「入れ」
レノスは顔も上げなかった。訪問者が垂れ幕を押し上げて入ってくる間も、蝋版によどみなく文字を刻み続ける。
「レノス・クレリウス・カルス司令官」
男は決められた所作どおりに両手を胸に当て、目を伏せた。「わが主、カラカラ副帝陛下からのおことばを伝えます」
「謹んで、拝聴する」
レノスはようやく、鉄筆を放した。
そこに立っているのは、奴隷だった。しかも、ただの奴隷ではない。皇帝の奴隷(ファミリア・カエサリス)のひとりだ。
文字通り、皇帝の家に属する奴隷。彼らは従来の身分制度の枠にあてはめられることなく、存在する。皇帝一家の身の回りの世話から、皇帝領の管理、水道や鉱山、郵便などの公共事業の運営。
――そして、皇帝の密命を帯びて、帝国内を自由に動き回る者たちもいると言う。
「陛下は、カルス司令官の報告書にたいへん満足しているとおっしゃっておいでです」
「それはよかった」
「さっそく、次の任地の選定にかかれとお命じになられました」
「そうだろうな」
レノスは、組んだ指の間からくぐもった声を出した。「そろそろだと思っていた。このあたりの森は獲物が豊富で気に入っていたのだが」
奴隷のまとっている真新しいオオカミの毛皮のマントをちらりと見る。「もう一着作っておけばよかったな」
「次の任地にも、良い狩りができる森があります」
「もう決まっているのか」
「途中で立ち寄って、すべて手配してきました」
「相変わらず手回しがよいな」
レノスは、短く溜息をついて立ち上がった。「ご苦労だった。家に戻って長旅の疲れをゆっくり癒すがよい」
奴隷は近づいて来て、卓の上に両手をついた。
「どうせ埃だらけで、疲れは癒されないと思いますが」
「早く帰ってくれ。ルーンが、お父さんの帰りはまだかと毎日泣く。リュクスもユニアもすっかり手を焼いている」
「その前に」
ぐいと腕を引っ張られて、レノスは上半身を泳がせた。たちまち両肩を抱かれ、耳元に温かい息を吹き込まれる。「もう一か月もあなたを抱いていない」
「冗談はよせ。垂れ幕の向こうで、何人の兵士が耳をすませていると思ってる」
「兵の期待に応えるのが、司令官の務めだ」
咄嗟につかんだ鉄筆で手の甲を突き刺そうとすると、奴隷は素早く手をひっこめた。ハシバミ色の瞳が、愉快でたまらないとばかりに細められている。
それを見たレノスも思わず破顔した。会いたかった。ああ、そうだ。セヴァン、わたしもおまえに会いたかったとも。ルーン以上に。
「ローマはどうだ」
「スタティウスとエウドキアの作る肉団子はうまかった」
セヴァンは奴隷の所作などすっかり放り出して、司令官の卓に腰かけ、片膝を立てた。
「アウラスの奥方は三人目をみごもったそうだ。今度こそ男が生まれるようにと、伯父上どのは神殿詣での毎日らしい」
「そうか。それはめでたい」
この冬には、わたしもローマに行くことになるだろう。いつまでも報告書のやりとりだけというわけにはいくまい。
「カラカラ陛下のご様子は」
「飽きもせず、ローマの都の享楽のとりこになっておられる。演技か本気かはわからないが」
「本気は困るな。大丈夫なのか」
「父帝が業を煮やして、ブリタニア遠征を早めてくれれば、それでいい」
「あの御方が、われわれの唯一の頼みの綱なのだ」
レノスは唇を噛んだ。
エボラクムの軍団本部で、14歳のカラカラ帝と密約を結んでから二年。
――もし、あなたがこのブリタニアに争いではなく平和をもたらすと固く約束してくださるならば、わたしはもう一度、軍人としてあなたにお仕えいたしましょう。
今のレノスの任務は、二千人の遊撃部隊を率いて各地を転戦しつつ、国境地帯における氏族との停戦を実現すること。各属州の総督や軍団長に謀反の動きがないかを、秘密裡にさぐること。
そうして、セウェルス帝が満を持してブリタニア遠征を決意するのを、ひたすら待つ。
「わたしは司令官として、おまえは皇帝の奴隷として」
「俺たちの望む方向にローマを動かす」
ふたりは向かい合って立ち、もう何百回と言い交した誓いをつぶやく。あの荒涼とした何もない土地。しかし、彼らが望むものすべてを持っている地。はるかな故郷を想いながら。
「そして、いつか帰る。あなたとルーンと三人で」
「ああ。必ず」
唇が重なった。音を立てず、ひそやかに。しかし、激しく深く。
もうずっとこうして生きてきた。そして、これからも、ずっとこうして生きていくのだ。
アカライチョウがふいに空に舞い上がる。つがいと決して離れぬように、高く高く。『帰れ、帰れ』と鳴き交わす記憶の中の呼び声は、いつまでも耳から離れることはなかった。
完
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