The Warrior in the Moonlight

月の戦士

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Chapter 8 「炉端で」

(4)

 8月に入り、レノスの歩兵大隊と騎馬隊、合わせて総勢542人は、長城の門をくぐり、ゲルマニアの防衛線の外へと出陣した。
 とは言え、長城の向こう側も、こちら側と何ら変わることのない景色が続いている。
 金色の穂の垂れ始めた麦畑。牛や羊が草を食むなだらかな平原。活気のある村々。ほとんどの家は藁ぶき屋根に漆喰壁造りだが、街道筋の村には、古びた石造りの建物もそびえている。もう百年近くも昔の、ローマがまだこのあたりを支配していたころのものだ。
 村人はズボンに毛織物のマントというケルト人の服装もあれば、トゥニカを着ている者もいる。ローマの軍隊が通り過ぎるのを物珍しそうに眺める顔に敵意はなく、子どもたちは歓声を上げながら、草ぼうぼうの道を並んで追いかけてくる。
 長城のそばに住むゲルマニアの民は、ローマに家畜や毛皮、琥珀や麦を売り、ローマから布やブドウ酒、銀細工やガラス工芸品を買っている。すでに彼らの生活はローマを切り離しては考えられない。
 だが、森林地帯に入ると、様子は変わってくる。ぽつぽつと点在する村には、人々の姿はめったに見えない。ローマ軍を見たとたん、家の中に隠れてしまうのだろう。
 両側を森にはさまれた深い谷をうねうねと進むと、今にも蛮族の矢が飛んできそうで、知らず知らずのうちに肩が緊張にこわばる。静寂の中に漂う敵意を、ひしひしと肌で感じるのだ。
 比較的大きな集落の前で、レノスは馬を降りた。
「長城(リメス)の砦から来た。村の長はおられるか」
 幾重もの木霊が谷から消え去るころ、長の家らしき建物から、男たちが数人出てきた。
「ローマ軍が、この貧しい村に何の用です」
 ひとりの若者が代表して口を開き、かたことのラテン語で話した。背後の家では、大勢の人間が息をひそめて隠れる気配がする。
「安心しろ。手荒なことをするつもりはない」
 レノスは、努めて穏やかな声音を作った。まかり間違えば、こんな村々から糧食をむしり取る可能性もあったのだと思うと、ぞっとする。
「ならず者たちが、徒党を組んで長城付近の村々を荒らし回っている。放ってはおけない。いろいろ調べて回った結果、どうもやつらは、このあたりの森に根城を作っているそうなのだ」
 男たちの表情は冷たく強ばり、毛筋ほどの変化もない。
「われわれは、その盗賊どもを討伐に来ただけだ。おまえたちに迷惑はかけぬ。何か知っていることはないか」
 若者が仲間に通訳し、彼らはしばらく自分たちのことばで何事か話し合っていた。
「何もお話しすることはありません」
 若者が、レノスに答えた。
「どういう意味だ。知らないということか。それとも、知っているが言えないということか」
「知らないということです。何も知りません」
「彼らの報復を恐れているのなら、心配には及ばぬぞ。われわれが必ずやつらを一掃する」
 熱意をこめて言ったが、無駄だった。話し終えると、彼らはすぐに家の中に戻っていった。
「まあ、ゲルマニア人からすれば、こんなもんでしょうな」
 フラーメンが、脱いだ兜の羽根飾りで顔を煽ぎながら、近づいてきた。「連中の目の動きをずっと見ていたんですが……どうも、わざと目をそむけているって感じでしたね」
「スピンテル。連中は何を話していた」
 ゲルマン人の騎馬隊長は首を振った。「たいしたことは言っていないと思います。カッティ族のことばは訛りがひどいんで、俺にはわかりません」
「ともかくも、賊どもがこのあたりにいるということだけは、確かか」
 レノスは、自分たちを取り囲む森をぐるりと見回した。
「日はまだある。もう少し進もう」
 歩兵は黙々と、食糧を肩に背負いながら歩き、彼らを護衛するように騎兵は馬で進む。それ以外の食糧や装備を満載した駄馬たちが最後尾に進む。ローマ軍が一日に進む距離は二十マイルとされているが、初日である今日は、すでに三十マイル近くをこなしていた。
 ほどなく、谷の斜面を一部分削り取ったかのように見える狭い台地があった。登ってみると、地面を四角く掘った跡がいくつか残っており、陶器のかけらや、崩れた石塀、柱や梁の切れ端がころがっていた。
「ここに集落があったのだろうな」
 レノスはしゃがみこみ、木切れを拾い上げた。まだそれほど朽ちてはいない。
 村が捨てられたのは、戦争のせいか。もっと豊かな土地に移転してしまったからか。それとも、疫病で村ごと全滅してしまったのか。いずれにせよ、そう前のことではないと思われた。残った家の材木は、近隣の人々が薪用に解体して、あとかたもなく持って行ってしまったのだろう。
「ブリタニア人の家の作り方とよく似ていますね」
 カイウスは、四角く掘られた地面の穴のあちこちに開いた穴を調べている。「地面を掘り、周囲にぐるりと壁をめぐらせ、丸太の支柱を立てて、地面すれすれまで屋根を葺く」
「しかし、ブリタニアでは家は円形だ」
「そうです。ここでは長方形です」
 レノスは、家の中央の、暖炉だったであろう場所の黒く焼け焦げた土をひとつかみ握りしめて、ぱらぱらと落とした。
 しばらくして、森の中に偵察に行っていたラールス隊の数十人が戻ってきた。
「司令官。近くに川があります」
 レノスは立ち上がった。「よし、行こう」
 森を奥に進むと、せせらぎの音が聞こえてきた。木立の中にV字型に深くえぐれた谷間がある。以前はそこそこ大きな川だったはずだが、今は岩場の間を縫うようにして、かろうじて流れている程度だ。
 水源が枯れたか、流れが変わったのだろう。先ほどの村が移住してしまったとすれば、この川の水枯れが原因かもしれない。
「さほど水量はないな。せいぜい飲み水になる程度か」
「井戸を掘るまでのつなぎにはなります」
 ローマ軍が野営地を決めるために、最大の要因となるものが水だ。新鮮な水がなければ、人は生きていけない。
「よし、ここに野営を築く。みな準備してくれ」
「はい」
 帰路に着こうと振り返ったとき、レノスは目まいのようなものを感じた。
 一瞬、方向感覚を失ったのだ。どちらを向いても同じ木立の広がりが続き、目印になるものは何もない。鬱蒼と茂る梢が日の光を遮り、薄闇が足元を覆っている。
「俺たちもさっきは迷いかけて、崖から落ちそうになりました」
 ラールスが言った。「ゲルマニアの森は広大です。一度迷うと、何日でもさまようことになるでしょうね。下手すると死ぬまで」
 平然と脅しの文句をつぶやきながら、ガリア人の百人隊長は部下といっしょに降りて行った。しかも、レノスが思っていたのとは全然別の方向へ。
「まいったな。この森が、今回の戦場になるのか」
 レノスは数歩、川から離れた。それだけでもう、自分がどこにいるかすらわからなくなる。
 これでは、ローマ軍の誇る歩兵隊の三列の陣など何の役にも立たない。森の中をさ迷い、おびき出されて分断され、互いの姿を見失って各個撃破されてしまうだろう。
「さっきからずっと、誰かに見られているような気がしてしかたがない」
 いつ、どこから襲撃が来るかわからない恐怖。トイトブルクの森で戦った兵士たちも、敵の槍より先に、おのれの恐怖に負けて自滅していったのかもしれない。
 セヴァンが川から上がってきて、主人を見つめた。
「こんな北まで領土を広げたのが間違いだったのです」
「なに?」
「ローマ人は、温かく豊かで、太陽がいつも降り注いでいるイタリヤだけに閉じこもっていればよかったのに。こんな寒く、暗く、太陽の届かない森は、俺たちにまかせておけばよかったのです」
 自分のものだと宣言するかのように、セヴァンはそびえ立つモミの大木の幹に片手をかけた。
「そうだな」
 レノスは、微笑んだ。「だが、あいにくわたしは、この暗く寒く、恐ろしい森が、ローマよりも好きなのだよ」
 セヴァンは、呆れたというため息をついた。「あなたは、本当に変わり者です」
「よく、そう言われるよ」
 レノスは、野営の地に向かう正しい道を下り始めた。「そろそろ戻ろう。あいつらが宮殿よりもりっぱな野営地を築かないように、よく見張らなければ」
 セヴァンはその後に続き、追いついて横に並ぶと、さりげなく小さな声で言った。「気のせいではありません。何者かが木の陰で、こちらを見ています」


 兵士たちは、背負っていた荷物の中から、シャベルと樫でできた二本の杭を取りだし、きびきびと野営建設にとりかかった。
 一日の行軍の後で泥のように疲れていても、日頃から訓練を受けている兵士たちにとっては朝飯前の仕事だ。シャベルで溝を掘り、その内側に土を積み上げる。尖った杭を等間隔に土塁に突き刺して柵を巡らせ、たちまちのうちに陣地を築き上げてしまう。ローマ軍の野営とは、たとえ一日で撤収するとしても、驚くほど本格的に作るものなのだ。
 中央に将校用のテント、その周囲に十人隊ごとのテントが張られ、その周りに盾や槍を集めて配置する。夕食を作る煙が立ち昇るころに、ようやく北国の夏の太陽が沈んでいく。
 レノスは、マントにくるまって仰向けになり、目を開けていた。外で哨戒兵が歩く足音が近づいては遠ざかる。焚き火の作り出す影が、ゆらゆらと幕布の上で揺れていた。
 クロウタドリが遠くで騒がしい声を上げ、フクロウがくぐもった音で鳴き交わしている。目を閉じると、まるで森の中でたったひとりで迷子になっているようだ。
 神経が高ぶって寝られそうもない。果たしてわたしは、トイトブルク森の惨劇を繰り返すことなく、兵士たちを無事にブリタニアに帰せるだろうか。
「主(あるじ)よ」
 天幕の隅の暗闇の中から、ひそやかな、レノスにしか聞こえない声が発せられた。
「なんだ」
「やはり、偵察に来ています」
「大勢か」
「いえ、せいぜいひとりかふたり。攻撃をしかけるつもりはないようです」
「わかった。ご苦労だった」
 セヴァンの気配が消えると、レノスは静かに息を吐き、全身から力を抜いて、眠ろうと決めた。


「十人隊ごとに、ばらばらに行動してくれ」
 司令官は、早朝にテントの前に集結した十人隊長たちに命じた。「あまり遠出はするな。太陽が天頂に登るまでに戻って来い。万が一敵を見つけたときは、放っておけ。生け捕りにできるに越したことはないが、逃げても無理に追いかけるな」
「あの、それで具体的には何をすれば?」
 十人隊長のひとりが、戸惑った顔で訊ねた。「任務は何ですか」
「迷子にならずに、戻ってくることだ」
 レノスは、にっこりと笑みを浮かべた。「あとは何をしてもよい、狩りでも水浴びでも」
 その朝、四百名の歩兵たちは、森に分け入って、あたりを歩き回り、昼前に戻ってきた。
「もう少しで道がわからなくなりそうだったぜ」
「野営の煙が見えなければ、全然違う方向に行くところだった」
「暗いし、足元はおぼつかないし、いつも誰かに襲われそうで、背筋がぞくぞくする」
 彼らは不安げに顔を見合わせている。午後からも同じように、森の中を歩き回って、日が暮れるまでに帰ってくるよう命じられた。
 次の日も、ただ森を行軍するだけだ。
「木の幹にナイフで印をつけておいたから、今度は迷わなかったぞ」
「あぶねえ、あぶねえ。別の十人隊と鉢合わせして、もう少しで同士討ちをするところだった」
「その日の合図を決めておこうぜ。チドリやハイタカの鳴き声かなんか、どうだ」
 三日目も、四日目も、まったく同じことが繰り返された。
「人影を見かけました」
 五日目、ついに待ち焦がれていた報告があった。
「どんなやつだ」
「それが、木に隠れてよくわからないのですが」
 ローマ軍の赤いマントがちらっと見えたのだという。命令どおり、深追いはしなかった。
「合図が返って来なかったから、うちの兵じゃないということは確かです」
「……脱走兵か」
 レノスは、目を細めて考え込む。クロベルトたち以外にも、ローマ軍から脱走する補助軍兵士が相次いでいると聞く。二十五年勤めあげれば市民権をもらえることになっているが、前線では戦闘が激しいため、それまでに命を終える者も多い。
 皇帝の座をめぐる内輪もめで混乱をきわめる帝国などのために、一生をささげる値打ちはないということか。
「よくやった。以後も、決して追いかけてはならん。出会っても無視しろ」
「でも、このままでは埒があきません。こっそり後をつけて、ねぐらを突き止めてはどうですか」
「今はまだ、時期尚早だ」
 焦る部下たちの進言にも、レノスはまったく動じない。
 第七辺境部隊は、日課の軍事訓練と、一日二回の森の探索、夜の哨戒という単調な日課を繰り返すだけの日々を幾日も過ごした。
 そのうち、兵士たちも肩の力が抜けた。
「おい、ヤマシギを取ってきた。内臓がすこぶる美味いぞ」
「こっちは、野生のブタを捕まえたーっ」
 任務中であることを忘れて、日がな狩りに興じる強者も現れた。すっかり童心に帰って、栗や野ブドウやキノコを籠いっぱいに取ってはしゃいでいる者もいる。
 散策の合間には、せっせと野営地に手を入れたので、すっかり住み心地も良くなった。昔の井戸を見つけて堀り直し、水洗便所や簡易風呂まで完備したのだ。
 気がつけば、もう一ヶ月が過ぎようとしていた。
 夜が明けたばかりの空は雲が低く垂れ込め、斜面をひたひたと這い降りる霧が、谷の半ばまで覆い隠している。
「このまま、ここで冬を越すのかなあ」
 井戸端で顔をぬぐっていた会計係のネポスは、湿気を含んだ空気の冷たさにぶるりと身震いした。
 それを聞いて、髭を剃っていた土木将校のカイウスは、「うう」とうなった。「そりゃ大変だ。冬用の頑丈な兵舎を作らにゃ」
「冗談じゃない。持参の食糧もとっくに尽きているんです。冬になれば、いつまでも木の実や狩りの獲物があるわけじゃなし」
「俺たち、いつまでこの森をうろつき回ってりゃいいんだ」
 フラーメンが寝起きのぼさぼさ頭で、大あくびをしながらやって来た。「早くこそどろを討伐して、砦に帰って寝台で眠りたいぜ。奴らの根城を探し出して、徹底的に叩く。そのために俺たちは来てるんだぞ。司令官は、いったい何をぐずぐずしてるんだ」
「ぼやくなぼやくな。きっと何かお考えがあるんだろうよ」
 そのとき、森の方角から、男たちの叫び声があがった。
「敵襲だ!」
 早朝から狩りに行っていた兵士たちが、転げるように走り戻ってきた。
「盗賊の軍勢が、大挙してこちらへ向かって来ます。数は、二百か三百。あるいは、もっといるかもしれません」
 天幕の中から、すでに鎧に身を包んだレノスが、剣帯にグラディウスを差しながら出てきた。
 空を仰ぐと、大きな雨粒がぽつぽつと顔を打つ。「なんとおあつらえ向きの狩り日和だ。みんな、準備はいいか!」
 その凛とした声は、木霊となって谷に響き渡った。
「長いあいだ忍耐強く待った甲斐あって、賊どもは、のこのこと自分たちから打って出てきた。この森は奴らの根城だが、恐れることはない。存分に腕を奮い、やつらにローマ軍の力を見せつけてやれ!」
 第七辺境部隊の将兵たちは、鬨の声を上げ、手に手に盾と槍を持ち、森の中に突進して行った。野営地の防衛はスピンテル率いる騎馬隊に託して、歩兵隊全員で盗賊軍を迎え撃つのだ。
「そうか。そういうことだったんだな」
 百人隊長の兜をかぶりながら、ひとりごちるフラーメンを、同僚のラールスが振り返った。「どういうことだ」
「俺たちがここに陣を張っているものだから、山賊どもは森から出てこられない。冬が近づいてるのに、略奪にも出られなかったってわけだ。そのうちに、しびれを切らして、いやでも向こうから攻撃をしかけてくる。司令官はそれを待っていたんだ」
 うずうずとこの日を待ち焦がれていた彼らは、心を高ぶらせ、手足には力がみなぎっていた。ひと月前に抱いていた漠然とした恐怖など、もうあとかたもなく消えている。
 もう、ここは未知の森ではない。どんなに駆け回っても、自分の居場所がわからなくなることはない。このひと月のあいだに狩りやキノコ採りで一日じゅう探索し、見知った庭のような場所になっていたのだ。そこここの幹に、彼らがつけた印が残っている。
 敵の姿を間近で見るのは初めてだった。クマやオオカミの毛皮の下にローマ軍のチェインメイルを着けている。ぼろぼろの赤いマントを翻している者もいる。
 敵は森を自由自在に駆け回り、敏捷に攻撃をしかけてきた。しかし、こちらも負けてはいない。十人隊ごとに鋭いくさびの形に陣形を取り、反撃に転じた。木の根をつかんで敏捷に斜面をよじ登り、木の幹や枝を盾がわりに使って、敵の攻撃を巧みに避ける。
 雨はだんだん激しくなり、次第に白い霧が森を包み始めた。歩くたびに、ずぶずぶと泥濘(ぬかるみ)に足をとられる。
 隣にいたはずの友軍の姿も見えず、今朝決めておいたチドリの鳴き声で互いに呼び交わす。霧の中を見え隠れする人影が、敵か味方かわからないからだ。
 数にも武力にもまさるローマ軍が、じりじりと野盗どもを押していた。あきらめて敵が逃げ出す姿も、そこここで見られるようになった。
「まずいな」
 先頭に立って進んでいたレノスは、舌打ちをした。
 わざと退却して、有利な場所で待ち伏せるつもりなのかもしれない。しかも、敵は天候を読み、雨の日を選んで攻撃してきた。霧にまぎれ、足跡や気配を消すためだ。
 だが、ここであきらめて退却すれば、討伐は中途半端のまま終わることになる。もうすぐ冬が来る。これ以上の時を待つ余裕は、向こうにもこちらにもない。ここで決断しなければ。
「逃すな。追いかけろ」
 剣を振り上げて、叫ぶ。森のあちこちから、頼もしい応答の叫びが返ってきた。
 さらに、森の奥深くへと進む。枝葉を伝い落ちてくる雨は、すでに滝のようだった。息苦しいほどの湿気が充満し、濡れた皮膚からは絶えず熱が奪われ続ける。
「盗賊どもの根城は、どこだ」
 小さくつぶやいた途端、ぬうっと目の前に黒い人影が立ちはだかった。
 とっさに盾を突き出し、抜き身の剣を横に払う。うっとうめき声を上げて、影は、金髪の若い男の顔になってレノスに倒れかかり、また影になって地面に動かなくなった。
 今のが部下だったらと思うと、背筋に冷たいものが走る。
「あぶない!」
 それまでレノスのすぐ斜め後ろについていたセヴァンが、前に飛び出した。
 少し離れたところで、刃の合わさる金属音、身体がぶつかり、短くしゅっと息を吐く音。断末魔の悲鳴が聞こえてくる。
「取り囲まれます。こっちへ」
 短く叫ぶと、セヴァンは急な斜面をよじ登り始めた。レノスはあわてて後を追った。
 部下たちの姿がひとりも見えない。みんなはどうなった。ここまで来てしまえば、もう声を掛け合うことは命取りだ。彼らを信頼するしかない。
 斜面をずんずんと登りつめた先は、丘と言うよりは、長い尾根の背の部分だった。強い風が吹き抜け、雨が鞭のように容赦なく叩きつける。だが、森を覆い隠していた霧が少しだけ吹き払われた。
「あれは」
 霧の作り出した幻のように、斜面のふもとの窪地に、黒い砦が浮かび上がった。背後を崖に守られ、前面には尖った杭の柵と土塁をめぐらしている。まるで、ローマ軍の砦そっくりだ。
 彼らがローマ軍の脱走兵だというのは、本当だったのだ。思わず舌打ちする。「盗賊どもめ、そこまで真似してもらわなくとも」
 目を転じると、砦の手前の木立の中に、たくさんのローマ兵の人影が見え隠れしている。レノスの部下たちが、盗賊の砦の前に続々と結集しつつあった。
「みんな、無事だったか」
 喜んだのもつかのま、上から見晴らすレノスの目は、恐ろしいものをとらえた。
 砦の入り口付近に、岩落としの罠が仕掛けられているのだ。ひとたび砦に近寄れば、頭上から大量の岩石が転がり落ちてきて、押しつぶされてしまう。
「いかん。近づいてはだめだ!」
 レノスの絶叫も、どしゃぶりの音に消されて、仲間たちには届かない。
「ゼノ、弓を寄こせ」
 セヴァンは背負っていた弓と矢筒を、すぐに差し出した。受け取るが早いか、きりりと番える。レノスの放った矢は、雨粒を貫き、盗賊の砦に近づこうとしているローマ兵たちの前方の地面に、垂直に突き刺さった。
「罠だ。砦に近づくな!」
 兵を率いていた隊長たちは、矢に気づいてあたりを見回し、前進しようとする部下に身振りで退却を命じた。
 その様子に業を煮やしたのか、堀の中にひそんでいた大勢の盗賊たちが、いっせいに飛び出した。ローマ軍と賊軍とのあいだに、激しい戦闘が始まった。
 敵を足止めするために、レノスは次々と矢を射かけた。戦闘は激しかったが、毎日厳しい訓練を受けている現役のローマ兵に、脱走兵などが敵うものではなかった。賊側の敗色が濃厚になりかけたとき、側面からまた何十人もの新手が襲いかかってきた。
「あぶない、今度はそっちだ!」
 レノスは最後の一本の矢を番える。邪魔な枝を避けようと、とっさに数歩後ずさったとき、足場が崩れた。土が雨のため柔らかくなっていたのだ。
 セヴァンがとっさにレノスの腕をつかんだが、崩れる勢いを止めることはできなかった。ふたりは大量の岩や土くれといっしょに、斜面を転がり落ちて行った。


 意識を取り戻したときは、口の中が苦い血の味でいっぱいだった。上から降る雨と、地面から染み出てくる水で、全身が氷のようだ。
 起き上がろうとすると、足に激痛が走った。すぐ隣にセヴァンが仰向けになって倒れている。
「ゼノ!」
「気がつきましたか」
 目を閉じたまま、かすれた声が返ってきた。「お怪我は?」
「右足を痛めているようだ」
「俺は、あばらをやられました」
「……そうか」
 レノスは苦労して起き上がり、あたりを見回した。斜面を転がり落ちたときのことを、うっすらと覚えていた。
 セヴァンがレノスの身体を、ずっとかばうように抱きかかえていたのだ。落ちる途中で、岩石や木に当たらなかったのは、彼が身代わりになってくれたおかげだ。
「おまえは、そこで休んでいろ」
 やっとの思いで立ち上がると、足をひきずりながら斜面をよじ登ろうとした。
「何をするんです」
「さっきの場所に戻る」
「その足で、どうやって」
 後ろからマントをわしづかみにされ、あっけなく滑り落ちる。
「ほら、まったく踏ん張れていないじゃありませんか」
 レノスは顔を泥だらけにして、キッと睨みつけた。
「部下たちが戦っているのに、こんなところでぐずぐずしていられるか!」
「その足で行っても、足手まといになるだけです」
「それでも行く。わたしは司令官だ!」
「部下を信じるのが、司令官の務めではないのですか!」
 ふたりは、無言でにらみ合った。豪雨は休むことなく、地面の上で跳ね踊っている。
 レノスは、とうとう負けを認めた。「……おまえの言うとおりだ」
「尾根の縁を回り込めば、さっきの場所に戻れます……かなり歩きますが」
 傷ついた主従は、とぼとぼと歩き始めた。セヴァンは怪我がひどく痛むのか、顔をしかめて胸を押さえている。
 激しい雨が、頭に、肩に絶え間なく落ちてくる。森全体を揺らす風の音は、耳を聾するばかりだ。
 鎧も水を吸ったマントも重く、次の瞬間には膝が崩れ落ちそうになる。革のサンダルは踏み出すたびに、ずぶずぶと沈んでいく。
 見かねてセヴァンが差し出した腕を、レノスは一度は断った。それでも、諦めずに差し出される手を、二度目は振りほどけなかった。
 身体は冷え切って、まるで夢の中を歩いているような心地だ。ただ怪我をした右足だけが燃えるように熱い。だが、その熱さは、まるで遠くの焚き火のようだ……。
「眠るな!」
 手を痛いほど強く握りしめられた。意識を取り戻して、再び歩き出す。右足を前へ、左足を前へ。右足を前へ、左足を前へ。
 突然、ぐいと引っ張られ、よろけながらついて行くと、地面に転がされた。抗議のうめきを上げたレノスの手がつかんだのは、乾いた土だった。
 目の焦点がだんだん合ってきた。上を見上げると、ところどころに穴の開いている藁葺きの天井が見えた。古い、誰も住んでいない小屋のようだった。
「木こりが使っていたのでしょう」
 セヴァンは、隅に散らばっているぼろぼろの薪の中から、乾いたものを選り分けているところだった。村が移転したのと同時期に、木こりたちもいなくなってしまったのだろう。
 薪を地面の真ん中に積み上げ、腰の布袋から火打石を取り出す。やがて、藁のほくちから、もくもくと白い煙が上がり始めた。
 レノスは起き上がり、苦労して、濡れたマントを脱ぎ、鎧をはずした。全身が泥だらけだ。
 痛みをこらえつつ軍靴を脱ぐと、足首は青黒くはれ上がっていた。骨が折れているかどうかは、後でグナエウスに診てもらわねばわからないだろう。あのギリシア人の軍医が生きていればの話だが。
 火はぱちぱちと、勢いよく燃え始めた。宝物のような温みを手のひらで受け止めながら、レノスは、ぼんやりとつぶやいた。
「昔、乳母の生まれたカタラウニ族の村の家でこうやって、火に当たったな」
 ケルト人の家は、大きな広間の中央に暖炉がある。家族は、そこで煮炊きしたものを食べ、寒い夜は暖炉の回りに寝床を作って、熾火の暖かさを分け合うのだ。
「体の前は暖かいのに、背中が寒い。そう愚痴をこぼすと、乳母は後ろからわたしを抱きしめてくれた」
 なつかしい追憶に浸るにはあまりにも遠い自分の今の境遇を、レノスは呪わないわけにはいかなかった。震えが止まらない。さっきの戦闘から、ずっと体の奥深い場所が震え続けている。
「わたしは何をしているのだろう。のうのうと火に当たっている場合ではないのに」
「では、外の雨の中で倒れて、凍え死にますか」
 セヴァンは、うんざりしたように答えた。「心配しなくても、フラーメンもラールスも、きっとうまくやっています。ここで雨が止むのを待ちましょう」
「途中で退却命令を出すべきだった。これほど雨が激しくなることを見越していれば」
 どうしても、クレディン族との戦いを思い出さずにはいられなかった。自分の指揮のもと、たくさんの部下が殺された。たくさんの氏族を殺した。アイダンを、アイダンをこの手で殺した――。
「わたしは、最低の司令官だ。的確な命令さえ出せず、部下の命を見捨てて、自分だけがのうのうと火に当たっている。いや、おまえがいなければ、その命さえ失っていた」
 セヴァンは言葉を失い、意味もなく棒切れの先で薪をつついた。
「わたしは、何と弱いのだろう。血のにじむような鍛錬を積み重ねて、強い男になれたはずだったのに、所詮はわたしは――」
 セヴァンは顔を上げた。火に照らされた主人の横顔に、涙がしたたり落ちている。
「アイダンを殺して、おまえを奴隷にして、生き残る値打ちなどなかった。あのとき、わたしが死ねば良かった」
 嗚咽を漏らすまいと唇をきつく噛みしめ、目を閉じてうなだれていたレノスは、後ろからふわりと抱きしめられたのに気づいた。
「ゼノ……?」
「アイダン兄さんも、炉端でよくこうやって背中を温めてくれました」
 濡れたトゥニカを介して、肌のぬくもりが伝わってくる。
「戦士の家に入る前、ほんの小さな子どもだったころは、本当に仲が良かったのに。いったい、どこで間違ったのか……、兄さんは俺を避けるようになりました。俺にとって兄さんはたったひとりの英雄だったから、必死で兄さんに気に入られようと」
 アイダンが望んでいると思えば、どんな汚いことでも卑怯なことでも、平気でやった。父親や村人たちに嫌われても、兄さんさえ好きになってくれればいいと思ったから。
「それなのに、兄さんは」

――俺は思っていたのだよ。族長にふさわしいのは、俺ではなくおまえなのだと。
――俺が、どれだけおまえをねたんでいたか、わかるか?

「兄さんは、弟の俺ではなく、敵であるあなたに心を開いた……あの日、戦いに出る前に、命じられました。『絶対に邪魔をするな』と。俺は、兄さんの心を奪ったあなたが憎らしくてなりませんでした」
 セヴァンの声は、外に降り続く雨よりも、静かに濡れていた。
「だから、命令にそむいて、イスカを横からけしかけた。あなたを兄さんから引き離したかったんです。兄さんはとっさにイスカからあなたを守ろうとし、あなたの剣に――」
 鎧を脱いだレノスの無防備な首筋に、彼の暖かい吐息がかかる。
「俺が余計なことをしなければよかったんです。兄さんを殺したのは、本当は俺です。あなたではない。すみません……ずっとあなたを憎もうとしてきました。でも……もう、できない」
「……ゼノ」
 セヴァンは、レノスの胸で交差させていた両腕に力を込めた。
「俺はもう、あなたを憎むことができません」



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