吾輩猫の後裔
推薦:第48代我輩


第4代 巨大虫(1912年)
第8代 某亀(1922年)
第9代 某蠅(1924年)
第16代 某河童(1942年)
第20代他 某鷲他(1932〜1954年)

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第4代 某巨大虫(1912年)

 1912年に発見され、1915年に一般公開されたこの虫は、発見者のカフカにすら見捨てられた存在であった。少なくとも発見者は創造の失敗作であると思ったに違いない。しかし、現代においては、この虫こそ20世紀における最も不条理な虫として認識されている。彼が何故虫であるのか? 何故彼でなければならなかったのか? どうやって虫の思考がヒト語に翻訳されえたのか? そういう疑問に対し、虫の思考の翻訳者たる発見者は、分からないの一言で片付ける。そこに、想像の世界、解説者の世界、要するに口先3寸で偉いと思われる職業の世界が広がる。まさに現代そのものではないか。
 その存在だけでも既に吾輩猫の後継たる資格を持つこの虫は、単に存在しているだけではなく思考と写実を行なっている。それこそまさに吾輩自我の源泉である。もちろん、元は人間なのだからそのくらいは当たり前だという意見はあろう。しかし現在は虫なのだ。虫になれば虫の思考しか出来ない筈である。それは虎に変身した男の話(中国唐時代の李徴)からも明らかだ。しかるに彼虫は確かに思考をしているのである。しかもその内容たるや、写実の正確さと無駄の無さに於いて、超一流としか言いようがない。とても並の一般市民や口先3寸人間の及ぶところではないのである。セールスマンだった前身は、変身後のこの虫の足元にも及ばないのだ。
 かくも強い自我を持った虫が他にあろうか? 彼虫を第3代吾輩に推薦するに何の躊躇も要るまい。

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第8代 某亀(1922年)

 1886年生まれの彼を吾輩猫の後継に入れるには若干のためらいがある。しかしながら、出版と云う形でこの世に現れたのは、生みの親とも云うべきサン・サーンスの死後まもない1922年であるから、彼の名前を入れても構わないと思われる。
 同時に生み出された10人以上の兄弟について語らず、彼だけを選んだ事に後ろめたい気持ちが無い訳でもない。しかし、彼だけは特別なのだ。と云うのも『吾輩』と名乗るだけの自己主張をしているからだ。嘘だと思ったら、無心に音楽を聞くが良い。他の兄弟達は、名前を云われて、ようやくそうだと思う程度の個性しか無いが、彼だけは聞かずとも直ぐに分かる…なんとのろのろと歩くのだろう、と。
 音の上で存在感ある亀と云えば、他にもアキレスと議論した亀がいる。この議論亀には1885年に生まれた従弟がいて、不思議の国のアリスを物語ってくれたルイス・キャロルがその生誕に立ち会っているが、彼ら2匹の亀の生んだ論理は、アキレスの前の強固な無限ループの壁を作りだし、アキレスが絶対に彼亀等に届かないようにした。この会話の延々たる事、亀の如く遅く、亀の行程の如く果てしなく、見ている者に我慢と辛抱を要求する。まさしく自己主張そのものに他ならない。上述した謝肉祭ヒーローの生まれる1年前の事だ。但し、若い方の従弟亀は確かに1885年に生まれだから、吾輩猫の後継には入らない。
 ここに問題が生ずる。つまり、サン・サーンスの亀が、吾輩猫の後継なのかキャロルの亀の後継なのかという事である。生年はキャロル亀の翌年ではあるが、世に知られたのは吾輩猫のかなり後である。これについて、論理学者達は当然の如くキャロル亀後継説を唱えるが、民主主義の現代においては知名度を優先する故に、極めてマニアックなキャロル亀は、実にポピュラーなサン・サーンス亀の先代に相応しくなく、知名度の尺度からして、明らかに吾輩猫が選ばれるべきであろう。のみならず、サン・サーンスはこの亀を真摯な論理の仲間とは看做さず、あくまで気楽な亀として取り扱った。だからこそ、出版が遅れたのである。このような経緯は、まさに吾輩猫の誕生の経緯につながる。
 よって、ここにサン・サーンス亀を第7代吾輩と認めるに至るのである。

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第9代 某蠅(1924年)

 事故は確かに起った。馬車は確かに馬もとろも谷に転落した。彼らの安否は分からないから、事故に関する証言は他にもあるかも知れない。だが、事故の原因を知っているものは、この蠅一匹のみである。故に、この描写も総べて蠅が行なったものに違いない。横光利一は、蠅の云う事をそのまま書き下ろしたに過ぎない。
 それは、文章にも現れている。感情もコメントも何も無い、冷たい観察に徹した記録文は、蠅でなければ書けないだろう。赤い血の通う脊椎動物にはとても出来ない真似である。客観とはこういう態度を云う。この蠅にくらべれば、吾輩猫なんておしゃべりもおしゃべりだ。だが、この見事な冷徹さは、やはり吾輩猫の写生文の後で無ければ、読者もついていけないのではないか?
 かくて、彼蠅は確かに第8代吾輩なのだ。誰が何と云おうとも。

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第16代 某河童(1942年)

 第3代吾輩の巨大虫と同じく、変身後に悟りを開いた人食い虎の話は、唐代の人虎伝によって紹介され、本邦の中島敦によってその細かい機微が1942年に詳らかにされたが、これは千年以上も昔の故事であり、未だタイムマシンが存在しない現代において、吾輩猫との関連を語るのは困難である。ここで取り上げるのは、中島敦が光明を当てたもう一匹の自我動物である。この河童の生誕は極めて早く、かの人食い虎:李徴よりも遥かに遡る。更に彼河童の事跡も過去千年近くに渡って広く知られている。しかるに、彼の自我の内部については不明な点が多かった。それを中島敦がついに明らかにしたのである。1942年の事だ。従って、この自我河童は文学的には吾輩猫の後裔である。
 悟浄歎異と題されたこの記録は、自省と写生の見事な織物といえよう。しかも、あくまで謙虚な立場を貫いている。この内容を見れば、河童と云う種族が人間よりも遥かに高級な動物である事を認めざるを得ない。そして、その点だけが、吾輩の称号を推薦するのに躊躇う要素であろう。しかし、やはり彼は燦然と光っている。どうしても第16代吾輩の座に座って貰わねばなるまい。たとい彼河童が嫌がろうとも。

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第20代他 某鷲他(1932〜1954年)

 中勘助が長年かけて聞きまわった鳥たちの話は、1932年に雁の話が鳥語から翻訳されたのを皮切りに、1963年の鵲の話まで11羽の話が翻訳公開された。11羽の他に、彼の手元には雉の話も残されたが、残された翻訳第1稿が誤訳らしいのでここでは取り上げない。11羽いずれも見事な語りぶりではあるが、彼等の伝承の主人公のうち、吾輩の称号を与えるにもっとも相応しい者は、1954年に翻訳された鷲の話に出て来る、小頭鷲であろう。というのも、彼のみが啖呵を切っているからである。彼の奔放な話ぶりは、かの中勘助ですら上品な言葉に翻訳出来なかった。それほどの勢いを持った、それでいて、お釈迦様にすら誉められる心映えの素晴らしさ。これは、累代の吾輩の誉れと言えよう。
 第20代吾輩たる小頭鷲の他にも吾輩の称号の与えられる者は当然いる。雁の長老(第12代:1932年)と鳩(第15代:1941年)、鶯(第18代:1945年)、荒鵜(第22代:1953年)の彼鳥らだ。それぞれに自我を持ち、たった1羽で全てを見、聞き、記録している。それについて、ここで詳しくは述べる必要はあるまい。しかも翻訳は中勘助だ。日本語として極めて美しい。…いや、寧ろ鳥語というのが元々美しい言葉なのだろう、イカルの話に聞かれるように…。もしかしたら、こういう鳥たちから話を聞き続けたからこそ中勘助の日本語が美しくなったのかも知れない。

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 誰か続けて!(泉鏡花が書けないよう、、、)