春の終わりの強い風の夜を、クレディン族の民は、「狼の遠吠えの夜」と呼ぶ。
丘陵から降りてきた風が、イバラやヒースの草を揺らすとき、昔の廃墟の石の間を吹き抜けるとき、時に口笛のような甲高い音を出す。
それが聞きようによっては、野生のオオカミの遠吠えに聞こえるのだ。
実際には、野生の種族は年ごとに数を減らし、今ではほとんど見かけることもない。
酒が入ると、年寄りたちが決まって歌う、嘆きの歌のとおりだ。
『オオカミは、もういない。
この地は穢れてしまった。
侵入者(よそもの)たちによって、汚されてしまった』
厩番のユッラは、台所の暖かいかまどのそばから、ねぼけまなこで起き上がった。もがくように眠気と戦ってから、ランプを手に厩舎の見回りに向かった。
強い風を押し返しながら歩いていく。夜明け前の闇の中に黒く沈んでいるはずの厩舎から、小さな明かりが漏れていた。
中には、ひとりの若者が、積み上げたわら束に背を預けて座り込んでいた。
その手に抱かれているのは、生まれたばかりの仔犬だ。
オオカミの血を濃く引いた母親は、十日前に五匹の仔犬を産んだ。そのうち、一番元気のある灰色の雄が、彼のものと決まったのだ。
クレディン族の男は、一人前になると誰でも猟犬を持つ。厳しい訓練に耐え抜いた犬は、戦いにまでついていく。
若者は五年前の戦いで自分の猟犬を失ったため、部族の中で誰よりも先に、新しい仔犬を求める権利があった。
「セヴァンさま」
ユッラは、若者の名を呼んだ。遠くない先に「族長さま」と呼ばねばならぬのだろうが、今はまだいい。
儀式は、先代族長の喪明けに行われることが決まっている。
セヴァンは目を上げ、ユッラを見て微笑んだ。
「座れよ」
「は、はい」
ユッラはしゃちこばって、彼の隣に腰をおろした。
「いい犬ですね」
「ああ」
地面に置かれた仔犬は、母親の乳を求めて鼻先をうごめかし、ときどきあわれっぽい声で鳴いた。セヴァンはそのたびに、指で何度も転がして、あやしている。
「こいつは、いい猟犬になる。大きくなったら、戦いにも連れていけるようになるだろう」
出産に立ち会ったユッラは、自分がほめられたような心地になり、勇気を出して顔を上げた。
次の族長に定められた男は、素肌に古いシカ革のマントを羽織っていた。その姿は、女たちが一冬かけて織り上げるタペストリの中の戦士のようだった。
光のかげんで灰色にも碧色にも見える瞳や、ハイイロオオカミの冬毛のような長い砂色の髪は、マントとともに、父である先代族長から受け継いだものだ。
セヴァンは七年前の帝国軍との戦いの末に、敵の捕虜となった。とっくに死んだと思われていた彼が村に戻ってきたのは、わずか半年前のこと。それまでずっと、奴隷として帝国のあちこちを連れまわされていたのだと言う。
まるで、しなやかな長身を恥じるかのように少し肩を丸める癖は、長いあいだ奴隷の生活を続けてきた証だ。両手首には手かせの痕が、背中にはムチの痕が、皮膚の下にまで深く染み込み、もう一生のあいだ消えることはないように思われた。
ユッラの視線は、無遠慮にも彼の額に吸いつけられた。
昼のあいだ額を隠すために巻く布は、今は取り払われていた。眉間の少し上に、帝国の奴隷身分を表わす、みにくい焼き印がある。
厩番の少年の胸は怒りで熱くなった。敵の焼き印を身に帯びることを強いられたときの屈辱は、どれほどのものだろう。
なのに、セヴァンの全身には、奴隷と呼ばれる者たちが持つ卑屈さは一片たりとも染みついていなかった。それどころか、野獣のような昔の短慮と激情は影をひそめ、口数の少ない、思慮深い指導者となっていた。
だからこそ、彼が民の中に立ち、戦いを宣言したとき、老いた者も若き者も男も女も膝をかがめて、従うことを誓ったのだ。
『この島から、帝国軍を追い払う。やつらの弓矢一本とて、この土地に標(しる)すことは許さぬ』
身じろぎもせずに見つめるユッラに、とうとうセヴァンは問いかけた。「どうした?」
少年はあわてて首を振り、そしてうめくように言った。「セヴァンさまは、どうやって囚われの日々を乗り越えて来られたのですか。俺ならきっと耐えられません。苦しみで心臓が止まってしまいます」
セヴァンは吐息をついた。それはユッラが聞いたことのある、どの吐息とも違っていた。あきらめのゆえでも、苦痛に満ちた記憶のゆえでもない。深い、満ち足りた吐息だった。
顎を持ち上げたとき、前髪が分かれ、奴隷の焼き印が完全にあらわになった。みにくいと思っていた焼き印が、ランプの明かりの中で赤銅色に光り、なぜか誇りに満ちた勲章のように見えた。
「つらいことばかりではなかったよ」
「……つらくなかった? 奴隷の暮らしが?」
窓からは、あえかな月の光が差し込んでいた。その光を浴びて、なつかしむような笑みが彼の顔を輝かせていることに、ユッラは驚いた。
セヴァンは仔犬を少年に託すと、立ち上がり、強風の吹き荒れる戸外に出た。
西の空低く、白金のように冷たい月が、丘の向こうに落ちようとしていた。
帝国軍の砦がある方角だ。この同じ月を、砦の塁壁の上に立って、あの人は見ているだろうか。
きっとそのはずだ。風の音で眠れぬとき、いつもあの人はそうしていたのだから。
「レウナ」
セヴァンは、七年間仕えた主の秘めた名を、低く呼んだ。
その瞬間、彼女がこの月を同時に見上げていることを感じた。確かに体の奥深くで、感じたのだ。
「ゼノ……ゼノ」
あのときのように。
彼に与えた名を、想いをこめて、幾度も呼びながら。
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