(5)
とうとう、一度も父に褒められたことがなかった。
期待されてはいたのだろう。後継者に指名したくらいなのだから。だが、父の目には、息子は欠けだらけの人形だった。
父、哲人皇帝マルクス・アウレリウスはもうこの世にいない。だからコンモドゥスは、全身全霊を懸けて剣闘の試合に臨むのだ。頭脳派の父が想像もしなかったであろうアリーナに立ち、肉体と肉体とのぶつかり合いに勝利し、幾度も凱歌を上げるのだ。
己(おれ)は天才だ。ローマ最強の戦士なのだと絶えず自分に言い聞かせないと、生きていることが不安でならなかった。
コロセウムでは決して負けることはなかった。どんな手練の剣闘士であろうとも、激しく戦っているうちに体力を削がれ、最後には彼の斬撃をまともに受けて、事切れていった。
だが、今度の対戦相手は明らかにいつもと様子が違った。トラキア剣闘士は立っているのがやっとという状態になりながら、執拗にすべての攻撃をはねのけ、一滴の血も流さぬ無傷のまま、いきなり地面に崩れ落ちたのだ。
もうひとりの蛮族の少年が駆け寄って、彼をかばう位置に立ちはだかり、宣言した。今度は自分が彼の代わりに戦うと。
「もうナルキッソスを倒したのか」
ちらりと横を見やって、コンモドゥスは笑った。「よい腕だ。そのまま引っ込んでおれば、命拾いしたものを」
オオカミの毛皮をかぶった少年は、彼をひたと睨みつける。蒼い戦化粧は汗と血にまみれ、さらに砂埃をかぶったせいで、とてもこの世に生きている者とは思えなかった。
「そう言えば、皇宮の謁見の間での借りをまだ返しておらなんだな」
男装の二百人隊長を守ろうと、いきなり牙をむいてきた仔犬。不意打ちを食らって、我ながら不覚を取った。
「あのとき、俺はあなたを殺すと誓った」
「そう言えば、余も誓った。きさまの血を砂の上にまき散らすと」
からかうように剣を突き出す。「いや、もうまき散らすほどの血もなかろう。そこまでぼろぼろに傷ついて、この上まだ余の剣を受けると申すか」
「俺は負けない。たとえどんな卑怯な手を使ってきても」
「卑怯な手、とは」
「俺たちの剣に鉛を入れただろう」
蛮族は、気を失って倒れているリュクスの手からシーク刀をもぎ取り、コンモドゥスに放り投げた。
「蹴ってみるといい」
靴の爪先にずっしりとした重量を感じて、コンモドゥスは眉をひそめた。「誰がこんなものを渡した」
「皇帝と試合をする剣闘士は、鉛入りの剣で戦うとリュクスは言った」
臓腑がざわざわと波打った。本当なのか。今までコロセウムで戦った剣闘士たちは、鉛入りの剣を与えられていたと言うのか。
最初から試合は、余に有利なようになっていたのか。だとしたら、そんな小細工ができるのは――。
「へ、陛下」
ナルキッソスがようやく気を取り戻し、頭を押さえながら近づいてきた。「お引きください。こいつはわたしが仕留めます」
「すっこんでいろ!」
なじるように、コンモドゥスは答えた。「おまえは負けたのだ。ふたたび戦う資格などない」
ナルキッソスはその激怒に縮みあがり、あわてて数歩後ろに下がった。
「おまえの鉛の入っておらぬ剣を寄こせ」
皇帝は、ナルキッソスからグラディウスをもぎとると、セヴァンに向かって放り投げた。「その剣ならば、文句はなかろう」
セヴァンは地面に落ちた剣を拾い上げようとして、思わずよろめいて膝をついた。
「待っていてやるから、投げ捨てた盾も拾うがよい」
死にぞこないめ。二度とたわごとが言えぬようにしてやる。余が勝ったのは、余が強いからだ。剣の小細工などなくても、勝てる。
「それを、今から証明してやる」
蛮族の少年は、ようやく剣と盾を構えると、すぐに飛び込んできた。
真正面からの、何の工夫もない突撃。コンモドゥスは余裕を持って避け、反撃した。だが、剣は空を斬っただけだった。
即座に剣の軌道を変え、ぐいと捻りこむように剣先を右に突き出す。これで逃げられまい。
しかし、やはり外した。相手は咄嗟に背を屈め、その姿勢から足元に剣を薙ぎ払ってきたのだ。
数閃斬り結んだだけで、コンモドゥスの全身から、どっと汗が噴き出してくる。
剣闘士は、養成学校で剣の技術を磨く者がほとんどだ。教師によって、それぞれの流派というものがあり、剣さばきも似通ってくる。
だが、この蛮族は、ことごとく定石を裏切って、予測不可能な動きをしてくる。
地面をすべりこんで、足払いをしかける。砂をまき散らす。かと思うと宙に飛び上がる。
反面、完全に無防備な瞬間も多く、こちらの攻撃は確実に届く。だが、確かに相手を捉えたと思っても、手ごたえがない。
まるで水と戦っているようだ。森にひそみ、風を味方につけて、奇襲をかけてくる蛮族そのものだ。
ぜいぜいと息を荒げながら、コンモドゥスは今まで感じたことのない恐怖に、内心震え始めた。
恐い?
戦うことが恐いだと?
観衆の中に、少しずつ変化が現われた。
今まで一方的に皇帝に声援を送っていた市民たちが、蛮族のすばしっこく奇抜な攻撃に、どよめくようになってきた。
「見ろ、カルス司令官。上階の立ち見席の連中が、きみの奴隷を応援し始めたぞ」
セウェルス総督が、愉快そうに観客席を見渡した。「やつらは、もともと属州から連れてこられた奴隷や解放奴隷だ。ローマ皇帝を相手に蛮族が善戦する姿を、小気味よく思わぬはずはない。それに」
ふんと嘲るように鼻を鳴らす。「元老院の爺さんたちと来たら、頬がゆるむのを必死にこらえているといった顔だ。きっと笑い出さぬように月桂樹の葉でも必死で噛みしめているに違いない」
頭を巡らし終えて、隣を見たセウェルスは、若き司令官が蒼白な顔をしてつぶやいているのに気づいた。
「ゼノが……オオカミに戻ってしまう」
「オオカミ?」
セウェルスが止める暇もなく、レノスは階段状の観客席を駆け下りて行った。
コンモドゥスの目の中に汗が流れ込み、視界がぼやける。斬られた左脚の太ももがひどく痛み、足運びが思うにまかせない。
大量の出血をした相手も肩で息をしている。足元がふらつくのか、容易にしかけてこなくなった。
「絶対に負けぬぞ」
コンモドゥスは、おのれを鼓舞するようにつぶやいた。
背筋を伸ばし顎を上げる。長身の皇帝は、それだけで神々の彫像のように見えた。
ローマは勝ち続けてきた。敗れるはずはない。そんなことを、あの父帝が許すはずはないのだ。
「これで、終わりだ!」
コンモドゥスは剣を握り、渾身の力を込めてセヴァンに打ちかかった。反撃の暇を与えないほど、何度も何度も。相手にもう体力は残されていないはず。
口の中が砂まみれだ。肺は燃える炉となり、頭の中は白い霧で霞み始める。それでも手は休めない。
相手は力をなくし、じりじりと後退していく。もうすぐ柵に当たる。逃げ場はない。
コンモドゥスは勝利を確信して、強烈な一撃を振り下ろした。盾をはねとばし、そのうしろにいる敵の頭もろとも――。
だが、盾のうしろには、誰もいなかった。
同時に足元を、風のようなものが駆け抜けた。まるで野生の獣。まるで、オオカミ。
背中に怖気が走った。振り向こうとしたとき、鎧の胸甲板に衝撃を受けた。脇腹の息が止まるほどの痛みに身体を折ると、組みつかれ、横倒しに地面に倒される。
上になろうとする力と、そうさせまいとする力がぶつかり合い、ふたりはまるで丸太のように、ごろごろと砂の上を転げ回った。
セヴァンのほうが上になったとき、横からすさまじい勢いで飛びかかってきた者がいた。
ナルキッソスだ。彼は残されたもうひとつの武器、剣を仕込んだ籠手をかざして、皇帝を助けようと乱入してきたのだ。
血しぶきが上がった。肩口を切り裂かれた蛮族の戦士は、短いうめきとともに、体勢を崩した。ナルキッソスはさらに彼に組みつこうとする。
「やめろ!」
コンモドゥスは起きようともがきながら、わめいた。「これは、余の戦いだ!」
だが、その言葉も届かぬかのように、ナルキッソスは籠手を振り回した。
そこに、もうひとりが飛び込んできて、体当たりを喰らわせた。気を失っていたリュクスが、ようやく目を覚ましたのだ。
ともに地面に倒れこんだリュクスは、そのままぐっとナルキッソスの巨体を両手両足で押さえ込んだ。ナルキッソスは抜け出そうともがくが、鍛え上げられた筋肉の檻はびくともしない。
「ゼノ、行け!」
リュクスは、食いしばった歯のあいだから吠えた。「こいつは俺が抑えてる……行け。皇帝は、おまえが」
セヴァンは、血に濡れた左手をぶらさげたまま、ふらふらと立ち上がった。
それを見た観客席からは、まるで地響きのような悲鳴と絶叫と歓声が沸き起こった。
コンモドゥスは体勢を崩したまま、「わあっ」と力ない叫びを上げながら、やみくもに剣を突き出した。蛮族の少年はそれを一閃で薙ぎ払うと、馬乗りになって、コンモドゥスの首筋にぴたりとグラディウスを当てた。
ほこりまみれの顔の中で、ふたつの穴がぎらぎらと光っている。それは底知れぬ獣の目だった。獲物をいたぶり、殺戮に舌なめずりする狂気の目だった。
(殺される)
コンモドゥスは、ぼんやりと考えた。殺される。
ローマ帝国の皇帝である余が。身体不可侵の特権を持っている余が。
こんなところで、いやしい蛮族などの手にかかって殺される。
父に、しかられる。
「ゼノ、やめろ!」
まさに剣を振り下ろそうとしたセヴァンの手が、びくりと止まった。
まるで、五万の観衆の悲鳴や絶叫の中を突きぬけて、彼にしか聞こえない声が聞こえてきたかのように。
彼は、皇帝の喉笛から剣先を離すと、ゆっくりと立ち上がった。
何かを探し求めて、観客席を見渡す。その目から次第に、獣の光が消え始めた。
コンモドゥスが身体をようやく起こしたとき、少年は静かな眼差しで敗者を見下ろした。剣がぽとりと落ちる。
「皇帝陛下」
蛮族の戦士は両膝を地面につけ、頭を深々と垂れた。
「あなたの勝ちです。俺はあなたに従います」
芝居のせりふのような一本調子。
そうだ、これは芝居だったのだと、観客たちはようやく安堵の息を吐いた。これは、ブリタニア戦勝記念の試合だった。試合の結果がどうあれ、ローマが勝利する結末は、はじめから決まっていたのだ。
「すばらしい!」
「皇帝陛下ばんざい」
「最高の試合だったぞ」
満場の拍手に包まれて、皇帝とナルキッソス、そしてリュクスは戸惑いながら立ち尽くす。
そして、蛮族の戦士は、ひざまずいた姿勢のまま、ひっそりと砂の上に崩れ落ちていた。
目を開けたとき、最初にセヴァンが見たのは、心配そうに覗き込むレノスの顔だった。
「気がついたか。ゼノ」
「ここは」
「インスラの、わたしたちの部屋だ」
起き上がろうとして、肩に棘を刺されたような鋭い痛みが走り、思わずうめき声が漏れる。
「アルビヌス総督に兵を貸してもらって、ここまで運んだのだ。三日間、死んだように眠っていた」
「三日?」
そろそろと指を這わせると、覚えのあるわら布団。主人がいつも寝ている寝台だ。エジプトのミイラのように全身に包帯を巻かれて、セヴァンはそこに横たわっていたのだ。
「試合は……どうなったのですか」
「無論、陛下が勝利者となられた。アルビヌス総督みずからが、『ブリタニア・カプタ(ブリタニアの占領者)』の称号とともに、月桂冠を陛下の頭に授けた」
アルビヌスどのの渋面は、なかなかの見ものだったぞ、とレノスは力なく笑った。「だが、本当の勝利者がおまえであることは明らかだ。誰よりも皇帝陛下ご自身がご存じであられるだろう」
レノスは「ちょっと待っていろ」と部屋を出て、しばらくして、湯気の立つ碗を持って戻ってきた。
ソラ豆のスープのよい香りを嗅いだとたん、セヴァンの胃は三日間空っぽだったことを声高に主張し始めた。
レノスは寝台のかたわらに座り、碗にふうふうと息を吹きかけ、「さあ、食え」と匙を差し出した。
「あの奇妙な祭りの続きですか」
「サトゥルナリア祭は終わった。これはわたしからの褒美だ」
匙からは、ぽとりぽとりとスープが垂れ、包帯の上に落ちる。
「これでは、褒美というより罰です」
主が唇を真一文字に結んでいるのを見て、セヴァンは逆らっても無駄なことを悟った。苦労してクッションにもたれ、差し出された匙を口に含む。
ふたりはしばらく黙って、小鳥が雛にえさを与えるのに似た忍耐強い作業を繰り返した。
「おまえが担架で運びこまれたとき、スブラの街はすごい騒ぎだったぞ」
手を動かしながら、ようやくレノスが口を開いた。「エウドキアはおまえの全身の怪我を見て卒倒するし、皇帝陛下との剣闘試合に出たことを話すと、また卒倒した」
くるくると碗の底をかきまぜる。「よく生きていたものだと、包帯を替えに来た医者も驚いていた」
セヴァンは、顔をしかめてスープを飲みくだす。ものを飲み込むだけで、体じゅうの傷がずきずきと痛むのだ。
「リュクスは……どうなりましたか」
「ああ、あの剣闘士も無事だ」
リュクスが飲まされていた毒というのは、眠り薬の一種だったらしい。後遺症はなかった。
「彼は皇帝陛下の次に表彰の場に立ち、万来の拍手を受けた。アルビヌスどのは、観衆の声に押されて、彼に木剣を授けた」
木剣は、奴隷剣闘士が自由にされたことの証だ。観衆は、挑戦者たちが栄誉を受けることを望んで、親指を上に上げた。
たとえ主催者と言えども、観衆の意志に逆らって、出場者の生死を決めることはできない。コロセウムは、ローマ市民の意志がローマを動かすことの象徴なのだ。
「総督は怒っていませんでしたか。俺が皇帝を殺さなかったことを」
「しかたのないことだ。おまえはあれほど全力を尽くして戦ったのだから、文句は言えまい。いや、たとえ誰であろうと、文句は言わせない」
セヴァンは、眉根を寄せて、じっと思いを凝らしていた。
「あのとき、あなたの声がしたのです」
「わたしの?」
「やめろ、殺すなと、俺には聞こえました」
「そんなはずは」
そんなはずはない。確かに階段を駆け下りながら、レノスは「やめろ」と叫んだ。けれど、五万の観衆が一斉に叫んでいたのだ。そんな中で、たったひとりの声が聞こえるだろうか。
「ええ、そんなはずはありません」
と、セヴァンはレノスが差し出した最後の匙を食べ終え、ほっとしたように吐息をついた。
「もういいのか?」
「もう十分です。……ここで寝てよいのですか」
「わたしはエウドキアの寝台を借りている。心配するな」
苦労して身体を横たえたセヴァンに、布団を掛けてやる。
「おまえは、よくやった」
レノスはほほえんだ。「これで、陛下も当分は、剣闘試合に出ようとは思われまい。敗北から何かを悟ってくださったことを期待しよう」
「はい」
セヴァンは答えると、ぐったりと目を閉じた。すぐに寝息が聞こえてくる。
それほどに弱っているのだ。命を搾り出すようにして、戦いぬいた。今こうして息をしていること自体が奇跡なのだ。
レノスは、ぎゅっと布団の端を握って、大声で泣き伏したい衝動に耐えた。
「ありがとう。よく……生きて帰ってくれた」
その日の昼過ぎ、テヴェレの向こう岸からスーラ元司令官が見舞いに訪れた。途中の市場で買った野菜や卵が入ったかごを、奴隷のユニアに背負わせている。
「あれは、すごい試合だった」
と、老人は腕を振り回して、力説した。
スーラも、あのコロセウムに観戦に来ていたのだ。『ブリタニア戦勝記念試合』と聞いて、いても立ってもいられなくなり、痛む足をひきずって駆けつけたのだという。
「まさか、ゼノが皇帝陛下と戦うなどとは思いもしなかった。きみたちがローマに来たのは、試合を盛り上げるためだったのだな」
「そ、それは……まあそんなところです」
まさか、本当は皇帝殺害の陰謀に関わっていたとは、口が裂けても言えない。
「可哀そうに、こんなひどい怪我を……神さま」
ユニアは包帯だらけのセヴァンを正視することができずに、顔をおおっている。「野蛮です。人と人が血みどろの殺し合いをするなんて」
「試合の様子を話したら、この子がずっと泣いているので、思い切って見舞いに来たのだ。何かと不自由だろう。ユニアに手伝わせてやってくれないか」
「ありがとうございます。ユニア、よろしく頼む」
金髪の少女は涙を拭いてうなずくと、てきぱきと湯を沸かし、散らかっていたテーブルの上を片付け始めた。
「それにしても、ゼノ」
と、老スーラは目を細めて、セヴァンを見た。
「きみが陛下の前に武器を投げ捨ててひざまずいたとき、『ガリア戦記』のウェルキンゲトリクスがカエサルの前にひざまずいたくだりを思い出したよ」
「え?」
セヴァンはとまどった表情になった。ウェルキンゲトリクスは、ガリアをひとつに束ねた勇士。彼にとっても最大の英雄だ。
「観客はあの美しい光景に魅了され、一瞬できみの味方になった。きみは武勇だけではない。人心を掌握する術も心得ている」
そして、レノスに温かな視線を向けて、続ける。「レノスはアルビヌス総督の信任も厚い。ブリタニアに帰れば、総督の片腕として、重要な任務をまかされるようになるだろう。きみがそばにいて、レノスを助けてやってくれ」
セヴァンはどう答えてよいかわからず、主人の横顔を見た。
「スーラどの。わたしは、そんなだいそれた者じゃありません」
とレノスは頬を赤らめ、うなだれた。「たぶん総督の不興を買って、辺境の砦で退役まで勤め上げることになります」
「いや、きみはそれでは終わるまいよ」と元司令官は、確信ありげに首を振った。「きっと必ず、属州ブリタニアを動かす大きな力となる。亡き父君のようにね。わたしはそれを見るのが楽しみで、あの辺境に渡るのだからね」
「おや、フィオネラと暮らすためじゃなかったのですか」
レノスはからかい半分で答えた。「砦で留守を守っている部下たちに、スーラどのの新居を建てておくよう手紙を書きました。雪が解ける頃には、準備ができているはずです」
「早く見たいものだな」
彼らがなつかしい北の国へと心を飛ばしていたとき、部屋の扉が前触れなしに大きく開け放たれ、空気が震えるような大声が響いた。
「カルス司令官の家っていうのは、ここか?」
どかどかと入ってきたのは、布袋と木剣を肩に背負った男。顎に深い傷がある、堂々たる美丈夫だ。
「リュクス!」
セヴァンが思わず寝台から立ち上がろうとして、苦痛に体を折り曲げた。
「ゼノ!」
たった数歩で、大柄の剣闘士は寝台に駆け寄り、片膝をついた。「怪我の具合はどうだ」
「……まあまあだ」
「探したぞ。コロセウムの医者に聞いたら、兵士たちがおまえをスブラに運んだと言うんで、一軒一軒尋ね回った。女どもに髪の毛をひっぱられるわ、抱きつかれるわ、さんざんな目に会ったぜ」
引退しても、筆頭剣闘士の人気ぶりは相変わらずらしい。
「きちんと礼が言いたくてな。あの試合は、そもそもおまえが戦って勝った。俺は無様に気絶してただけだ。それなのに、俺だけが木剣を拝受して、おまえが奴隷のままなのは、不公平ってもんだろうが」
彼は立ち上がり、レノスに向きなおった。
「あんたが、カルス司令官?」
「ああ」
「頼む。ゼノを奴隷から解放してやってくれ。その代わり、俺があんたの奴隷になる」
「な、なんだって」
レノスとセヴァンは異口同音に叫んだ。
「生命を救ってくれたこいつに、俺ができる礼はそんなものだ。どうせ、剣闘士をやめても、帰るところもねえ。剣闘士学校で教官をやるなんて、みじめったらしいことはしたくないし。ブリタニアでもどこでも、あんたについていくよ。ゼノの代わりに俺を使ってくれ」
レノスは、おおげさに咳払いした。
「リュクス」
「あ?」
「せっかくの申し出だが、丁重にことわる」
「なんでだよ。俺が代わりに奴隷になってやるって言ってるだろう。戦争でも力仕事でも、けっこう役に立つぜ」
「そうじゃないんだ」
レノスは穏やかに返した。「わたしの奴隷は、ゼノでないと務まらないのだ」
リュクスは、背中の木剣を手に取ると、ことりと床に置いた。
「ゼノがいなければ、あのとき俺は死んでいた」
そして、自分もその前にひざまずいた。「このまま、恩を返さずには終われねえ。お願いだ。あんたも男なら、俺の気持ちをわかってくれるはずだ。俺の代わりに、やつを解放して自由にしてやってくれ」
「いくら頼まれても、それは無理だ」
レノスも負けずに言い張る。
「わからずや」
「そんなことをきさまに言われる筋合いはない」
「まあまあ、ふたりとも」
それまで、黙って聞いていたスーラが、ことことと杖を鳴らして仲裁に入った。
「リュクスくん、コロセウムでの戦いを見せてもらったよ。すばらしかった。そこで、ひとつ提案したいのだが、どうだろうか。わたしがきみを雇うというのは」
「えっ」
「わたしといっしょにブリタニアに来るのだ。実は、レノスたちのいる北の砦の町に移り住むことになってね。わたしは見てのとおり足が不自由だ。今はここにいるユニアが手伝ってくれているが、もうひとり屈強な男の使用人がほしいと思っていたのだ」
「ユニアだって?」
リュクスが突然叫んだので、奴隷の少女はびくりと顔をひきつらせて後ずさった。
「あんたがユニアだったのか」と、あけっぴろげに笑う。「俺は、あの剣闘試合をあんたにささげたんだぜ」
戦いが死ぬほど嫌いなユニアは蒼白になる。「ど、どうしてですか。そんなこと頼んでいません」
「ご加護のおかげで無事に帰ってこれた。あんたは俺の女神だ。ありがとうよ」
「女神だなんて、冗談じゃありません!」
半泣きになって部屋を出ていくユニアを、にまにまと見送ってから、リュクスはスーラに向きなおった。
「よし、わかった、爺さん。俺はあんたに雇われることにしたぜ」
「それほど高い給金は出せぬが、かまわぬか」
「かまわねえ」
「その代わり向こうについたら、自由にしてよいぞ。思う存分ゼノに恩返しをしなさい」
リュクスは立ち上がると、まっすぐにセヴァンを見下ろした。
「というわけで、今日から俺をおまえの子分として使ってくれ。よろしく頼む。ゼノ」
セヴァンは、絶句している。
「やれやれ」
レノスは嘆息して、口の中でつぶやいた。「ブリタニアへの帰りの旅は、さぞや賑やかになるだろうな」
コンモドゥス帝の愛妾マルキアから急使が来たのは、その三日後のことだった。
Copyright 2013−2014 BUTAPENN. All rights reserved.
Template Designed by TENKIYA