“I am a cat.”
花乃美夜呼





このごろ都にはやるもの。髭にステツキ山高帽。

誰かが屋根の上で朝靄の中を暢気に歌つている。見上げるとそこには私よりも一回りは大きな奴がいて、覚えたばかりの歌をさも自慢げに繰り返していた。煉瓦の崩れかかった路地裏を野良犬に見つからぬよう地を這つてそろりそろりと歩く私をさも哀れむような眼つきで屋根の上の奴は私に声をかけた。

「やあお早う。君はまだ犬に怯えて暮らすつもりかい?」

余計なお節介である。私は路上が好きなのだ。雨に濡れた石、石の間からほのかに香る土の匂いが好きなのだ。奴のように屋根の上ばかり上っていては今宵の夕餉の確保もままならない。昼時屋根の上なんぞ烏だの鳶だの鳩だのが煩くておちおち寝て居られない。夜は夜で煙突の煙が目に突き刺さるわ露がついた瓦で滑るわで寝ているどころではない。夜の盛りを屋根の上と決め込んだ同類が朝になって地上で血を無節操に流しながら中むつまじくひしゃげているのを何度も見た。あの死に方だけはしたくないものだと常平生から心に決めている。

「ああお早う。あんたはそちらでご機嫌にしていれば良いじゃないか。私は間抜けな犬など怖くない、だから道上が性分に合っている」

そう屋根の上に向かって言い返した。しかし私の返事を聞かないうちに奴はまたあの歌を歌い出し、朝烏のからかいにもそ知らぬ顔で足元の瓦で爪を研ぎ出していた。奴は良くあのような足場の悪い場所で行き続けられるものだと私はひとしきり感心したあと、また先程から美味そうな暖かい湯気を立てているあの場所へ向かう。着いてみると既に恩恵に預かって満腹ぶりを披露したがっているご同輩連中が私に野卑な撫で声を掛けて来た。何時もより遅くなってしまったから気を付けなければ連中は私が朝食を採っている間に後ろから覆い被さって来て好き放題したがる。朝っぱらから盛ってるんじゃないといくら叫んでみても連中の欲と言うもの、犬並みに尻の匂いを嗅ぎ回り破廉恥極まりないのである。私は連中を威嚇しながらまだその壁の小穴から溝へと湯気混じりに流れて来る魚の断片を掬い口へ運んだ。今日は昨日と魚が違って骨が多い。それでも切り取られた魚の頭が流れて来ると夢中で掬い取る。掬い取った魚の頭を咥えながら壁のほうへ移動し、背中を押し付けて座り直し食べ始める。早く食べてしまわないとそろそろ湯でた魚の放流が止んでしまう。私は急いでそれを食した後に再び湯気の立ち上る溝へ破廉恥な連中を掻き分けて向かい、また切り刻まれた熱い魚を口に運んでいった。私は所謂熱い物が苦手である。苦手ではあるのだが昨晩はとみに冬の夜露にさらされて体が冷えていたせいもあり、いつもよりこの熱さが気にならない。私が初めて親に連れられてここ来た時に年老いた猫から聞いた話では、人間は魚をこのように熱い湯に魚を通さないと体を壊してしまうのだそうで、ぜんたい不便な生き物である。その恩恵に預かる私もまた不便な生き物と言えなくも無い。やがて私も次第に満腹を得た頃にはそろそろ朝霧も少々晴れてお天道様が見え隠れし始めていた。あたりを見渡すと先程私に野卑な撫で声を掛けていたご同輩連中は夜露が乾き出した石畳に背中を擦り付けて寝転がり出した。私もそれを見てこの場であれが出来たらどんなにか気持ちが良い事だろうと思いつつも、いやしかし寝ている間にここの連中に好き放題されては困ると思い直してその場を離れ、いつもの順路を辿る事にした。お天道様が見え隠れしては来たがこの町はまだ寒い、お日様が射す日は滅多と無い。私は石畳の路地を壁沿いに早足で抜け、広い通りに出た。私の思案はあの石畳の上を転がる人間の乗る箱に踏み潰されずこの道の向こうに見えている路地に辿り着く事に集中した。箱だけではない、走る機を逸脱すると箱に繋がれて大きな足音をさせるあの大きいのろまな生き物にも踏み潰されるかも知れない。私がいつ走り出そうかと様子を伺つていると突然私の目の前に爪のない黒く光った人間の足が現れた。私は吃驚して後ろに飛び去り反対方向へ逃げ出そうとしたが、背後から確かに私に向けて人間の声がした。それはいつものように大きい声であまり私を歓迎しない不快なものではなく、人間同士が話すような声の大きさで私に向けられていた。いったい人間の言葉など私に解るわけは無く、ただその声の主から発せられた声の音色は何やら私の心象を引いてしまったようで思わず立ち止まり振り返つてしまつた。警戒しながらも見上げるとそこにはまれに見る何とも顔色の悪い人間が近づいて来て私に何かを話している。良く良く見るとどうもこの人間は病気なのではないかと思う位にこの町の人間とはどこか違うのである。いや人間も魚のように色々に種々分かれて居るのかも知れない。何を私に話しているのかは俄然理解できるものではないがその声色には何か私の心象風景に訴える物があり、またその人間は私を嫌うでもなく攻撃するでもなくただ自分の話相手になつて欲しい様な目をしていたものだから珍しくその場に座りなおして聞いてやることにした。私にすればこんな事は初めてではない。いつぞやは年老いた人間の住む家の窓際で同じように私が話を聞いてやり、塩味がきつくて唸りそうな肉をもらえた覚えなど幾度と無くありもした。ご同輩に言わせれば人間に媚びていると非難される事であるのだが別段こちらから人間に敵意剥き出しにして喧嘩を売らずとも良いと私は思うのである。

私に近付いて来た顔色の悪いその人間は一方的に滔々と何かを話し始め、今も話を続けている。何を話しているか一向にわからないものだからどう反応して良いやらわからずに小首をかしげると何故かこの人間は歯をむき出して声を弾ませて見せたりもする。人間と言うものはやはり変な生き物である、良くそんなに顔の形をあれこれ変えて疲れないものだとその様子を伺いつつあると、最初優しげな声の調子は次第に悲しげとなり、今は具合が悪いのか眠いのか目から涙を流しているが声色は落ち着いているようだ。私がこの人間がおかしいと思うのはどうやらその言葉の微妙な音色の移り変わりに気がついたに他ならない。この町の人間とどこか違う。その時だった。迂闊にも私はその人間の延ばした両の前足に捕まり抱きかかえられてしまった。すわ殺される!と思いきや、どうやら私は尚この顔色悪い人間の相手の部屋に連れて行かれ相手をさせられたのである。その日から私はあの大通りの渡り方を忘れた。


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あの日、私がいつもの路地を抜け、あの独特の臭いのする部屋の前でいつも通り扉越しに一声啼き、とうとう顔色の悪い人間が何かを一方的に私に話しながら魚の干した物を持って現れなくなってからしばらく経つと言うのに、これはどうも私の日課となつたようである。一声啼いてしばらく扉の下にうずくまり、やがて元来た道を帰ろうと建物を出た私は朝霧の季節が過ぎた事を感じた。それは広い通りの向こうの、そのまた向こうの川面に映る巨大な鐘を鳴らす煉瓦の建物がお天道様に照らされて朝から見えていたのと、もう一つ。今まで屋根の上で生を謳歌し終える予定の筈の奴が、屋根の上で捕獲した烏を咥えながら建物の外の階段で私を待つていたからである。

「やあお早う。食事の誘いに来たんだけど」
「あ。。。お早う。。それ、食べられるの?」
「もちろん!」

どうしてまたそんな幸せそうな顔をするのか困った奴だ。つられて私も幸せな気分になってしまうから不思議である。それは私があの顔色の悪い人間の話相手を長くやり過ぎたせいで余計にそう感じるのかも知れない。

「えっとー。。ねえ、この頃都に流行るもの、髭にステッキ山高帽、だったっけ。。」
私は外で私を待っていた恰幅よろしい幸せ顔の奴に話題を合わせるつもりで尋ねてみた。それは食事に誘われたレディーの当然のたしなみであるからだ。

「え?いや。今は君がマイブーム」
「なにそれ??。。ばか。。ねえそれよりあなた我慢強いほう?」

こうして長らく聞き上手を演じていた私は、ようやく話を聞いてくれる相手を見つけたのである。いずれ私はあなたに後ろへ乗られて重たい目にあうのだろうから、そのくらいは辛抱してもらおうと思う。さてさて何から、どんな話から聞いてもらおうか?



       イラストも:花乃美夜呼