(4)
「おい、ゼノ」
補給係将校ルスクスが、野生の豚が突進してくるような勢いで走ってきた。
「卵二百個、手に入ったか」
「はいりました。それと、りんご百個」
「サンダルはどうだ」
「十足、買いました」
「三分の一に値切っただろうな」
「はい」
「ふはあ」
ルスクスは、安堵と忌々しさとが入り混じった奇妙なため息をついた。「あの商人、俺には1アスだってまけられんと啖呵を切りやがったくせに」
セヴァンは何も答えずに一礼して、出て行った。
ルスクスは、その後ろ姿を見ながら、首を振る。「命じたわけじゃないのに、りんごも仕入れてくるとは……」
彼は自分の城であるはずの倉庫を振り返って、うなった。「まさか、あいつは、この中の物資の量をすべて把握しているわけじゃないだろうな」
総督府への旅から帰ってきて以来、司令官の奴隷は変わったと、砦の兵士たちは噂し合っていた。怠けず、諍いも起こさず、黙々とよく働き、しかも、ささいな落ち度もない。
おまけに、彼がかかわること全ては、マルキス司令官が背後で承認するとわかっているから、安心して用を頼める。
補給係将校は、土地の商人との食糧の交渉一切を彼にまかせるようになったし、騎馬隊の隊長スピンテルは、飼料の配合や、病気の馬の世話を持ちかけるようになった。
仲間を殺されたことを恨んでいた他の兵士たちとの関係も、それにつれて少しずつ変わってきた。
「仕事、終わったら、出かけてよいでしょうか」
朝食の給仕をしながら、セヴァンは主に訊ねた。
「かまわないが、どこへ行く」
「いつもの森へ。ラールス隊といっしょに、罠をしかけます」
「そうか。そろそろ冬に備えて、肉を塩漬けにせねばならんな」
「はい」
と目を伏せながら答え、セヴァンは慣れた手つきで、テーブルから空の皿を取り下げた。相変わらず、その顔からは何の感情も読み取れない。
奴隷のほうをチラチラ盗み見ながら、視線が合わないことを寂しく感じている自分が、レノスはおかしくてならなかった。(主の顔を見てはならぬと躾けたのは、わたしなのに)
将校用食堂から外に出た。しばらく、兵舎との通路を吹き抜ける北風にさらされていると、演習場のほうから、にぎやかな槌音が聞こえてきた。
来春に五百人規模の砦へと昇格することが正式に伝えられ、雪に降りこめられる前に大増築することが決まったばかりなのだ。
そのことを当て込んだ商人や住民が、次々と移住してきて、町もかつてない活況を呈している。
朝の空は高く澄み切って、今日は狩り日和になりそうだ。兵舎のあちこちで、朝食を自炊する白い煙がもくもくとたなびいている。
キンと肌を刺すような寒さと、木の焦げる匂いは、一年前のあの戦いを思い出させた。
(アイダン。おまえの弟は、この一年で背が伸びたぞ)
目を閉じ、まぶたの裏の面影に語りかける。(冷静に状況を判断し、砦のどんな仕事もまかせられるようになった。明日から北の砦の司令官にだってなれる。本人は絶対にイヤだと言うだろうが)
レノスは目を開いて、吐息をついた。古い友の顔は、秋空の雲よりも薄く、遠く、もう思い描くことすらむずかしかった。
輪の形に結び、木の皮の煮汁に一晩つけておいた縄を、森の中にしかけていく。
けものが地面を掘り返したり、木の幹に体をこすりつけた痕跡は、慣れた者でなければ、なかなか見つけることはできない。
セヴァンは、人間の匂いを残さぬように用心深く、枝で足跡を消しながら、その場を離れた。
頭上を高速の影が横切った。オオハクチョウだ。
「イスカ」
無意識のうちに名を呼んで、振り返る。
いるはずはない。
彼の命の片割れだった犬は、この森のどこかの落ち葉の下に、骨となって埋まっているのだ。
カバノキの黄色い葉裏に陽が当たり、その突然のまぶしさに目がくらんだ。片腕で顔を覆ったまま、森の香りを吸い込んでいると、一年の奴隷生活など初めからなかったような錯覚に陥った。
夕暮れになったら、家に飛んで帰ろう。そして、炉辺に座り、アイダン兄さんや弟のルエルとともに、熱いシチューをむさぼるように食べるのだ。そしてイスカには、脂身のついた骨を投げてやろう――。
ざくざくとサンダルの音がした。獲物を肩にかついだローマ兵たちが近づいてきて、親しげな調子で呼びかけた。
「おい、ゼノ。いったん集合するぞ」
陣地に戻ると、焚き火のそばで車座になって、兵士たちが思い思いに休息の時を過ごしていた。のんびりと昼寝を決め込んでいる兵もいたし、手持ち無沙汰に、髭を剃っている者もいる。
「あいてっ。この小刀、全然切れやがらねえ」
「おい、血が出てるぞ。蜘蛛の巣でも貼っとけ」
「髭なんか剃らなくてもいいじゃねえか。ハドリアヌス帝だって、剃ってらっしゃらなかったぞ」
「ローマの貴族は、奴隷に体じゅうの毛を一本一本毛抜きで抜かせているというけど、本当かな」
「体じゅう? そいつはすごいな」
「そういえば、司令官どののあごも、髭のかけらも見当たらないものな」
寝そべったまま、彼らはからかうような声を挙げた。「なあ、ゼノ。おまえ司令官どのの髭を毎朝抜いてるのか」
「あそこの毛も?」
大笑いを背にして、セヴァンはたきぎを集めるという口実で、その場を立ち去った。
――髭など生えるわけはない。司令官は女なのだから。
あの月に照らされた美しい裸体を思い出すたび、みぞおちが跳ねたようになる。
(何かの見まちがいだ。俺は、月の光が作り出す幻を見ただけだ)
自分に何度、そう言い聞かせたことか。けれど、その結論を裏切るように、目に焼きついた丸みを帯びた曲線が、記憶の中でますます鮮やかに刻印されていく。
砦のローマ兵たちは、誰もこのことを知らない。当たり前だ。知っていたら、誰が女の司令官などに従うものか。
部隊が砦へ帰る道すがら、あの聖なる古い石垣のそばを通ると、セヴァンは思わず、クレディン族の村の方向を見やった。
秋の陽は早々と西に傾き、ヒースの野は紫に煙り、空気は灰色の翳りを帯びている。もうすぐ、生ける者をなぶり、すべてを閉じ込める荒々しい季節が、再びやって来る。氏族がローマに屈したあの戦いから、もうすぐ一年が過ぎようとしている。
(アイダン兄さんは、女に殺された)
自分を責めさいなむかのように、冷たい怒りを噛みしめる。(俺も兄さんも、あの女にあざむかれ、虚仮にされたんだ)
「逃げるつもりか」
百人隊長のラールスが、不機嫌そうな声を出した。彼だけは、今でも頑なにセヴァンに心を許そうとはしない。いつもセヴァンの一挙一動を後ろから監視している。「わかっているだろうな。おまえが村に逃げ込めば、クレディン族がどうなるか」
「わかっています」
セヴァンはオオカミのマントに顎を埋めて、低く答えた。
「今日で、ラテン語の授業は終わりです」
妓楼の女将は、持っていた蝋板をそっと卓の上に置いた。
「あとは砦の中で、必要な言葉を学んでください。わたくしは軍隊のことを知りませんゆえ。ローマに行かれれば、もっと多くのことを吸収して帰ってこられるはず。わたくしごときがセヴァンさまに教えられることは、もうありません」
「あなたには、世話になった」
セヴァンが礼を言って頭を下げると、フィオネラは立ち上がって垂れ幕の奥に行き、巻物を手に戻ってきた。
「これを、あなたにお預けします」
「何だ?」
「ある方がここに忘れていかれた書です。どうぞ、中をご覧なさいませ」
セヴァンは巻物の紐をほどき、パピルスを広げた。
最初の一行には、こう書いてあった。
『ガッリア エスト オムニス ディウィサ イン パルティス トレス』
「ガリアは、全体で三つの部分に分けられている――?」
顔を上げると、フィオネラはうなずいた。「ユリウス・カエサルさまが元老院に宛てたガリアにおける戦況の覚書です。ただの報告書にもかかわらず、簡潔にして名文であると、これを忘れて行った方は、わたくしにおっしゃっていました」
「これを読んで、ラテン語を学べと」
セヴァンは顔をしかめた。「マルキス司令官が、これを俺に渡すように命じたのか」
「いいえ、司令官さまには話していません。このことは、わたくしの勝手な……」
フィオネラは、膝の上で両手の指をからませ、しばらく言いあぐねていた。
「どうか、ひとつだけ、わたくしの願いを叶えてくださいませんか。お読みになったあとでよいのです。もしローマで、クウィントス・ユリウス・スーラさまにお会いになることがあれば、これをお返しください」
「ユリウス・スーラ?」
「この砦の前任の司令官です。マルキスさまなら居どころをご存じのはず。フィオネラが御身を案じていたと……どうか、お伝えくださいませ」
思いつめた女の目だった。狂おしくも、遠く離れて手に入らないものを恋い慕う目。彼女の頬を伝う涙から、そっとセヴァンは顔をそむけた。
土木技術将校のカイウスが苦りきった表情を浮かべて、司令官室に入ってきた。
「司令官どの。どうしても材木が足りません」
「本部に頼んだ分は、まだ届かないのか」
「それがどうも、あっちにも在庫がないらしいんです。東の砦の大改築があったばかりですからね」
「そうか、弱ったな」
「そのへんの曲がりくねった木では、やぐらが組めません。できるだけ真っ直ぐな、堅い木が必要です」
レノスは、書き物机の上に積まれた蝋板やパピルスの山に加わった、もうひとつの難題に頭をかかえた。これではとても半年のあいだ、砦を留守にできるとは思えない。
おまけに、カイウスがバリバリと頭を掻くものだから、その山の上に真っ白なフケまでが落ちてくる。
「あのカシの森はどうでしょう。あそこなら、十分な本数がそろいます」
「クレディン族とダエニ族の境界の森か」
聞いたとたんに、レノスは無理だと思った。あれはドルイド僧が集会を行なう聖なる森だ。とても氏族たちが承諾するとは思えない。
「あそこは、あきらめろ。下手をすれば、ドルイド僧の先導で、また戦争が起きぬとも限らない」
「それでは、どうします」
レノスは火鉢に炭を放り込み、それが赤々と熾きるのをじっと見つめた。
「ゼノ!」
扉の外に控えていた奴隷は、すぐに入ってきた。
「主よ、お呼びですか」
「早急に五十本の材木が必要になった。おまえに、クレディン族との交渉を頼みたい。森のカシの木を切ることを許してほしいと」
それを聞いたとたん、セヴァンの無表情な灰緑色の瞳が、にわかな怒りに彩られた。カシは彼らにとって神聖な木であり、ドルイドとは、そもそも「カシの木の賢者」を意味する。氏族にとって、ドルイドの教えは絶対なのだ。
「砦を建設するのに、どうしても堅い材木が必要なのだ」
司令官は噛んで含めるように、一語一語ゆっくり発音した。「ローマ軍が武力に物を言わせれば、氏族の承諾なしに森を根こそぎ奪うのはたやすい。だが、そうはせずに、礼を尽くしたい。じっくり話し合って、彼らの納得するような条件を引き出してほしい」
怒りは、行き場をなくした流れのようにひとところに逡巡して、やがて、淵に沈んでいった。
「だから、おまえが交渉役に最適なのだ。やってくれるか」
「わかりました」
やがて元の静けさに戻ったセヴァンは両手を胸に当て、一礼した。
数日後、奴隷はふたたび司令官の前に立った。
「カシの木五十本、ほしいと伝えました。クレディン族は条件、二つ出しました。ローマ軍ではなく、氏族の男が木を切ること。それと、牡牛二頭。それで、承諾します」
「儀式のいけにえの費用を、われわれが出せばよいのだな」
「はい」
「わかった。ネポスに言っておこう」
勤務表の清書にかかっていたレノスは、顔をちらりと上げて事務的な労いを口にした。「よくやった」
「ありがとう、ございます」
「久しぶりに村に帰った感想は、どうだ。族長どのは元気か」
答えるとき、セヴァンの目は影がかかったようになった。「会っていません」
「ほう」
「村には、入れませんでした」
かりかりと、ペンが紙の上を走る音だけが、しばらく響く。
「そうか。それは残念だったな」
机の上のパピルスにかがみこんだまま、司令官はおざなりに答え、それきりになった。
一礼して、扉を出たとたん、セヴァンの食いしばった歯の隙間から小さな罵りのことばが漏れた。
「こうなることは、わかっていたくせに」
ローマ軍の交渉に来たセヴァンを村人たちが敵とみなすことを、司令官が考えに入れていないはずはない。
そこまで、俺を氏族から引き離し、ローマの犬に仕立てたいのか。
引き返して殴り飛ばしてやりたいと逸る身体を、強いて両腕で押さえつける。
女のくせに。
女のくせに、俺を支配するのか。
震えながら、恥辱のあまり、涙さえにじむ。
「……いつかおまえを、殺してやる」
兄の復讐のために唱え続けてきた呪文が、新しい意味をもって、セヴァンの胸に刻まれた。
夕暮れの薄明の中を、オオカミのマントに身をくるむようにして奴隷の食事場に急ぐセヴァンの行く手に、ふたりの人影が立ちふさがった。
金髪のフラーメンと、黒髪のラールス。ふたりの百人隊長は、レノスの留守のあいだ、この砦の最高指揮官となる。
「ゼノ。おまえにローマ行きの餞別だ」
フラーメンが差し出した手には、ケルト風の模様をあしらった鞘入りの短剣が握られていた。中から現れた青銅の刃は、研ぎ澄まされた黄金色に輝いている。新品で、しかも上物だ。
「ロンディニウムで、おまえから小刀を没収したろ? 代わりにこれをやる。ガヴォめに、ふんだくられた。けっこう高くついたぞ」
「俺……に?」
信じられないことだった。特に、彼を憎んでいるはずのラールスが、武器を渡すことに賛成するなど。思わず、うしろに立つ百人隊長の顔を見ると、彼は悔しげに、地面に吐き出すように言った。
「今のおまえなら大丈夫だと、フラーメンが言うから。つまり……クレディン族との交渉も、うまくまとめてきたし」
フラーメンは、不器用な弁解をする同僚を見ながら、にやにや笑った。「ただし、この短剣には呪いをかけてある。ふたりでミトラ神殿に行って、祈ってきた。万が一おまえが、この短剣で司令官どのを襲うようなことがあれば、千の害悪がおまえを罰しますようにと」
「まあ、そうなったら、神々に頼らなくとも、俺たちふたりが地の果てまでおまえを追いかけて、殺すがな」
ラールスがまっすぐに彼を見つめ、真顔で言った。「不本意だが、俺たちはローマについて行けない。皇帝の御住まいには、何か得体のしれない魔物が住みついていると聞く」
「頼む。俺たちの代わりに、その剣で魔物から司令官どのを守ってくれ」
それほどまでに彼らは、あの司令官に心酔し、敬愛しているのか。
女にあざむかれているなどとは、夢にも思っていないだろう。
セヴァンは大声で笑いたくなった。哀れなやつらだ。真実を知ったら、どんな間抜け面をすることか。
「わかりました」
この秘密は、自分の裡だけにしまっておく。いつか、最良の時機が来たときの切り札にする。
セヴァンはかすかな優越感をいだきながら、平然と短剣を受け取り、トゥニカのふところに納めた。
粉雪のちらつく日だった。
カシの森で伐採が行われると言うので、レノスはセヴァンを伴って出かけ、近くの丘に立って様子を見守った。
切り倒された大木は、枝葉を掃われ、縄で縛ったうえ荷車に乗せられる。
老いたサフィラ族長も、次の族長となる茶色の髪の弟ルエルも、ドルイドの儀式のために村から出てきた。
気づいているはずなのに、彼らは決してセヴァンのほうを見ようとはしない。
陽が傾き、氏族の一団が材木を載せた荷車とともに去った後、司令官は葦毛の雌馬をあやつり、ゆっくりと丘を下った。
『ローマ人は、破壊し略奪することを偽って「支配」と名づけ、人住まぬ荒野を作って、それを「平和」と呼んでいる』
丘を下りながら、重い雪雲の垂れ込める空を仰いで、レノスは朗々と詠じた。
横を歩いていたセヴァンは、いぶかしげに主人を見た。
「史家タキトゥスの書いた『アグリコラ』の一節だ。まさに目の前の風景が、それだと思わぬか」
森の端で馬を降り、レノスは切り倒された木の根株を、飽きずに眺めていた。
そのうちに、地面にひざまずいて、何かを拾い始めた。
ドングリだ。
マントの端をひきずりながら、せっせと木の実を拾う主人の姿に、セヴァンは驚いた。まるで、子どもではないか。
レノスは土を掘り、ドングリを置いて、ていねいに土をかぶせた。
「この実が、五十年後には大きな木になるかもしれぬ」
ローマ軍の司令官は、かじかんだ手を動かし続けた。
「なあ、ゼノ。五十年先を見よう。五十年たてば、ここから生え出たカシでおまえの子孫が家を建てるかもしれぬ。五十年たてば、ローマと氏族は笑いながら、ともに狩りをしているかもしれぬ。望んでいる限り、可能性はある。あきらめれば、そこでおしまいだ」
その口元には、おだやかな笑みがたたえられている。夕もやに映る幻を見るように、セヴァンはぼんやりと主の横顔を見つめていた。
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