(2)
「なぜ、抵抗しない」
剣をかざして馬乗りになっている百人隊長に、セヴァンはまっすぐな視線を投げ返した。「本気、ないから」
「ちぇっ。つまんねえ」
フラーメンは顔をしかめて立ち上がり、剣を剣帯に戻した。
「おまえは、司令官どのの持ち物だからな。勝手に殺すわけにはいかないんだよ」
サンダルを水に浸して立ちながら、ケルトの血を引くローマ軍将校は、葦の揺れる川面を腹立たしげに見やった。
「司令官どのが、皆の反対を押し切っておまえを奴隷にすると言い張らなかったら、おまえはとっくに殺されてた」
セヴァンは答えない。
「クレディン族の村では、兵たちに私的な略奪と暴行を固く禁じた。わかってるんだろうな、それがどれだけ大変なことか」
奥歯を噛みしめていた奴隷は、低く言った。「わかって、います」
「俺はときどき、司令官どのが、生粋のローマ人ではなく、この島で生まれ育ったのではないかと、思うことがある」
セヴァンも、そう感じたことは、何度でもある。最初に森で遭遇したときも、マルキス司令官は氏族のことばで叫んだのだ――『友よ、いい狩りができますように』と。
「それでも、おまえは司令官を殺そうというのか」
セヴァンはしばらく答えをためらってから、ゆっくりと首を横に振った。
「じゃあ、なぜ刃物を隠し持っている」
「――これは、キバ」
「牙?」
セヴァンは、自分の肩にかかっているマントを片手でつかんだ。
それは彼が戦いのときに着ていたクレディン族のオオカミの毛皮だった。旅に出るときに、レノスが返してくれた。血糊は洗われ、剣でできた破れは、ていねいに繕われていた。
「オオカミ。戦う、主人の隣で」
「隣?」
「戦う。キバで。主人、守る」
「それはほんとうに、本心なのか」
探るように、じっと奴隷を睨みつける。「おまえの言うことは、信じられん。刃物を渡せ」
セヴァンは、トゥニカの下から、布を巻きつけた小刀を取り、柄を向こうにして差し出した。
フラーメンは、それを受け取ってふところにしまうと、その場で足踏みしながら、濡れた軍靴から水を押し出した。
「さあ、帰るぞ」
フラーメンは、丘にそびえる総督府の白亜の建物を指差した。「司令官どのの敵が、あそこにはたんまりいる」
帰り道、彼は露店でしなびたリンゴをひとつ買うと、セヴァンに放り投げた。
獅子が彫りこまれた三脚の卓の上に、じゅうじゅうと煙を上げる豚肉が運ばれた。給仕がそれを切り分け始めた。
「わたしは商人の息子でな。きみのように、属州の補助隊司令官から始めたのだよ」
元老院議員のしるしである赤い線の入ったトーガをまとったデキムス・クロディウス・アルビヌスは、塩漬けのオリーブを口に含みながら、上機嫌でしゃべり続けた。
白(アルビヌス)というあだ名のとおり、アフリカ属州出身者にしては色白、六十歳の手前という老身であるにもかかわらず、若々しく、眼光に弱さはなかった。それもそのはず、ダキアやゲルマニアといった最前線の属州総督を歴任してきた、たたきあげの軍人である。
「だから、新任司令官のきみの手柄を聞いたとき、わが子のことのようにうれしかったのだ。なにしろ、わずか二百の補助隊で、千を超える蛮族たちを打ち破ったのだからな!」
「総督どのは、ローマ本国にこのことを報告し、皇帝からお褒めの言葉をいただいた。きみたちの第七辺境部隊の軍旗には金の月桂冠が与えられることが決まった」
もったいぶった、おごそかな口調で、ファビウス司令長官がのたもうた。
「身に余る光栄です」
レノスは深々と一礼し、給仕が杯に新しいワインを注ぐのを、ぼんやりと見つめた。
軍旗に月桂冠が与えられるのは、部隊にとって大きな名誉であり、指揮官であるレノスの経歴に華やかさを添えることにもなる。
(だが、それですませてよいのか)
レノスは、伏せていた眼差しを上げた。
「おそれながら、閣下に申し上げます。それでは、あまりにもきれいごとに過ぎるのではありませんか。東の砦では、五百人の大隊が全滅しました。われわれは大敗北を喫したのです」
「なにを」と色をなしたファビウスを、アルビヌスは片手で制した。
「わかっておる。失われた大隊のことを忘れたつもりはない。二度とこのようなことが起こらぬよう、東の砦は至急に再建させ、氏族には、すみやかな報復措置を――」
「報復はすでに十分になされました。氏族の村々は、ローマによって略奪され、畑に塩をまかれ、若者たちを徴用されました。このうえ、武力をもって氏族を押さえつけようとするなら、ふたたび反抗が起きます。双方の信頼の回復はほど遠いと言わねばなりません」
初老の総督は、「ほう」と驚いてみせた。「きみは、まるで氏族の立場からものを言っているようだな。ローマの軍人ではなく」
「わたしには……氏族の友がいました」
容赦のない、針のような視線が浴びせられるのを感じる。だが、いったん放たれた言葉は、途中で止めることはできない。
「彼は、氏族の誇りを保ちつつ、ローマのことを理解しようと努めていました。敵をことごとく虐殺し、首を切り離すという野蛮な氏族の習慣を改めようと他の氏族に呼びかけていました。東の砦の住民が幾十人かでも助かったのは、彼の説得のおかげです」
声がうわずり、喉がつまりそうになる。
「わがローマが法と秩序をもって氏族に接し、繁栄をもって世界を照らせば、いつかきっと、彼らは恭順を示すはずです。必要なのは、互いを受け入れるための時間です。どうか閣下が率先して、氏族に対する寛容をお示しくださいますように」
隣からすさまじい眼光でにらんでいる直属の上官を無視しながら、口を閉じて返答を待つ。
アルビヌスは目を細め、ふっと短く笑った。
「さすがに、カルスの血は争えない」
レノスはその瞬間、息のしかたを忘れた。
「ルキウス・クレリウス・カルスとは、まだわたしが執政官になる前に、ローマで会ったことがある。もう二十年以上前の話だ。彼がブリテン島に赴任する前、きみはまだ生まれてもいない頃だ」
(この人は、わたしの父のことを知っているのだ)
「彼も、きみと同じようなことを言っていたよ。敵対でなく、互いを理解する努力を。顔だけでなく頭の中身もそっくりじゃないか。こうなると、息子であるか娘であるかなど、たいした問題ではないと思えるよ」
もうひとつの秘密までが知られている――ファビウスに、わたしが女であることを最初に告げたのは、この方だったのだ。
背中に汗が伝う。
沈黙を合図ととらえた給仕たちは、皿の乗ったまま三脚卓を運び出し、なつめやしや栗の実、ブドウや梨を運び込んだ。
デザートの後は、水で薄めた食後のワインがそれぞれの前に置かれた。総督は、トーガの優雅なひだを腕に引き寄せると、ゆったりと椅子の背にもたれた。
「今のきみの考えを、皇帝陛下の前で述べる気はないか」
「陛下の御前で?」
狼狽のあまり、手を洗う水が鉢からこぼれる。
「この秋、わたしは帝都へ赴くつもりだ。わたしに同行しないか。辺境の最前線で戦う者たちの生の声を直接、陛下に聞いていただくのだ」
アルビヌスは、宙をにらみながら、つぶやく。「今の陛下の頭の中には、属州のことなどないに等しい。ローマから一歩も出ずに、どうして兵士たちの声が聞こえるというのだ」
アウレリウス・コンモドゥスほど、ローマ軍兵士に評判の悪い皇帝はいない。
父帝マルクス・アウレリウスも、その前代のハドリアヌス帝も、ドナウやラインの最前線で蛮族を相手に戦っている辺境の兵士を激励して回った。そのため、ローマの宮殿の玉座を温める暇もなかった。
しかし、幼い頃から父の背中を見て最前線で生活していたコンモドゥスは、即位後ほどなくして、帝都から一歩も離れようとしなくなった。
――皇帝は、われわれのことなど、なんとも思っていないのだ。
泥水をなめ、寒さに凍える兵士が、そう反感を持ったとしても不思議ではない。
「もう七、八年前のことになるか。ブリテン島南部の軍団駐屯地で、皇帝陛下に忠誠を誓うことを拒否したという事件があった。知っているかね」
「はい、話だけは」
「彼らは、自分たちの軍団長が皇帝にふさわしいと叫んだ。ことは未然に終わったが、火種はくすぶっている。そして、同じような声が、ほかの属州にも広がっている」
その声には、あからさまな憤怒が表われている。
「わたしは、ダキアの総督もゲルマニアの総督も歴任した。兵士の気持ちは誰よりも知っているつもりだ」
漆黒の瞳に宿る熱っぽい光を見て、唐突にすべてが理解できた。
(この人は、自分が皇帝になろうとしているのだ)
ぐいと、総督の腕が伸びて、レノスの手をつかんだ。
「わたしに、力を貸してもらえまいか」
「恐れながら、一介の辺境部隊の二百人隊長に、閣下にお貸しする力などありはしません」
「きみの母方の伯父上どのは、法務官(プラエトル)の経歴を持っておられるではないか。それは十分な力だよ」
「しかし、伯父は」
――その伯父に嫌われて、わたしはこの島にやって来たというのに。
「決して悪いようにはしない。ローマに、味方はひとりでも多いほうがよいのだ」
視線をはずさぬまま、ゆっくりと幼子に言い聞かせるように、会話は閉じられた。
レノスの全身が「危険だ」と叫んでいる。この陰謀に加担してはならない。コンモドゥス帝にこのことが知られれば、死刑は免れまい。それでなくても、皇帝の回りには、謀反を疑われた者たちの屍が山と積まれているというのに。
激しい懊悩の中にいるレノスの横で、ファビウスが重々しく言った。
「自分に断る権利があると勘違いしているのではあるまいな。総督の下にわたしはあり、わたしの下におまえはある」
わざとらしい咳払いをはさむ。「最北の砦に赴任させることも、罷免させることもできるのだぞ。おまえには、そうされても仕方のない、りっぱな理由があるのだからな」
――もし断れば、わたしが女であることを公に暴くつもりか。
それを聞いたとき、レノスは素早く決断した。
持ち駒というのは、場に出す最適の時期がある。その時期を逸しては、何の用もなさないのだ。
「わかりました」
レノスは、迷いのない声で答えた。「ただし、ひとつだけお願いがあります」
それからなお五日、レノスたち一行は総督府にとどまった。
このブリテン島に駐留している三つの正規軍団の軍団長会議があり、補助隊の一司令官にすぎないレノスも、その会議に出席の許しを得たのだった。
そのほかにも、神殿でいけにえの儀式があり、闘技場で壮麗な閲兵式があり、高官たちのために、連夜の晩餐が催された。
それらすべてから解放されたとき、第七辺境部隊の司令官は、晴れやかな笑顔で部下に宣言した。
「さあ、終わった。なつかしい砦に帰るぞ」
「北行きの船が出るんですか?」
百人隊長との会話に耳をそばだてながら、奴隷の少年は蒼白になった。船と聞いたとたん、ここへ来るときに味わった恐ろしい船酔いを思い出したのだ。
「いや、陸路で行く」
レノスは、しみじみと喜びを噛みしめるように言った。「船の出航をただ座して待つより、そのほうが早い。舗装道路をわずか三百マイルだ。馬でゆっくり行っても、長城まで十日で行きつける。途中で軍団要塞に立ち寄ることもできる」
「そんなら、ロバでは行けないな。こいつの分も馬を手に入れてやらなきゃなりませんね」
レノスは、「おや」と首をかしげた。フラーメンの今の口調は、セヴァンに対する刺々しさが少し薄れているように思えたのだ。
「俺んちに寄って行きませんか。一頭くらいなら、馬が余ってるはずです」
「どこだ?」
軍用道路を西へ半日ほど行き、海岸に向かって南に下りたところに、フラーメンの生家はあった。
ウィッラと呼ばれる、ローマ風の広大な農園を持つ別荘だ。大きな中庭を囲む柱廊の床には、モザイクが敷きつめられている。何十人もの奴隷や使用人が立ち働いている様に、レノスは度肝を抜かれた。
「フラーメン。おまえ、実はすごい名家の出身だったんだな……」
「別に、俺の手柄じゃありませんけど」
つまらなさそうに、金髪の百人隊長は答える。
港町の参事会員だという父親と、家督を継いだ兄が彼らを農園の門まで出迎えてくれた。
歓迎の晩餐が開かれるというので、借り物のトーガを主人に着せるために、奴隷は大汗をかく羽目になった。
「違う、ここに細かいひだを寄せるんだ」
「無理です。布、長すぎる」
「だから、裾が床につかぬように、ずっと左腕を曲げておく」
セヴァンは、唖然とした顔になった。「それでは、左手、使えません」
レノスは、いたずらっぽく微笑んだ。「ローマ人は手を使わない。仕事は全部、代わりに奴隷がやるんだ」
フラーメンの親族は、自前の農場で採れた肉や野菜を、豪勢にふるまった。そして、何と言ってもみごとなのは、エトルリアから取り寄せたワイン。彼らはみな、長椅子に左わきを下にして横になるという、ローマ伝統の食事作法を守った。
「わたしたちは、三代前からローマ市民なのですよ」
父親はそう言って、太った体をゆったりと肘掛けにもたせかけた。
「三代前……それでは、ボウディッカの反乱のときは」
「ええ、女王とともに、第九軍団と戦いました。祖先はこの地方を治める氏族の族長でした。敗北の後、ローマに帰順したのです」
馬族の女王の名を聞いたとき、主人の足元に控えていたセヴァンは、百人隊長の背中を見た。彼は無関心を装って、あぶり肉に素手でかぶりついている。
夜を徹しての正餐が終わり、酒の火照りを冷やすためにレノスが中庭へ降りたとき、フラーメンも柱廊を渡ってきた。
「近くに、海岸があります。行ってみませんか」
ウィッラの回りに広がるなだらかな牧草地を下り、柵を越えて外へ出ると、すぐそばに海鳴りのとどろきが聞こえた。海風にねじれた低木や、地面にへばりつくように伸びるヒースの間を抜けていくと、ごつごつした白亜の断崖がそびえたつ。
頭上には天の川が、うっすらと煙るような弧の橋を、夜空に渡していた。
「ほら、あの海峡の向こうは、すぐガリア・ベルギカです」
フラーメンは、トーガのすそを風に激しくはためかせながら、腕を伸ばして、黒々とした水平線を指差した。
「案外と近いんです。海がこれほど荒れなければ、小舟だって行き来できる距離です。カエサルの率いるローマ軍団は、この海峡を渡るときに、未知の辺境に対する恐怖に慄いたと言いますがね。あの禿げ男さえいなければ、この島は今でもケルト人のものだったかもしれません」
レノスは、帝国の祖に対して不敬な言葉を次々と吐く部下の横顔をじっと見つめた。
「フラーメン。おまえも、ケルトの族長の息子だったんだな」
「百年前ならね。今のわたしは、ローマ人ですよ」
彼はちらりとセヴァンを見やると、聞こえよがしに答えた。「このあたりは、とっくの昔にローマ化しています。うちのウィッラを見たでしょう。父や兄のローマ丸出しのふるまいを見たでしょう。わたしたちは、ケルト人の面をかぶったローマ人なんです」
フラーメンの声の自嘲するような調子はしぼみ、すぐに生来の陽気さへと転じた。
「司令官どのは、わたしとは反対ですね。あなたがローマ人の面をかぶったケルト人だとしても、わたしは驚きませんよ」
「わたしが?」
レノスは、くすっと笑った。「それは光栄だな」
三人は、チョークでできた白い断崖に近づく。
夜明けの海は、どおんと岩に波頭を叩きつけ、飛沫を散らしていた。
レノスは、黒々とした海面を見つめながら、口を開いた。「ローマに行くことになった」
「司令官どのが?」
「総督どののお伴だ。秋の船で帝都に行き、春に帰ってくる」
「……今度の呼び出しは、そういう話だったんですか」
それだけではない。総督府で行われた軍団長会議では、属州ブリタニア駐留の三軍団の総意として、アルビヌスを皇帝として推挙するという密約がなされた。
現皇帝コンモドゥス帝に対する謀反。レノスは伯父の一派を取り込むために、その謀反に加担することを否応なしに強いられたのだ。
「わたしたちの部隊もお伴できるんでしょうか」
「無理だろうな。行くのはわたしだけだ」
そして、さりげなく付け加えた。「わたしと、それにわたしの奴隷だけだ」
「俺が……ローマに?」
セヴァンは話の筋が見えずに戸惑い、フラーメンはひどくがっかりした表情になった。
「そのかわり、良い話がある。北の砦は不足した兵士を増員する許可を得た。百人隊六つの体制になる」
フラーメンは目を見張った。「うちのボロ砦が、大隊に昇格?」
「南の要塞からあらたに四小隊が送られてくる。その補充として、クレディン族とダエニ族の兵士が、南の要塞に再配属される」
今からならば、冬になる前に移転は完了する。氏族の息子たちが、打ち捨てられた壊れた最北の砦で飢えに苦しむことは、もうない。
それが、ローマへの同行を承知する代わりに、レノスの出した条件だった。
フラーメンの口元に、抑えきれぬ笑みが広がった。
「おめでとうございます。春から司令官どのは、大隊長に出世なさるのですね」
レノスは、胸の中で暗くよどんでいるものを追い出すように、海の潮の香りを深く吸い込んだ。
「ローマで、皇帝陛下に首を刎ねられなければな」
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