The Warrior in the Moonlight

月の戦士

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Chapter 7 「剣闘士」

(3)



 サトゥルナリア祭は、農耕神サトゥルヌスをたたえる祭だ。
 一年の最後をしめくくる十二月中旬の一週間、学校や仕事は休みとなり、おおいに飲み食いして騒ぎ、親しい者同士で贈り物を贈り合うことになっている。
 今日がその初日であることを軽食堂の女主人エウドキアから聞かされて、レノスは「そう言えば」と記憶を手繰り寄せた。
「マルキス伯父の家にいたころは、カペルがもったいぶって言ったものだ。『今日は、奴隷たちがまず座ってご馳走をいただくのです。ご主人さまがたは、彼らが食べ終わるまで待たねばならないのですよ』と」
「そうそう。わたしたちも色とりどりの服に着飾って。一年であの日が何よりの楽しみでした」
 この祭りの最も奇妙な点は、主人と奴隷の役割が逆転するという風習だ。
 一年にたった一度、奴隷が主人よりも大切に扱われる。奴隷の労働で成り立っているローマ社会にとって、サトゥルナリア祭は、奴隷たちの鬱積した不満の小さなはけ口としての役割を果たしているのかもしれない。
「ところで、ゼノに何か贈り物でも用意していますか」
「わたしが? まさか」
 エウドキアは大きなため息をついた。「あの子も、よく文句も言わず仕えていますよ。この、てんで気の利かないご主人に」
 軽食堂を出たレノスは、立ち止まった。
 下町の往来では、セヴァンが子どもたちと一緒に、ハルパストゥムという球遊びに興じていた。舗道の踏み石を境界線がわりに使い、空気でふくらました握りこぶしほどの球を投げたり蹴ったりする。敵側がそれを途中で奪い取るのだ。
 走り、伸び上がり、球をつかんでは投げるセヴァンの笑顔を見ているうちに、レノスのみぞおちが捩れたように痛んだ。
 二年前は、血にまみれ泥にまみれ、戦うことしか教えられなかった野生の獣のようだった。奴隷となってからも、言葉も解せず、字も読めず、誰に対しても冷ややかで、レノスを見つめる目には殺意すらたぎらせていた。
 彼も穏やかに笑うことができると知ったのは、つい最近だ。
(それなのに、一週間後には闘技場に立つのだ)
 皇帝を暗殺するために仕組まれた剣闘試合。数万の観衆の注視する真ん中で、勇猛で知られたコンモドゥス帝と剣をまじえることになっている。
 決して簡単に勝てる試合ではない。それなのに、セヴァンは練習のための剣をまったく持とうとはしなかった。いつもと同じように淡々とレノスの世話をし、浴場でガリア戦記を読み、子どもたちと遊んでいる。
(コロセウムがどういうところか、本当にわかっているのだろうか)
 不安を覚えながら三階へと上がる途中、階段を降りてくる女に出くわした。
 男物のトーガを着崩した女。セヴァンが一夜を過ごした、あの娼婦だ。
「あら、隊長さま。おはようございます」
 商売女の媚びるような笑顔を、思わずぎろりと見据える。
「ゼノと仲直りなさったんですってね」
「……それが、どうした」
「サトゥルナリア祭の贈り物、うんと奮発してあげてくださいましな」
「おまえには、関係ない」
「確かにあたしが頼む筋合いじゃありません。ただ、あの子にはいつも水を運んでもらっているものですから」
「水?」
 横をすりぬけようとしていたレノスは、思わず立ち止まった。
「ええ、うちに来た客が床に漏らしちまって、掃除の水を運ぶのに立ち往生してたら、あの子が見かねて手伝ってくれたんですよ。それが最初で、以来ちょくちょく五階まで水を運んでくれます」
「……」
「うちだけじゃない。このインスラの住人ほとんどが、安い駄賃で水を運んでもらってるみたいです。理由を訊くと、足腰を鍛えるためだって言うんですよ。使いを頼んだって、ローマの端まであっという間に行って来るし」
 女は、「ふふっ」と艶っぽい笑い声を漏らした。「お礼にただで寝てあげるって言ってるのに、あっさり断られました。『俺は主の持ち物だから』って。なんかもう、けなげで泣けるじゃないですか」
 「隊長さまも、今度ぜひ。お安くしておきますよ」という誘い文句を残して、女はしなしなと降りて行った。
 レノスは茫然と、ひとり階段に立っていた。
「なんてことだ。殴ってしまった」


「いいから、座れ」
「なぜ、俺が?」
「そういうお祭りなんだ」
 レノスは立ったまま、もったいぶった仕草で水をなみなみとゴブレットに注いだ。テーブルの上には、スタティウスとエウドキアが持ってきたご馳走がところせましと並べられている。
「主人が奴隷に仕えることになっている。ああ、給仕だけだぞ、ほかのことはできんからな。それに今日だけだ。七日も続いたら、体が持たん」
 照れ隠しにしゃべり続ける主のかたわらで、セヴァンはあきらめて食卓に着き、できるだけ急いで食事を喉につめこんだ。
「終わりました」
 もたもたと不器用に皿を片づけたレノスは、寝台の下から、隠していたイグサの籠を引っ張り出した。
「おまえにやる」
 と、ぶっきらぼうに差し出す。「これも、サトゥルナリア祭の慣習のひとつだ」
 籠の覆い布を取り除くと、入っていたのは新品のトゥニカだ。「宮殿で、そのぼろぼろのトゥニカが、主人としてあまりにも恥ずかしかったのでな。色はまあ、適当だ」
 セヴァンは薄青のトゥニカを取り出して広げ、くすりと笑った。
「俺よりも、あなたのほうが必要なのではありませんか」
「わ、わたしのは、まだきれいだ」
「女としては、かなりひどいものです」
 彼は食卓から立ち上がり、元通りに服を籠に収めると、突き返した。「さあ、変な遊びはもう終わりにしてください。よけいに疲れました」
 レノスは籠をはらいのけた。床に落ちて、中身が散らばる。
「ローマを出ろ」
 ランプの灯を受けて、主の目は切羽つまったようにぎらぎら光っていた。「カペルに頼んで、オスティア港から出る船の切符を手配させた。まずシチリアに行き、しばらく身を隠していろ。脱走したことにしておく」
「俺が逃げたら、あなたが咎めを受けるのではないのですか」
「そんなことは、どうでもいい。こんな暗殺に加担して、無駄死にすることはない」
「死にません」
「コロセウムを知っているのか。兵士と五万の観衆に取り囲まれ、逃げ場などない。ブリタニアの森とはわけが違うのだぞ」
「どこであっても、俺は絶対に勝ちます」
 レノスはじれったげに、狭い部屋の中をぐるぐる歩き回った。
「確かに、おまえは強い。おまえに大勢の部下を殺されたわたしが、誰よりもそのことを知っている。だが、おまえはようやく、平和に生きられるようになったところなのだ」
 レノスは立ち止まり、悲しげな眼差しでセヴァンを見つめた。「文字を読み、書き、ローマの叡智を学ぼうとするおまえの熱意を見て、わたしはどれだけ――どれだけ嬉しかったことか。それなのに、わたしのせいで、こんな野蛮な暗殺の企てに関わらせてしまった」
 その眼差しに吸い込まれそうになったセヴァンは、あわてて目を伏せた。「あなたのせいなどではありません。言ったはず。これは氏族の仇を討つための、俺の戦いだと」
 本当は、違った。そんなきれいごとではない。あのとき一瞬にして彼の憤怒の壺をあふれさせたのは、『余の愛妾のひとりにしてやってもよい』と、レノスの肩に指を這わせた皇帝の卑猥なふるまいだった。
「クレディン族の誇りにかけて、あんなニセのオオカミのマントを着ている皇帝に、決して負けません」
「……はは」
 その答えを聞いたレノスは虚脱して、椅子に座り込んだ。
「本当にコンモドゥスさまは、噂ほどに、愚かで残虐な方なのだろうか」
 レノスは組んだ腕に顎をうずめ、ぼんやりとくぐもった声でつぶやいた。「そう見せかけているだけではないか。あのマルキアさまの館でのお姿は違った」

『なぜ、余ひとりがローマ市民の機嫌を取らねばならんのだ。なぜ余ひとりに蛮族と戦えと強いるのだ』

「陛下のお父君マルクス・アウレリウスさまは、偉大な皇帝であられた。陛下は、その父君に巨大な帝国の支配者として育てられ、ローマのすべてを託された。並大抵の重圧ではない。誠実な御方だからこそ、深く傷ついておられるのだ」
 傷ついているからこそ、誰よりも強くあろうとする。
 レノスが女であることを捨てて、軍人として血を吐くような訓練に耐えてきたのも、同じ理由だった。
「わたしは毎年、ローマ軍の司令官として、皇帝に忠誠を誓い、部下たちにも忠誠を命じてきた。だからこそ、あんな陛下を見ていたら、情けなく、悲しくてしかたがなかった。命を懸けて戦っているのは、陛下ではない、兵士なのだぞ」
 卓にこぶしを力なく叩きつける。「何としても、そのことに気づいていただきたいのだ。なのに、心を尽くして語ることもせずに、陛下を暗殺しようなどと……そんな不毛で無意味な企てを、わたしは見過ごせない」
「もし、殺すなとあなたが命じるなら」
 セヴァンは、こともなげに言い切った。「俺は、皇帝を殺さずに勝ちます」
「何があろうと、わたしのおまえへの命令はひとつだ」
 レノスはまっすぐに彼を見つめ、腹からの声を搾り出した。「ゼノ。死ぬな。絶対に死ぬな」
「わかりました」
 セヴァンは床に落ちた贈り物を拾い上げた。「新しいトゥニカを、ありがとうございます」


 ローマで最もすばらしい建物、いやローマ帝国内で最もすばらしい建物はと問われれば、誰もがコロセウムを挙げるだろう。
 ウェスパシアヌス帝と息子ティトゥスは、ユダヤ戦争でエルサレムを陥落させると、神殿の財宝をことごとく運び出させた。
 その財宝を資金として、ネロの黄金宮殿を取り壊した跡地に、三層構造の巨大な円筒形の建築物が建てられた。れんがとコンクリートを基礎とし、大理石を張りめぐらした堅牢な構造は、太い円柱と、柱と柱をつなぐアーチによって支えられた。アーチの下には、ネロ宮殿から運び出した神々の彫像がずらりと並ぶ。
 階段状の観客席は、五万人を収容できるといわれる。アリーナに最も近い下の席が元老院席。その上が貴族、騎士、平民と等級が分かれていた。最上階の立見席が女性と奴隷、解放奴隷たちの席だ。
 入り口は八十か所。小麦の配給証を持つローマ市民ならば、無料で入ることができる。『パンと見世物』を市民に無償で与えるのが、ローマ皇帝の重要な役割だった。
 騎士の席に座ったレノスは、ぐるりと会場を見渡した。
 満員だ。冬の寒い時期は、闘技場は閉鎖されるのが常だ。慣例にそむいて開かれた、ブリタニア戦勝記念のこの剣闘試合に、サトゥルナリア祭の興奮も手伝って、市民たちは熱狂している。
 天井には風よけのの天幕が張られ、通路のあちこちに、火鉢が置かれているが、そんなものがなくとも、人々は興奮で寒さを感じないだろう。
「カルス司令官ではないか」
 通路から声がかかったので、振り向いたレノスは、あっと声を漏らした。
 セプティミウス・セウェルス。ポンペイアヌスの家で会ったパンノニア属州総督だ。今日は元老院の緋色の線入りのトーガをまとっている。
「パンノニアにお戻りになったのではなかったのですか」
「戻ろうと思ったのだがね。アルビヌスどのに引き留められた。近年まれに見る見世物になるとね」
 と言いながら、レノスの隣に腰をおろした。
「元老院議員の席は、ここではないと思うのですが」
「あそこは、偉い爺さんばかりで息苦しくてね。苦手なんだ」
 セウェルスはぽりぽりとあごひげを掻いた。「それより、今日はきみの奴隷が剣闘士として出場するそうだな」
「はい」
「その試合の結果いかんでは、来年一月一日に忠誠を誓う皇帝の御名が変わる可能性もあるわけだ」
 こんな公の場でさらりと暴言を吐く総督に、思わず目を剥いた。
「だが、この企ては失敗するだろう」
 彼は眉根を寄せて、アリーナを見降ろした。「なにせ、百頭のライオンをひとりで仕留めるという、ありえないことが現に起こっている。今回も絶対に陛下が負けないための仕掛けがあるとわたしは見ている」
 「まさか……」と、レノスは奥歯を噛みしめる。
「心配か」
 セウェルスは神妙な顔でぽんとレノスの肩を叩いた。「無理もない。恋人が勝ち目のない戦いにおもむくのだからな」
「は?」
「隠さずとも、別に恥ずべきことではないぞ。ハドリアヌス帝も美青年アンティノウスを寵愛された。好きという思いは理屈ではないのだ。人を愛するのに、身分の差も男女の別もない」
 まじめな顔で熱弁をふるう総督に、レノスは面食らった。
(……この方は、何を誤解しているのだ)
 話につかのま気にとられているうちに、午前の部に出場する剣士を迎えるための入場門が開いた。すり鉢状の階段席をうずめる満員の観客たちの作り出す歓声は、海の渦潮のようにうねり、空にまで轟いた。
 アリーナは、その名のとおり白っぽい砂で覆われている。剣闘士たちの血しぶきで地面が汚れるたびに、砂が新たに撒かれることになっている。
 今日、アリーナの砂が吸うのは、誰の血か。コンモドゥス帝。それともセヴァン。
「ゼノ……」
 喉が干からびて、舌が上あごに張りつきそうになる。


 闘技場の底には、ときおり地鳴りのような振動が響いていた。人々の作り出す歓声が、ここまで響いているのだ。
 コロセウムの広大な地下空間には、猛獣の檻や、出場する剣闘士たちの控える小部屋が並んでいる。
 セヴァンは、世話係の奴隷と兵士に率いられ、壁の松明で照らされた廊下を進んだ。
 入れと命じられた部屋には、何人もの剣闘士がすでに座っていた。壁には、魚人剣闘士たちの着けるひれのついた兜、投網剣闘士の網、重装剣闘士の円い小楯などがところ狭しとぶらさがっている。
 だが、武器はない。
 剣闘士たちは、見慣れぬ新入りを一斉にじろりと見た。もしかすると、自分が今日、生命のやり取りをするのは彼なのかもしれないという敵意の目で。
「好きな防具をどれでも使ってよいとのお達しだ」
 彼を案内してきた奴隷が、ぶっきらぼうに言った。要らないと身振りで示すと、肩をすくめて出ていく。
 セヴァンは隅の空いている場所に身体を落ち着けた。トゥニカを脱ぎ、上半身はだかになる。手首と足首の急所には布を巻き、ケルト人の毛織のズボンを履き、最後にオオカミのマントをかぶれば、装備は完成だ。
 持参した袋の中には、苦労して見つけたウォードの汁の代わりになるものが入っていた。
 青黒い汁と白い汁を交互に指に取り、顔と胸に念入りな戦化粧をほどこす。薄闇の中での手さぐりの作業に、セヴァンはいつのまにか夢中になり、我を忘れた。
 捕えられ、奴隷となった屈辱の二年間がかげろうのように消えていく。渇いたたましいが誇りで水のように満たされ、戦いへの熱い欲望が体の内側を駆けめぐる。
 ここにいるのは、もうローマ人の奴隷ではない。故郷の島で、夜ごとに月の光を浴びて草原を走り抜けるクレディン族の戦士。
 他の剣闘士たちは、チラチラと彼のおどろおどろしい戦化粧を盗み見ながら、またそれぞれの装備の点検に戻った。右腕を守る腕甲にすねをすっぽり覆い隠す脚甲に、さまざまな形と大きさの盾。無駄口を叩く者はいない。
 ときおり、部屋には先ほどの男が現われ、名前を呼ばれた剣闘士は出て行った。
 午前中は猛獣と闘獣士との試合が、午後からは剣闘士同士の試合が行われるのだと言う。
 防具ががちゃがちゃと鳴る音、昇降台の綱がぎいっときしむ音。檻の中の猛獣のうなり、笑い声と悲痛な叫び。
 地下を反響するさまざまな音に耳をすましているうちに、長い時間が経った。
「全員出ろ」
 それぞれの控え部屋に呼びかける、いくつもの声が廊下に響き渡る。
 剣闘士たちがぞろぞろと出ていく中、一番奥にいた男が、鋭い目で彼を見ているのに気づいた。
 驚くほど大きな羽根飾りをつけた兜をかぶったトラキア剣闘士だった。兜からはみ出た前髪や長い揉み上げが、松明の光に当たって、白く見えた。
 大部屋に集められたのは、二十人ほどだった。
 ひときわ背の高くたくましい禿頭の男が前に進み出、彼らを見渡し、叫んだ。
「おまえたちが今から出るのは、ブリタニア戦勝記念の模擬試合だ。皇帝陛下もお出ましになる」
 誰かが、ぐっと悲鳴を上げるのを堪えた。コンモドゥス帝はすべての剣闘士にとどめを刺すことで知られている。皇帝と戦って負けることは、即ち死を意味するのだ。
「集団戦の形を取っているが、戦う相手は決まっている」
 男は、事務的に言葉をつづけた。
「ブリタニアの蛮族軍に扮する者は、トラキア剣闘士(トラクス)と投網剣闘士(レティアリウス)。ローマ軍に扮するのは、追撃剣闘士(セクトル)と魚人剣闘士(ムルミロ)」
 ひとりひとりの名が呼ばれ、その対戦相手が決められるたびに、彼らは皇帝と当たらないことに一様に安堵する。
「名を呼ばれなかった者たちは、皇帝陛下とこのナルキッソスが対戦する」
 無表情だった男は、そのとき初めて薄笑いを浮かべて、セヴァンのほうを見た。
「さあ、そろそろ時間だ」
 剣闘士たちがぞろぞろ出ていく中、ぽんと彼の肩を叩く者がいた。
「俺と組んで皇帝と戦うのは、おまえか」
 さっきのトラキア剣闘士だ。意外に若い声だった。「俺の名は、リュクス。皇帝剣闘士養成所の筆頭トラキア剣闘士だ。おまえは?」
「ゼノ。北ブリタニア辺境部隊の司令官付き奴隷」
「闘技場で戦った経験は?」
「ない」
 リュクスは、セヴァンの全身をじろじろと無遠慮な目で検めた。
「二対二の組戦とは聞いてなかったんだがな。そんなに細くて、本当に戦えるのか」
「ああ」
「さっきのハゲ男、ナルキッソスは、皇帝のお抱え剣闘士だ。めちゃくちゃ強い。俺も自分の身を守るのでせいいっぱいになる。おまえのことまで、面倒みてやれんからな」
「わかった」
 うしろから、兵士が「おい、行け」と槍の先で小突く真似をしたので、ふたりは歩き始めた。
 剣闘士たちの叛乱を恐れて、警備は厳重だった。過去には、スパルタカスの例もある。武器を手渡されるのも、アリーナに出るとき、戦いの直前だ。
「この戦いに勝てば、今度は俺がお抱え剣闘士になれるかもしれないな」
 リュクスは歩きながら、聞こえよがしにひとりごとを言っている。「ああ、それも悪くねえ。俺もそろそろ先が見えてるしな」
 弓なりに長く伸びる廊下を歩いていくと、ところどころに木製の昇降台があった。奴隷たちが巻き上げ機を回して、籠を上下げさせている。
 世話係の男に「乗れ」と命じられ、リュクスとセヴァンのふたりは籠に乗り込んだ。
 レンガ造りの空洞を、がらがらと音を立てて籠がゆっくりと上昇する。
 すぐさま、剣闘士はセヴァンの肩に手を回し、耳元でささやいた。「おまえも、元老院から直々に声がかかったのか?」
 セヴァンは用心深く、彼の灰青色の目を覗き込んだ。「そんなとこだ」
「それなら、話は早い」
 リュクスは手を離し、ニッと口角を上げた。「お偉方さまの話は少しうますぎると思ったが、やっぱり賭けてみることにするぜ」
 天井を仰ぐ顎には、えぐれた深い傷が刻まれている。
「筆頭剣闘士でいれば、そこそこいい暮らしが送れるし。ぜいたくだってできる。女にももてる。だが、それも飽きた。世界に何千万人の人間がいるかしれないが、こんな機会は誰にでもめぐってくるもんじゃない。ただ生きて死ぬよりは、後世に名を遺すほうがずっといい」
 軽い衝撃とともに、籠が上階に到達した。
「皇帝殺しのリュクスか。悪くねえ」
 入り口の格子ががらがらと開けられ、射しこんできた光に暗闇に慣れた目が眩みそうになる。
「おまえは、何を賭けて戦う? 奴隷からの解放か」
「……ローマに殺された氏族の仇を取る」
「ふっ。見上げたもんだ。俺もそんなかっこいい理由で戦いたかったぜ」
 籠から出ると、アリーナへの入場門がすぐそばにあった。壁際のベンチに腰をかけて、もう一度防具を点検する。セヴァンもオオカミのフードを頭に引き上げた。
 こうして光の中でリュクスの横顔を見ると、意外と若い。白く見えた髪は、陽光の下では白銀に近い金色だった。
「あんたは、どこの生まれだ」
「ダキアの北だ」
「遠いな」
「よく言う。ブリタニアのほうがもっと遠い」
 セヴァンは、思わずくすりと笑った。「驚いた。あんたと話し方がそっくりな女を知ってる」
「美人か」
「よくわからない」
「名前は?」
「ユニア」
「よし、今日の戦いはユニアにささげることにする」
「会ったこともないのに?」
「なにごとも長続きしない性分でな。毎回、ささげる相手の名前が違う」
「おい、おまえら」
 門のそばにいた男が、怒鳴った。「来い。武器を渡す」
 リュクスには、トラキア風の曲刀が渡された。セヴァンには、片刃の長剣だ。
 持ったとたん、ずしりとした重さを感じた。
「驚いたな。剣に鉛を仕込んでやがる」
 トラキア剣闘士は、セヴァンに向かってにやりと笑った。「皇帝め。簡単には勝たせてくれない」
 リュクスは壁に向かってひざまずくと、剣を地面に立てて目を閉じて祈った。
 セヴァンは立ったまま、彼の祈る姿を見つめる。本当にユニアに戦いをささげているのだろうか。ユニアは今ごろ、クリストゥスの神に向かって、争いのない平和な世のために祈っているに違いないのに。
 レノスの顔が、脳裡に浮かぶ。
――あの人は、観客席のどこかで俺の戦いを見ている。
 ぐっと、柄を強く握りしめる。
――司令官。俺はあなたの願いにそむく。皇帝は俺の手で必ず殺す。
 剣の柄に唇をつけ、セヴァンは低くつぶやいた。
「俺は、オオカミだ。ローマ人に飼いならされはしない」
 入場門が開いた。
 五万の歓声が、奔流のように襲いかかる。一歩を踏み出すと、白い砂を敷きつめたアリーナは灼熱の溶鉱炉のようだった。




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