残り続けるんだ!」
言い争いながら扉を開け放ったとたん、暗闇の中で亡霊のように立っていた兵士にぶつかりそうになった。
「司令官どの」
ペイグの、うつろな声が響いた。「……タイグが、たったいま死にました」
月の光の届かぬ暗い森の中で、少年はうずくまっていた。
腕に抱いている犬は、どんどん冷たくなっていく。
「イスカ」
呼びかけても、鼻づらをこすりつけてこない。腹の毛は血でぐしょぐしょに濡れている。この怪我でここまでたどり着けたのが、奇跡だった。レノスの背後にいたガリア人の百人隊長が、イスカに致命的な深手を負わせたのだった。
セヴァン自身もあちこちに傷を負い、全身が血だらけだった。体じゅうの力が抜け、もう一歩も歩けそうにない。
喉はひからび、肺は燃えるように熱い。沼の泥水をすすっても、渇きはいやされない。
「兄さんが死ぬはずはない」
あれは、何かの間違いだ。アイダンはクレディン族の未来の族長だ。神々の加護を受けている。死ぬはずがないのだ。
たとえ、ローマの兵が何万押し寄せようと、平気なはずだった。そのために俺がいたのだから。俺がアイダンを襲うすべての攻撃をはねのけるはずだったのだから。
だが、兄は手出しをするなと拒絶した。だから、セヴァンはとっさにイスカを代わりに放った。イスカなら、彼が手出しをしたことにはならないと考えたからだ。
それが、あんなことになるとは……。
あのときのアイダンの行動は、理解を超えていた。ローマの司令官に飛びかかった猟犬を、兄はこともあろうに、自分の手ではねのけたのだ。
そして、イスカの代わりに、あいつの剣に刺されてしまった。
何か悪い夢を見ているとしか思えなかった。兄が、自分の敵をかばって命を落とすとは。
(俺が、あのとき)
あいつのせいだ。赤いカケスめ、あいつさえいなければ。
(あのとき、俺がイスカをけしかけなければ、兄さんは)
違う。あいつさえこの島に来なければ、兄さんはローマなどにたぶらかされることはなかった。
「……殺してやる」
あいつだけは、赦さない。たとえ体じゅうが切り刻まれても、腕一本さえあれば、あいつを殺す。
木々の向こうで、松明が踊る。ローマ兵どもが騒々しく、枝を折り、下生えを踏み荒らして、氏族の森を侵しに来るのだ。
濡れそぼった落ち葉の堆積の下に犬の死体を隠し、剣を手にセヴァンは立ち上がった。
モリフクロウの甲高い鳴き声が、こだまする。何度も木の根に足をとられ、それでもレノスは、梢に透けた月光が作り出す藍色のもやの中を走り続けた。
木々の回廊が途切れた先にあったのは、小さな沼地だった。討伐隊のローマ兵たちが踝までつかって立っている。
その真ん中に、荒縄で生け捕りにされ、四つんばいになって肩で息をしている氏族の戦士がいた。
どろりと濁った水面に揺れる望月。その白い光に照らし出された全身は、泥と血の戦化粧に染め変えられ、醜悪な異教の神像のようだった。
背中を覆っている長い髪が灰色の泥にまみれ、オオカミのたてがみに見えた。
セヴァンはレノスを見ると、歯をむき出して狂ったように暴れ始めた。理性が欠けた獣のように、うなり声をあげながら。
兵士のひとりが、力まかせに荒縄を引いた。首に巻かれた縄は容赦なく声と息を奪い、ふたたび捕虜は泥の中に倒れた。
百人隊長のかぶとを被った影が、剣帯から剣を抜くのが見えた。
「ラールス!」
「司令官どの」
ラールスは振り向いて、低く答えた。「こいつは、わたしが殺します」
「待て。いったん捕虜にして、裁きを受けさせる」
「お言葉ながら、その命令に従うことはできません。わたしの部下が、おおぜい殺されたのです。一瞬たりとも生かしてはおけません」
レノスは、茫然とセヴァンを見つめた。
……確かに、そうだ。こいつは、われわれの敵なのだ。わたしの私情で命を救えば、兵たちの怒りがおさまらない。
ああ、確かに、そうだ。赦せるはずがない。わたしの大切な部下が幾人も、こいつの手にかかったのだから。
――タイグが、たったいま死にました。
アイダン。おまえだって、大勢の氏族を斬ったわたしを赦せなかったはずだ。そうだろう? 今も冥界で、おまえを殺したわたしを恨んでいるのだろう?
わたしたちは、はじめから敵同士にしかなれなかったのだ。
「剣をおろせ、ラールス」
レノスは、低く命じた。「わたしが始末をつける」
沼地に足を踏み出した。ずぶずぶとサンダルが泥の中に沈み込む。
――わたしたちが友になることは、やはり不可能だったのです。
――だが、あきらめたら、そこで終わりだ。今年や来年が無理でも、何年か経てば、いつかきっと。
――生きている間にそれを見たいものです。
――見られるとも。
剣の柄を強くにぎりしめ、そして放す。
レノスは足を振り上げ、セヴァンの頭が泥にもぐるまで、軍靴で力いっぱい踏みつけた。
「こいつは、今日からわたしの奴隷だ」
冷ややかな笑いを含んだ声で、砦の司令官は宣言した。
「死んだほうがましだと思えるような、みじめな生を、こいつに味わわせてやる」
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