(5)
日が大きく傾いたころ、レノスとセヴァンは帰路に就いた。
アウラスは、妻とともにマルキス家のウィッラに泊まることが決まっていたので、ブドウ畑のあぜ道で別れのあいさつを交わした。
「すまなかった。その……いろいろと」
アウラスは疲れ切った様子だった。「まさか妻があんな突飛なことをするとは」
「突飛なことじゃないよ。アウラス」
レノスは、笑顔を作って答えた。「たぶん、あの人にとって、わたしは盗人なのだ。盗人を目の前にして、茨の垣根をめぐらすのは、当然の行為じゃないか」
「なぜそんなことを。僕には、クラウディアの考えがさっぱりわからない」
「わからないのは、おまえがあの人を妻として扱っていないからだ」
彼の途方に暮れた視線を避け、自分たちの長く伸びる影を見つめる。細い畦道の行く手には、二頭の馬の手綱を手にしたセヴァンが立ち、こちらを見ている。
「あの人を妻として愛し、妻として慈しめ。ほかの女には見向きもするな」
この一件が終わり、ローマを離れたら、もう二度と伯父には会うまい。もちろん、従兄にも。
アウラスはただひとり、レノスが女であることを知り、女として愛してくれた男だった。だが、もう過去は終わりにする。彼を不幸にさせたくない。
アウラスは、小さく「わかったよ」とつぶやいた。
「あの奴隷はどうするんだ」
「どうもしない。なぜだ」
「あいつは、おまえが女だと知って黙っていた。僕の言ったとおりだったろう」
「『オスの目』……ってやつか」
「気をつけろ。あいつは、必ずおまえにとって危険な存在となる」
レノスは首を振る。「まだ子どもだ」
「何歳になる?」
「十六……十七か」
アウラスは呆れたような吐息をついた。「十七は、りっぱなオスだぞ」
彼らがローマ市内に帰りついたのは、日がとっぷりと暮れるころだった。
道中は、ずっと無言だった。スブラの三階の部屋に入っても、ひとことも交わさない。
レノスは露台への折り戸を少しだけ開けた。冷気とともに食べ物の匂い、松明の煙、そして、道を行き交う人々のざわめきが流れ込んでくる。
セヴァンは暗がりの中で火鉢に火を熾し、袋の中からパンとチーズを出して火にあぶり、手際よく食卓をととのえた。
「ゼノ」
返事はない。「知っているのか」
待ちくたびれるほどのあいだ沈黙が続き、ようやく「はい」という答えがあった。
「いつから」
「今年の春。ロンディニウムからの帰り。森で狩りをした夜です」
「くそ!」
川での水浴びを見られていたと知ったレノスは、後悔に身をよじった。「くそ、そうだったのか」
「誰にも言っていません」
セヴァンは、平坦な調子で付け加える。「砦の隊長にも兵士にも、誰にも」
そして、テーブルに食べ物の入った皿と水のコップを置き、火を灯したランプを置いた。「さあ、早く食べて、寝てしまってください。油がなくなります」
「あ、ああ」
レノスは食卓につき、もそもそと食べ物をつめこんだ。
奴隷は後ろに立って、じっとその様子を見つめている。いつもどおりのことなのに、食べ物が喉を通らない。
ようやく食べ終えると、セヴァンは卓上を片づけ、ランプを消して棚に置き、折り戸を閉め、寝台のそばに火鉢を移動させた。
そのあいだ所在なく部屋の真ん中に立っていたレノスは、そろそろと火鉢の熾火を頼りに寝台に近づき、毛織の上着を脱ぎ捨ててトゥニカ一枚になり、布団の下にもぐりこんだ。
目をつぶろうとしたとき、すぐそばの壁ぎわでごそごそ音がするのに気づいて、跳ね起きた。
「ゼノ、まだいたのか」
一瞬の間があって、あきれたような返答があった。「中で寝てよいと言ったのは、あなたです」
「……そうだったか?」
レノスはふたたび横たわり、寝返りを打った。
いっしょの部屋で寝ることを許した。浴場では彼の前で平気で服を脱いだ。今までの自分の言動の数々を思い出しながら、いたたまれない気分をもてあそぶ。
折り戸の継ぎ目からは、都市の汚れた空気を通して淡くぼんやりと煙る月の光が射しこんでいる。今夜は望月にあと二日足りない。
もう一度寝返りを打ち、ため息をつき、そして起き上がる。
「また眠れないのですか」
気がつくと、セヴァンが壁にもたれて、こちらを見ている。闇に慣れた目には、彼の双眸はほのかに青白く見えた。
「礼をまだ言っていなかったな。黙っていてくれたことを」
レノスは立ち上がり、裸足のまま歩き出し、棚のランプを取った。
「女はローマ軍の兵士になれない。だから、おまえが話せば、即座にわたしは軍から追い出されるところだった」
または、もっと悪い状況に陥るだろう――真実を握る相手に逆らうことができなくなる。ちょうど今、アルビヌス総督とファビウス司令長官の命令にそむくことができないように。
「いくら男として生きているつもりでも、回りはそうは思ってくれないな」
火鉢の火種からランプに火を移すと、暗闇の部屋はかろうじて、ものの輪郭がわかる明るさを取り戻した。
セヴァンは、その光に照らし出された主の華奢な喉の線を見つめた。
「なぜ黙っていた」
「あのときは、ラテン語がよく話せませんでした。それに」
セヴァンは、しばらく言いよどんだ。「それでは、誓いを果たすことができません。いつか、あなたをこの手で殺すと、兄の魂に誓いました。あなたがいなくなれば、それができなくなります」
「そうか。そうだったな」
長い沈黙が落ちたあと、今度はセヴァンが訊ねた。「なぜ、そこまでしてローマ軍に入ったのですか」
よほど経ってから、答えがあった。
「わたしは、父のひとり子だったのだよ」
レノスは、テーブルにランプを置くと、ゆっくりと椅子に腰をおろした。
「レヌス河畔で話しただろう。父は男の子が生まれたら、川にちなんだ名をつけようと思ったと。跡継ぎが欲しかったのだ。だが、生まれたのは女のわたしひとりだった。父の遺志を継ぐために、わたしは男になるしかなかった」
長いあいだ打ち明けられなかった秘密を、ぽつりぽつりと吐き出す。そして、セヴァンがラテン語を習得するまで話せなかったことを。
「わたしは、ブリタニアで生まれ育った。それも知っていたか」
「はい」
「父はローマ第六軍団の筆頭百人隊長を務めたあと、北方辺境部隊の司令長官に任ぜられた。当時の司令本部は、北の砦からずっと東に行ったところにあった。今はもうすっかり廃墟となっている。サフィラ族長が話したことを覚えているか?」
「覚えています」
「そこに赴任してほどなく、母が胸を病み、亡くなった。乳母に雇ったのはカタラウニ族の女で、父はよく氏族の村を訪れ、わたしは族長の家の炉端で乳母の子守唄を聞きながら、暖かく眠ったものだ」
手の中でランプの灯が揺れ、記憶があふれ出す。
温かい暖炉。爆ぜている木の香り。手を伸ばすとすっと掻き消えてしまうような、子どものころの古くなつかしい思い出。
帝都ローマのインスラの一室ではなく、草原に立つ円い藁ぶきの家にいると錯覚しそうだ。
「わたしが九歳のとき、ローマの守りの壁が破れた。北方のカレドニアからピクト人たちが来襲し、ハドリアヌスの防壁以北は大混乱に陥った。土地の氏族たちも、互いに敵対して争った。
ローマに敵対する氏族の連合軍がカタラウニ族の村を襲い、族長は父に救援を求めてきた。それに応えようとした父は――信頼していたカタラウニ族の兵士に、脇腹を刺されて死んだ」
レノスは、喉をふさぐものを何度も飲み込んだ。
「その日遅く、ローマ軍は砦から逃げ出した。見捨てられ、置き去りにされた町の人々は、氏族の戦士たちに腹を引き裂かれ、首を刈られた。乳母といっしょに町にいたわたしは馬車の下にもぐりこんで、それを見ていた。何日かして救援部隊がわたしを見つけてくれたが、血だらけで……ほとんど裸同然だった」
セヴァンはうめき声を上げそうになるのを抑えた。敵を容赦しないのが氏族のやり方だ。俺だって戦になれば、相手が誰であっても、ためらわずに槍で突き刺すだろう。たとえ、そこにいるのが、九歳のローマ人少女であっても。
「何があったのか、わたしはほとんど覚えていない。思い出す必要もない」
おだやかに、レノスはことばを継いだ。「ただ、そのときから、わたしは女であることをやめたのだ。女は無力だ。女であることは罪悪だ」
レノスは振り向き、まっすぐな視線をケルト人の少年に注いだ。「ブリタニアに戻ってくることがわたしの夢だった。息子として父の遺志を継ぎ、あの日壊れてしまったものを、もう一度建て直したい――あの島に、父の望んでいたローマと氏族の平和を取り戻したい」
「嘘だ」
セヴァンは、ふつふつと湧き出てくる憤りに、両眼を燃やした。
「あなたは嘘をついている。あなたが島に来たのは、復讐のためでしょう」
立ち上がった拍子に、肩にかぶっていたオオカミのマントが、はらりと脱げ落ちる。
「だから、友のふりをして俺たちに近づいたんだ。俺たちが油断したのを見はからって、戦いをしかけ、大勢の氏族の戦士を殺した。そうして、父親の仇を取った」
「違う」
「もし俺があなたなら、父親を殺し、自分を傷つけた人間を赦すはずはない。そいつらを見つけ出して殺すことのほかに、生きる理由など見つけられない」
レノスは、なおも力なく首を振った。「信じてくれ。わたしは本当に、おまえたちと戦いたくはなかった」
「あなたさえ来なければ、兄さんは死なずにすんだ」
レノスを睨みつけながら、セヴァンはきれぎれの笑いを漏らした。
「兄さんは最期まであなたを信じていたよ。あなたが女だと知らなくてよかった。もし女の剣で殺されたと知ったら、きっと兄さんはアヴァロンで屈辱に顔を赤らめるだろう」
「やめてくれ……」
「全部、あなたのせいだ。卑怯なやりかたで兄さんをだまして、生まれたばかりの赤子を父なし子にして。生き残った者まで無理やりローマ軍に取り上げて、金や小麦を根こそぎ略奪したのも」
「やめろ!」
レノスは両手を卓の上に叩きつける。その勢いで陶器のランプが跳ね上がり、床に落ちて、粉々に割れた。
「なぜ、わたしだけを責める。おまえだって……おまえだって、たくさんのローマ兵を殺したじゃないか。タイグを、マローを、わたしのかけがえのない部下たちを」
「じゃあ、なぜあのとき、殺さなかった」
セヴァンは拳をぐっとかためて、自分の胸を押さえる。「殺せばよかった。そうすれば、俺は奴隷などにならず、戦士として誇りを持って死ねたんだ」
テーブルをはさんで、ふたりの主従は睨み合った。
「出ていけ。おまえの顔など二度と見たくない」
インスラの上の階に住む住民たちが、戸口のすきまに群がって、おそるおそる中の成り行きを眺めている。
次の朝、軽食堂の女将はセヴァンを呼び寄せ、使いを頼んだ。
昨夜の騒ぎは、朝にはスブラの隅々にまで知れ渡っていた。ローマ軍の百人隊長と奴隷が血まみれの殺し合いをしていた云々と、かなり誇張された噂ではあったが。
「しばらく、ほとぼりが冷めるまで帰ってくるんじゃないよ」
そう言ってエウドキアは、魚醤(ガルム)やらニンニクやら、あまり必要ではない品々をこまごまと頼み、代金と道中で食べるパンを渡し、大きな布袋を背負わせる。「レノスさまのほうは、なんとか私たちがなだめておくからね」
マントを取りに部屋に戻ったときも、出ていくときも、レノスは背を向けたまま、ひとことも口を利かなかった。
外に出ると、南国の冬空はどんよりと低く雲が垂れ込めていた。
目的地は、テヴェレの船着き場近くの市場だ。数日前にレノスといっしょに通ったばかりの道をたどり、アーチ型の白い橋の上に立った。下を流れるテヴェレの黄色い流れを、ただぼんやりと見て時間を過ごす。
歩くのもおっくうだった。昨夜はほとんど寝ていない。
(なぜ、あんなことを言ってしまったのだろう)
後悔に、唇を強く噛む。
生死を懸けた戦いなのだから、殺し合うのは当たり前だ。レノスとアイダンは一対一で正々堂々と戦った。卑怯だとののしる筋合いはない。
『あんたのせいで、兄さんは死んだ』と罵声を浴びせたときの、あの人の蒼ざめた顔。まるで胸を槍を貫かれた人間のようだった。
あんな顔を見たくなかった。けれど、言わずにはいられなかった。兄と自分の運命をめちゃくちゃにしてしまったあの人を、傷つけずにはいられなかった。
欄干に、ぽとりと血のしずくがしたたった。
セヴァンは唇をぬぐうと、袋を背負いなおして、歩き始めた。
市場は、両側に天幕を垂れ、狭い通りは、あふれんばかりの人でごったがえしている。少しでも気を抜けば、ぶつかり、押し倒され、金をすられ、服を引きちぎられそうになる。
買い物客は、ほとんどが男か、男の奴隷を連れた女だ。その中に、ベールを目深にかぶったひとりの女性を見つけて、セヴァンは驚いた。
「ユニア!」
それは、スーラ元司令官の家で会った少女の奴隷だった。
相手は、セヴァンを見ると目を見開いた。「ゼノさん」
「ここは、女がひとりで来る場所じゃない」
彼女の腕をぐいと引っ張って、脇道に入る。「あんな目に会ったばかりなのに、何考えてるんだ」
「昼間はだいじょうぶです。気をつけています」
と、はにかんだ笑みを浮かべる。
「いつも、ひとりで来ているのか」
「いつもは、ご主人さまがついて来てくださいます」
恥ずかしそうにうなだれる。「でも今日は、あの、夕方まで休みをいただいて、集まりに食べ物を持って行こうと思って」
「クリストゥス信者の集まり?」
「はい」
セヴァンはユニアをじろじろと検分し、いきなり彼女が腕にかかえている重そうな袋を取り上げた。
「あっ」
「送ってやる」
「あ、あの、でも、ゼノさんのお仕事は」
「俺も、今日は休みだ」
袋を肩に背負い、さっさと市場の雑踏を先立って行くセヴァンを、ユニアはあわてて追いかけた。
「こっちでいいのか」
「はい。橋を渡って、次の角を右に」
彼女は息を切らせながら、ついてくる。かぶっていたベールがはらりと背中に落ち、金色の長い髪がふわりと揺れた。
追いつくのを待って、セヴァンは言った。「あんた、どこの出身だ」
「ダキアです」
「遠いな」
「ブリタニアのほうがずっと遠いです」
人通りの多い商店街を抜け、今度はさびれた路地へと入っていく。
「あの、ゼノさん」
ユニアはおずおずと上目づかいで見た。まだ少し、彼のことを怖がっているようだ。
「このあいだは、本当にありがとうございました。助けていただいて」
「あいつら、あれから仕返しに来なかったか」
「いいえ、だいじょうぶです。でも」
目を伏せ、石畳を見ながら歩く。「お願いです。もう二度と人を刃物で傷つけたりしないでください」
「なぜ?」
「なぜって……私たちは、平和を望んで暮らしています」
「向こうから仕掛けてきたんだ。やり返さなければ、もっとやられる」
「『剣を取る者は、剣で滅びる』と主は言われました」
「剣を取らないほうが、滅びると思うが」
「人々と争いたくはないのです」
ユニアは、きゅっと肩をこわばらせた。
「これまで私たちは、ことあるごとに憂さ晴らしの的にされてきました。先帝マルクス・アウレリウスさまの時代にも、たくさんの信者が殺されました。幸いなことに、今の皇帝陛下はおやさしいお方で、私たちの信仰を許してくださっています」
「コンモドゥス帝が?」
意外なことばだった。今まで聞いてきた話では、皇帝はとんでもない放蕩者で、日々享楽にふけっているというのに。
「はい。その証拠に陛下の側妃マルキアさまは、わたしたちと同じ信仰を持つお方です」
ユニアはどこか一点を見つめ、陶酔したような微笑みを浮かべた。「私たちはマルキアさまのために祈り続けています。どうぞ陛下のお心をクリストゥスさまに向けてくださいますように。ペルシヤの王妃エステルのように、王の前に神の民をとりなしてくださいますようにと」
臆病だと思っていた奴隷の少女の無邪気な信仰に、セヴァンは腹の底がむかむかするような嫌悪をもよおした。
「あんたたちが崇めている男、クリストゥスとか言ったな」
「はい」
「属州ユダヤで反乱をたくらんで、ローマの総督に処刑されたんだろう。信奉者なら、仇を取ろうとは思わないのか」
ユニアは首を振る。
「主は反乱などたくらんではおられませんでした。神の国は天にあって、地上にはありません。主は『敵を愛し、迫害する者のために祈れ』と教えられました」
「敵を愛する?」
「『右の頬を打つ者には、左の頬を向けよ』とも、『1マイル行けと強いる者には、いっしょに2マイル行け』とも」
セヴァンは一瞬、継ぐ言葉を失った。
「あんたたち、頭がおかしいのか?」
ユニアは、壁土が剥がれ落ちた古いインスラの前に立ち止まった。「ここです。毎週、集まりをしています」
上の階から、クリストゥスに捧げる賛美の歌がかすかに聞こえてくる。
「ありがとうございました。ゼノさん」
布袋を受け取ると、ユニアは頭を下げた。「あなたに、主の祝福がありますように」
「そんなもの、いらない」
言い捨てて、外に出た。柱の陰に隠れて立っていると、歌がぴたりと止まり、「ユニア!」という歓声と笑い声が窓から聞こえてくる。
セヴァンは、ローマ市内に向かって歩き始めた。
橋を渡るとき、皇帝の住まう丘、パラティヌスを見上げる。
ブリタニア、ゲルマニア、ガリア、ヒスパニア、アフリカ、パンノニア、ダキア、マケドニア、シリア、エジプト、ポントゥス。ユダヤ。どれほど多くの民が、ローマの名のもとに殺され、奴隷にされ、人生を狂わされてきたことか。
「ローマ皇帝。俺は、おまえを赦さない」
セヴァンは胸の短剣を握りしめ、ありったけの呪詛をこめてつぶやいた。
レノスは起き上がり、折り戸から差しこむ日射しで夜が明けているのを確かめると、寝台を抜け出た。
昨夜、セヴァンはとうとう帰ってこなかった。
扉を開いたが、戸の外にもいない。
ため息をつき、中に入ろうとすると、階段を降りてくる足音がした。それとともに、突き抜けるような若い女の笑い声が響く。
「ねえ、またおいでよ」
男もののトーガを着崩して、派手な化粧をした女。町の娼婦。
そして、その後ろから続いてくるのが、セヴァンだった。
彼はレノスの驚愕の視線に気づいて、立ち止まった。
「今度は、奮発するからさ」
頬に口づけして、女は階段を上がっていった。
彼はレノスの前に立ち、腕を胸に当ててお辞儀した。「主よ。ご命令は?」
「ゆうべ、何をしていた」
ただの問いかけのつもりだったのに、レノスの声はかすかに震えている。
「あなたが出ていけとおっしゃったので、戻れませんでした」
「こんなまねをするな」
「こんな、とは?」
「奴隷は主人の所有物だ。許しなくして、どこへも行くな」
「出ていけと言ったり、どこへも行くなと言ったり」
ハシバミ色の瞳が、主人をさぐるように動いた。「いったい、何を怒っているのですか」
レノスの右手が、女の接吻を受けた頬をしたたかに打つ。
「次に同じことをしたら、この程度ではすまさん」
セヴァンは痛みを味わうかのごとく、ゆっくりと頬に指を触れた。「……左の頬も打ちますか?」
「なんだと?」
奴隷は、うやうやしく頭を下げた。「なんでもありません。水を汲んできます」
階段を降りていく彼の後ろ姿を見送りながら、レノスは、これしきのことで息を荒げている自分に気づいた。
吸っても吸っても、空気が足りない。
――いったい、何を怒っているのですか。
何をだ。自分でもわからない。ただ無性に腹が立つ。冷静でいられない。
心の奥底がざわめいて、止まらない。
マルキス伯父から信書が届いたのは、月が替わって、ほどなくしてだった。
『ブリタニア総督クロディウス・アルビヌスどのとともに、極秘のうちに、クラウディス・ポンペイアヌスどのの地所に赴かれたし。そこにおいて、ポンペイアヌスどのが引き合わせてくださる方は、きっとおまえたちの期待に沿うだろう』
(伯父が言っていた人とは、ポンペイアヌスどのか)
元老院の重鎮中の重鎮だった。
(この方が出てくるということは、元老院は本気なのだ。本気でコンモドゥス帝を廃することをもくろんでいる)
レノスはパピルスを握りしめ、ぐっと目を閉じた。
瞼の裏に描かれるのは、渦巻く怒涛の上に揺れる一本のつり橋。この橋に一歩踏み出せば、もう後戻りはできない。
だが、もし途中で崩れれば。
何千万の民を道連れに、ローマ帝国は、根底から崩れ去ってしまうかもしれないのだ。
第六章 終
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