猫の秘密〜異世界の姫君アスリア
岡野 なおみ

(1) モンテンギュント(パート1)

 アスリアは、キョウチクトウの林のなかで、口から血を吐いて倒れた。
 ――このままでは、やられる。
 体中がそう訴えているが、どうすることもできない。すっかり日は落ちて、周りには人影がまったくなかった。月もないのにほの明るい。ルギドはこんなところにも、魔物を使っているのだろうか。
 頬に当たる土は硬くて灰色で、冷たいだけでなくどこにも砂が存在しない。顔をあげるのはしんどいが、このままこの、硬い土の上で弱っているわけにもいかないだろう。
 ――ここは、どこ……?
 彼女は、頭を上げようとしながら目をこらした。あたり一面は、うすぼんやりと光る白い細長い燭台のようなもので照らされている。風は冷たく、ひび割れた灰色の土には、蟻ひとつ這っていない。季節は冬――だと思うが、断言するには、彼女はためらいがあった。
 突然、大声が響き渡った。
「あなた、あなた、あなた恋しい未練宿」
 節回しといい、歌っている人間の声の質といい、人間とは思えない大声量といい、これは立派な魔術であろう。私はまだ、魔王ルギドのそばにいるの?
 アスリアは、もっとよく観察しようとして立ち上がりかけ、足元がふらつくのを感じて両手を地面につけた。こみ上げてくる嘔吐感。再び彼女は地面に血を吐いていた。
(次々と倒れていく近衛兵、稲妻のようなパワー、そして絶望に満ちた父の声――そして、魔王の轟くような含み笑い)
(悲痛な声で叫ぶ魔術師、ひらめく雷光、崩れていくサルデス城)
(裏切り者、裏切り者、裏切り者――)
 脳裏にひらめく様々な映像は、アスリアにとってはなんの意味も持たないものだ。問題は、ここがどこかということなのである。
「つれないあなたを待ちながら、切ない恋に身を焦がす、ああ、未練の片思い」
 また、あの大音声だ。
 先ほどから愚鈍な調子で繰り返しているこの一連の文句。攻撃魔法ではなさそうだわ、と彼女は息が苦しくなるのを感じながら言った。どちらかというと、吟遊詩人の文句にかなり近い。その音声を聞いているうちに、力が抜けていくのを感じた。血はどくどくと、胃のなかからこみあげてくる。
 ――このまま、死ぬのだろうか。
 父の仇を討たないままに死ぬのは口惜しい。王族の義務を果たせないうえに、善神ウエルズをがっかりさせてしまう。きみはそれでもサルデスの王女なのかと、天国で天使たちに馬鹿にされるのは我慢できなかった。体調が思わしくないくらいで疲労困憊とは! しっかりしなさい、アスリア!
 その時、声が響き渡った。
「かわいそうに……。どうしたの?」
 そっちのほうに頭を回したが、ぎょっとして全身の毛が逆立つのを感じた。
 大きな椅子に腰かけて、一人の少女が手を差しのばしている。その椅子はほのぐらい闇のなかで薄青く光り、両サイドには大きな輝く車輪が見えた。不気味なことに、その車輪のありようは、まるでルギドの像を彫られた緑柱石のように輝いており、輪のなかにもう一つ輪があるようにも見えている。移動しているときには縦方向のどちらにも移動できるようだが、乗っている人間が体を傾けて、必死になって操らないと動かないようになっているようだ。椅子の上の人間が動くときには、椅子も動き、人間の手が車輪を離れると、椅子は止まった。
 その背後にもう一人、女性が立っていて、
「やめなさいよ、病気持ってるかもしれないわよ」
 としきりに椅子の上の彼女に話しかけている。ほの暗いあかりのなかでは、よく見えないが、二人とも男の格好をしているように見える。体にぴったりしたパンツ、そして暖かそうな毛のはえた上衣。
 女が男の格好をするなんて、はしたない。アスリアは、少し顔をゆがめた。
 すると二人は彼女に近づいてくるのである。
 ――私を、どうするつもり。
 アスリアは、必死になって立ち上がろうとしながら、警告のために低く唸った。これでもフェンシングでは、サルデス一と言われた腕前なのだ。見知らぬよそものに、後れを取るわけがない。
 サルデス人ではないことは、すぐ判った。サルデス人は、銀の髪に紫の眸をしている。いくら光量が少ないからと言っても、見間違うはずはなかった。
「だいじょうぶよ、子猫ちゃん。あんたを取って喰おうってわけじゃないんだから」
 少女は彼女に、そう言った。
 ちょっと見た瞬間は大人の女性に見えたが、どうもそうではなさそうだ。顔立ちは十五歳くらい。暖かそうな、上等の服を着ている。上流階級の出だろう。アスリアは少し警戒心を解いた。
「子猫ちゃんですって? 私はアスリアよ!」
 アスリアはそう答えて、
「にゃーお」
 という声が出てきたので、ぎょっとして凍り付いてしまった。
 ――にゃーお?
 アスリアは、自分の体を見おろしてみた。
 全身は白い毛に覆われ、手足には肉球、その指先からはかぎ爪が生えてきている。後ろを振り返ると、尻尾まで生えている。
 猫になってしまった。いや、驚くなんて生やさしいものではない。恐怖を感じている。
 猫というのは、魔王ルギドの手下であることを示している。善なる神ウエルズの加護を、受けなくなってしまったのだ。
「私はアスリア、サルデス国の王女」
 アスリアは、必死で言った。
「にゃあ、にゃあ、にゃあ」
 猫の声になってしまう。
「怪我してるみたいだわ」
 美子は後ろの女性に言った。
「直ぐに手当てしてあげないと」
「動物を飼うんだったら、太郎丸で充分でしょう」
「太郎丸は動物じゃないわ、介助犬でしょ。それに、ちょうど今、下痢で病院に通ってるから、ついでにこのコも診てもらえるわ」
「病院代かさむわよ、一回十万くらいするかもしれないわよ」
「ほうっといたら死んじゃうわ。そんなのあたし、耐えられない。死ぬのは両親だけで沢山よ」
 女性は、じっと美子を見つめた。
「――しょうがないわねえ、この子だけよ」
「わーい」
 逃げよう、とアスリアは思った。こんな、車輪の化け物に乗った女に、面倒を見られたりしたら、魂を穢されるに決まってる。逃げなくちゃ。
 だが、体に力がかからない。
「さあさあ、こわがらないで。あたしが世話してあげるわ。そうよ、あたしだって、他人の世話くらい出来るわよ」
 最後の言葉は、どちらかというと背後の女性に向けられたものであるようだ。
 後ろの女性はため息をついた。
「あんたが役たたずだなんて、誰も言ってないじゃない」
「あたしの膝に置いて。この子を守ってあげなくちゃ。さあ、早く」
 後ろの女性はぶつぶつ言いながらも、アスリアを拾い上げて美子の膝の上に置いた。
 ――危険、危険、危険。
 アスリアは、頭の中で警報が鳴り渡るのを感じた。なにが危険なのかは判らない。もしかしたら、勘違いかもしれない。だが、猫と化した彼女の第六感は、このまま美子の世話になると、来るべき破滅は避けられないと叫んでいた。
 ――逃げろ、逃げろ、逃げろ。
 アスリアは、足を動かしてみた。力が入らない状態だ。もっと悪いことに、彼女の首根っこのあたりを、あの年かさの女性がつるしあげたので、体全体の力が抜け、まさに母猫に首もとをくわえられて運ばれる子猫そのものになってしまった。
「今日からあんたは、モンテンギュントだ」
 美子は元気よく言った。
「モンテンギュント? ファンタジーの読み過ぎじゃないの、美子」
 くすくす笑いながら、アスリアをぶらさげた女性は言った。
「いまどき、『ネバーエンディング・ストーリー』もないでしょうに」
「でもあの映画、お母さんが大好きだったんだもの」
 美子と呼ばれた女の子は、なおも手を差しのばしながら、
「いい子ねモンテ。あたしと一緒に、家に帰りましょう」
 誰かの飼い猫かもしれないわ、とか、ちゃんと世話が出来るの、とか、伝染病を運んできたらどうするの、とか、後ろの女性が色々言っている。アスリアもその言葉に賛成だ。美子から風邪をうつされることだってあるかもしれないではないか。
 力がこもらないままに、彼女は美子の膝の上に置かれた。美子の暖かい手が、彼女の首をくすぐった。
「にゃーお」
 アスリアは、不機嫌につぶやいた。
「ほら、この子、人間の言葉がわかるのよ。賢いねえ、モンテンギュント」
「あーあ。面倒を見るのはいつも私になっちゃうんだもの。金魚を飼うって言ったときのこと、覚えてる?」
「あれとこれとは違うわよ」
「同じです」
 言い争いながら、二人はキョウチクトウの林を抜けて、MF動物病院に向かっていった。MFとは、マイフレンドという意味で、そこには凄腕のドクターと助手がいるという。
 アスリアは、美子のぬくもりを感じて、少し力を抜いた。危険なことには変わりはないが、この人たちに害意は感じられない。
 それに、なにをするにしても、彼女は疲れすぎていた。魔法使いトレントの姿も、両親の姿もなく、まして見たこともない妙ちくりんな化け物に乗った、十五才ぐらいの女の子に拾われてしまうとは。
 少しだけ、休もう。それから、この異常な事態について考えていこう。
 アスリアは、美子に頭をもたげた。
 ――危険、危険、危険。
 またも脳裏で警報が鳴り渡っている。
 アスリアは身を震わせながら、迫ってくる破滅を覚悟した。

 アスリアには、動物病院というものが存在すると言うこと自体、新しい概念であった。病気になったら動物専門の魔法使いが城に出てきて、猫や犬を治すものである。
 こんなに立派な建物は見たことがない。外壁は、煉瓦造りで一般的な城のようだ。扉は魔法で自動的に開き、中身は白い壁が一面に張られており、暖炉の煤と燭台の煤でよごれた城よりずっと清潔な印象がある。
 動物相手に、ここまで綺麗にするとは、この病院というのはお金持ちなのに違いない。
 サルデス人の治療にも、専門の呪術者が担当していた。患者を集めて集中治療するというのは、下賤のものの考え方だ。自国の病院にも行ったことがあるが、こんなに規模が大きくて、しかもフレンドリーな医者は、サルデスにはいなかった。
 部屋の中から出てきたのは、前かけをした下働きの女と、白い服を着た男が二人。三人とも黒い髪に黒い目をしている。ここがサルデスではあり得ないことはわかっていたが、こうして改めて事実を突きつけられると、なんだかこころが物寂しい。
「これでもう、大丈夫」
 コウ先生と呼ばれた、どこかしゃれた感じのある異国の若医師が、彼女を見おろして頷いている。
 美男子だとは思ったが、油断は出来ない。アスリアは、身構えて毛を逆立てた。
 下働きの女(羊子という名前らしい)が、「はい、大丈夫よ。これ飲んで」
 と言って、なにか錠剤のようなものを口の中に押し込んだ。毒でも盛られては大変だと息を止めたが、羊子は慣れた手つきで彼女の喉の下をくすぐり、
「大丈夫、大丈夫」
 としきりに話しかけてくる。
 その優しい口ぶりは、アスリアのこころを慰めたので、錠剤を飲み下すことにした。
 魔法使い二人の格好は、サルデスの錬金術者がよく着ている白いうわっぱりと、首から下に、なにか先の細い枝のようなものがぶらさがっているほかは、巻物も、魔法の道具も、アイテムも持っていない。こんなことで、ほんとうに彼らを信じることができるのだろうか。
「生後何ヶ月くらいでしょうか」
 美子の車を押していた女性が訊ねた。自己紹介によると、彼女は美子の親友の、竹島美土里というらしい。ボランティアで美子の外出を手伝っているという。
「そうですね、だいたい三ヶ月くらいかな。採血してみたら、ネコイラズが見つかりました。エサに混ぜたんじゃないかな」
 コウ先生は顔をしかめた。
「ひどい」
 美子はぶるぶる震えている。
 アスリアは目をそらして、驚いて目をこらした。
 診察台の上に乗っているのは、青黒く光る髪、賢そうな黒い眸。黒いチュニックに体にぴったりした黒いタイツ。
 美しい。
 どきっとするのを感じた。
「あ、太郎丸。紹介するわ。今度家族になった、モンテンギュントよ」
 太郎丸と呼ばれた青年は、元気よく頷いている。はっ、はっ、はっと、息も荒い。
 ――太郎丸?
 青年は、言った。
「はじめまして。これからもよろしく」
 それが、アスリアと、介助犬太郎丸との出会いであった。

(2) となりの妖魔(パート1)

 ノガル・アンガスの生まれた夜は、サルデス国始まって以来の荒れ模様であった。
 烈しい雷雨が、崩れきったサルデス城の跡地に降り続けている。封印されていたさまざまな悪の知識が、城の地下深くから発掘された。その一つ――邪悪なホムンクルスを作る術は、最もやりがいがあり、また危険を伴う魔法なのである。
 そのためには、祭壇と水晶が必要だった。悪の儀式を行うために、こっそり材料を仕入れて来た時代は終わり、じゃまなサルデス王ルシャンはもういない。儀式は堂々と行われた。
「来たれ、妖魔よ。我そなたを召還す」
 ルギドは叫んだ。
「わが忠実なるしもべよ、破壊と暴力の王よ。世界の支配者たるルギドの元へ、とく来たれ!」
 長くて黒いローブを額の処まで目深にかぶり、善なる神の禁じた呪文を唱え、香を焚き、儀式は最高潮に達しようとしていた。
 彼が祭壇の上に置いたのは、まるで生きているかのような美男子の像であった。黒い髪に、彫りの深い顔かたち。めじりの薄い微笑み。澄んだ眸、今にも語りかけそうな口元に、ほっそりした体つき。だいたい百六十センチくらいだろうか。
 だが、どんなに美しい像であったとしても、これはただの粘土である。何の変哲もない、ごく普通の泥の固まりだ。
「来たれ、妖魔よ! 世界の支配者、闇の魔王、我、ルギドが命じる。契約により、とく来たれ!」
 ルギドはわめいた。
 ういん、ういん、ういん。
 かすかに、四角い祭壇が光り始めた。櫓(やぐら)を組んだ祭壇には、組み合わさった木の柱が、なにもしていないのにぼっと青白く輝き始める。嵐は激しさを増してきた。がたがたと、ルギドの塔が揺れ動いた。祭壇は、くらくらするような異臭を放つ香のにおいで、かすんでいく。
 ルギドは近づくと、短剣を手の平の上にすべらせて、にじんできた血の玉を返すと、像の上にしたたらせた。
 どすん、と尖塔に稲妻が突き刺さった。そのとたん、尖塔から力が塔全体にかけめぐり、張り巡らした電線を通って祭壇の像に突き刺さる。
 そして、粘土の像が、その力を受けて燃え上がった。像全体が、まるで薪のように煙を発し、ぱちぱちと表面がはぜた。
 像はどろどろと溶け、だらしなく地面に横たわって、灰となった。
 ――そして、灰のなかから、一人の青年が起きあがった。
 あの、粘土に描かれた像とそっくりの青年だ。
「ノガル・アンガス、お召しにより参上いたしました」
 青年は、深いテノールの声で言った。
「おお、妖魔よ! もっとも力のある種族アンガスの名を、我が水晶に刻むがよい」
 ルギドは、喜んでいった。
 ノガルは指を、祭壇の奥に立てかけられた、巨大な平たい六角形の水晶に向けた。指先からほとばしる電気のような光は強烈で、稲妻の力をを帯びたサファイア・ブルーだった。水晶の上に文字が書かれる。
 ――ノガル・アンガス。
「契約は成立した」
 ルギドは重々しく言った。
「すぐにでも、王女アスリアを探せ」
「――生命波動を感じる手がかりになるものが必要でございます。日頃よく使っていた鏡か、髪飾りか、あるいはハンカチでもよろしいのですが」
 ノガルは言った。
「そんなものは、城と一緒に埋もれてしもうたわ」
 ルギドは吐き捨てるように言った。
「それでは、どのようにして探せばよろしいので」
 ノガルは困惑したように言った。
「あのものは、どことも知れぬ異次元の向こうで、白い猫になっておるはずだ」
 ルギドは、しげしげとノガルを眺めながら言った。
「おぬしの力を持ってすれば、あのものをさがしだすことくらい、たやすいことであろう」
「それはもちろんそのとおりでございますが、さがしたあとは、どういたしましょう」
「長く苦しめて、殺せ」
 ノガルは一礼した。
 そして、意識を集中して異世界への扉を探し始めた。
 原子の分子配列が一定のリズムを刻む。
 異世界ティトスと地球をむすぶ道は、月によってコントロールされているのだ……。

「きみ、毒を盛られてたんだって?」
 美子に抱えられて家に戻りながら、アスリアは太郎丸に話しかけられていた。
 太郎丸は、自分を犬だと言っているが、どうみてもハンサムな青年である。ちょっとおっとりしているところは、育ちがいいのだろう。アスリアは、どきどきして顔が赤らむのを感じた。
「え、ええ」
 アスリアは顔を赤らめた。太郎丸が自分に注目してくれる。それだけで彼女はくらくらするほど幸福だった。
「たいへんだったねえ。世の中には、悪いヤツがいるんだねえ」
 太郎丸はのんびりした口調で言った。
 毒を盛られたというより、異世界に来ること自体が毒なのだと説明したかった。次元の違うところへ移動すると、魔法と魔法の配列が微妙に食い違うと教えられたことがある。というのに、説明できるほど精しくは知らなかった。とにかく、移送の力を持つほどの偉大なる魔法使いたちが、滅多に異次元世界に来ないのは、体内に解毒不可能な毒を抱え込むことになるからなのだということくらいの知識は持っている。それなのに、ここの人たちは、簡単に体内を解毒して、数時間で治してしまう。私たちの魔法よりも、もっと優れた魔法がここにはあるのだとしか思えない。
 すばらしい世界だ。この世のパラダイスに違いない。
 辺りを見回すにつれ、つくづくそういう認識を新たにする。
 光の森にしか存在しない魔光虫よりも、ここの「電灯」のほうが明るいし、エサをやる必要がない。
 時々、冷たい風とともに、びゅんびゅん通っていく光る目玉の四角い化け物。
 あれは、車というものだと太郎丸が教えてくれた。
 車輪がついているが枝のように細長い乗り物は、自転車。
 灰色の道の両側に、樹木まで植えてある。
 見れば見るほど、よく考えられている。
 数時間前までいた、MF動物病院のことを思い起こした。
(自動的に開閉する扉)
(火がなくても明るく、あたたかい室内)
(綺麗な猫用トイレ――猫専門のトイレなんて、なんという贅沢だろう!)
(それに、あのすばらしく美味しいキャットフードなるもの)
――危険、危険、危険。
 ふつふつとこみあげてくる頭痛のような本能的警告に、アスリアは顔をしかめて頭を振った。【三人の偉大なる魔法使い】の一人トレントは、彼女に掛けられた魔法を解こうとして命を落とした。二人目の魔法使いである父君ルシャンは、もはや生きてはいまい。三人目のルギドは裏切った。数ある異世界のうち、「この」世界に来たことを、生きた人間で知っているのはだれもいない。
 トレントは、死ぬ間際に私を「移送」させたのだ。ルギドの魔手から逃れさせるために。
 どうせルギドは、次元移動に伴う毒で苦しんで死んだと思いこんでいるはずだ。どこに危険があるというのだろう。それに、もしここにいることがバレたとしても、自分では来れない。命が惜しかったら来れるわけがない。
 解毒してくれる病院なるものがあるという知識は、彼にはないはずだ。
そうであってほしい。
 沈黙していたので、太郎丸は少し心配そうになった。
「話しかけたりしてごめんよ。疲れちゃっただろ? やっぱりもうちょっと、病院にいた方がよかったんじゃない?」
「いいのよ、そんなに心配しないで」
 太郎丸の優しさに、ふと涙が出てくるのを感じた。 
「ご主人さまが、きみのことを気に入ってくれて良かったよ」
 太郎丸は、美子の背後を、小走りについて歩きながら言った。
「ご両親が亡くなってから、ずっとふさいでたから……。ぼくではご主人さまの気晴らしにはなれなくてね」
「――どうして?」
「ペットじゃなくて、介助犬だからさ」
 太郎丸は、悲しそうにつぶやいた。
「介助犬」
「ご主人さまの身の回りのことを、世話してあげるのが仕事なんだ。漫画を取ってあげたり、ジュースを持ってきてあげたり、空き缶をゴミ箱にいれたり」
 ジュースはともかく、漫画や空き缶、と言う意味がよく判らなかったが、判ったことが一つある。
「すごいわね、色んなことよく気がついて、しっかり美子さんを支えているのね」
 太郎丸は少し、胸を張った。
「ぼくは、この仕事が大好きなんだ。生き甲斐だよ」
 その誇らしげな表情を見て、アスリアは少し妬けて来るのを感じた。
 王女として生まれて来たけれど、その身分を誇りに思ったことがほとんどない。むしろ、重荷に感じていたからである。
「でも、介助犬は、必要なことを的確にこなすのが仕事で、甘えたり、じゃれついたりしちゃダメなんだ」
 太郎丸は、自分に言い聞かせるように、
「きみはぼくのかわりに、美子さんを慰めてあげられる。ぼくにはできない仕事だよ」
 そうだといいけど。
 アスリアは、ため息をついた。
「さあ、着いたわよ」
 美子の声に頭をあげた。
 太郎丸、美子、美土里の顔は、あきらかに、ほっとしている様子だ。やっと帰ってきたという安堵感が、アスリアにも伝わってくる。
「もう一日、病院に置いておけば良かったのに」
 美土里が扉に近づいた。美子は車いすを操りながら、
「ダメダメ。家族はいつもそばにいなくちゃ。どんなときも。――ちょっと押して」
「はいはい」
 車いすががたびしと、平たい灰色のアスファルト(太郎丸が名前を教えてくれた)道路の上をわたっていく。美子はしっかりとアスリアを抱きしめた。
「こわがらないで。あんたのお母さんは、このあたしだよ。なにがあっても、あんたを絶対に離さない」
 暖かい胸のぬくもりが、アスリアのこころに触れてきた。
 高貴な血筋の私に触れるなんて、なんという罰当たりな。
 と思ったが、この温かさが居心地良くて、彼女は頬を美子の胸に押しつけた。
 生まれてくる自分と引き替えに命を失った母のことが、アスリアの脳裏をかすめた。母の顔は知らない。だが、きっとこんな風に、温かかったのだろう。
――危険、危険、危険!!
 警告の声は、狂ったように頭に突き刺さる。
 鍵ががちゃがちゃ言うと、扉が開いた。
 美子がアスリアをしっかり抱えていたので、美土里が車いすを押して中に入った。
 誰もいない。
 甲冑の飾りも、タペストリーも、絵画もまったくない部屋。
 MF動物病院で、あれだけのすばらしい魔法の数々を見せられたあとだけに、アスリアは、かなりがっかりした。液体のわき出ているフラスコとか、聖なるお香の焚かれた魔法陣とか、巻物の並んだ本棚、あるいは古い魔法の力を秘めたエンチャント・ジュエルなどを期待していたのだ。
「入ってください、ぼく、飲み物取ってくるから」
 そう言うと、太郎丸は部屋の向こうにある扉にむかって走り出した。その扉についていた紐を引っ張ると、その向こうに消えていく。「あたしのぶんはいいからね」
 美土里が呼びかけた。
「判ってますよ!」
 太郎丸が扉の向こうで返事をしている。
「お姉さんが帰ってくるまで、ここにいたげようか」
 美土里は言った。
「いいよ。いつも夜十時頃帰ってくるから。それにあたしはもう、五歳の子供じゃないのよ」
「それは判ってるけど」
 美土里は心配そうに顔を曇らせた。
「まあ、いいわ。また明日も、その子を連れて散歩にでかけましょう。今度はカラスでも拾ってくるかしらね」
「モスラかも」
「あははは。じゃあね」
 美土里が去っていくと同時に、太郎丸が手に小さな瓶のようなものを持ってやってきた。
「美土里さん、もう帰っちゃったんですね」
 瓶を差し出しながら、彼は言った。
「テレビでも見ますか? ビデオが録画されてますよ。アニメ好きでしょ」
 テレビってなに、とアスリアが質問しかけたが、やめにした。
 美子が、ぽたぽたと涙を彼女の上に落としたからである。
「パパ……ママ……。帰ってきて……」
 アスリアは、首をもたげて美子をじっと見つめた。
 命の恩人。
 なんとかして、慰めたい。
 だが、アスリアはまだ十二才――。
 人生経験が豊富とは、とても言えない年齢(としごろ)であった。

(3) モンテンギュント (パート2)

 異世界における猫としての生活は、ペルガ王国や、貿易都市エクセラに過ごしたことのある彼女にとってさえ、カルチャー・ショックの連続であった。
 ここについたときのあの大音声は、
「演歌」
 というものだと太郎丸は教えてくれた。日本の昔からの歌なのだそうだ。
 そして、きらきら光る小さな、
「電球」。
「こたつ」
 がこんなに気持ちいいものとは思わなかった。思わず中に入り込んでごろごろしていると、いつまでも寝てないの、と美子に叱られた。
 扉を閉めたままでも外の景色が見える、
「ガラス戸」。
 こんなに透明なガラスなんて、見たことがなかった。
極めつけは、ご飯のおみそ汁かけ。
 MF動物病院でもらったキャットフードより、ずっと美味しいのである。ご飯はねっとりとしており、みそ汁はそれにアクセントをかけている。実にシンプルにして、奥が深い。
 太郎丸も、同じ食事を採っている。
 犬だと自称しているためか、器に口を突っ込んで、ばぐばぐと行儀が悪い。
「ねえ、美子さんって、棒で食べてるのね」
 アスリアは疑問を口にした。
「ああ、あれは箸っていうんだ。中国から渡ってきたらしいよ」
 太郎丸は、口の端に食べ物を一杯くっつけている。人間ではないことはわかっているのだが、あの笑顔にはかなわない。
 美子には姉がいて、なまえは啓子というらしい。四つ年上だそうだ。見習いの看護婦(初めて聞く概念だ)だということで、家にいることが多くない。
 家の中は、まぶしいくらいの光と、おいしい料理、そして便利な電子レンジだのガスコンロだのに満ちあふれているので、両親から随分遺産をもらったのねと水を向けてみると、
「そうかなあ、テレビで見る限りでは、普通の家族だと思うけど」
 なんという贅沢な。
最高の贅沢は、テレビ。
 魔法の鏡より映像がくっきりと映り、魔法の水晶玉よりも映像にゆがみがない。しかも音と音楽付き。小さな人間の楽団が入っているのかとも思ったが、そういうしかけになっているのだそうだ。
 最初のカルチャー・ショックからさめると、アスリアは好奇心が抑えられなくなるのを感じた。なんといっても生まれて初めての『異世界』である。せっかく来たのだから、元の世界に戻る前に、なにか学んで帰ろう。
 ――戻れれば。
 ふと、顔が曇った。
「どうしたの」
 太郎丸が話しかけてくる。世の中の嫌なこと、辛いことから、可能な限り守りたい――そんなふうに。
 大切な真珠、魔法の宝石、天から遣わされた天使。その眸は、そう語っている。
「わたしにも判らないの」
 アスリアは口を濁した。
「予感がするのよ――ここは危険だという嫌な予感。解毒してもらって、食事も食べさせてくれて、しかも寝る場所まで用意してくれてるのに、それでもここが危険だ、という予感が」
 自分の予感が当たらなかったことはない。善神ウエルズからは加護を失ってしまったかもしれないが、この特殊能力は、もとのまま彼女を助けてくれている――いや、今のこの状況では、足を引っ張っているというほうが正しい、とアスリアは心の中で訂正した。恩知らずな自分が恥ずかしかった。
「まあ、あんな目にあったあとだから、ちょっと心が弱ってるのかもしれないね。ゆっくり養生するといいよ」
 太郎丸は優しく微笑んだ。
 アスリアは反論せず、
「この近所を歩き回りたいんだけど。閉じこもってばかりいたんじゃ、気が滅入るわ」
「それもそうだね。美子さんの面倒はぼくが見てるから、きみはこの近所を散策するといいよ。車と野良犬には気をつけてね」 
 というわけで、アスリアはこの近辺を探検することになった。例の、キョウチクトウの林から始めることにする。
 昼間の太陽が、かすかに雲の向こうで丸い光を放っている。風は北風だが、それほど強くは吹いていない。キョウチクトウの林は、あいかわらず葉だけを空に向けている。
 植えられてからさほど年月が経っていないのは、遠い昔に戦争があって、天から火が降ってきたからだ、とテレビで言っていた。火の精を簡単に召還して、戦争の道具に使うほどの魔力を持っているとは、なんという怖ろしいことだろう。
 もっとも怖ろしい、背筋の凍ることがある。
「テロ」
 という名前の暴力。人間を人質にして、言うことを聞かなかったら残虐に殺す。車を爆発させて罪のない人々を殺し、神のみ名を唱える。
 恐怖で人をコントロールするのが、この世界の「正義」なのである。
 電子レンジ、冷蔵庫、テレビ。便利かも知れないが、なんという、邪悪な世界に来てしまったことか。手違いでここに飛ばされてしまったとはいえ、魔王がその事実を知ったら、人々を恐怖で奴隷化して、ティトス界とこの世界の両方に邪悪を広めようとするだろう。
 思い悩みながら林の中を歩いていると、向こうから茶トラの服を着た青年が現れた。
「お、新入りじゃん。やほー」
 ノリのいい口調で、その青年は挨拶した。どうやら、動物が人間に見える魔法にかかっているようだ。アスリアは、鼻をつんとそびやかした。
「サルデス王国唯一最後の王位継承者にして、善神ウエルズの直系の娘、神聖なるアスリア・デ・ラ・ルシリアに対して、やほーとはなんですか」
 本来なら侍女が言っているはずの言葉を口にして、げんなりしてしまう。
「ふーん。お高くとまってるんだー。いやあ、滅多にそういう野良猫に出会わないからさー、ちょっと尊敬てゆーか、畏敬? 僕、心酔しちゃいそう。『われ人間に飼われるよりは、地上をこそ支配せん!』 わかる、わかる? これ、〈失楽園〉のもーじーり。〈失楽園〉ってミルトンが書いたんだよ! 文学に通じてる野良猫! 凄いでしょう」
 なにが凄いのか、よく判らない。
「あ、自己紹介してなかったー? 僕、名前がないんよお。吾輩は猫である、名前はまだない……。とゆーわけで、自分でつけた名前がマイケル。これ、天使長の名前。凄いでしょう」
 マイケルは、誇らしげに胸を張った。凄いでしょう、というのはこの青年の口癖のようだ。いちいちつきあっていられないので、アスリアは先に進んだ。
 マイケルは追いかけながら話しかけてくる。
「きみのように誇りを持っていきている猫って稀少だっしー。さらわれたりしないように、僕がついててあげるっしー。か弱きものの味方、正義のナイト、マイケル! なんて僕って偉いんでしょう!」
 一人で盛り上がっているので、アスリアはほうっておくことにした。
 ここからMF動物病院まではすぐ近くだ。
羊子さんの、優しい顔を思い出す。危険が迫っているのだとしたら、警告しなくてはならない。なのに、猫の姿は変わらない。
 なんとかして、エンチャント・ジュエルを見つけなければならない。呪いをとけるのは、あの水晶だけだが、こんなに整理整頓された街並みを見ていると、そういう魔法もどこか奥まったところにしまわれており、見つけることが困難なのではないかと思えてくる。だれか、魔法に精しい猫はいないのだろうか。
「ねえ、ねえ、来て来て。チュチュおばちゃんに会わせてあげるよ。ネズミやモグラも真っ青の、狩猟のセンスは抜群。あんたもそれくらいの技術を持ってないと、ゴミあさりなんかしてたら腹壊しちゃうっしねー」
 この、神聖にして不可侵、高貴なる身の上で、ネズミ捕りとは情けない。そもそも、こんな下賤なものにおくれをとるとは、アスリア、一生の不覚。
「私は王女アスリアであると申しておる」
 アスリアは、思いっきり傲然と宣言した。
「僕は天使長マイケルでーす」
 マイケルは気にもとめない。
「おやまあ、可愛い子連れてるじゃないか。とうとうおぬしにも、カノジョが出来たのかのぉ?」
 林の奥から声を掛けたのは、年の頃は七十五くらいだろうか、少しやつれた顔をした老猫であった。首元に襟巻きをしているが、寒そうに身を縮めている。
「うーっす! カイじいさん」
 マイケルは、ご機嫌で答える。
「チュチュおばちゃん見かけなかった? 紹介したいんだ」
「私はカノジョではないと申すに」
「そうじゃの、ちょっと年がかけ離れすぎておるようじゃ」
「愛があれば年の差なんて関係ないっしー」
「だれがおぬしと愛を語ると申すのじゃ!」
 アスリアは、太郎丸を思い起こしている。
 マイケルは、別なところに、いたく感じ入っている様子だ。
「そうそう。この時代がかかった言葉遣い。くーっ、イケてる〜」
 なんだかだんだん、虚しくなってくるのを感じながら、アスリアは力なく言った。
「私には、こころに決めた人がおる」
「へー、だれ」
 アスリアは、まっ赤になって俯いた。
「だれ、だれ」
 マイケルは迫った。
「そんなにいじめたもんじゃない、マイケルくん」
 老猫は、重々しく言った。
「男なら、引き際が肝心じゃぞ」
「そーだねー」
 マイケルは、意外とあっさり言った。
「まー、僕もそんなにヤボじゃないっしー。アスリアちゃんがこころに決めた人がいるってーなら、どんどん応援しちゃうもんねー。報われないと知りつつ捧げる恋心。あー、なんて僕って偉いんでしょう!」
 アスリアは、吹き出しそうになった。
 変な猫に見込まれてしまったようだが、相手には全く害意はない。むしろ、道化師のようでもある。伊達や酔狂で恋を打ち明けるような、どこか飄々としたところがあって、アスリアにはこころなごむものがあった。
耳を聾するばかりの演歌の声を聞きながら、彼女はさりげなく、ここの人々のことを聞いてみた。
アスリアを拾ったのは、宮錦美子。十五歳。二年前、家族とともにスキーに出かけ、足を複雑骨折。おまけに吹雪に出会い、助けを求めに出た父親は、遭難して帰らぬ人となった。ケータイが嵐で通じなかったのだ。
 捜索隊が来たときには、骨折した足は壊死し、足を切り落とす手術でかろうじて生き残った。今でもないはずの足が痛い、と訴えるときがある。
 母親は生まれてすぐ死んでいたので、施設にいれられそうになったが、姉の啓子が仕事をして育てると言い張り、介助犬を遺産で購入。学校は不登校で、今に至っている。
 マイケルは、情報通のようだった。介助犬の太郎丸は、青魚の焼いたのが嫌いだとか、父親の遺産では、とても食っていけないから、啓子は看護婦を、美子は小説家を目指しているのだとか、どうしてそんなことを知っているのというような、下世話な話も聞かせてくれる。啓子は恋人を、妹のために振ったそうだ。
「僕って偉いでしょう!」
 話の最後に必ずそう付け加えさえしなければ、アスリアもすなおに、
「すばらしいわ」
 と誉めてあげたことだろうが、まったく洟もひっかけない言い方をしてしまった。
 意地悪なアスリア。高貴な家柄なんて、プライドばかり高くて。
 家に帰ったアスリアは、しょんぼりとこたつの布団に座り込んだ。
「それで、ほかの近所の猫たちとは、仲良くなれそうかい?」
 太郎丸は、訊ねた。
「カイじいさんは、物知りだったわ」
 アスリアは、回想している。
「アスリアの世界――ティトスと、この異次元世界には、古い魔法がかかっているんですって。愛するもののために、自分の最上のものを差し出したとき、すべての扉が開かれる――って、そう言ってたわ」
「なんだかなぞめいてるね」
「そうね」
 アスリアは、こころの中でつぶやいた。わたしの最上のものって、なんだろう。エンチャント・ジュエルだろうか、王位継承権を示す指輪だろうか、あるいは……。
 あるいは、この命だろうか。
 アスリアは、息が苦しくなるのを感じ、首のところに右手をやって、はっとした。
 ――ない!
 右手にはまっているはずの、王位継承権を示す指輪が、ない。 
 どこ?
 どこに行ったの?
 必死で頭を回転させる。魔王が襲ってきて――父は殺されて――邪悪な魔法をかけられて、この世界に転送されてきた。
 そのとき、落としたのだろうか。
 こころの中に、ひやりとした刃物を感じた。
 あれがない以上、正当な王位継承者であることを主張できない。
 ――大変だわ。

 そのとき、MF動物病院の近くで、風がゆらいだ。
 まるでそこだけ皺がよるように、空間がねじまがった。ぐるぐると、虹色のフラクタル空間がひろがり、その中心に黒い穴が開いた。
 その中から、人が出てきた。
 
 ――ノガル・アンガスであった。

(4) となりの妖魔(パート2)

 聖堂羊子は、いつものようにMF動物病院内を清掃していた。人間の病院だけではなく、動物の病院も清潔さが命だという信念を、彼女は持っていたからだ。もちろん、そんなことは関係なく、泥や蚤、ささくれ立った床など、劣悪な環境で診察しても平気でいる病院もあるが、そんな病院に見習うつもりは全くなかった。患畜の居心地のいい場所を作るのは、病院の基本だと思っている。
 ひととおり、塵をちりとりに集めて外に出てみると、電信柱の向こうから、一人の青年が歩いてくるのが見えた。ぼうっとした表情で、あちこち魂が抜けたように見つめているところを見ると、この辺の人間ではなさそうだ。
「あのー、この辺に、猫、見ませんでしたか」
 その青年は、羊子に訊ねた。さわやかな感じのする、美男子だ。コウ先生と同じくらいの年かな、と羊子はかがめていた腰をあげた。
「猫ですか」
 羊子は頬の処に片手を置いた。今日の患畜は、ジフテリア注射のシーズーが一匹だけだ。掃除が済んだら、今日のご飯を買いに行かないといけない。言うまでもなく、患畜と動物病院のスタッフ用の晩ご飯である。
「白い子猫で、このくらいの」
 青年は、両手を抱え込むように広げて、だいたい二十センチくらいの空間を作った。
「白い子猫にも、色々いますし」
 ますます面食らいながら、羊子はちりとりを左手に持ち替えて、病院の方に招いた。
「こんなところで立ち話もなんですから、中にお入りになって、コウ先生とお話ください。患畜のことなら、たいていのことは答えられますから」
 ありがとう、とそういうと、青年はMF動物病院の扉をくぐった。

「白い子猫?」
 コウ先生は、ちょっとびっくりしたように、澄み切った瞳で青年を眺めた。
 診察室には、コウ先生と羊子、勇馬先生の三人がいた。勇馬先生は、注射針に薬品を入れている羊子のそばで、ちらりちらりと二人を見ながら、シーズーを診察している。
「ああ、昨日美子ちゃんが持ってきたあのコのことかな」
 コウ先生は、思い出して答える。青年は、初めて聞く単語にまごまごして、
「美子ちゃん」
「この近所に住んでる女の子で、足が不自由なんだ。きみ、持ち主なの?」
「ええっと」 
 青年は口ごもった。
「そうとも言えますね」
「あのコ、毒を盛られてたみたいでしたよ」
 コウ先生は、少し腹を立てたようだ。
「なにか、心当たりがあるんじゃないですか」
「こらこら。飼い主にかみつくんじゃない。警察じゃあるまいし」
 勇馬先生が言った。
「けいさつ」
 青年は、途方に暮れたようだ。
 途方に暮れるのが、癖なのかもしれなかった。
「で、あんた名前は」
 コウ先生は、クリップファイルを左手に、ペンを右手に取った。
「はあ?」
 青年は、相変わらず茫漠とした表情である。
「問診票に書かなくちゃいけないんです。病院のきまりで」
 羊子は説明した。
「ノガル・アンガス」
 モンシンヒョウってなんだろう、という顔で、青年は、重々しく答える。
「ははは。在日外国人じゃあるまいし」
 コウ先生は笑い飛ばしたが、ふとまじめな顔になった。
「きみ、在日なの」
「いえ」
 その言葉に嘘はなさそうだったので、コウ先生はため息が出てくるのを感じた。
「まあいいや。それじゃ、ノガル・アンガスさん。年齢は」
「百六十五」
「――身長じゃなくて」
「だから、百六十五歳なんです」
 ノガルは説明しようとしたが、
「それだけ物知りって言いたいわけだ」
 コウ先生は、不機嫌になった。
「ご住所は」
「……あなたがたの知らない国です」
「富士山の樹海とか? バミューダ・トライアングルとか? ミステリー・ストーンなんてどうかな」
 コウ先生は、ますます憮然となった。
「東南アジア諸島とか、アフリカ大陸とかだと、ちょっと判んないかもしれないけどね」
「あ、わたし、ザンビアなら、どこにあるか知ってますよ」
 羊子は話に参加する。コウ先生は額に青筋が浮いてきたが、どうにかこらえて、
「それで、あのコの所有者だという証拠は」
「証拠」
「さっきから言ってるでしょう。あのコは毒を盛られてたんだ。ホントの所有者かどうかも判らないじゃないか」
もっとひどい目にあわせるかもしれない。コウ先生はぱちん、とファイルを閉じて言った。
「ほんとに飼い主なんです」
 ノガルは、機械のように平坦な声で言った。「というか、飼い主の使いです。アスリアを、飼い主のもとへ連れて帰らないと――」
 そういうと、彼は懐から、金色の指輪を取り出した。
「アスリアの大好きだった持ち物です」
「――猫が、『指輪』?」
 羊子は当然の疑問を口にした。
「私の国では、猫といえども指輪を持つのです」
 ノガルはいいながら、頭を振った。
 自分でも、かなり妙なセリフだと判っているようだ。本当のことは、別の処にあるのだろう。
 コウ先生は、ファイルを脇の下にはさんで言った。
「その飼い主に言ってくれませんか。自分でとりに来ないのなら、引き渡すことはしませんってね」
 そのとき、美子の声が入り口からした。
「すみませーん。モンテンギュント、みてもらいに来ました〜」
美子が白い子猫を抱えて、診察室に入ってきたとたん、ノガル・アンガスの眸がぎらりと、光った。
そして、ぎらりと光ったノガルの眸を見て、アスリアは毛を逆立てて威嚇の声を上げた。
「大丈夫。わたしは何もしない」
 ノガルは、安心させるように微笑んだ。
「ただ、母親のもとに帰してやりたいだけなんです」
 しかし、アスリアの第六感は、それが嘘っぱちであることを告げている。
(敵、敵、敵!)
(警告、警告、警告!)
 逃げなくちゃ、と思って彼女は辺りを見回した。入り口は、コウ先生と羊子さんと美土里さんでふさがっている。窓は硬いガラスがはめてある。美子は彼女をしっかりと抱え込んで、
「落ち着いて、落ち着いて」
 とささやいている。
 太郎丸は、問いかけるようにアスリアを見つめた。
「この人、きみに害意があるのかい?」
「あるなんてものじゃないわ」
 アスリアは、言った。口にするのも汚らわしい。しかし、口にしないと理解してもらえない。
「この人は、敵よ!」
 身の毛がすべて逆立つような気がした。
「さあさあ」
 ノガルは、なだめるように微笑みながら、
「この指輪が欲しくはないのかね?」
 右手にかかげている。
「あれ、なんだい」
 太郎丸は、興味深げに訊ねる。
「王位継承権を示す指輪よ」
 アスリアは、歯ぎしりして言った。
「こっちに来る前に落としたのを、拾ってきたに違いないわ」
 体に身につけていた物質で、持ち主の居所を捜し当てる――。その能力は、普通の人間にはないものであった。異世界に来ても平気な顔をしていることから見ても、ノガル・アンガスはルギドのよこした妖魔に違いない。
 その場の一同は、ノガルを警戒したように眺めている。 太郎丸に至っては、牙をむき出しにして、車いすの前に陣取っている。
「大丈夫です。わたしには害意はない」
 ノガルは、落ち着いた口調で、もう一度言った。
「ただ、この子猫を持ち主の処へ連れていくという契約をしているのです。わたしを信じて」
 そう言って手をふいっと動かした。
 突然、胸が悪くなるような悪寒が、ちりちりとアスリアのみぞおちを駆け抜けていった。ノガルの眸は、激しい欲求に不気味に輝いている。ちらと振った手の先の爪はねじ曲がっていた。いまや眸は黒ではない――。まるで、意識や潜在意識をつらぬくような金色の眸。それを見た瞬間、彼女の全細胞は、恐怖のあまり縮み上がり、鞭で打たれたようにふるえあがり、体が麻痺したように凍り付いてしまった。ううう、と太郎丸の警戒する声が響き渡る。
 ところが、MF動物病院の人々は、みな、ノガルから目を離そうともしない。それどころか、唇に歓迎の笑みを浮かべ、瞳はきらきらと輝き、こころから信頼しているようなそぶりを見せている。
「良かったわ、本当に飼い主さんが現れたのね」
 羊子は言って、右手を差しのばして、アスリアに触れようとした。
「モンテンギュントをお返しなさいな。飼い主のところに帰してあげなくちゃ」
 羊子の言葉は、まるで与えられたセリフを暗唱する、大根役者のようである。
「そうだよ。飼い主のところに戻さないと」
 コウ先生まで、そんなことを言ってくる。
 アスリアは、総毛立つのを感じた。彼女の遺伝子の原子一つ一つに呼びかけてくる、あの恐怖のまなざし。ちらりと手を振っただけなのに、羊子とコウ先生を言うなりにした力――。きっと、妖魔のうちでも、もっとも力の強い種族がここに来たのであろう。
 ――私を殺すために。
「判りましたか?」
 ノガルは、勝利を込めて宣言した。
「もはやこの人たちは、わたしの意のままに動く操り人形なのです。人間は、わたしには逆らえない。地上最強の妖魔の力を、見くびらない方がいいですよ」
「やっぱりあなたは、妖魔なのね」
 アスリアは、絶望的につぶやいた。
 妖魔は言った。
「わたしとしては、できるだけ楽に殺してあげたいところなのです」
 そして、指輪をポケットに入れながら、
「人をいたぶって殺すのは、わたしの趣味ではありません。いくら妖魔とはいえ、ルギドさまとは違います。しかし、どんなに嫌なことだろうと、わたしは命令には服従しなけらばならない。あなたには、なんの恨みもないのですが――」
 いきなり、ポケットの中からナイフを取りだした。
「長く苦しめて殺せ、というご命令でした。皮を剥いだら、きっとその通りになるでしょう」
その次の瞬間、きらりと光るナイフが、美子の膝の上に乗ったアスリアに振り下ろされた!
 刃物が彼のポケットから出た瞬間、三つのことが同時に起こった。
 一つは、
「大丈夫よ、なにもしないから」
 美子がアスリアを抱きかかえ、
「ノガルさん、早く楽にしてあげて」
 アスリアの肩を、膝に押しつけたので、アスリアは息が苦しい状況だ。
 もう一つは、MF動物病院の人々が、
「美子さん、しっかり抱えててね、安静剤を打つから」
 と言って、注射針を取り出してきたこと。
 いくら操られているからと言っても、いきなり注射はないだろうと思って、ぎゅうぎゅうに抑えられた体をよじらせ、くねらせ、アスリアは必死でその場を脱出しようとしている。
「暴れないでねえ、痛くないから」
 羊子は単調な口調で言った。
「にゃあ、にゃあ、にゃあ!」
 アスリアは叫んだ。
「しっかり抑えておいてくださいよ」
 ノガルは、ため息をついて言った。
「出来るだけ、痛くないようにしますから」
 皮を剥がされて痛くない筈がないのだ。
 そして、刃物が、アスリアめがけて振り下ろされた――と、その瞬間。
「彼女に何をする!」
 椅子の前に待機していた太郎丸が、牙をむいてノガルの手にとびかかったのだ!
がきがきっと牙がきしむと、ノガルは、痛みのあまり刃物を取り落とした。まっ赤な血が流れた。
「わたしの術が……効かない?!」
「この子を殺すなら、ぼくの死体を乗り越えてからにしろ!」
 激しい口調で、太郎丸は言った。
「言っておくけど、ぼくは正当防衛の術も習ってる。おまえなどにおくれはとらないぞ!」
 ノガルは、一歩退いて、無念そうにつぶやいた。
「仕方ありません、出直しましょう。ではまた、会う日まで」
 言うなり、ノガルの姿は赤と青の金属製のフラクタル模様になり、そのまま消えていった。
 ――私のために、闘ってくれた。
 アスリアは、胸がどきどきするのを感じた
 ――私のために、命をかけて……。
 十二歳の初恋であった。

(5)につづく