The Warrior in the Moonlight

月の戦士

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Chapter 6 「惑乱の都」

(1)

 帝都ローマは七つの丘の上に建てられている。
 丘の谷間には、よどんだ湿気と人々の喧騒がうずまいているが、そびえ立つ丘の上は、涼しい空気が吹き抜けて別世界のようだ。
 アルプスから300マイルのアウレリアス街道を走破したブリタニアの辺境司令官とその奴隷は、テヴェレ川の橋を渡り、城壁をくぐって市内に入り、カエリウスの丘に登った。この丘は、共和政時代からの由緒ある貴族たちの住まう住宅地だ。
 鬱蒼と茂る木々に囲まれた一軒の大邸宅(ドムス)で足を止める。半円形の階段をしつらえた扉の前に立つと、レノスはかぶとを脱ぎ、心持ち背をそらし、ゆっくりと息を吸った。
 門番が両開きの扉を開けて、待っている。
 短い廊下を抜けると、中は四角い吹き抜けの玄関ホールだった。セヴァンが育ったクレディン族の族長の家よりもさらに広い。雨水用の天窓から光が差し込み、中央の泉の水面にきらきらと反射している。
 両側にいくつもの部屋があり、壁という壁は、極彩色のフレスコ画で埋められている。床は、色大理石を嵌めこんだ細かいモザイク模様をなしていた。
「カペル」
 白いトゥニカを着た色黒の気品のある老人が奥から出てきて、うやうやしくお辞儀をした。
「おかえりなさいませ。レノスさま」
「ただいま帰った。息災か」
「はい。おかげさまで永らえております」
「城壁の厩舎に、馬を二頭預けてある。後で取りに行かせてくれ」
「承知いたしました」
「……伯父上は?」
「先月から、ウィッラでお過ごしでございます」
 レノスの肩から、目に見えてすっと力が抜けた。
「アウラスは」
「おられます。今お呼びしてまいりますので、どうぞ奥へ」
「あ、カぺル」
 レノスは、後ろに立っていたセヴァンを指し示した。「わたしの奴隷だ。ゼノという。わたしの身の回りの世話は、この者にさせる」
 老人は、白く濁った眼を向けることもなく、「それでは、そのように」と言って立ち去った。
「この家の家令を務めている奴隷だ。もう三十年以上からここにいる」
「奴隷?」
「彼も奴隷だ。山羊を買いに市場に行った伯父上が、良い山羊を見つけられず、代わりに買ってきた。だから、山羊(カペラ)と名づけられたそうだ。小さい頃から、わたしはやつに頭が上がらん」
 レノスは笑いを含みながら、書斎を抜けて奥の中庭へと進んだ。セヴァンも、主の赤いマントを追いかけるようにして、あとに続く。
「母は四歳のとき死に、軍人だった父は八歳のときに戦死した。それ以来、わたしは母の兄の家に養子として引き取られ、ここで十七になるまで育った」
 レノスは立ち止まり、静謐な庭を見回して、なつかしげに目を細めた。
「何も変わっていない」
 冬なお緑濃い木々。大理石の噴水は、彫像の持つ壺から水があふれ出している。守護神の小さな祭壇。幾何学模様に配された花壇。それらを、円柱の立ち並ぶ回廊がぐるりと取り囲む。
「レノス!」
 奥の部屋から、若いローマ人が急いで駆け下りてきた。
「アウラス」
 ふたりは、がっしりと手を組み合わせた。黒い髪、オリーブ色の肌。よく似た大きな薄茶色の瞳を輝かせて向き合う姿は、ひと目で血縁だとわかる。
「元気そうだな。少し痩せたか」
「くそ寒い辺境で二年暮らしたんだぞ。ああ、こっちは暖かいな。冬だと言うのに、トゥニカ一枚でいられるなんて!」
「おまえが、ブリタニアなんて行くからだ。蛮族と剣をまじえて大勝利を収めたそうだな。怪我はなかったのか」
「肩をちょっとやられた。でも、たいしたことはない」
 まるでミソサザイのように早口でしゃべり続ける主の姿を、セヴァンは不思議そうに見つめている。
 ようやく思い出したとばかりに、レノスは、彼の見知らぬ満面の笑顔で振り返った。
「こいつが、その戦いのときの捕虜だ……ゼノ、わたしの従兄のアウラスだ」
 教えどおりに深々と平伏する。アウラスはその礼を無視して、レノスの腕を取った。
「来てくれ。妻のクラウディアに紹介しよう」
 向かったのは、中庭を取り囲むように配置された、たくさんの部屋のひとつだった。
 壁の向こうに、紫の朝霧にかすむ山々と、美しい白亜の神殿が見えた――いや、違う。精密な絵だ。窓がない部屋の壁にフレスコ画を配することで、あたかも遠くの景色を見渡すがごとく、見る者の目をあざむいている。
 その壁ぎわの籐の椅子に、ひとりの小柄な女性が座っていた。
 髪は塔のように高く結い上げられ、三つ編みを幾重にも巻きつけてある。当然のことながら、かつらだ。
 鉛白とハチミツを混ぜた顔料で顔や首を白く塗り、唇は真赤な紅を引いている。ひだの多い優雅なストラは、豊満な胸を強調するため、二本の飾り紐で結ばれていた。
 埃にまみれた鎧を着け、髪を短く切り、陽に焼けた辺境の軍人とは、どこからどこまで真逆の存在。
「奥方。属州に長く赴任しており、初めてご挨拶申し上げる無礼をお許しください」
 レノスは、頭を軽く下げながら、わざといかめしく名乗った。「属州ブリタニアの第七辺境部隊二百人隊長、レノス・クレリウス・マルキスです。アウラスの従弟に当たります」
「夫から、お噂はかねがね伺っておりましたわ」
 冷たく、冴え冴えとした声で、クラウディアは答えた。「ブリタニアとはまた遠いところ。何かとお暮しはつらいことでしょう」
「はい。ですが、慣れれば楽しいものです」
「まあ、わたくしには、とても無理。女の身で、そんな寒くてさびしいところ、とても耐えられませんわ」
 彼女は、にこりと笑んだ。レノスも呼応するように笑みを漏らす。「確かにそうですな」
 居心地悪げに立っていた夫は、ここぞとばかりに会話を遮った。
「クラウディア。侍女を呼んで、台所奴隷に晩餐のしたくを命じてくれないか。今夜は歓迎の宴だから、念入りにな」
「ええ、わかりました」
 差し出されたアウラスの手を取って立ち上がると、妻は険のある一瞥を残し、しずしずと隣の部屋に去って行った。
 礼儀正しく見送ったレノスは、大きな吐息をつき、横目で従兄を睨みつけた。「わたしのことを話したのか」
「僕じゃない。父だ」
 アウラスは、あわてて弁解する。「先方から、相続の問題をはっきりさせるように迫られた。養子とは言え、おまえには財産を相続する可能性が全くないことを説明しなければならなかったんだ」
「……ばかばかしい」
「相手は、皇帝の血筋にも近い、名門クラウディウス家。父も気を使っているのだ」
 レノスは腹立ちまぎれに、足元の小石を拾って、放り投げた。狙いあやまたず、噴水は盛大なしぶきを上げて、ニンフの彫像をずぶ濡れにした。
 そばで、アウラスは肩をすくめた。
「任期はまだ終わっていないはずだろう。何かあったのか」
「ブリタニア総督アルビヌスどののお伴を命ぜられたのだ」
 皇帝の座の根回しだ、などとは言えない――たとえ、従兄であっても。いや、従兄だからこそ。
「総督は、高地ゲルマニアの軍団司令部を巡回しつつ、こちらに向かっておられるところだ。ローマに入城され次第、わたしは総督とともに、陛下の拝謁を願い出る。今度の勝利で、わたしの指揮する中隊は金の月桂冠をたまわったので、そのお礼を申し上げるためだ」
「金の月桂冠を?」
「知らなかったか。書記官のおまえならば、かかわっていると思っていたのだが」
 アウラスは、苦々しく笑った。
「それは、ありえない」
「どういうことだ?」
「来いよ。説明する」
 彼らは、中庭の奥まった部屋に入った。半円形の壁に沿ってしつらえられた石造りのベンチに、ふたりは腰をかけた。セヴァンは、入り口の柱の陰にひざまずいた。
「僕は、もう何か月も、宮殿には行っていない」
「……クビになったのか?」
「有体に言えば、そうだ。僕だけじゃない。書記官は、全員追い出された。書記局以外にも、宮殿の主だった官吏はほぼ全員だ」
 レノスは、ざわざわと腹の底から駆けあがってくるものを感じた。
「皇帝陛下が、そう命じたのか」
「取り巻きたちが、勝手放題をやった結果だ。親政の名のもと、宮殿は一部の側近に牛耳じられ、まったく機能していない」
「機能していないって……、どこの属州も、まつりごとは滞りなく行われているぞ」
「それは、まだ末端が動いているからだ。だが、少しずつ混乱は各地に広がり始めている。今や皇帝から各軍団に送られる書簡には、何も書かれていない。真っ白なパピルスに、『息災に』(ヴァーレ)とひとこと書かれているだけだ。まともな手紙を書ける書記官が、皇宮にはいないんだ!」
 たまりにたまった鬱憤を一気に吐き出して、アウラスは大きく、震える息を継いだ。
 レノスは、からからに乾いた唇を噛みしめる。
 事態がそんなことになっていたとは。
 それでは、ブリタニアの軍団長たちも、コンモドゥス帝からの白紙の書簡を受け取り続けていたのか。彼らは皇宮がおかしくなっていることを知っている。だから、レノスをあれほどの歓呼でもって送り出してくれたのか。
 では、わが軍が金の月桂冠を賜ったというのも――皇帝の与り知らぬことか。
「元老院は?」
「この三年間で十五人以上の元老院議員が死刑に処せられた。あの暗殺未遂事件以来、陛下は元老院を信じていない。元老院も恐くて、口を出せない」
 アウラスは、苦痛にうめくように言った。
「ローマは、もう終わりだ」


 晩餐は、アヒルや鶏に加えて、クジャク、雌豚の乳房、カタツムリなどの珍味が次々に供された。驚いたことに、インドから運ばれたコショウまで用いられている。
(北の砦では今ごろ、部下たちは固いパンとわずかな干し魚や塩漬け肉しか食べていないというのにな)
 レノスは胃の痛くなるような思いを、ワインとともに飲み下した。
 何人もの奴隷が出たり入ったりして、次々と料理を運んできた。セヴァンは食事のあいだ、ずっと寝椅子の足元にひざまずき、時には主の指をナプキンでぬぐい、時には床に投げ捨てられた骨や貝殻を片づけながら、残り物で食事をした。
 長い宴が終わりにさしかかる頃、楽団が入ってきて、竪琴や縦笛の演奏を始めた。
 レノスは酒の火照りを癒すために、夜の庭に出た。四角く切り取られた空には、月も星もない。ただ、回廊のところどころに掲げられた松明で、あたりはうすぼんやりと照らされている。
 全身の毛穴から、嫌な匂いの油が染み出てくるようだった。ローマにいると、身体はたちまちのうちに怠惰と飽食に慣れてしまう。
 噴水の縁に座り、肩越しにぼんやりと水面を見つめていると、アウラスが回廊から庭に下りてきた。
「どうした。不機嫌そうだな」
「食べ過ぎたよ」
 レノスは、大きなため息を吐いたあと、茶化すように付け加えた。「伯父上は、この晩餐にかかった費用を見ると卒倒するのではないか」
「うちは、このところ毎晩こうだ。友人を呼んで朝までどんちゃん騒ぎ。父も何も言わない」
 嘲るような口調で、従兄は言った。「名家から妻をめとると、こういうことになるのだ」
――奥方との結婚生活は、うまく行っていないのか。
 だが、それは口にすることのできない問いだった。
 従兄は、噴水のそばのシトラスの木に手を伸ばした。薄闇の中、かりっという音とともに、なつかしい甘酸っぱい香りが漂ってきた。
 子どものころは何も考えずに並んで座り、何でも語り合えたというのに、今は隠しごとが多すぎて、交わすことばもない。
 陽気だが、どこか物悲しい音楽が続いている。
「実は、わたしがローマに来たのは、伯父上に会うためだ」
「父に?」
「クロディウス・アルビヌスどのに会っていただきたいのだ。仲介をしてもらえないだろうか」
「何を……企んでいる?」
「何も企んでなどいない。辺境の兵士たちは決して忘れ去られてよい存在ではないことを、元老院の重鎮の方々に思い出していただくだけだ」
「そんな危ないことに、父や僕まで巻き込むつもりか」
「決して、伯父上やおまえに迷惑はかけない」
「信じられるものか。今は疑いをかけられただけで、次の日には処刑される時代だぞ」
「アウラス」
 レノスは立ち上がり、寂しい気持ちで従兄を見下ろした。
「そうだった。おまえには、守るものがあるのだったな」
「……」
「すまなかった。今の話は忘れてくれ」
 レノスは、トーガのひだを左腕にかき集めると、きびすを返して、庭から立ち去ろうとした。
「待て」
 回廊の柱の陰で、追ってきたアウラスに腕をつかまれた。
「……なんだ」
「今の僕に、守りたいものなどない」
 二歳年上の従兄は、口を歪めて笑った。「この家も、妻との生活も、ローマも、もううんざりだ」
 男の底知れぬ暗い瞳に、胸を衝かれる。アウラスとは、いつも明るく笑っていたことしか記憶にない。
 彼のこんな姿は見たくなかった。
「なぜ……どうしてしまったのだ」
「それを、僕の口から言わせたいのか」
 アウラスは、レノスの両肩をぐいと引き寄せながら、押し殺した声を漏らした。「おまえが、そばにいなくなったからだ。何の相談もなしに、勝手に辺境に行ってしまうからだ」
 彼の胸を押し戻そうとしたが、かなわなかった。
「何をする。やめろ」
「レノス……いや、レウナ。卑怯者め。気づいていながら無視したくせに。僕は――」
「やめろ!」
 何を今さら。何を今さら。
 おまえの気持ちなど、所詮その程度だったんだ。
 今のわたしを愛せるというのか。大勢の氏族の血にまみれ、たくさんの部下を死なせたわたしを。
 戦いの中で、友と殺し合うしかなかったわたしを。
「やめて……くれ」
 抗うそばから身体が力をなくしていく。もう少しで堕ちようとする瞬間、黒い影が彼らふたりのあいだに飛び込み、有無を言わせぬ力で腕を引き離した。
 アウラスは、その衝撃で後ろの円柱に頭をぶつけ、崩れ落ちた。
 獣を思わせるしなやかな影は身を起こし、二つの蒼い光でレノスを見た。まるで狩人に狙われた獲物のように、射すくめられて動けない。
「……ゼノ」
 舌がもつれる。「どうして」
「やめろと、おっしゃいました」
 落ち着きはらった声で、奴隷は答えた。
「言ったが、それは」
「それとも、本当は、やめたくなかったのですか」
 目をそらせない。心をえぐりとられるような、強い怒りのまなざし。
 レノスは、ぼんやりと視線を下に落とした。ようやく起き上がろうとしている従兄を見つめて、にわかに霧が晴れた。
「いや――」
 とつぶやく。「これで、よかったのだ」


 次の朝、レノスは、この家を辞することを従兄に告げた。
「出て行くのか。おまえの家なのに」
「いや、違う」
 レノスはおだやかに微笑んだ。「ここはもう、おまえと奥方の家。わたしはよそ者だ。一夜の客となって、そのことがよくわかった」
 アウラスはうなだれ、しばらく言葉を探しあぐねていた。
「ゆうべは、すまなかった。僕がどうかしていた」
「いや。こちらこそ」
 あれからレノスは、セヴァンを鞭で打った。けじめ上、そうしなければならなかったからだ。もっとも、全く力がこもっていない、見せかけだけの仕置きで、鞭を受けるほうも眉ひとつ動かさなかったが。
 ようやく気持ちが定まったのか、アウラスは顔を上げた。
「父あての書状を、至急届けさせる」
「恩に着る」
「おまえの目的が無事に達せられることを祈っている。ただ、くれぐれも気をつけてくれ」
「ああ」
 レノスは、赤い房のあるかぶとを被った。「わたしに用事があるときは、カペルに言付けてくれ」
「レノス」
「なんだ」
「あの奴隷に、おまえが女だということを知らせているのか」
 レノスは、あまりに唐突なことばに、目を見張った。「いや」
「ならばいいが」
 彼は、昨夜したたかに打った後頭部をそっと撫でた。「僕に殴りかかってきたときのヤツの目が、オスの目だったからさ」
「まさか」
 レノスは、従兄の戯れ言を一笑に付した。「そんなことより、そろそろ庇護民(クリエンテス)たちが挨拶に来る時間だぞ。表に大勢集まっている気配がする」
「ああ」
「おまえは、この家を継ぐ跡取りなんだ。弱音を吐いていないで、しっかりと務めを果たせ」
「わかっている」
 従兄と別れの挨拶を交わして、レノスは中庭を出た。
 書斎で、家令の奴隷が待ち構えていた。
「例の、あの場所でございますか」
「うん。何か伝言があれば、よろしく頼む。春まで滞在の予定だ」
「承知しました。毎日、おいしいものを届けさせましょう」
「カタツムリはいらんぞ」
 驚いたことに、まだ朝早いのに、玄関ホールにクラウディアの姿があった。庇護民への挨拶に赴く夫に付き添うためだろうか。
 大理石の長椅子から刺繍のついたショールのすそを垂らし、念入りに美しく整えた白い顔が、艶然とほほえんでいる。
――この人は、アウラスが知らないところで、妻として努力しているのかもしれない。
 レノスが考えていると、
「きれいな金色ね。その髪」
 その言葉の向けられた先には、主の剣と荷物を担いでセヴァンが立っていた。短く刈りこんだはずの髪は、いつのまにか伸び、柔らかくもつれて横顔を縁どっている。
「失礼。奥方さま。わたしの奴隷が何か粗相を?」
 レノスは、彼女の視線をふさぐ位置に立って、一礼した。
「あら、もうご出立?」
「はい。盛大なおもてなしをありがとうございました」
「そう、残念ね。もっとブリタニアのお話を聞かせてほしかったのに」
 彼女の微笑からは、あからさまな憎悪がにじみでている。きっと、夫の心に気づいているのだろう。
「すみません」
 レノスは、幾重もの意味をこめて頭を下げた。
「そこにいる奴隷、いくら?」
「は?」
「売ってちょうだいな。きれいな男の奴隷が欲しかったの。もっと髪を伸ばせば、金髪の良いかつらが作れるわ」
 レノスは振り返って、ちらりと後ろを見た。セヴァンは無表情のまま、顔をそむけた。
「そうですな」
 顎に手を当てて、大真面目に答える。「それでは、100万デナリウスを」
「なんですって?」
「属州ブリタニアの一年間の総予算です。彼を得るために、それだけの金がかかりましたので」
 呆気にとられるクラウディアを残し、レノスは軍用マントをひるがえして、玄関に向かった。ちょうど、門番が門のかんぬきを開けたところで、大勢の群集がぞろぞろと入って来た。
 わきに立ち止まって、彼らをやり過ごすあいだに、セヴァンが訊いた。
「この人たちは、何ですか」
「マルキス家の庇護民(クリエンテス)だ。毎朝、家長は挨拶に来る彼らを迎えて、食事や金を与えてやる」
「ただで?」
「その代わり、助けが必要なときは、いつでも力を貸してくれることになっている。選挙のときなどにな。たくさんの庇護民を持つことは、貴族の証なのだ」
 あきれたようなため息が聞こえた。
「大変なのですね」
「そうさ。ローマ人は、とても大変だ」
 笑いながら、レノスはセヴァンを見つめた。
 この家にいたあいだ、彼とまともに言葉を交わしていなかったことに気づく。奴隷は、その場にいて、いないもの。いつのまにかレノスも、普通のローマ人と同じく、彼をいないものとして扱っていたのだ。
「さあ、行こう」
「どこへ行くのです?」
「ついてくれば、わかる」
 解放された喜びに満ちて、主従はゆるゆると坂をくだっていく。カエリウスの丘全体を、朝の日差しが黄金色に染め上げていた。




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